公園にて
居酒屋で集まって騒いでいたあの頃。仕事にも精を出していたが、何のためにあそこまで懸命に働いていたのか今ではよくわからない、今振り返ると身震いがしそうなあの頃。さして戻りたくないあの頃。今では一度晴れて社会から脱落して、当時に比べるとかなり緩くなった自分がいた。何かに追い詰められて、急き立てられて、何かに抗おうとして、それでも何か大きなものを掴もうともがいていたのではないか。そんな風に回想したくもなる。若気の至りということにして、記憶の底にしまってしまえばいいのかもしれない。だが、そういうわけにもいかない。やはり、あの頃の方が真剣に生きていたことは否定できない。今は気楽に生きている。人と会うこともずいぶん少なくなった。自分のペースで生きている。息詰まるような毎日を送る必要もない。だから、今の方が豊かな感受性を持っており、以前よりも情緒も磨かれたような気がするが、実態は逆のようであった。
資本主義の社会の中で、粒子として、家畜として、機械として、ただ黙々と働き、合間を縫って無理に遊んで弾けていたあの頃の方が、こみあげてくる異様な虚しさと隣り合わせであり、いつも切迫してくるものを感じていた。明らかに、あの頃の自分の方が頻繁に死を意識していた。目の前に写る景色は虚ろであったが、あの時期特有の感受性はもう二度と戻ってこないようである。いつも心の中にざらついた寂しさがあり、深い空洞の方にまでたどり着く経路をあのときは知っていた。空洞の静けさの中で、微かに聞こえてくる音があった気がする。もうあんな音は聞けないのかもしれない。その方が健全でいいのだが、名残惜しい気もする。せわしなく、慌ただしく、いつも予定に追われていたあの頃。余裕のない日々だったが、今よりもずっと豊饒であった。暇を持て余すことで人間が豊かになると言う説は少し疑わしい気もする。とはいえ、あの頃には二度と戻りたくない。あのとき、休日に読んだ本の数々はすでに記憶から消えてしまっているが、今ゆったりとした心持で読む本よりも実は実りの多いものだったのではないかという勝手な考えを抱きそうになる。
真剣に生きること。本気で生きること。いや、自分が間違えていただけかもしれない。すべては傲慢で幼稚な中年の都合のいい思い出話に過ぎない。人生はバランスが大事なのだ。身体を悪くすれば元も子もないではないか。そうだった。哲也は底の方から湧き上がってきた情念を一旦制御して、少し力が抜けて気楽になった。そうだな、今の方が確かに正常だ。目の前の草花を眺めながら、平穏な心持でたたずんでいた。あの頃にこうやって、木々を静かに見る余裕があっただろうか。都会の町並みに身を沈めていることにどこか安堵を感じていたような、陰惨な日々だったはずだ。だが、その陰惨さの中にも詩があった。自然の中にしか詩を見出せないというのは野暮だろう。コンクリートと鉄が織りなす音楽を聴きとることもできたのではないか。もう少し都会の中で心を研ぎ澄ませれば、都会の狂騒の中にもなんらかの風情を感じ取ることができたのかもしれない。
しかし、今こうして雑多な自然の中にいて、俺は詩を感じ取ることができているだろうか。単に年を食ったのだ。哲也は自身の年齢を再認識して我に返った。もう詩がどうのなどと言うには、何もかもが鈍麻になっている。すべてがゆっくりになった。思考が我知らず走り出すようなことは、もはや身体の方が許さない。すべては安穏の流れにある。精神に突風がやってくることもない。俺は情念に打ち勝ち、これからは安逸な人生が開けている。寂しくもあるが、これからを大事に生きていこうと密かに誓うのであった。
公園にて