百合の君(21)
男たちの目が、穂乃を捉えた。その真っ赤に充血した目の中で、驚きはすぐに卑しい欲望に取って代わられた。頭からつま先まで、穂乃を舐めまわすように見ている。
穂乃は反射的に珊瑚を背中に隠した。動かすとき、泣き出さなかったことに安堵した。もし大声を出したら、真っ先に殺されてしまうかもしれない。
男たちが、一歩踏み出した。粗末な床板が、ぎしりと鳴った。外からの光が、その汚い指を照らしていた。短く、節くれ立って、真っ黒な毛で覆われている。毛が、ゴキブリの触角のように、わずかに動いた。
もしこの指が私に触れたら、穂乃は思った。私に触れたら、その瞬間、舌を噛んで死んでやる。
にらみつけようとして見上げると、真ん中の男の首が落ちた。視界の端で友達の身長が縮んでしまったのを不審に思って振り返った左の男の口に刃が突き立てられ、残った男は逃げて行った。
穂乃の心に驚きと歓喜が湧き上がった。しかし、後になって考えても、このとき期待したのが蟻螂だったのか浪親だったのか分からない。実際に現れたのは、当然浪親だった。穂乃とは目を合わせず、血糊を拭う動作に合わせ、視線を自らの手元に向けた。そしてそのまま、呟くような声で、「怖い思いをさせてすまなかったな」と言い、「二度も」と付け加えた。
穂乃は宛先のない視線を床に落とした。
「ありがとうございました」
「いや、当然のことだ」
「お優しいんですね、さらった女をわざわざ助けたりして」
浪親は黙った。
「すいません、そんなこと言うつもりじゃなかったのに」
浪親は動かなかった。穂乃も動かなかった。斃れた男から流れる血だけが、時間が動いていることを知らせていた。湯気が立ち、夕日を反射してきらきらと輝いている。海と同じ命の水だ。穂乃はやっと言うべきことを見つけた気がした。
「子供の頃、こんな話を聞いたことがあります。
昔、すべての生き物が天にいた頃、他の生き物を殺して食べる動物は一匹もいなかったそうです。みんな神様が与えてくれました。でも神様は、ちょっとだけ意地悪でした。直接は渡さないんです。
猫には蜜を、熊には稲を、ねずみには土を、草には魚をあげるのです。だから猫は蜜を熊にあげ、熊は稲をねずみにあげ、ねずみは土を草にあげ、草は魚を猫にあげ、そういう風に暮らしていました。
自分にとっては役に立たないのに、他の人にはあげたがらないケチンボっているでしょう? そういう人は生きていけない世界だったんですね。
天の国ではそうやってみんな平和に暮らしていましたが、ある日猫がふとしたことからねずみを殺して食べてしまったんです。神様はかんかんに怒って猫を天の国から追い出し、可哀そうなねずみを天の国一番の動物として葬りました。だから干支に猫はなくて、ねずみが一番なんだそうです」
おとぎ話は嫌いではなかったが、浪親にはそれをなぜ今始めるのか理解できなかった。
「でも猫とねずみがいなくなった天の国は、大変なことになってしまいました。だって彼らはみんな、他の生き物から食べ物をもらっていたんですもの。熊は他の動物を襲うようになり、草でさえ虫に寄生するようになったのです。
そして神様に見捨てられたすべての生き物は、他者から命を奪わないと生きていけなくなってしまいました。
あなたはまるで、このお話に出てくる動物達です。奪わなくては生きていけない世の中で、まだ奪うことに慣れてないみたい」
二人の目が合った。そこには今までとは違うあたたかな感情が流れていたが、ここで現れたのは並作である。
「おやぶーん! 逃げた奴を捕まえましたぜ!」
なんて呑気なことを言いながら、首根っこ掴んで連れてくる。
「殺すことないだろ、逃がしてやれ」
浪親はため息をついて応えたが、足元に転がる陰惨な死体がその説得力を削いだ。
「えー、でもせっかく捕まえたのになあ」
「虫じゃねえんだからよ、じゃあ、お前が面倒みるか?」
「どういうこと?」
「お前にも、家来がいてもいいだろ」
そして並作は、親分の邪魔をしたのに出世した。
百合の君(21)