労働
今日も仕事をしていた。作業服を着て、淡々と黙々と働きながら、内面では常に燻っていた。ずっと密かに燃えているものがあった。なんとかしてこれを消化しようとして、仕事にさらに集中しても鎮火することはできない。延焼がさらに広がっていく恐れはいつもあった。常にぎりぎりのところで耐えていた。他人から見ると、馬鹿にされるだけの行為である。直樹の人生は無残なものであった。心の底では今就いている職種への忌避感は強く持っていた。それは情念に近いものであったが、それを見ないようにして労働に励もうとしていた。矛盾は大いに溜まっている。自分を無理にごまかそうとする抑圧の力が反動でひっくり返り、仕事に猛然と取り組むサイクルが出来上がっていた。このシステムはすでに強固になっている。
世人には理解されにくい苦しみであり、このような苦しみは前時代的なものであり、こういうことを言語化する人間は方々から拒否されて当然だ。来るべき新しい時代においては、直樹のような人間は抹消されるべきであり、仮に彼が社会から脱落して追い込まれたとしても、発言権があるかはわからない。すべての努力は報われず、失敗に終わり、無に帰し、周囲からは嘲笑される予感はしていた。今の苦労は破綻を迎える運命にあると、どこかで感じ取っているのだが、その感情にも気づかないふりをする。思春期に身に着けた倒錯と迂回の技術によって、自分をも世界をも欺こうとした。しかし、そんなことに心と身体が耐えられるわけがなかったので、すべてが破れてしまうことはわかっている。こうして悲劇ぶった労働者を装う文章を書いても、冷たい視線を食らうだけだ。どうして、このような状況に陥ったのか冷静に分析する必要がある。
矛盾に満ちた人生を送るハメになったのは、思春期から自分に降りかかった災難が要因となっているのは明らかだった。そして、さらに元をたどっていくと親との関係がよくなかったこと、自分が抱えている性の問題があることも、すでにわかっている。しかし、原因が分かったところで、問題は解決しなかった。すでに頭と心と身体がその矛盾に満ちた体系の中で、各々の役割を与えられ、その領分を守り切ろうとしていた。どこからか力が働いている。あまりにも強い力であり、なんなのか直樹にもわかりかねた。超自我とでも言えばいいのか。よくわからない流れに沿って、無理にでも自己を演じなければいけない。他人に対する演技より、自己に対する演技の方がずっと厄介なのだ。
ひととおり、どうでもいいことを頭の中で考えた後に直樹は我に返って、今日のやるべき仕事について整理することにした。今日の実験を行うために、まずは器具を揃えなければいけない。ビーカー、フラスコ、シリンダーなどを机の上に置いて、硫酸を戸棚から出して作業に取り掛かる。しかし、これだけ頭の中で、仕事を能動的に行うための思考とはほぼ逆の思考を行っているのに、自分はよく事故を起こさないものだなと思った。脳内で起こっている混乱をものともせず、危険な薬品を丁寧に扱っている自分はもっと賞賛されてもいいのではないかと思う。しかし、こういう考えも甘えのような気がした。自分以外にも気が狂いそうになりながら、労働に耐えている人もいるのだろう。そうして、よからぬ事件が起こるのだが、視聴者からすると全くの他人ごとなのだ。それはしかたがない。自分が思っている以上に社会というものは、ずっと不安定なものなのかもしれない。直樹はそんなどうでもいいことをまた考えながら、黙々と作業に取り掛かった。頭の中で恣意的に乱れる言葉と、労働によって強いられる規則的な記号と数値がせめぎ合い、幸い後者の方が勝利を収めたことで、直樹の精神は安定を取り戻し、仕事に集中することができた。ここにひとつの機械が誕生した。
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