百合の君(22)
やーい、言ってから園は、さちを見た。無事に転んでいるようだったので、安堵した。押しのけようとしてきた冬彦を、肘で押し返す。
さちは起き上ると、着物をはたいた。そこまで汚れてはいないようだ。黄色い着物は、日焼けの残ったその肌に合っていた。砂っぽい黒髪は後ろで簡単に束ねられていたが、ほつれた毛が、その小さく柔らかそうな耳や、よく動く頬にかかっていた。園は、走り出そうとする冬彦を押さえつつ、自分のタイミングを計っている。
なくか?
おこるか?
さちが睨んできて、園の心臓は繁殖期のひきがえるのように飛び跳ねた。足は勝手に走り出している。園と同時に冬彦が、そして遅れて天蔵が駆けだした。園は思わず振り返る。
あっ、これじゃあ、てんぞーをおいかけてしまう!
園は足の裏で土をはたくようにして、減速した。冬彦は、もはや止まっていると言ってもよかった。それを見た園はさらに速度を落とした。
こらーっ!
しかし案の定、さちは天蔵を追いかけた。園と冬彦は、立ち止ってその様子を見ていた。
天蔵はさちに捕まらないように、それでも引き離さないようにちょうどいい速度で走って、時おり振り返っては、嬉しそうに笑っている。
園のように、お尻ぺんぺんやあっかんべーなどしない。それがもどかしいような腹立たしいような気もするが、さちも楽しそうに天蔵を追いかけている。あんな顔は、自分には見せたことがないと園は思った。
チェッ、冬彦の舌打ちが聞こえた。「バカのくせに」
思わず冬彦を見た。彼の弱い視線は、強い波を発していた。同じ波長で動くことを園に求めている。
木枯らしが吹いた。さちの着物の裾がまくれて、すねに赤い血がにじんでいるのが見えた。あれはおれの血だ、と園は思った。てあてはいらない。そのまま、ずっと、中がきれいになるまでながれるしかない。
冬彦と二人で立っているのがたまらなくなって、園は家に向かって歩き出した。彼の願いに反して、果たして冬彦は追いかけて来た。
振り返りたいと思ったが、楽しそうな二人を見るのも冬彦と視線が合うのも嫌だった。
雪をかぶった奥嚙山が、迫るように立っている。園はそれに挑むような気持で歩きとおした。
百合の君(22)