煩う虫
キッチンの隅に潜む指先ほどの小さな1匹の黒い虫は、なぜ自らが所謂ヒトでないのかと、その矮小な身体で認識を獲得したときから疑問に思っていた。
その虫には知性があって、そしてまた情緒があったから。
彼女(その虫は生物学上雌の形質を持っていた)はヒトの言葉を深く理解することができた。それは文字通り理を解しているのであって、言語の表面に現れないヒトの操る皮肉も暗喩も、嘘をつくその心理さえも、彼女は読み取ることができた。
彼女はヒトとしての機能を、その身体的な特徴以外全て備えている。
言ってしまえば、彼女はたまたま虫の外見に生まれてしまったただのヒトのようなもので、不幸なことに、途中で姿が変わったわけでもないから、形に現れない彼女の煩悶と孤独をわかってやる以前に、誰も認識することすらできなかった。
どうして私はこんな醜い姿をしているのか、どうしてヒトと同じように生活できないのかなんて、虫として日々大きくなる自らの身体に比例して、またその煩悶が深く悩ましくなっていく。情緒を日々成長させていくヒトの子供と同じようなもので。
彼女は生ゴミを漁りながら、こんなもの食べたくないだなんて思っている。床から染みる茶色い水滴を啜りながら、出ない涙を流して、出せない悲鳴をあげている。
そうして同属の言葉も心も通じ合えない雄の虫に群がられて、彼女は何度も卵を生み、そこから孵った醜い子供が、家主に叩き潰される様子をまたひっそりとキッチンの陰からただ呆然と見つめている。
そんな日々を過ごして、彼女の心は酷く荒んでいった。これは当然のことで、また不幸なことでもあるけれど、彼女はそんな日々に身を置きながらも、やっぱり自らのその姿に意識を合わせることができなかったから。
彼女の生活にはなんの救いもなかった。それはヒトが虫の生活をすると考えてしまえば当たり前のことだけれど、喜びも楽しみもなく、ただ悲しみと、そんな世界に対する憎しみだけが日々積もっていく。
どうしてあのソファーに座るヒトの横で私は寛ぐことが出来ないのだろう。逆に言ってしまえば、ヒトはなぜ皆私のような身体を持って、傍に寄り添ってくれないのだろう。
彼女は温もりを求めていた。同属の冷たく固い身体でなくて、ヒトとしての心からの温もりみたいなものを。
彼女はまたキッチンの陰から、その家の家主を見ていた。
どうにか交流ができないか、どうにか私のこの孤独と悩みをわかってくれないか、どうにかこの醜い私を受け入れてくれないか、そうした煩いは彼女をいっそう苦しめた。
悩んで、悩んで、悩んで、悩んで。
どうせ私も潰される。弁明も交流をとる手段も機会もなく、無感情に叩き潰される。
ただ、そうして彼女は目の前で潰される我が子を思い出しながらも、どうしてもヒトとしての生活を諦めずにはいられなかった。
そうして彼女はその煩いから解放されるため、その湿った暗所から飛び出すと、そう時間もかからずに、ヒトによってその醜い身体を叩いて潰された。
彼女は生まれてから、そうして亡くなるまで酷く悩んで、きっとヒトに生まれていたら考えなくても良いような物事を考え尽くして死んでいった。ただ、そんな出来事も、我々から見てしまえば、彼女が生まれてからたかだか3ヶ月程のことだけれど。
煩う虫