青と影の孤城
山沿いの長い石段を上ると、そこは錆びれた公園だった。ワイシャツをまとう凛々しい青年が指さした先に、夕焼けで染まる整然とした都市遺跡の全景がある。街の方へ開かれた辺りに木のベンチが設置されている。背中に猟銃を担ぐ少女は、その銃を片手にとって、ベンチに腰掛けようとした。
「君、そこには座らない方がいいよ。木材が劣化して、棘が出てる。尻に刺さると、痛いよ」
青年は制止した。そして、全天の青磁色に目を向けた。
「この場所、景色が、街のすべてだ。――残念なことに、住人はぼく一人。一軒々々隈なく探索しても、これ以上何も得るものは無いよ」
「――景色は、得られたものってことでいいの?」
「それは、君のマインドに依る、かな」
少女は、家並の隅々まで目を凝らしてみた。しかし、そうすればするほど、ますます空虚な街が露わになるのみである。傷一つなく、もぬけの殻、という表現そのままの様相を呈している。
たしかに、なにもない街だ。
「君は、晴れ空を見るのがはじめてなんだっけ」
青年が思い出したように少女へ尋ねた。
「雲のない空が蒼いなんてのも知らなかった。大人に訊いたり、文献を漁ったりしても、蒼、蒼もあったけど、紅、白、黒、緑とか、情報がまちまちだったから、どれも信じられなかった。でも――」
少女は言葉を詰まらせた。
「でも?」
「――でも、綺麗、そう、綺麗だなーって。事前に用意していた台詞を発しているみたいだね。私は、でも、蒼い空が、ただひたすらに、虚しい。見なきゃよかったかも、と思うくらい」
少女は徐ろに目蓋を閉じ、それから街の全景から目をそらした。
青年に陰るように、背から白い山の遠影が立ち昇っている。少女の「あっ」という幽かな声を、青年は左耳で聞いた。
少女は再び、どこか物足りない青磁色の空を見ざるを得なかった。青年の背後から空のラインを辿れば、その巨大な山が全周に佇んでいる。地平線を覆い隠し、地上まで、水に混ぜた墨汁のようにカーテンを下ろしている。改めて全天は、深く果てしなく、濁りない。
青年は、肩に飛び乗ってきた緑色の跳虫に語り掛けるように言った。
「ぼくがいるから、空がこんなだ」
少女は、滑り台の滑り面に、膝を畳んで腰掛けた。青年の肩の虫が、活き々々と砂場に着地した。
「これで信じてくれたかい? ぼくが神さまに憑かれてるって」
「……便箋の上で告げてくれた時から、嘘だなんて思ってないよ。こうして貴方がそうである証と遭遇しても、何ら揺らぐものはないよ」
と言い、少女は若干眠たげに目を細め、背伸びした。こみ上げる眠気の勢いで、少女は、
「一つ、愚問だけど、貴方が口無しになる前に訊いていいかな」
と、逆光で黒い青年の背に尋ねた。
「神さまと一緒にいるのって、楽しい?」
青年は「そうだなあ」と口籠ると、右手で人差し指を立て、左から右に大振りでスライドした。途端、まるで指先と同じ軌道を描いたかのような青嵐が一陣吹いて去った。青年の、後ろで一束にくくられた髪が右に靡いた。
続けて、青年は「雨降れ……」と口遊んだ。すると、高層に吹き頻る風のせいだろうか、街の外野で不動を貫いていた入道雲が崩れ、青磁色の湖に濁流となって流入した。そして、青年の口遊んだように、大粒の時雨となった。
「止め」
大喊に気圧され、少女は長めの瞬きをした。開眼して見たのは、雑草に降りかかった雨の跡だった。
瞳孔を開いて座り込んだままの少女に、青年は振り向いた。
「面白かった?」
「……怖かった」
「だろうね」
青年はそう言うと、雨で濡れた半球形の石の遊具に腰掛けた。
「ぼくはこいつのせいで、いわば総てを失った。この街の住人がぼく一人である理由さ。神ってのは、結局、天使であり悪魔だ。力と暇を持て余して、自己中に万物を操っている。誰よりも神にいいようにされているのが、ぼくってことだ。無垢を徹底して、人間を観察する。そんなのと生きるのは――苦行だよ。休暇のない労働だ」
少女は、俯く青年に、弾丸が装填されていない猟銃の銃口を向けた。青年は少女の動向に気付いているはずだが、笑みを向けたのみだった。少女は空砲をカン、と撃つと、言った。
「勿論、私は貴方の生活を終わらせるためにここまで訪ねてきたわけだけど」
「ほんとに、君が、終わらせてくれるんだね」
「そのための銃だし。それにしても、つらいのなら、自分で終わらせたらよかったんじゃない? 普通の人間の何倍はもう生きているんだし、未練もないでしょ。だから私にこんなことを頼んでいるんだろうし」
「たしかに、自分でやるのが手取り早いが、その勇気がぼくにはない。そもそも、こんなぼくだから、神さまに寄りかかるようになったんだしね」
「弱虫……」
「――そう、弱虫」
少女は猟銃の銃口を下ろし、実弾を鞄から取り出して詰め込んだ。青年は遊具から立ち上がると、ポケットから手荒な筆跡で「524」と書かれた手帳を引っこ抜き、青々と茂る草地に放り棄てた。まもなく水滴が沁み込んで、数字がぼやけた。
青年は笑みを崩さず、少女に話し掛けた。
「ぼくからも最期に一つ、愚かなことを訊かせてくれ」
「幾らでもどうぞ」
「いや、一つ。君は、これからどうするんだい? ぼくが死んでから、街に神の御加護が与えられるかなんて、ぼくには保証できない。もし、生存したいのなら、ぼくを撃って直ぐに街から離れるべきだ」
「自分が死んだ後の、他人の命を気遣うんだね。真偽の確認もできないことを」
「だから、愚かなことだ。――飽くなき好奇心ってところだよ」
少女は「ふーん」と相槌をうつと、太いマツの幹に向けて猟銃の弾を一発放った。
「街に残っているであろう、太古の本とか、貴方の原稿とかを読み漁ろうかな、と。貴方の言葉を拝借するなら、飽くなき好奇心で」
青年は黙ってただ頷いた。両手を胸の前で軽く握って、
「君に、神の御加護の在らんことを」
と、口遊んだ。
「有り難く頂いておきます」
猟銃の黒い銃口は、青年の胸部に照準を合わせられている。少女は、銃口を丁寧に手で支えた。
「貴方の作品を、塵にはしない」
「……好きにしな」
青年の足下に、少女の影がくっきりとのびている。引きつった笑顔は、それでも凛としていた。
「何か、言い遺しておきたいことはある? 喋りきった?」
「まだあったかもしれないけれど、今は想い起せないかな。忘れちゃった」
「なら、墓場まで持って行って下さい」
丘の上の公園に、真っ黒な人影が二つある。
空っぽな町を、鋭い音が裂いた。
山の後ろから、紫色の混濁した煙が吹き出している。
青と影の孤城