九月二十一日

 一年前は、スタバに行くことがなぜだかとてもこわくて、ドリンクチケットを使おうというある種の義務感でようやく二度ほど、行った。今年はもう、両手で数えられそうなくらい行っていて、でも行くときは、慣れた人と行くか、ドライブスルー。ひとりではまだ、こわい。こわい思いをしたわけじゃないのに、不思議。
 さいきん、また、毎日のように書くようになって、日々、書くことがすきで、このままでありたいなあと思う。たくさんのすきなひとたちが、もうあまり投稿をしていなくてさびしいと感じることも多いけれど、それでもここにいたいと思う。
 人間なので、そのうちまた、全然投稿しない日が来るかもしれないし、ある日突然もう全然書くことに対して一切の感情を持たなくなるかもしれなくて、でもそれを、自然なこととすんなり受け入れる自分を簡単に想像できる。こわいとも、いやとも、否定的な感情はわかなかったりして、これまた不思議。
 わたしはまだ、ツイッター、という呼称を自然に、もうなんの意図もなくさも当然のように使ってしまって、ああそういえば変わったんだったな、と思うのだけど、自然なことが自然なことであるように馴染むのには時間が必要なこともあるわけで、まあそのうちあたらしい呼び名がするする使えるようになるだろうな。
 タイムライン上で、無理しなくていい、無理しなくていい環境に身を置いて楽しく幸せに生きるのがいちばん、といったような内容の投稿を見かけることが多いけれど、必要に迫られてその「無理」をこなしているひとたちは、じゃあどうすればいいのかな、みいんなが逃げ出したら、その「無理」を強いている環境の方がいよいよ変わらなければならないのだとしても、そんなに簡単なことじゃない。でも耐えるだけでは悪循環、といいたいひともいるだろうし、でも、と、ぐるぐる考えちゃって、思わずこの日記未満のような文章を書いている。

九月二十一日

九月二十一日

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-09-21

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