てんし
不思議な音色が聞こえた
ような、気がした。
見渡す限り 真白の空間に
果ても宛も無く
感覚を頼りに右へと進む
理由はひとつ、利き手の方へ
理由はひとつ、音色の方へ
理由はふたつ、私は聞き手。
透明なアクリルの上に立つかのように
私は突然 ここに存在した
始まりもなにも 記憶には無く
あるのはこの感覚だけ
目を閉じ、開け、また閉じ、開け。
幾重に繰り返しても
景色はずっと白色透明で。
音が聞こえた
ような、気がした。
それは人工的な音色で
かつん かつんと靴の音。
私は素足で存在していて
とても交われそうにない足音だから
嫌悪感を覚えてしまった
私には靴すらないのに
あなたは一体だぁれ?
そこには
白く、なんの模様もないワンピースだけを着た
少女といえば少女で
物と言えば物にしか見えない者が立っていた
「あなたは だぁれ?」
「私は、私は、、 君は、誰なんだい」
互いにぶつける疑問符1つ
音色はいつの間にか止んでいて。
「私、私は てんし
てんしとも言えるがそうでもない存在。」
自らを天使だというその少女(仮)は
自分の身なりを何度か見直して
「この格好じゃあ、むりだね」
そう言ってはにかんでみせた。
ああ、なんとおかしな子であろうか。
自分よりいくつも歳が若そうなその子の感覚を掴めず
まるで雲の中に落ちたかのように浮き足立つ。
「…そういう遊び?」
私の中の言葉の辞書が
相手の神経を刺激するようなページしか見せてくれなかった。
「あなたの目にはそう映る?」
しかし少女は不思議な顔をするだけで
感情は動かない。
「私の目には君は まだ若い少女に見える」
私は見たままを少女(仮)へと告げる。
「じゃああなたは善い人なんだね」
(仮)をつけていてよかった。
少女は大きな魔物に姿を変えた。
先ほどまでの姿とは打って変わってこの世の物とは思えない存在へと変わる。
私の背丈をゆうに超え、認識出来る顔のパーツなどひとつも見当たらない。
私の中の辞書は彼(仮)を示す言葉のページをまだ持ち合わせていないのだ。
「私がこう見えるならあなたは罪人。
私が今何に見えている?」
声色は変わらず彼(仮)は私に問いかける。
震えそうになる声を必死に抑え
私は冷静を見せつけてやろうと抵抗をする。
「私には、この世ならざる者にしか見えないね」
「端的に言えば?」
「…端的に言えば、そう、物語の」
悪魔のようだと。
数分、いや数時間、まさか数日ということは無いだろうが
時が過ぎた感覚を覚えた。
だが後から聞くに
この間私が立ち尽くしていた時間はものの数秒で。
「今は?」
「元の少女に見えるよ
君は一体なんなんだい」
「だから言ったでしょう、私はてんし。
てんしでもありそうでもない存在。」
禅問答のようなやりとりに
私は少々の辟易を見せる
「、その、神様のような君は こんなところで何をしている?
そしてここはなんだい、知っているのか?」
まるで子供のように質問を投げかける。
「さあ、私もずっと 気づいたときにはここにいるから。
目的も 何もわからない
記憶も何もない
いつから?いつまで?なんのために?
ここは?なんのための空間? わたしは?だあれ?
…あなたは、自分を思いだせない?」
「私は、そう
物書きだったような気がする
何かを書いていたような」
「そう、物書きなのね
どんな物語を書いていたの?」
「ハッキリとは思い出せないが
英雄譚。」
「ヒーローに、憧れているの?」
「そういう訳ではないが。
逆境を跳ね除けるシーンが私はとても好きでね」
「自分で描いた英雄は、あなたを助けてくれた?」
「…」
私の中に霧がかかる。
私の作った英雄たちは私を助けてくれたのか?
いやいやなにをいう。
物語の登場人物が助けに来るなど、妄想甚だしい。
「私が書いた線の集積物が 私を助けてはくれまい」
「そんなことないと思うよ。あなたはその物語を書いていて気分が良かったはず。」
「好きで書いていたからね」
「…私は、ずっとこのお役目をしているの
それだけは分かる。でも、なんの記憶も残っていない
でも誰かと話していた気がする、
きが、するだけ」
「記憶喪失…?」
「分からない、喪失というより 最初からなかった物になっている感覚が残ってる」
私と少女(仮)は
何もない空間に腰を落とし話し込んだ。
私の思い出せること、少女(仮)の知見。
様々な話に花を咲かせて、随分と時間が経ったと思う。
「…そうだ、ずいぶんと話してしまったが
君は名前はあるのかい?」
礼儀のない行為である、ここまで話した相手の名前すら聞き忘れていたとは。
「私の名前は てんし
てん し」
「それは君の種族というか…私でいう“人間”のようなものだろう?
君の個体名はないのかい」
「私はてんしだよ。てんしでしかない
あなたにとってはね。
あなたは?」
「私は…思いだせないんだ。思い出せれば真っ先に名乗っているんだがね」
「ふうん、そういうものなのね」
…
沈黙が続く。
互いにほとんど記憶もなく、話せることが尽きてきた。
こんなこと昔にもあったような気がする。
文字を、書いて
それを、仕上げて
そこに魂を吹き込み
「物語」にする。
最初はそれでよかったが
様々な人間の意見が入ってきて
私の物語は 私の物語じゃなくなっていった。
…ような、気がする。
散々 喧嘩をして
散々 意見を交わし合って
最後には何もいうことがなくなり
黙ってしまった
よう、、な。
それでも私は書き続けた
なぜなら
本の中のキャラクターたちは
私の命そのものだから。
「さて、もういかなくちゃ」
天使はそう言って立ち上がる。
「行くと言っても、どこに?」
「あなたとは真反対の場所だよ」
「なぜ?」
私は少し寂寥を覚えていた。
もう話せないのか、話すことはないのか
繋ぎ止めなくては
私の 言葉 で
「あなたはもう大丈夫」
「なぜそういえる?」
「ここはそういう場所だから」
「私の中の夢なのか?」
「ううん、夢じゃないよ
あなたたちの言葉で言えばこれも現実。」
「私はいったいだれなんだ?」
「あなたは何者でもないよ。
何者かすらも
自分を捨ててしまっただけの
世捨て人。」
「しかし、物書きだったことや
少しは覚えていることがあるじゃないか」
「それはあなたが本当に捨てたくない記憶だから。
逆に言えば、思いだせないことは全て」
「私が、捨てたかった記憶。
なまえも、それ以外の全ても…。」
「私は てんし。
点となった記憶に死を与える者」
「君が、いや、お前が 私の記憶を奪ったのか?」
「いいえ、私の役目は一つ
ここにきた生物の消したい記憶の分 私の記憶と当て合わせて消滅させること」
「私の消したい記憶の分だけ お前の記憶も消えたということか?」
「端的に言えば、そうなるね」
「だがお前は先ほど 何も覚えていないと言った。
あれは嘘か?」
「だんだんと思い出しただけだよ。あなたのように。
私にとって消したくない記憶は
この役目の記憶なんだよ」
「いったいなぜこんな場所が…」
「この空間はね」
人間の数だけ存在して
その数だけ 点死が存在する。
点死と人間は禅問答を繰り返して
その人間のその後を決める。
やり直したいと強く思う人間には救済を
全てを消したいと思う人間には破滅を
あなたが、つまり
「一つも記憶が戻らなければ
私はあなたをここで破滅させることが使命
、、、だった」
「私は、どうすればいいんだ」
「あなたの失った記憶はもう戻らない。
覚えているそのたった一つの記憶だけを
ずっと待って ずっとずっと持って
ずーーーーー…っと大切にして
2度と、消したいなんて思わないこと ね」
私の人生に口を出す者
私の趣味に土足で踏み込む者
勝手に期待し ガッカリされたり
私は その度に
ああ、こんな嫌な思い出
なければいいのにな、なんて
だが
なぜ?
わたしは
なぜこんな
場所にいる?
ここはいったい
誰が作ったもので
どういうカラクリで
何を目的に存在する?
奪われた記憶の行き先や
私の本当の体は今どうなり
この場所の真意も分からずに
超常なるてんしに全て盗られて
名前すら思いだせない世界へ帰る
そんな仕打ちをどうして受ける
私はただ物語を書いてたくて
英雄が希望を振りまきつつ
皆と共に笑って暮らして
時には涙も流したって
それでも前を向ける
誰にも邪魔されず
静かに終われる
そんなような
物語だけを
書き綴る
人生を
ただ
「私の中の思い出は
あなたの中の思い出と混ざり合って
もう溶けてしまった
あなたはまだ間に合った。
まだ、もどれる。
ここは最後の場所
あなたがあなたでいられる、さいごのばしょ」
「君は…」
「私はまた 全ての記憶を奪われて
ここで次の“あなた”を待つ。」
「それは、寂しくないのかい」
「そんな私を寂しいと思うなら
にどと、記憶などと願わないことね
わたしはてんしだけど
わたしはあなた
あなたはわたし
まだお互いに成り合ってないだけの、鏡写し。」
私の体が透過してゆく。
景色に溶けてゆく。
「おわかれだね」
「待ってくれ、君の、君の名前は」
「私は
ーーーー。
それが私の名前。」
「!」
何かを書いていたい。
その記憶以外全て溶けてしまったはずの私に
あとひとつだけ
消えるその瞬間に戻ってきてくれた記憶。
少女の名前、そして私の名前。
ああ、やっぱり
彼女は少女だった。
(仮)など必要なく
確実に。
重たい瞼を開けた。
そこは色のある世界。
見覚えのある世界。
私の体を取り巻く管を壊さないように
ゆっくりと起き上がる。
陽射しが眩しく、また目を閉じそうになる。
足元には私にそっくりな目元をした2人の男女。
これでもかというくらい泣いていて
私は少し申し訳なく思った。
ああ、何も思い出せない。
思い出せるのは
私の英雄の冒険と
私の名前だけ。
ふと、手元にあった物に手が当たる。
なにかの、アルバム。
開いて一番
目に入ったのは幼い少女の写真。
私はこの顔を さっきまで見ていた気がする。
泣きじゃくる男女の
女性の方が私の名を何度も呼ぶ
あの場所で見た
小さなてんしの名前は。
私の、名前は。
てんし