1999-07ケンタウルスの遺伝子

≪0.序章≫

 西暦26世紀、人類は遺伝子を完全に自由に操作出来るようになっていた。像程の大きさの豚、養殖できる程まで小さくした鯨、雪の中でも育つ稲、その応用は多岐に渡った。

 取り分け進化したのは、人の遺伝子の操作だった。
 20世紀の終わり、人類は生命力の弱さ故に、あと100年も持たないだろうと言う学説もあったが、見事人類はそれを乗り越えた。
 先ず、21世紀の初頭、人類が長年苦しんできた病気”ガン”は遺伝子操作によって克服され、22世紀までには、その他の遺伝子が原因と思われるあらゆる病気も消滅した。
 だか、良いことばかりではない。それから、人類の平均寿命は著しく伸びて100才の大台に乗った。幾ら少子の時代とは言え、子供の2人位は皆育てるから、当然の様に人口過密になって行く。慢性的な就職難、高齢化が人類の新たな課題となってしまった。
 その問題に対して、人類は能力の突起化で挑んだ。ある者は脳の遺伝子操作を、またある者は筋肉の遺伝子操作を行った。そして、全く異なる二つの人類が別々に進化していった。それが、ブレイン・タイプとマッスル・タイプだ。23紀末期の事だった。



≪1.タブー≫

 西暦26世紀、自宅の地下室でγ型トンネル顕微鏡を覗く遺伝子学者がいた。彼の名前は大和タケルと言う。大和博士の身長は1.7mほどで身体的特徴はない。いわゆるブレイン・タイプのような頭が異様に大きい分けでもなく、マッスル・タイプのような筋肉が盛り上がっている分けでもない。数世紀前にはありがちなごく普通の体系なのだ。
 それは大和博士の出生に秘密があるのだが。

 大和博士はちょっと奇妙な試みをしていた。その試みとは、≪他の動物の遺伝子を人の遺伝子に組み込む≫事だった。だが、それは21世紀初頭に行われた遺伝子操作倫理委員会によって堅く禁じられて、長い間誰も手を付けていなかった。
 考えてみても分かるだろう。”馬の身体を持った人”等とはギリシャ神話の中の”ケンタウルス”だけで沢山だ。だが、大和博士はたった一人で、どこにも発表する事も無しに、その試みを黙々と続けていた。
 部屋の中には数十個のガラスケースがギッシリと並べられている。ガラスケースには培養液が満たされており、中には羽の生えた猿、水かきを持った豚、角の生えた馬などが居り、静かに呼吸していて、時々彼を伺っていた。

 その大和博士の家に、ある日一人の男が訪ねてきた。

「突然お邪魔してすみません。実は、私は大和博士にお願いがあって伺ったのです」

 と甲高い声で言った。

 その男は身長が2.2m程で、身体全体の骨格と筋肉が発達しており、腕周りは1m程もあった。頭は、申し訳程度に付いている。大和博士は一目で、彼がマッスル・タイプである事を理解した。このまま、玄関先で話していては人目に付くと思い、彼を応接室に通した。

「まあ、座り給え」
「有難うございます。私はケンタウルスと言います。よろしくお願います」

 ケンタウルスは、大きい身体を小さく畳んでソファーに腰掛けた。いかにも窮屈そうだ。だが、それも仕方が無いことだ。普段、ブレイン・タイプとマッスル・タイプは交友を持たない。それ故、家や家具、乗り物に至るまで、別々のコースに分けて作られているのだ。

「君、それ程の身体をしていて、更に何を欲しいと言うんだ?」

 ケンタウルスは甲高い声でポツリポツリと話し始めた。

「私は見ての通り、代々マッスル・タイプの家系です。今は、短距離走の選手をして生活していますが、最近タイムが伸びなくて苦しんでいます。このままでは、何時スポンサーから手を退かれるか分かりません」

 そこまで話して、ケンタウルスは30秒の息の長い溜息を付いた。

「私には、養わなければならない家族が9人います。上は180歳の曽祖父母2人を筆頭に、祖父母2人、父母2人、妻、そして息子と娘が2人です。働けるのは私一人なんです。それなのに今クビになったら……」
 ケンタウルスは悲痛な顔で言った。
「今の時代、運動選手以外の職業なんて、どうせ見つかるわけ無いんです。大和博士、お願いです。私をもっと速く走れる様にしてください。お願いです」

 そう言ってケンタウルスは小さい頭をテーブルに擦り付けた。

 大和博士は其処まで話を聞いて、全てを了解した。普通の遺伝子操作には限界が来たのだろう。どうせ、マッスル・タイプは皆している事だから。要するに、彼はタブーの遺伝子操作を希望しているのだ。多分、サラブレッドか、もしくはチーターと言った所だろうか。

 大和博士は、少し考え込んで、脅すように低い声で言った。

「私の研究は、人に他の動物の遺伝子を組み込む事だ。その開発研究はとっくに終わって、後は人に試すのみに成っている。だが、君。もしも他の動物の遺伝子が君の細胞を凌駕(りょうが)して、君の意識自体が失われたどうするのだ? それだけは、チンパンジー等の実験からでは、分からないんだ。そして、一番重要な事なんだ」

 大和博士は、ポケットからノンタールのタバコを取り出し、震える手で火を付けた。――私の研究が試せる願っても無いチャンスだ。どうするべきか――。紫の煙をフーと吐き出し、大きな顔を彼の小さな顔に近づけ、睨み付けた。

「本当に後悔しないんだね? 一度操作すると二度と元には戻らないのだよ」

「構いません。一族の生活が掛かっているのです」

 ケンタウルスは小さい目をかっと見開いて言った。



≪2.ヒーロー≫

 一体どれ程の時間が経ったのだろう。ケンタウルスは朦朧(もうろう)としながら夢から覚めた。
 窓は開け放たれている。薄手の白いカーテンが風を受けて裾がなびいている。ベッドの縁に手を掛けると、ヒンヤリとした感覚が掌から伝わって、ケンタウルスの意識を覚醒させた。
 ここはどこなのかは直ぐに思い出すことが出来た。そう、ケンタウルスはあの遺伝子学者大和博士の手術を受けたのだ。その痛みが、微かに彼の足にある。その感覚を確かめながら、ゆっくりと膝を持ち上げる。その動きはスムーズだ。
 どんな術式なのかを、予め説明を受けたが、ケンタウルスの頭脳ではそれを半分も理解する事が出来なかった。ただ、解っている事は、ケンタウルスの足のたった一つの細胞の遺伝子を細工をして、それが時間と共に足全体の遺伝子を書き換えて行くと言う事だけだった。

 彼が感触を確かめていると、大和博士が扉を開けて部屋を覗き込んだ。

「やあ、どんな具合ですか?」

 大和博士の言葉には不安など感じられなかった。むしろ、自分の術式を誇っているように見える。精神状態を確認する様に、ケンタウルスの表情を読み取りながら、大和博士はゆっくりと近づいて行った。

「普通の遺伝子操作と違うのは、少々痛みを伴う位なものだ。でも、違和感はないだろう?」

 ケンタウルスは上半身を起こし、ベッドに腰掛けた。

「ええ、今動かしてみましたが、スムーズです」

 誇らしげな大和博士は、彼のガッチリした大腿部を両手で包み込むようにして診察した。

「後は、遺伝子の増殖を待つだけです。いつも通りに運動してください」

 それが、大和博士とケンタウルスの最後の直接の会話だった。



 それから一ヶ月後。ケンタウルスは何時もの様にホームグランドに向かった。そこまでは約5km程あるが、その日は自動移動歩道は使わなかった。ゆっくりと風景を楽しみながら、感覚が鋭くなった両足を確かめる様に踏みしめる。シューズに履き替えグランドに立つ。十分な準備体操の後、栄養剤をひとくち口に含み、スタート位置に付いた。

”ピ・ピ・ピ・ピー”

 自動スターターの合図と共に、ケンタウルスは駆け始めた。足が地面を力強く蹴る。風が激しく頬を撫でる。そして、あっという間にゴールした。
 その時のタイムは……、”人類史上初の100m7秒台を示した”。勿論、それは過去のドーピングオリンピックでも出た事の無い記録だった。

 ボンヤリと掲示板を見ていたケンタウルスの所属チームのスタッフが慌てて駆け寄ってきた。

「おい、どうしたんだ! 何でこんなタイムが出せるんだ!」

 スタッフは、彼の過去の運動能力データから、そんな記録が出るはずが無いと思ったのだ。直ぐ様、ドーピング検査が行われたが、勿論それは一切問題は無かった。

「凄いじゃないか!この分だと、オリンピック出場は確実だぞ。いや、金メダル確実だ!」

 グランドは騒然となり、チームの監督ばかりか、オーナーまで直ぐ様駆け付けて来た。そうして、ケンタウルスを”進化した人”と称えた。

 そうエボルーショナル・マンと……。


 練習を終えて自宅に帰ったケンタウルスは、直ぐに自分の部屋に閉じこもった。手術をして、一ヶ月経ち、半分不安になっていた時にこんなタイムが出せるとは……。しかし、余りにも現実離れしたタイムだ。ケンタウルスは、喜びよりもバレやしないかと、それが気がかりだった。
 一般のマッスル・タイプの遺伝子操作と、自分のやった遺伝子操作は明らかに違うし、禁じられている事なのだ。それに対して、大和博士は自信たっぷりにこう言った。

「300年前から誰も手を付けなかった。今じゃ、それを確かめる検査は行われていない。安心したまえ」

 それでも、ケンタウルスの不安はつのった。そして、日毎に速くなるタイムの喜びとは裏腹に、毎晩夢にうなされる様に成っていった。


~あいつの足を見てみろ! まるで馬だ!~

”違う! 俺は人間だ! そんな眼で俺を見るな!”

~アイツ何を言っているだ? 人の言葉を話していないぞ!~

”先生! 俺を助けてくれ! 元に戻してくれ!”

~何を言っているんだ。君が望んだ事じゃないか……~


 汗びっしょりで眼を覚まし、夢だと解りホッとする。時計を見ると午前1時を少し過ぎた所だ。もう幾日こんな日が続いただろう……。
 ケンタウルスは仕方なく、α睡眠装置を買いに行く事にした。普通は精神的に不安定なブレイン・タイプが良く使用するものだが、今のケンタウルスにはそれが必要だった。

 健康機器店の店員が不思議そうにケンタウルスを見る。顔を隠すようにIDカードを差し出し、支払いを済ませた。
 お陰で、翌日からケンタウルスは十分な睡眠を取れるようになり、精神的にも安定的してきた。
 遺伝子操作から二ヶ月目の事だった……。



≪3.怒り≫

 朝6時、セットしたタイマーが、緩やかにケンタウルスを揺り動かす。ベッドのヘルスチェック・モニターは正常値を示している。目覚めと共に、カーテンが開き、窓が開く。朝霧を貫き太陽光がケンタウルスの眼を刺激した。心地よい朝だ。顔を洗いながらセントラルの末端に話し掛けた。

「何かあったのか?」
「ピッ、メールが56通届いてます」

 また、今日もファンメッセージの山だろう。そう思うと顔が少し緩んだ。

「差出人は?」
「奥様より1件、ピッ、オーナーより1件、ピッ、トロントの12才の男性から1件、ピッ、トウキョウの5才の女の子より1件、ピッ、…………、差出人不明1件。以上」

 今日のファンメッセージが53件かな。ケンタウルスは髭を剃りながら一件いっけん内容を聞いて返事をして行った。

「あなた~。とっても素敵なコートを見つけたの。あなたも気に入ると思うわ。ねえ、買って良いでしょう? 愛しているわ」

 全く、アイツにも困ったもんだな。でも、今まで散々苦労を掛けてきたからなー。そう思うと邪険に出来なかった。

「仕方が無いなー。その代わりに、今度オフの時はゆっくり君の手料理を食べさせてくれよ。楽しみにしているよ。チュッ」

 その次はあの気難しいオーナーだった。

「やあ、調子はどうだい? 来月のオリンピックの選考会は期待しているよ。最も、君の事だから、トップ通過は当たり前だろうけどね。君のお陰で我が社の売り上げは業界トップに踊り出たよ。選考会が終わったら、壮行会の用意をして置くから、頑張ってくれ給え。それじゃ」

「恐縮です、任せて下さい。きっと驚くようなタイムでトップ通過します。有難うございます」

 姿勢を正し、そう言ってからケンタウルスは礼をした。口の中の歯磨き粉が床にまき散らかってしまった。

「あっ! しまった」

 床を雑巾で拭きながら次のメッセージを聞いた。

「初めまして。僕はトロントに住む小学校6年生です。いつもあなたの事をTVで見ています。えーと、あなたの走りを見ているとすごく勇気が沸いて来るんです。今度の選考会頑張ってください。それから……サイン下さい」

「応援ありがとう。頑張るよ。それから、サインは必ず送るからね。君も勉強ガンバレよ!」

 こんなメッセージが毎日来るのである。嬉しくって仕方が無い。半年前にはこんな事なんて絶対に無かったのに、遠くの国のこんな小さな子供までもが、ケンタウルスに熱烈なファンメッセージを送ってくるのだ。

”ほんと、人生なんて分からないよなー”

 そうして、ケンタウルスは53通の全てのファンメッセージに返事を出した。普通のスポーツ選手は面倒くさがるかもしれないが、実直なケンタウルスはファンを大切にした。それがケンタウルスの生きる勇気であり、マッスル・タイプの使命だと考えているからだ。

 そして、最後に差出人不明のメールのメッセージに耳を傾けた。

「やあ、久しぶりだね。術後の経過はどうだい?」

 その声は、あの遺伝子学者大和博士のものだった。なるべく接触を避けようと話し合ったのに……。一体何の用だろう?

「君の活躍は聞いているよ。順調そうで私も安心したよ。私の方も、君のお陰で良いデータが取れたよ」

 大和博士が上機嫌である事は、少しばかりトーンが高い事から察する事が出来た。ケンタウルスにしてみれば、大和博士は命の恩人、言わば新しい”生みの親”の様な物である。そこまで聞いて、ケンタウルスは少々涙ぐんだ。

「それで、研究の目処は付いたのだが、いかせん資金不足で困っているのだ。こんな事を頼むのは約束違反なのだが、……金を少しばかり工面してくれないか?」

 命の恩人の頼みだ。出来る限りの事はしようと思った。返って何も要求されない事の方が、ケンタウルスには心苦しかったのだ。ケンタウルスは喜んで、直ぐに自分の口座からストックの半分を振り込んだ。

 しかし、ケンタウルスの感謝の気持ちも、その後一月毎に届く大和博士のメールで、徐々に疎ましく思う気持ちに変わって行った。大和博士の金の無心は終わる事がなかった。しかも、その金額も小さくは無い。その都度、オーナーやスポンサーに頭を下げて前借して来たが、もう限界だ。

「もう、勘弁してくれませんか。このままでは、生活出来なくなります」

 ケンタウルスがやっとの思いで書いたメッセージメールに対して、送られてきた返事はこうだった。

「たかが、一介のマッスル・タイプの癖に! 一体誰のお陰でここまで来たと思っているんだ!」

 その一言で、ケンタウルスの心からの感謝の気持ちは消えうせた。”人を馬鹿にしやがって! 初めから俺の事をそんな風に見下していたんだろう” 憎悪はケンタウルスの中で次第に膨らみ、遂に大和博士の家に乗り込む事を決意した。


 ケンタウルスはセンターのモニターから身を隠す様に道を選び、半年前来た大和博士の家へ着いた。塀の外から中を伺うと、電気は消えていた。入り口は珍しくセンサーは無い。多分、随分と古い建物なのだろう。ケンタウルスは、身を屈めて敷地に入り、裏手に廻りこんだ。
 そこはケンタウルスが見たことも無い程広い庭があって、色取り取りの花が整然と植えられていた。その間を通って行くと、ケンタウルスは眩暈(めまい)を感じた。鼻と口を両手で押さえ、やっとの思いで花畑を通り過ぎた。
 ふら付いて何かにつまずいて、ひざまずいた。ヒンヤリとした感触が掌に伝わってくる。それは錆付いた鉄の扉であった。多分地下室の入り口だろう。
 朦朧とした頭でケンタウルスは中へと入って行った。薄明かりの中、鉄の階段を下りて行くと、白い合成樹脂製の扉が見えてきた。表の古めかしい鉄の扉には不釣合いな現代的な扉だ。扉の前に立つと、それは静かに上に開いた。

”……!”

 言葉が出ない。何物かが一斉に自分に気付き振り返った。見たことも無い生き物が……。
 自分の目に入ってくる光景を一瞬理解できない。電気が身体を走り、恐怖にガタガタ震える。

「ぎゃーーーー!」

 甲高い悲鳴が地下室に響き渡った。

”猿に羽が! 豚に水かきが! 馬に角が!”

 その他の見たことも無い動物が、透明な円筒状のカプセルに入っている。身体には無数の管が繋がれており、カプセルは液体で満たされていた。その中の動物達が一斉に彼を見たのである。驚くのも無理は無い。

 ようやく我に返ったケンタウルスは、ゆっくりとその異形の生き物達に近づいて行った。

”これは何だ? もしや俺の足もこうなるのか?”

 その驚きは、やがて怒りに変わって行った。

”俺はこいつらと同じモルモットだったのか! 畜生! 殺してやる!”

 ケンタウルスは自分の足が馬になると思い怒りに燃えた。


 ケンタウルスはその部屋の片隅に身を隠し、大和博士が帰ってくるのをずっと待った。夕方の6時過ぎ、階段を降りてくる足音が聞こえた。大和博士は椅子に座り煙草に火を付けた。そして、一体いったい眺めて話しかけている。

「どうだ気分は? もうモニターに飽きちまったか?」

 脳の成長を促す為の外的刺激、それがこのモニターの役目だった。大和博士は慣れた手つきでモニター情報を切り替えていった。その背後からケンタウルスはゆっくりと近づいて行った。

”ドカッ”

 ケンタウルスの拳が大和博士の側頭に炸裂した。身体が横に弾き飛ばされ、その勢いで実験台の上のサンプル瓶が床に落ちて割れた。大和博士はそのまま動かなくなった。

「ざまあ見ろ!」

 ケンタウルスは大和博士の顔に唾を吐きかけて部屋を出て行った。


 それから何時間経ったのだろう。大和博士はようやく意識を取り戻し、床に落ちた眼鏡を探した。そして何かで手を切った。

「痛!」

 眼鏡を探し当てラベルを見た。

「うあーーーーーー!」

 そのラベルにはこう書いてあった。

”細胞分裂促進剤”



≪4.遺伝子学者の死~安堵≫

 大和博士は低い声で静かに笑い始めた。

「あははははは。これで、やっと楽になれるよ。なあ、オヤジ」

 そう言って倒れた椅子を元に戻して、ロッカーの雑巾を取り出し床を拭き始めた。一通り綺麗にすると、あの割れたサンプル瓶を机の上に置き、椅子に腰掛けた。
 ふと、書棚のワインの事を思い出し、グラスを用意する。トクトクと注がれる赤ワインの液面を眺め、人差し指を浸し舐めてみた。

「うん、やっぱり昔のワインは最高だ。ふふ、これでチーズがあれば言う事無しなんだがなー」

 そのワインは、遥か500年前の物だった。今では、みんな遺伝子情報を操作したノンアルコールのワインに切り替わっているので、どこに行っても手に入れる事は出来ない品なのだ。もっとも、そのノンアルコールワインでも十分美味いのだが。

「こうしてオヤジと、このワインを呑んだのは、もう随分前だったなー。ああっ、もう指にシワが寄ってきた」

 指だけではない。ほんの数分後には、眉毛は次第に白身を帯び、頭にも白いものが混じってきた。

「このスピードで老化するのは、人類で俺が初めてだろうな。記念すべき第一号だ」

 ワイングラスにを持つ手が、小刻みに震え出した。それでも、更にワインを注ぎ足した。呑まずには居られないのだ。

 大和博士は、遥か昔の父親との会話を思い出していた。そう、初めてで最後の父親との大喧嘩の事を……。

  ~

「父さん! 一体何をしたんだ!」

「……」

 大和タケル青年は、父親の胸ぐらを掴み身体をワナワナと震わせていた。人を憎いと思ったのは今まで何度かある。しかし、殺したいと思ったのは、これが初めてだった。

「なんで、俺だけ年を取らないんだ。何で俺だけ……」

 そう言って、大和青年は崩れ落ちた。

「済まない。本当に済まなかった……」

 父の顔が大きく崩れ、シワの寄った目尻が濡れた。

「お前は、私の希望だった。40過ぎて出来た子供だ。本当に嬉しかったんだ。しかし、お前が大きくなる頃には、私はもう年老いている。お前に何もして上げられない。だから、私に出来る最大の贈り物をしたかった。
 あれは、お母さんが妊娠したばかりの頃だった……。当時、私は国の研究機関で遺伝子の研究をしていた。そこで、偶然に老化を止める方法を見つけてしまったのだ。しかし、その発見を発表する事は出来なかった。
 何故だか分かるか?
 あの遺伝子操作は、細胞分裂の初期段階にしか出来ない事なんだ。しかも、莫大な資金が要る。だから、一部の金持ちの子供にしか……、選ばれた人間にしか出来ない事なんだ。そうなったら大変な事になるのは、頭の良いお前には分かるだろう。
 金持ちは永遠に生き続け、そして学んで行く。そうなったら最早人ではない。
 そうだ、神だ!
 そうなると、神が人を支配していまう。そんな事は、私には出来なかった。だから、私はそのレポートを消去した。永久に人の目に触れない様に。
 しかし……、いざ自分に子供が出来たら、私は自分を抑える事が出来なかった。
 ああっ、この子に永遠の命を与えたい! この子を神にしたい! ……そう思った。
 私が言うのも可笑しな話だが、”生き物は遺伝子の運び屋”だとある学者が説を唱えた。そいつの言う通り、私も結局は単なる動物だったのだろう。自分の子孫を特別に愛してしまった。
 いや、自分の遺伝子が可愛かったんだ」

 そこまで話して、彼は息子、大和タケルの身体を抱きしめた。子供が可愛くない親がどこに居るだろう。例え、それが遺伝子の仕業だったしても。それを超えた所には、確かに”愛”が存在する。

「オヤジ……」

 息子は、父の愛をしっかりと感じ取った。自分の身体をこんなにしたのは、確かに父だ。しかし、自分はどんな国のどんな人よりも、望まれて生を受け、愛されて来たのだ。
 もう、それで十分だった。
  
 ~

 眼を開き、もう一度自分の指を眺めた。大分、老化が進んでいる。最早グラスを持っている事さえ出来なくなった。

「歳を取る事を今まで夢見てきたが、こんなに苦しい事だと思わなかった」

 次第に、ぼやけて行く眼を必死に凝らした。最後まで意識を確り持っていたかった。しかし、もう座って居る事さえ辛くなり、足を引きずって歩き、ベッドに横たわった。

 もう、意識が遠のいてきた。


”やあ君、随分暫くぶりだね
 君は相変わらず綺麗だね
 一人で寂しい想いをさせてしまったね
 これからは、ずっと一緒だよ
 愛しているよ 美紀”


 大和博士は最後に夢を見た。遠い昔に亡くなってしまった妻の事を……。
 500年もの間に、愛する者の死を経験し、何時しか一人きりになってしまった。
 やっと、寂しさから解き放たれる時が来たのだった。


 もう一つ付け加えるならば、これは神の死だった。永遠の命を持ち、万能の知識を持つ神が、その500年にも渡る生涯を終えたのだった。



≪5.疑心暗鬼≫

 光の中から誰かが呼んでいる。こっちへお出でと。ケンタウルスは必死に手を伸ばすのだが届かない。もどかしさが全身に広がり、呼び声を上げるのだが、しかし、声は喉から発せられない。光に近づこうとするが、まるで海の中でもがく様に少しも進まない。ケンタウルスは無性に悲しくなりしょんぼりと俯く。その時、ケンタウルスの背中から懐かしい様な声が微かに聞こえてきた。

”……アナタ……”

 ケンタウルスは光に背を向け、声の方へ一歩一歩ゆっくりと歩き始めた。声は次第に大きくなって行った。

”…………”
”ダイジョブヨ”
”…………”
”ワタシハ、ココニイルワ”
”ズットあなたの側に居るのよ”

 暖かい意識がケンタウルスの全身を優しく包み込んだ。
 ケンタウルスははっと眼を覚ますと、妻が眉間にシワを寄せて心配そうに見つめていた。ケンタウルスの両目をよろよろと交互に見つめながら、「よかった」と何度も囁き、ケンタウルスの額の汗を手のひらで拭いた。ケンタウルスは震えながら力いっぱい彼女の豊かな胸に顔を埋めてオイオイと泣いていた。


 妻が、まだ意識をどこかへ置いて来た様なケンタウルスに向かって

「あなた。今日はお休みしたら?」

 と言いながら、食卓テーブルの上に両手を乗せ、涙を浮かべながら見つめた。

「いや、……休むわけにはいかない」

 ケンタウルスは震える声でそう言うのがやっとだった。

 
 あの遺伝子学者大和博士の自宅に乗り込んだ夜から、ケンタウルスは眠れなくなっていた。α睡眠装置のパワーを最大にしても、ケンタウルスの意識は眠る事を拒絶した。
 それは、これから自分の身体がどうなるのかと言う不安である事は自分でも分かった。センターのメディカル・エンジンに相談するのだが、答えはいつも決まっていて、「不安因子の除去を勧めます」と言うばかりだった。
 もし、身体の事をセンターに相談したらどうなるだろうか。多分、直ちにケンタウルスの不安は解消されるだろうが、それと同時に、ケンタウルス自身の破滅である事は、幾らマッスル・タイプでも容易に想像が出来た。きっと、こう告げられるに違いない。

「あなたの違法行為に対して、センターはあなたの市民としての全ての権利を剥奪します」

 ”権利の剥奪”、ちょっと聞いただけでは、何の事か分かりづらいが、要するに肉体の消滅、イコール死の事なのだ。


 毎日、ケンタウルスは眠さと必死に戦いながらホームグランドまで出かけた。本当は大事を取って休息すれば良いのだが、オリンピック選考会があと一週間まで迫っているので、それが出来ない。
 しかし、ケンタウルスの心配とは関係なく、記録は徐々に伸びていった。そしてとうとう100mを6秒台で走れるようになってしまった。その情報を聞きつけて報道陣も徐々に数を増やしていった。

「今日は、皆さん。私は今○○グランドに居ります。ご覧ください。ここでは毎日の様に驚異的な勢いで世界記録が塗り替えられ続けているのです。そのランナーとはマッスル・タイプ界の超人ケンタウルスさんです。どうぞ!」

 カメラはターンしてケンタウルスを映した。

「ケンタウルスさん、何時も映像で拝見していましたが、こうして近くで見ると大きいですね。しかも、その身体が風の様な速さで駆け抜ける光景を身近で見れただなんて、私達はついてます」

「ありがとう。私もこんな大勢の記者さんに囲まれる事があるなんて、今まで考えた事もなかったんで嬉しいですよ」

「あなたの記録更新の原動力は何ですか?」

「それは、愛する家族と優秀なスタッフののお陰です」

 そこでいきなりケンタウルスの恐れていた質問が出た。

「貴方は……。最近凄まじい速さで記録を更新してますが、それは一部では薬を使っているからだと言う噂も流れていますが、その事についてお聞かせ願いませんでしょうか?」

「白状します……。それは毎日○○ドリンクを飲んでいるからですよ。ははは」

 会場は笑いに包まれた。その反応を見てケンタウルスはほっとした。今までこんな質問をされた場合にどうやって上手く切り抜けるか、何十回何百回も練習したのだ。それが役に立った。ついでにスポンサーの良い宣伝にもなっただろう。
 会場はそのまま和やかな雰囲気で終りを迎えた。

「最後に今後の抱負をお願いします」

「皆さん。私は次のオリンピックで、必ず世界記録を大きく塗り替えて優勝します」

 そしてある記者が最後にケンタウルスの一番弱い言葉を言った。

「ケンタウルスさん。実は私の娘が貴方の大ファンで……。済みませんがこれにサインを頂けませんか?」

 どっと笑いが起こった。ケンタウルスは一ファンに変わった記者達のサイン攻めにあった。


 オリンピック選考会出場の記者会見を終えて、ケンタウルスは一人ロッカーに戻りほっと一息を付いた。鏡を覗くと、酷い脂汗を額にかき、目の下に隈を作った疲れきった顔があった。年齢より20歳は老いて見える。しかし周囲に人は、ケンタウルスの記録更新に目が行って、そんなことは一向に気付かない様だった。
 自分の不安は他人には知られたくない。しかし苦しみを誰かに共有して貰いたいと言う、もう一人の弱い自分が時々顔を出した。そんな時、ケンタウルスは誰もいない部屋に閉じこもり、一人声を出して泣くのだった。


 選考会はケンタウルスの圧勝だった。全国から集まった競技者達を10m以上も離してゴールした。しかし、ゴールと共に疲れが全身を襲い、ケンタウルスはふらふらと控え室に戻り、ベンチに仰向けになった。そして、いつの間にか眠ってしまった。

 気が付くと、ケンタウルスの周りを大勢のスタッフや記者が取り囲んでいた。何事だろうと上半身を起こすと、誰かが言った。

「5秒5台でゴールした気分はどうだい?」

”えっ! しまった……” 余りにも速過ぎるタイムだ。ケンタウルスは全力で走った事を後悔した。こんな記録は、最早人間業では無い。誰だって疑いを持つ筈だ。

「今からドーピング検査を行いますが、立てますか?」

 協議委員らしい年配の男が心配そうに、ケンタウルスの顔を覗き込んだ。

「行けますよ。今日は予選から本選まで4本も全力で走って疲れて休んでいただけですから、もう大丈夫です」

 ケンタウルスはよろよろと立ち上がり、検査室に向かった。


 検査室の中に入ると、様々な薬品の臭いがした。ケンタウルスは入って直ぐに採尿して、採血の順番をまった。ケンタウルスの前には、利き腕の右をダラリと床に着けて、左腕の方で採血している男が座っている。ケンタウルスは彼が槍投げの選手である事が直ぐに分かった。別に彼の事を知っている分けではないが、彼の腕の長さを見れば明らかだった。
 検査の結果は大丈夫だった。あの遺伝子学者大和博士の言った通り、ケンタウルスはドーピング検査で引っ掛からなかった。足から直接遺伝子を取らなければ、一生この検査から逃れる事が出来るのだ。そう思いほっとしてケンタウルスは競技場をあとにした。

 オリンピックまで後二ヶ月。それまでの辛抱だ。
 その夜、ケンタウルスは久しぶりに夢を見ずに眠る事ができた……。



≪6.異変≫

 その日は朝から身体が重かった。今までの心労からきた疲労とは、何かが違うと感じた。ケンタウルスはベッドから上半身を起こし、恐るおそる足を曲げてみた。動きはスムーズだった。疲労の欠片も見当たらず、ケンタウルスはほっとした。
 しかし、足とは別に、肩や腰、胸が鉛の様に重い。ケンタウルスは心配になりメディカルチェックを受けようと思った。

「おい、お前」
「何、あなた?」

 眠たそうな声がスピーカーから聞こえてきた。

「今日は練習を休みにして病院へ行ってくるよ」

 ケンタウルスの答えに慌てて妻は夜着のままで部屋に入ってきた。

「どうしたの? どこか調子が悪いの?」
「いや、オリンピックが始まる前に、健康チェックをしてこようと思ったのさ。どこも悪くは無いよ」

 それでも、妻の心配な顔は元には戻らなかった。そんな妻を置いて、ケンタウルスは着替えを手早く済ませて家を出た。



 病院の控え室でケンタウルスはじっとしたまま、死刑台に上る覚悟で呼び出しを待った。本当は、病院へは来たくは無かった。余計な検査をされたら今までの苦労が、いや人生が終わってしまう。それでも、このままではいけないと思った。ケンタウルスの身体が自分自身を病院へ来させることを強いたのだ。
 一通り検査を終えて、ケンタウルスは医者の説明を聞くために診察室に入った。先ほどケンタウルスを検査した30半ばの医者が検査結果表を持ちながら上ずった声で言った。

「信じられない!」

”しまった! ばれたかも知れない” ケンタウルスの心臓はドクドクと鳴り全身を振るわせた。

「あなたの身体は……、老いている」
「えっ?」
「検査結果ではあなたの内臓や血管が80歳の値を示しました」

 意外な答えにケンタウルスは声もだせずに椅子の上で硬直した。医者はケンタウルスの真っ青な顔を見て慌てて付け加えた。

「いや、あなたの様なマッスル・タイプの優秀な運動選手には良くある事なんですよ。過激な運動に血管や内臓が付いて行かなくて急激に老化することは……。しかし……、あなたの場合はそれがちょっと激しかっただけです」

 医者は心配そうに俯いて下を見てしまったケンタウルスを気遣いながら言った。

「どうします? 他にも問題が無いか検査してみましょうか?」

 その言葉に驚いて我に返ったケンタウルスは、それには及ばないと言って早々に診察室を出た。


 焼けるような太陽が、ケンタウルスの疲れた身体に照りつけた。ケンタウルスは慌てて上着を羽織った。身体が温度変化についていかないから、適度な環境を保つように医者に注意を受けたのだ。ケンタウルスは、医者に書いて貰ったメモを見ながら特殊衣料の店を探した。

 その店は劣悪な環境で生活する者や、身体の弱いブレイン・タイプや老人の為の特殊衣料を扱っていた。ケンタウルスの探していた物は恒温ジャケットだった。それは急激な気温の変化や運動による体温上昇時に体温を一定に保つものだ。
 だが、身体の大きな自分に合うサイズが見つからず、仕方なく店員に特注品を頼んで店を後にした。身体が重い。ケンタウルスは足を引きずるようにして、ようやく自動歩道機に辿り着いた。


 ケンタウルスが家に着くと妻が心配そうに出迎えた。

「あなた、大丈夫?」
「ああ、何でも無かったよ。ちょっと疲れが溜まっていただけだよ」

 そう言って、ケンタウルスは直ぐに自分の部屋に閉じこもった。疲労した顔をみられたくなかったのだ。鏡に向かって改めて自分の顔を見てみた。醜い顔だ。更にケンタウルスは上着を脱いで上半身を恐るおそる眺めた。

「なんだこりゃ!?」

 そこには、30歳前の身体は無かった。どこから見ても80歳の老人のそれだ。

「ああっ」

 ケンタウルスはその場で足が砕け膝を着いた。そして両手で顔を覆った。


 それからのケンタウルスは自分との戦いだった。老いが早いか、それともオリンピックで優勝して富を手にするのが早いか。ケンタウルスが出した結論は唯一つ、老化を抑えるために練習量を極力減らす事だった。

 2564年初夏。オリンピックまで後一ヶ月の事だった。



≪7.神になった男――最終章≫

 その日は晴れだった。暑い日ざしが容赦なくケンタウルスに照りつけた。しかし、幸運だったのは、この年のオリンピックが自国で行われる事だった。ケンタウルスはこの日に備え十分に身体を休める事が出来た。今日と明日、二日間の予選計四回を通過すれば、憧れの決勝レースに出場する事が出来る。
 ケンタウルスは、フィールドに出て自分を落ち着かせるように、大きく深呼吸した。肋骨が痛い……。多分肋間神経痛だろう。ケンタウルスの今の年齢は最早百歳を越えているかもしれない。だが、そんな事は気にしていられない。たった二日間のレースを乗り切れば、名声と富が手に入る。一族が三百年は暮せるだろう。
 ケンタウルスはこのオリンピックに命を賭けるつもりで挑んだのだ。

 予選からケンタウルスは余力を残して走った。それでも、必死に走る他の選手を優に10mは離してゴールする事が出来た。

 そして、とうとうオリンピック決勝まで辿り着く事が出来た。もう、体力は僅かしか残っていない。ケンタウルスは、スタート地点に立つと、気持ちを落ち着かせる様につぶやいた。

「神よ。私に最後の力を!」

 今は、もう誰も信じない神を、密かに信じていたケンタウルスは、無意識に胸の前で十字を切った。

「ピッ、ピッ、ピッ、ピー」

 スターターと共にケンタウルスは全力で飛び出した。周りの景色が線を引くように流れていった。足は赤褐色の人工土を力強く蹴り、身体を前に前に押し出した。
 50mほど走った時、突然、胸に強烈な痛みが走った。

「うっ!」

 背中がキシみ、内臓も悲鳴を挙げた。
 しかし、ここで止まる事は出来ない。
 強烈な痛みと戦いながら、ケンタウルスは必死でゴールに突進した。

 後20m……。
 後10m……。
 とてつもなく遠く感じた。
 そして後5m。
 ケンタウルスは倒れこむように、胸でテープを切ってゴールした……

 遠のく意識の中で、歓声が聞こえる。そしてアナウスが聞こえた。

「男子100m決勝。勝者……ケンタウルス選手!」
「記録4秒98」

 そのままケンタウルスは目覚める事は無かった。ケンタウルスはゴールと同時に心筋梗塞で倒れたのだった。
 だが、ケンタウルスの記録と名声は永久に残るだろう。そして一族には巨万の富が残った。

 ケンタウルスの亡骸は形式的なドーピング検査を請けただけで済んだ。しかし、ケンタウルスの身体を見て誰もが顔を背けた。
 浮き上がった肋骨、皺の寄った皮膚、曲がった腰、老人班。唯一健康に見えたのは両足だけだった。そう、あの遺伝子学者大和タケル博士に与えられた足だ。

 大和博士は完璧だった。ケンタウルスは大和博士を殴り倒した事を後悔した。大和博士はケンタウルスを決してモルモットにした分けではなかった。神の足を与えてくれたのだ。
 その証拠に、足の形は人間のままで、筋肉の遺伝子だけ馬になったのだ。大和博士の部屋のカプセルの動物と同じようには、ケンタウルスの足は馬のそれには成りはしなかった。最後まで人間の足だった。
 そしてケンタウルスが命を落とす事になった原因は、馬の足の筋肉の遺伝子に身体が付いて来なったからだ。だが、全身を馬の遺伝子にすると、人間の意識まで馬のそれになってしまう。これが限界だったのだ。
 ケンタウルスは、絶命の瞬間、最後の力を振り絞って声を出した。


「私は……、神になった」


 こうして、人類史上最速の足を持った男は死んだ。永遠の命を持ち、万能の知識を持つ神を道連れにして。


(終わり)

1999-07ケンタウルスの遺伝子

1999-07ケンタウルスの遺伝子

59枚 昔書いたSFです。すこし手を入れました。

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更新日
登録日
2024-09-14

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