みだれ髪
一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。きょう一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮したい。
Osamu Dazai
(19 June 1909 – 13 June 1948)
蟲の音にモクレンがふと目を醒すと、外はまだ夜の闇に包まれており、裏山の方から吹く物憂げだが涼しげな夜風が、寝乱れ姿の身体に酷く心地良かった。
枕元に置いてあった四国八十八箇所寺院名入りの手拭いで額に薄らと浮かんだ汗をそっと拭いつゝ、闇に慣れ始めた両の眼で辺りを見渡すと、本来なら居る筈の黒曜の姿が無い事に気が付いた。
喉でも渇いたのだろうか。
そんな事を考え乍ら畳んだ手拭いを青紫色の浴衣の中へと収めたモクレンは、猫が動き出す時よろしく、むくりと寝床から立ち上がるや否や、仄かに光り輝く螢火を想わせる廊下の薄明かりを頼りに、細長い廊下を台所へ向けて、スタスタと歩き始めた。
すると案の定、台所の扉の隙間から琥珀色の灯りが漏れており、同時に醤油の香りがモクレンの鼻腔をそっと擽った。
そろそろ来る頃だと思っていたら、案の定だったな。
相手を驚かさぬ様、ゆっくりと扉を開けて台所へと足を踏み込むや否や、浴衣の袖を捲った黒曜がモクレンに対して背を向けた儘、ひと言そう言った。
巌流島の決闘じゃあるまいに、もっと色気のある科白が言えないのか。
座椅子に腰掛けたばかりのモクレンが、呆れ顔でそう述べると、黒曜はすかさず、色気より食い気のお前様にそう言われようとは、こりゃ一本取られたわい、と言って大層快活な笑い聲を二人きりの空間に響かせたものだから、モクレンは益々呆れ顔を浮かべる他無かった。
で、何を拵えているんだ、こんな時刻に。
柱の壁掛け時計は午前二時をちょっと過ぎたばかりである。
なあに、一寸した「お通し」さ。
さ、出来たぜ。
漸くモクレンの方へと振り向いた黒曜が、朱色のお盆に載せて漆塗りの座卓へと運んで来たのは、豆腐の上に山葵と長葱を添え、其処に少々の醤油を垂らした冷奴、サーモンに輪切りにした玉葱で拵えたカルパッチョ、トマトのチーズ焼き、ハムサンド、と言った「お通し」と表現するには大層豪勢な品々達であった。
流石は小料理屋の小倅、褒めて遣わすぞ。
モクレンが軽く舌舐めずりをすると、黒曜は料理を添えた器達を一品、一品丁寧に並べ乍ら、呑み物、麦酒で良いか、と質問をしたので、モクレンはひと言、うん、と返事をするなり、其の場で大きく背伸びをした。
おい、此れ、料理は一人分しか無いみたいだが、お前は何も口にしないのか?。
焼き鳥を一袋平らげたからな、拵える前の腹拵えと称して。
麦酒をはじめとしたアルコール類を嗜む際のグラスが収納されている、黒柿色した食器棚の中から麦酒用のグラスを二つ分取り出した黒曜は、其の足で冷蔵庫へと向かい、ガチャリと言う音を立て乍ら冷蔵庫の扉を開けるなり、身体にひんやりとした空気が纏うのを感じつゝ、ふと気が付けば最後の一本となった麦酒瓶を一本、グイと掴んだ。
なんだ、つまらん。
折角の酒宴だ、酒盛りだ。
お前も付き合え。
態とらしくモクレンが小泉八雲の『耳なし芳一』の説話で御馴染みの赤間関の河豚の様に顔をぷくりと膨らませると、黒曜は黒曜で態とらしげな困り顔を浮かべつゝ、如何も昔から其のひと言に弱いなァ、俺は、と呟いてから、先週末、近所のホームセンターに於いて購入をしたばかりの真新しい栓抜きをお盆の隅へとちょこんと置いた。
畏まりました、御姫様。
今宵はとことんお付き合いいたしましょう。
文字通り、お気の済む迄。
よく言った。
其れでこそ我が家の奉公人。
易者曰く、前世からの長いお付き合いだそうですからね、我々の場合。
麦酒瓶から滴り落ちる雫が左の掌をぬるりと濡らす中、慣れた手付きで麦酒瓶の栓を抜くと、先ずは一献、と述べたのち、モクレン用のグラスへ向け、麦酒を注ぎ始めた。
意外だな。
占いなんぞに興味があったとは。
トクトクトク、と言う独特の音を立て乍らグラスへと注がれる麦酒へ向け、愛らしい猫の瞳を彷彿とさせる眼つきで視線を向けたモクレンが言った。
横丁の若旦那と子供達の着付けを手伝った際、まあ偶には、と誘われてついフラフラと。
横丁の若旦那とは、元は鎌倉以来の武家の出自であり、御一新の際に質屋へと鞍替えを試みたのち、現在は名のある企業家として知られる北大路家の長男坊である所の北大路実篤の事で、モクレンは黒曜と同じく、物心ついた頃から彼の事を「御家来衆」の一人として扱っていた。
つい、フラフラと、か。
そう言えば幾つになるかな、若旦那の所の子供達は。
長女が七つ、長男が五つ。
育ち盛りだな。
着付けが終わった後で西瓜を御馳走になったんだが、こんなモノ屁でもねェ、と言わんばかりにペロリと平らげていたぜ、あの二人。
健康優良児じゃないか、其れも立派な。
あゝ、丁度お前〈め〉ェみてェにな。
莫迦にして。
はっはっは。
悪ィ、悪ィ。
黒曜は自分の分のグラスに麦酒を注ぎ終えると、静かに瓶を其の場に置き、乾杯をする為にグラスをギュッと握り締め、モクレンへ向けてニカっと笑みを浮かべた。
そんじゃ気を取り直して、乾杯。
乾杯。
喉がすっかり渇いていた事も手伝って、モクレンは一気にグラスの中の麦酒を呑み干や否や、何も喰わずに呑むと身体に毒だぞ、何か取って来い、冷蔵庫の中から、と同じくグラスの中の麦酒を一気に呑み干したばかりの黒曜に「命令」をした。
あいあい。
実に軽い返事と共にむっくりと座椅子から立ち上がった黒曜は、冷蔵庫の中へと今一度顔を突っ込むと、隣町の業務用スーパーに於いて何の気無しに購入をしたクラッカー、チョコレート味の菓子パン、そして自身の手で既に刻んである檸檬〈レモン〉が盛り付けられた大皿を其々一つずつお盆へと載せ、席へと戻って来た。
取り敢えず、こんな所から。
座椅子に腰掛けた黒曜は、氷菓子でも頬張るかの様に大きく開けた口へ向け、一掴みした檸檬を運んでガブリと齧り付くと、其れを口の中で咀嚼し乍ら事前に用意をしていた藍色の御手拭きで軽く手を拭いたのち、モクレンのグラスへ、そして自身のグラスへと、二杯目の麦酒をサッと注いで、もうひと口檸檬を齧った。
黒曜にとって檸檬は単なる好物と言うだけでは無く、自身に此の家の奉公人としてのイロハを徹底的に叩き込んでくれた今は亡き大番頭の梶井錬三郎が、自身への「御褒美」として良く食べさせてくれた果物で、モクレンは其の辺りの事情を良く知っている事もあってか、黒曜が檸檬を齧る姿を垣間見たり、或いはこうしてアルコールで喉を潤しつゝ、まじまじと見つめたりする際、矢張り此奴も人の子なのだ、と言うのをひしひしと感じるのであった。
さっき、子供の話が出たが、お前は子供が好きか?。
育ちの良い家柄の人間らしく、迚も丁寧な箸使いで冷奴を頬張り乍ら、モクレンが質問をすると、嫌いだったら、習字の先生の仕事を引き受けたりなんざしやしねぇよ、と呟くなり、今度は塩っけのあるモノが欲しいと言わんばかりに、クラッカーの入った箱をビリビリと開け、袋の中から取り出したクラッカーを半分程齧った。
黒曜の言う所の習字の先生の仕事とは、山小路実篤同様、黒曜の悪友である志賀風太郎が経営をする学習塾に於いて、家柄も異なれば年齢も異なる総勢十五名の童達を相手に、習字を教える仕事の事で、最初はほんの「手伝い」として顔を出していたのだが、ふと気が付けば童達にすっかり懐かれてしまい、同時に親御さん達からの評判も良い為、とうとう本採用となったのだった。
で、お前の方は如何なんだよ。
勿論嫌いじゃないさ。
モクレンはモクレンでダンスは勿論の事、日本舞踊の稽古場に「講師」として顔を出す事がある為、子供に対する距離の取り方、接し方を知らないと言う訳では無かった。
安心したぜ、其の言葉を聴けてよ。
もう半分のクラッカーを齧った黒曜は、麦酒と一緒に其れを流し込むと、歌留多〈トランプ〉の山札から一枚カードを取る様にクラッカーを手に持つや否や、バリっと音を立て乍ら先程と同様に半分程齧ってから、ニコリと笑ってみせた。
寿限無なんて名前は御免だぞ、幾ら縁起の良い名前だからって。
其処迄しやしねェよ、幾ら普段から信心深けェ生活を送っているからって。
洒落がキツいぜ、御嬢さん、と言わんばかりの笑い聲を響かせた黒曜は、新しいクラッカーを持った右手をモクレンの方へ向けてグイと腕を伸ばし、ほれ、あーん、と其れをモクレンの口の中へと運んだ。
尚、黒曜が信心深い生活を送っていると言うのは嘘偽りの無い真の話で、やれ朝餉の用意だの、やれ掃除だの、やれお使いだのと言った細々とした朝のあれやこれやを済ましたのち、「其の日一日を無事過ごす為の習慣」だと称して此の屋敷から徒歩で凡そ十分程の距離にある『京極寺』なる寺へと向かい、自身と同年代、又は歳下の坊主達に混じり、時間にして凡そ三十分みっちり経を読み、残りの三十分は写経をこなす、と言うのを、物心ついた時から今日に至る迄こなしており、飽く迄も頼まれれば、ではあるものの、矢鱈高性能なマイクを前にして、名のある檀家衆、本物の坊主達を相手に「説法」まがいの話をこなし、『京極寺』が行う季節の行事は勿論のの事、慈善事業にも「運営側」として率先して顔を出していると言った事も黒曜本人の性格上、ホイホイと引き受けている為、人によっては「本物の坊主よりも坊主らしい」とさえ評する程なのであった。
ま、いざとなったら大旦那様に名付けて貰おうぜ。
とは言え、其の為には「頑張らねェ」といけねェ事をしっかり「頑張らねェ」といけねェ訳だが。
此の助平。
全く以て御大層な黒曜の笑みに対し、自身の母の家系に良く似て、迚も良く形の整った耳をほんのり紅葉色に染めたモクレンは、痴れ者と言わんばかりにそんな言葉を黒曜へとぶつけてから、虎が獲物を喰らうが如く、最後のひと口となったハムサンドへ勢いよくガブリと歯を立てた。
お若ェの、お待ちなせェ。
そう早合点しなさんな。
此処で言う「頑張る」たァ、世間様に対する顔向けも含めた彼れや此れやの事だぜ。
だったら最初からそう言えば良いだろうに。
仰々しい物の言い方をして。
こちとら憚り乍ら、講釈師サマの血を引く家柄の御生まれだぜ、仰々しい物の言い方は其れこそ専売特許ッてモンよ。
ったく、お前には敵わん。
ハムサンドを麦酒でグッと流し込んだモクレンは、早くもう一杯寄越せ、とでも言いたげに、空になったばかりで残った白い泡が仄かにグラスの底へと滴り落ちる空のグラスを黒曜に突き出した。
其の科白、そっくり其の儘、御返し致しまさぁ、其れも熨斗〈のし〉を付けてね、季節の外れのサンタさん。
モクレンのグラスに残りの麦酒を凡て注ぎ終え、空になった瓶を脇へと置いた黒曜は、瓶を持っていた右手で手拭いを持つや否や、モクレンの鼻の下迄そっと其の手を伸ばし、モクレンの鼻の下に付着をした、文字通りサンタクロースの御立派な白髭の様な麦酒の白い泡を綺麗に拭き取った。
お前もつくづく果報者だな、こうやって私の世話をする事が出来て。
半殺しか?。
他の奴なら。
試してみるか?。
其の質問にゃア、相撲の番付とだけ答えさせていただくぜ。
ふふ、御免蒙ると言う訳か。
そうそう、分かっていらっしゃる。
伊達にお前の「講釈」に付き合って「やっている」訳じゃ無いのでね。
そう易々と舐めていただいては困る。
其れを指し示すが如く、黒曜の前で堂々とそう宣ったモクレンは、黒曜が手渡した開封済みのクラッカーを受け取るなり、『セサミ・ストリート』で御馴染みのクッキーモンスターよろしく、乱雑な手付きでばくばくとクラッカーを食べ始めた。
軈て二人は一つの料理を半分こして平らげると、偶には手伝ってやる、と言うモクレンからの「ご綸旨」の下、食器洗いだの、拭き掃除だのと言った細々且つ汗を掻く作業を二人三脚でこなし、今度は縁側に腰を掛け、星を眺め乍ら二人きりの時間を過ごそうと言う話になった。
此処の所、何やかやと忙しく過ごしていた所為だろうか、こうしてじっくりと夜空を眺める事が随分と久し振りな気がしてならない。
つい先程、呉須色のサンダルをつっかけ、食後の運動とばかりに屋敷の直ぐ側に設置された自販機へと赴いた黒曜が購入をして来たばかりの、封が開いた麦茶のペットボトル片手に、じっと空を眺めていたモクレンがそう呟くと、広さざっと八畳の仏間から持って来た蚊取り線香に自前の燐寸で火をサッと灯した黒曜は、夜風に煽られた燐、蚊取り線香の匂いが自身の鼻腔を擽るのを感じ乍ら、流石晴れ女、と述べ、ゆらゆらと揺れる燐寸の残り火で咥え紫煙に火を点けた。
今日も晴れだろうな、此の分だと。
麦茶で喉を潤したモクレンは、キャップを締めたばかりのペットボトルを脇に置くと、良く切れる事で評判の果物ナイフを使い黒曜が刻んだ青林檎を一掴みすると、其れをむしゃむしゃと食し始めた。
明日は墓参の日だったな、そう言えば。
墓参とはモクレンの母方の曾祖母である正岡千代の月命日に行う墓参の事で、墓参の際には千代の好物だった栗饅頭を供えるのが二人の中に於いてある種の暗黙の了解であった。
花はもう既に購入済みですから御安心を。
黒曜はモクレンの側に腰掛けると、居間から持って来た星の光を浴びて鈍く光る陶器で拵えた備前焼の灰皿を自身の方へ引き寄せ、燐寸の燃え殻を放り込み、ゴツゴツとした形をしてはいるが、いざ触れてみると、案外柔らかな指先に挟んだ紫煙の灰を、雨粒の様にポツポツと垂らした。
尚、千代はモクレンがダンスの世界に足を踏み入れるキッカケを与えた人物で、近所に於いても粋なモダン婆さんとして良く知られており、黒曜は黒曜で其のモダン婆さんの鞄持ちを務め乍ら色々な事を学んだと言う経験を持っていて、今こうして紫煙を嗜む様になったのも、根っからの愛煙家であった千代の背中を見て育ち、すっかり感化された事が切欠であった。
花と言えば、正岡のお婆様は良く生け花を為さっていたっけか。
正岡家の伝統だからな、華道と茶道は。
そしてお前は其の伝統に巻き込まれた、と。
モクレンはクククッと喉を鳴らし乍ら微笑してのけると、黒曜が差し出した青林檎にぱくりと齧り付き、麦茶と一緒に流し込んだ。
最初〈ハナ〉ッからそう言う腹積りだったらしいぜ、正岡のお婆様と大番頭さんとの間では。
其れ位、可愛かったと言うべきか。
無知蒙昧も甚だしいと感じたからか。
ま、いずれにせよ悪い経験じゃア無かった事だけは確かだったな、数え切れない位叱られた回数の方が多かったとは言っても。
照れ臭いと言わんばかりに左手を自身の後頭部に持っていった黒曜は、実にあからさまな「くれてやる」と言う態度でモクレンが差し出した青林檎に餌を与えられた猫よろしくかぷりと齧り付くと、否が応でも口の中と常日頃、深い深い所に押し込めて、ひた隠しにしている胸の奥底が甘酸っぱい気持ちで一杯になるのを感じた。
モクレンの眼には其の様子が随分と芝居がかって見えたらしく、今一度クククッと喉を鳴らしてのけるなり、男は何時でもトム・ソーヤーとハックルベリー・フィンってか、と誰に言うともなく呟き、甘えたがりな時の猫よろしく黒曜に近付いた。
そして其れがさも当たり前の行為なのだと言う様に其の場に於いてゴロリと寝転がるや否や、黒曜の膝に頭を乗せ、下から黒曜の顔をじっと眺めた。
寝心地の方は?。
世間様で申し上げる所の「突然のデレ」に対して、こそばゆい気持ちを抱いた黒曜は、味の薄れた紫煙を揉み消し、キリリ、と言う独特の音を立て乍ら、まだ未開封だった自身の麦茶のペットボトルの封を切り、甘苦い香り漂う口の中を優しく潤した。
ひんやりとしていて気持ちいいぞ、其れも大層。
何処で如何憶えたのか傾城〈けいせい〉の様な表情を浮かべたモクレンは、黒曜の膝へと手をやり、ペタペタと叩いた。
其れを見た瞬間、黒曜の頭の中には嘗て悪友達と共に映画館で鑑賞をした、『世界三大美女』で御馴染みの楊貴妃を京マチ子が演じた溝口健二監督作品『楊貴妃』の事を思い出さずにはいられなかった。
取って喰っちまうぞ、そんな小悪魔みてェな顔〈ツラ〉ァするんだったら。
穏やかな顔付きの鬼子母神の描かれた団扇片手に、韋駄天よろしく、モクレンの方へ顔を近付けて来た黒曜がそんな風な言葉をサッと口走ると、望む所だが、とモクレンは返事をし、孔雀が羽根を広げたかの様に美しい指先で黒曜の顎をそっと撫でた。
そして思い切り黒曜の顔を自身の顔へと近付けるや否や、一生涯、お前は私のモノだと言う事を再認識させるが如く、唇を強く押し当てたのだが、其の瞬間、ぽっかりと浮かんだ雲が星あかりを上手く遮った。
モクレンが新しい生命を自らの身体に宿したのは、二年後の暑い盛夏の頃の事であった。〈終〉
みだれ髪