東北へ
身体を悪くしてから人と会うことがめっきり減って、生活にメリハリがなくなった。心情につやがなくなり、毎日に刺激がないので、ただ凡庸に過ぎていく感じがしていた。人との出会いと、読書というのは、相補的なものであり、どちらかが一方が欠けると、途端に精神は平衡感覚を失い何か鈍重になっていく気がしていた。飲み屋に行ったり、バーに行ったり、たまに関係を持ったりしていたあの日々を少し懐かしく感じることもあったが、そんな環境から離れてみてしばらくたつと、ほとんどの過去は忘却の彼方に追いやられて、多くの経験はもう二度と思い出すこともなく自分の意識下で死ぬまで眠り続けるのだろうと思った。
あの経験はなんだったのだろう。自分には不似合いであった。明らかに自分には遊ぶ才能もなかったし、いつも何か無理をしていた。無理をするというなら仕事も同じではないか。そうなのだ。仕事も遊びも義務にすぎなかった。どれもこれもくだらない。すべては出来損ないの茶番であり、何もかも質の悪い冗談にすぎないらしい。しかし、冗談でも作り事でも、人間は懸命にやり抜こうとする。すべてはくだらないと悟った気になってもしかたがない。くだらないのだが、それらの馬鹿げた事象にどのように意味づけをしていくかが生きることなのではないか。
俺は何をこんなくだらないことを考えているのだろう。健康であれば、今でも飲みに行って、楽しむこともできたのに。もうすべてが終わったことだ。きっとこうなる運命だったのだ。やはり、自分にはこうやって惨めな孤独がふさわしいように思われた。あんな華やかな場所は俺には不釣り合いだったのだ。思春期に身についた性分から脱却しようとすると、とんでもないしっぺ返しがくることを改めて学んだ。このまま冴えない感じで自分は生きていこうと思った。どうせなら、趣向を変えて旅行にでも行ってみるか、と哲也は思ったりした。
そう言えば、ここ十年ほど旅行というものから遠ざかっていた。平日は仕事で忙しく、休日は何やら予定を入れて、無理にでも誰かと会うということのくり返し。いつも自分を急き立てているだけで、中身はなかった。驚くほど空虚な日々を生きてきたことに愕然とする。どこからこの悲劇ぶった喜劇が始まったのだろう。初めの心がけがよくなかったから、このような状況に陥っているのだ。過去を振り返ってみても、責任は自分にあることばかり浮き彫りになる。
今も昔も過去から逃走しようとする姿勢は強固であった。この姿勢を崩さないと、自分は何も変われない。だから、旅にでも出てみよう。今までは若気の至りで張り詰めて深刻ぶっていたからよくなかったのだ。世界の中心に自己がいるという傲慢な考え方でい続けると、いずれは制裁を食らうということを身をもって知ったのだ。しかし、過ちを繰り返すという習性から抜けきるのは難しい。そうだ、思考しなければいいのだ。無駄に思考を走らせると、欲が湧きたってくる。思考から離れればいい。そのためにも田舎に行って自然にでも触れてこよう。少しは何かが変わるかもしれない。胡散臭い理屈で自分を納得させた。さあ後はどこへ行ってみるかだ。
哲也はなんとなく東北の方へ行ってみたいと思っていた。関西出身で就職で上京してきた哲也にとって、東京から向こう側の地は未知の領域である。なんとなく人生に疲れた人間は、南よりも北の方へ行きたがるという心理はあるのかもしれない。よくわからないが、北へ行ってみようと思った。稚拙な感慨が哲也の胸に湧き上がってきた。そうだ、東北だ。そこへ行けばきっと何かが変わる。とはいえ、哲也はろくに東北のことについて知らないのであった。ネットで検索してみて、どのあたりが自分に適した観光地なのか、調べてみようと思った。
東北へ