昼食とよけいな思考

 未来には何が起こるかわからない。手垢のついた表現であるが、哲学の世界ではよく議論になるらしい。ここでいう未来とは明日自分が自殺するかもしれないとか、街中を歩いていると作業中の鉄筋が降ってきて自分の頭に当たるとか、中国が台湾に攻めてくるとか、そういう人間の行動や判断によって変わる未来のことではない。また、津波がやってくるとか、火山が爆発するとか、隕石が落ちて人類が滅亡するとか、自然の摂理に組み込まれた確率の低い事柄を言うのでもない。人間の行動の埒外にあり、また自然の摂理にも反している未来、そういう未来を哲学では議論するらしい。つまり、明日になると太陽は登らないかもしれない、一億回手からリンゴを放すと一億回とも地上に落ちるが一億一回目には天へ登っていくかもしれない、三日後には人類全員に羽が生えて皆が空を飛んでいるかもしれない。このような未来についてよく議論がなされるようだ。科学という学問は、過去について語っているだけだ。これまでの自然界が日、月、年を規則正しく循環してきたから、科学が成立したのであって、これからは何が起こるかわからない。科学だけでなく、多くの学問は過去の方を向いている。ほとんどの学問は過去について説明しているに過ぎないのかもしれない。

 哲学的議論はよくわからないが、時間には二種類あると考えていいのだろう。絶えずくり返し続ける自然界の循環的時間と、一人の人間の生から死へと至る直線的時間である。これらの二つの時間に分離する世界観が著しく顕在化してきたのは、おそらく近代以降のことだろう。人類は、どこかの段階で時間を空間化して捉える手法を得た。時間を空間のように扱うこと、時間を流れるものとして捉えること、時間も空間世界の川のように考えること。そうして、時間は空間的表現の中に組み込まれた。そして、日時計などの発明によって、時間は物質化されていき、より時間という概念が鮮明になっていく。さらには、水時計、砂時計などの様々な時計が発明され時計の精度は上がっていく。そして近代に入ると古典力学の誕生により、時間は隈なく数値化された。時間は空間化、物質化、数値化の順を辿ってきたと考えられる。数値化された理性的に把握される時間は、人間が抱える時間と自然界の循環する時間をつなぐ役割をしている。人間の時間と自然の時間を橋渡しする役割として時計が存在している。そうして、この時計の時間が、地球の数十億年の歴史ともつながっている。なんだかよくわからない時代になった。

 とにかく、文明の進歩によって時間の存在が鮮明になり、厳密に数値化されることで、自然界の循環的時間と人間が抱える時間に分けられることになった。この辺りまではいいが、では哲学で議論される時間とはどのようなものか。よくわからないな。和也は歩道を歩きながら、ものすごくどうでもいいことを考えていた。こんなことが頭の中を回るようでは、小説など書けやしない。小説を書くには感受性が必要ではないか。そうだ。やはり恋愛だ。ふいにそんな考えが浮かんでしまい、自分が恥ずかしくなった。結局遊びたいだけじゃないか。そうだよ。それの何が悪い。人間の愚かさを描くのが文学ではないか。とは言いながら、もうそんな愚かさに酔いしれることで神聖さに近づける時代でもなかった。神聖さなどというものは、根こそぎ摘み取られて、どこにも残っていなかった。

 もっと主観にもぐりこんで人間が捉える時間について考える必要があったが、和也は哲学には疎いので、あまりその方向へ思考が進まなかった。自然はこれまで循環していたが、その循環を突然中断することがありえるのだろうか。そんなことは人間の妄想にすぎないではないか。だが、それを本気で考えるのが哲学なのだろう。人間の思考の中で、自然の循環を断ち切ってみる。これまで習慣化していた因果関係が壊れる。そういうことがありえるのだろうか。そのようなことを考えることで、今俺たちが当然のものとして捉えている時間というものを疑ってみる。まあ思考の体操くらいにはなるのだろうか。それくらいじゃないか。こんなことばかり考えても感受性は鈍っていくのではないかと思ったが、しかしそれは和也の思索が足りていない言い訳にすぎない。

 科学と哲学の世界をまたぐ問題として心身問題がよく取り上げられる。空間的、物質的存在である肉体と、非空間的、非物質的な心との関係性について考える問題である。この手の問題を扱っている議論を読むと、心の問題は科学に回収されるという人がいる。しかし、それは一体どのようなことを言うのだろう。科学というものは、基本的に実験と観察を起点として、何らかの再現性のある現象を見出し、そこから論理を組み立てて記号化、数値化、数式化を目指す学問だと和也には思われた。科学はどれだけ複雑な数式、難解な理論を扱っていたとしても、それらをほどいて紐解いていけば最初の出発点は観察と実験のはずだ。そして、観察と実験というものは、見て触ることが重要になる。視覚と触覚で把握された現象を土台として科学が成立する。空間世界を把握するために重要になるのは、視覚と触覚である。つまり、科学という学問自体が空間寄りの学問だ。そもそも人間の知性自体が空間を好む傾向にあるのではないか。物が動いているよりは、静止している方が都合がいい。

 近代に入って、科学が発達していくと、人間の体内の現象についても理解が進み、物質としての身体という概念が生まれてくる。人間が物質と同等の存在に貶められることで、近代の医学が生まれた。人間の空間化、物質化が進行していく中で、精神や心といった類の世界も、空間世界の中をさまよっているもののように取り扱われるようになっていく。このあたりに齟齬があるように感じられる。どうあがいても、心は空間内におさまるものではないのに、それが可能であるかのような前提で議論が進んでいるような違和感を和也は感じていた。まあいずれ心身問題というやつは解決不能ということになり、どこかで下火になっていくだろう。人間の肉体も物質であり、周囲にも物質が溢れている。視覚と触覚で捉えられるものは物質と考えて差し支えない。だから、肉体も周りの机、テレビ、動物、橋、植物も、すべては物質だ。そうして物質から弾かれた世界として心があるという捉え方は、すでに心が空間世界内に収まる前提で話が進んでいるように思える。

 ふいに我に返ってみると、和也はコンビニに入っていた。最近は何か面白い雑誌でもないかな。ファッション誌とか手に取って少し俺も洗練された人間になってやろうか、などと思ったりしたが、また自分が恥ずかしくなってやめにした。やっぱり週刊誌の方が面白そうだなと思ったが、それも昔のことだ。今では和也はほとんどテレビを見ないので、あまりこの手の話題にもついていけていないし、ついていく気ももうなかった。なんだか心は風化していっている。心が物質でできているという話を聞かされても、もう現代人は信じてしまうのかもしれない。そんなことを言われて、本当に抗おうとする人がいるだろうか。俺は抗うのだろうか。和也は少し不安になった。

 人類の歴史は時間を空間化、物質化、数値化してきた歴史だとも言える。昔は時間というものはもっと漠然としたものだったのだろう。時間は当人に向かって流れてくるものであった。今ほど慌ただしくなかった過去の人々は自然の循環に組み込まれた世界に生きていた。特に産業革命以降は、都市化が進行し、人間は自分たちで作った予定で埋め尽くされるようになる。ある事象が人間に向かってやってくる、すなわち時間の流れというものを近代以前の人々は強く意識していたと思われる。人間は自然に対しても、時間に対しても、受動的な存在だっただろう。それが近代に入り、時間は数値化されていき、都市社会で予定で満たされた、調和した社会で生きざるをえなくなっていく。会社の始業時間、電車の時刻表、友人との待ち合わせ、色々あるが、すべて固定化された時間の上を主体となった私が歩いて事象に到達する仕組みとなった。私たちはカレンダーの上を辿っていく人間となり、自然の中にいる寄る辺のない存在ではなくなった。

 歴史上で時間の捉え方も変遷してきた。人類の時間の起源は、おそらく言語や音楽の起源とも関わってくる問題なのだろう。しかし、このように歴史上における時間観の変化を考えるやり方は何か違和感がある。そもそも歴史というもの自体が、時間軸を前提としたものであり、歴史を土台としている限り、空間化、固定化された時間という呪縛から逃れることはできないのではないか。今日では国際社会で何らかの紛争が起これば、必ず歴史が参照される。教育では年号を覚えることを強いられる。すでに歴史はある程度編纂されてしまったのか。編纂された歴史自体が、歴史の終焉が近いことを物語っているのだろうか。閉塞空間化されてしまった歴史から逃れたいという願望が、いずれ湧き出てくるときが来るのだろうか。歴史と時間の違いとは何か。

 またくだらないことを考えてしまった。和也はよく行く定食屋に入ってすでに昼飯を食っている最中だった。食事中なので思考は収まり、店内で流しているテレビをなんとなく見ていた。最近の芸人については、よくわからない。なんとなく、飲みたい気分だったのでビールも追加で注文しようかと思ったが、やめにした。

 やはり近代に入って人間が把握できる時間幅が広がりすぎたことが問題なのだろうか。昔は旧約にしても、日本書紀にしても、人間の把握できる歴史はおよそ数千年くらいのスケール内におさまっていた。国家、都市、文字などが生まれ、最初の文明の飛躍が起こったのが五千年前くらいだから、概ねその解釈は妥当だったと言える。しかし、その後の科学の発達が私たちの思考と精神を著しく乱してしまった。人間的視点から見た歴史であれば、五千年ほどでよかったが、物質的視点から見た歴史は数百万年にとどまらず、数億年、数十億年と広がっていった。今日でも、この人間の歴史と物質の歴史の間で揺れ動いているのが実態ではないのか。知らない間に和也はビールを頼んでいた。ジョッキを勢いよく飲むのは気持ちいい。休日の昼下がりのアルコールは何か格別なものがある。ディスプレイの向こう側の笑い声もなんだか許せるようになってきた。酒はやっぱりいい。すべてがどうでもよくなって、すべてを許容できるようになるから。

 さて、文明が進歩したために、未来もずいぶん見通しのよいものとなった。明日の天気も、電車がやってくる時刻も、桜が咲くころも、旅行の計画も。未来はかなりの高い精度で予測できるものとなった。労働は時間に換算されて給与が支払われるようになった。すでに時間と物質と数値は強固に密着していた。予定の遂行が成立する未来というものは、本来なら疑似未来と言われてもしかたがない。私たちは疑似未来が蔓延した世界を生きている。未来には何が起こるかわからないが、何が起こるかほぼわかっていることになっている。想定外の未来は確率の低い事象として扱われるが、初めから事象として扱われないようなものは、はなから除外されている。結局疑似未来というものは、自然の循環を当てにして出来上がった未来だ。人間の心の世界と自然の世界は本来相容れないが、長い時代を経て徐々に両世界をすり合わせてきた結果、文明が発達し、今日のような時計に支配された都市社会が完成した。数値化された時間が、心の世界と循環する自然界をつないでいる。

 疑似未来は自然の循環を前提としている。太陽は毎日登るから、紫陽花は毎年六月に咲くから、冬になると風邪が流行るから、様々な道具が作られ、人間社会は改善されていき今日にまで至った。一方で、真の未来は自然の循環の否定を前提としている。それにしても死はどこに位置するのだろう。いや、位置するという表現がすでに死を空間化しようとする試みに囚われている。死を空間化、物質化するなどという大それたことは考えない方がいいのだろう。死は時間から外れている。時間の空間化、物質化、数値化を追求してきた末に、死は人生という直線の終点という考え方が支配的となった。死ぬと、私から開かれた世界は終わってしまい、跡形もなくなるらしい。しかし、このような捉え方が正しいだろうか。和也は酔った頭で少し考えたが、窓の景色をふと見た瞬間に面倒くさくなってすべての思考を投げ出した。今日はもう家に帰ってゲームでもやろうと思った。そうしてゲームに飽きたら、エンタメの映画でも見ようと思った。

昼食とよけいな思考

昼食とよけいな思考

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-09-23

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