百合の君(20)
標的は、一歩一歩確実に近づいていた。冬の日は早くも傾いて、伸びた影が、既に罠にかかっていた。
園はごくりと唾を飲んだ。天蔵と冬彦を見る。冬彦も目だけで視線を返す。その目が、もう待ちきれないのが分かる。走り出そうとするのを、園は手で制す。天蔵は、空を見ている。何かあるのかと思って確認すると、薄い雲がかかっているだけだった。風が入って来る。しかし、園は全く寒さを感じなかった。
納屋は静かだったが、外からは牛の声がするし、距離もあったので、標的の足音までは聞こえなかった。しかし、まっすぐ罠に向かっている。園は早くも成功した後のことを考え始めた。すぐに出て行って、大声を出す。すぐに出なくてはいけない。天蔵にも、冬彦にも負けてはいけない。いつの間にか頭が出てしまっていたらしい、冬彦に襟首を引っ張られる。
ふーっと吐く息が、やけに大きく聞こえた。納屋の暗闇が、頼もしく感じられた。できるなら心臓を預けてしまいたいくらいだ。
てんぞー、冬彦の声がする、おまえはさけばなくていいぞ。
園はその声にというより、それによって変わってしまった空気の密度に驚いて、振り向いた。
天蔵が大声で返事をしそうになったので、冬彦は慌ててその口を塞ぐ。言い訳するような、あるいは共感を求めるような視線を送って来たが、園は頷きもせず、視線を標的に戻す。
あと三歩。罠の位置を確認する。が、離れているし巧妙に隠しているので、よく分からなくなってきた。あと三歩、くらいのはずだ。とにかく分からなくなっても、タイミングよく飛び出せばいい。
あと二歩、くらい。標的の足元には、特に変化はない。こんな時なのに、さっきの冬彦を思い出す。
「お前は叫ばなくていいぞ」
まるで年貢や兵役といった義務を伝える侍のような口ぶりだった。天蔵を対等な仲間としてではなく、明らかに格下の存在として扱っている。そのくせ、園を見た時のあの目。あれは侍に対する百姓の目だ。園は本能的に、それを嫌悪した。あんな顔にだけは、一生なりたくないと思った。
あと一歩。頭から冬彦と天蔵を追い出そうとする。じれている。園は自分が何を待っているのか、分からないような気になってきた。
あと…。思う前に、膝が動いて飛び出していた。
百合の君(20)