松のやのラム

※順次、販売終了予定

 松のやでラムかつ定食が提供されているというのを知ったのはいつ頃だったろうか。一か月前くらいだったかなと思う。その時、知ってる所にある松のやの店頭にそのポスターが貼ってあった。ラムかつ定食って。
 ところで急なんですけど、今、これを書いてる現状の話をさせてください。
 うちのパソコンが悪いのか、それとも現生世界が悪いのか、あるいはこれを書こうとしている私が悪いのかわかりませんが、松のやって入れると松乃屋に変換されてでるんです。ラムかつ定食も、ラムかつて移植になったりするんです。書いてから一応さっと見直しはするけど、でも、もし、松のやが松乃屋になったままになってたり、ラムかつ定食がラムかつて移植なったままになってても、それについての指摘なんかは特に大丈夫です。しなくてもいいです。世界を変えたいって話じゃないです。歴史を変えたいって話でもないので。
 松のやでラムかつ定食が食べれるのかあ。最初、松のやのポスターを見た時、私はそんな事を考えた。そしてそのままその思考は、私の中の奥の方に流れていった。忘却の彼方なんて言うとあれみたいだけど、でも実際そういう感じだったと思う。流れて行ったのだ。やがてそれはナイアガラの滝みたいな所から落ちて、私の外に出る。外殻に排出される。記憶が無くなる。忘れる。
 そう言う風になるはずだったし。私もそうなると思っていた。
 しかし、
 それからいくら時間が経っても。
 そうはならなかった。
 意識の流れ、ナイアガラの滝までの途中、どこかの岩場に引っ掛かってしまったみたいに。松のやのラムかつ定食は私の意識の中に留まり、それ以上向こうに流れて行かなかった。留まり続けた。その岩場に引っ掛かってぷかぷかと、浮いたり沈んだりを繰り返した。
 そのうち私の方が居心地が悪くなった。
 私自身が、私の意識、思考に苦しめられる事になった。
 どうしてそんな風になったのか、それについても、ある可能性があった。
 些細な事。
 子供の頃、一度だけ、食卓にラム肉が出た。どうして出たのかは知らない。フェアか何かがあったのかもしれない。北海道フェアとか。そのスーパーが力を入れたのかもしれない。あるいは安かったりしたのかもしれない。値引き品のシールが貼ってあって、それをたまたま買い物に来ていた母親が見つけたのかもしれない。
 とにかく、ラム肉が出た。
 ラム肉を一度も食べた事ない子供だった私はそれを食べて、それについて以下のような感想を述べた。
「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」
 大人になってから食べてたらきっとまた違う感想を持ったと思う。
「はあ、なるほど、こういうのもあるんだねえ」
「この癖が病みつきになる」
「これは酒が進むなあ」
 とか。珍味みたいに。ブルーチーズとかみたいに。鮭の氷頭なますとかみたいに。
 しかし、当時の私は子供であって、愚かであって、世界は小さく、他者を思いやれない、糞だったから。だから、
「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」
 と思った。
 侮蔑の感情を持って。
 そしてそれは、その感情、想いは、大人になるにつれて、薄れて、小さくなって、どっかの箱にしまって、その箱自体どこに仕舞ったかわからなくなって。そしていつまでも開けられることなく、私が死ぬまでそのままになってるはずだったのだけど。
 でも、
 大人になって、私は、ここではない別所で。私はその箱を見つけ出して開けたのだ。
 ある話を書く中で、ラム肉を食べて、
「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」
 と、書いた。
 私の中の押し入れや納戸を開けて、天袋、床下収納スペースまで開けて、ドラえもんみたいに。映画版のパニックになってるドラえもんみたいに。ひっかきまわして。これじゃない。これでもない。と、ひっかきまわして。
「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」
 それを探した。
 子供の頃以来、一度も食べた事ないラム肉に対して。
「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」
 と、
 そう書きたくて。
 もう一度、
 あれ以来食べた事ないのに。
 もう一度、
 侮蔑、
 したくて。
 松のやのラムかつ定食、そのポスターは、その記憶は、私の中で、ナイアガラの滝の手前の岩場の所で、浮いたり沈んだりを繰り返し、時間が経つほどに、その姿を変えてきた。
 子供の頃に一度食べただけなのに。
 それ以来食べた事ないのに。
 食べ物に対してそんな風に思って。
 そんな、
「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」
 なんて。
 酷いと思わないのか。
 自分がどれだけ酷い事しているのか。
 気がつかないのか。
 お前。
 酷い奴。
 最低だな。
 死ねば。
 死ねばいいのに。
 岩場に引っ掛かったそれは、徐々に、姿を変え、意思を持って、毒ガスを放って、私を見つめた。朝も昼も無く。私の事をじっと見つめた。
 ある日、私は松のやのサイトに行った。ラムかつ定食について調べた。ラムかつ定食の下に赤字でこう書かれていた。
 ※順次、販売終了予定
 私は松のやに向かった。
 そこの松乃屋ではまだラムかつて移植が、
 まだ、
 販売していた。
 私はラムかつ定食を注文した。
 そしてラムかつを食べた。
 そして思った。
「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」
 良かった。
 やっぱり。
「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」
 やっぱり豚とも牛とも鶏とも違う。
 見知らぬ相手を食べている感覚。
 だ。
 合ってた。
 子供の頃の「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」は侮蔑だったけど、でも今感じる「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」は侮蔑とは違う気がする。
 それは、そういうものなんだっていう事だけの話で。
 良かった。
 とにかく食べておいてよかった。
 そう思った。
 岩場に引っ掛かっていたラムについての感情も気がついたら居なくなっていた。
 多分、流れて行ったんだと思う。
 松のやには感謝しなくてはいけない。ラムかつ定食を販売してくれて。有難かった。意識の更新が出来たから。
 あと、子供の頃の自分の事も少し見直した。
「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」
 あれ。合ってたよ。お前やるな。お前は子供で、愚かで、井の中の蛙で、他者を思いやれない、糞だったけど、でも、ラムについての感想は合ってたよ。
「おばあちゃんちの布団みたいな匂いがする」
 あれは合ってたよ。

松のやのラム

松のやのラム

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-09-15

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