海辺

 真夏の炎天下の昼前あたりであった。路上から砂浜へと降りる階段のところに腰かけて、浩一は海を見ていた。晴れていたので水平線までよく見えた。波の音がくり返し耳に届き、全身が音に慣らされていく心地であった。日差しが少し強い。おそらく旅行から帰ったころには、日に焼けているだろう。連休が終わって出社したら、何か言われるかもしれない。海の色は水色であった。浜から遠い領域の水平線辺りは青色をしていた。深さによって変わるらしかった。

 浩一の頭の中では、最近の自分の身に降りかかったもめ事や災いが、堂々巡りをしていた。人間関係というものは厄介だった。少し謝れば済むことでも、先延ばしにすれば、タイミングを見失い、もうどうにもならなくなっていく。他にも色々と後悔が廻った。心中には灰色の斑点がいくつかあり、それらが次第に領域を広げて、心の色を薄暗く汚していく気配を感じた。目前に広がる景色に比べると、心の方はまったく穏やかではなかった。今はそんなことはいいから、静かに海を見ようと思っても、なかなかそうはいかない。せっかく面倒なことを忘れるために、遠くまでやってきたのに、広大な場所に身を置くと、却って日常の些末なことをいくつも思い出すように、理性が働きかけてくる。しかし、そうはいっても、いつもの町並みで思いめぐらすのとは、また違う感慨をもたらす点は否定できなかった。やはり海に来てよかった。そういうことにしておこう。

 遠くの方で悲鳴が聞こえた。声が聞こえる方に目をやると、女性の二人連れがいるらしかった。ここからは二つの点くらいの大きさでしかなかったが、悲鳴はよく響いた。波が足にかかったらしい。両方の点が少し動いて、また何やらお互いに近寄ったり遠ざかったりしていた。浩一の座っているところは、木陰のある個所なので、日照りが強くても、ある程度耐えることはできた。

 この旅行が終われば、また日常が始まる。際限のないくり返しが続く日々の中で、ほんの数日だけ趣のある情景を伴った記憶がさしはさまれることになる。日常に帰れば、何も変わらない。今目の前の景色もすべて忘れ去られていく。記憶が彼方に溶け込んでいく過程は、骸が土に帰っていく様と似ているのかもしれなかった。浩一は、この景色を目と耳に焼き付けようと思った。もう少し、気温が低ければいうことはなかったのだが。非日常に身を置いたときにこそ、なぜか日常を強く噛みしめる現象に、何か心理学的に名前でもついているのだろうかと、少しめんどくさいことを考えたが、波がそんなうるさい思考をさらっていってくれた。それにしても、波を見るという行為には飽きが来なかった。次第に大きさを増すうねりはこちらに迫ってきながら、ある段階に来ると白いしぶきをあげて砕け散っていく。これだけの現象がなぜここまで感情をそそるのだろうと浩一は不思議に思った。自然界のくり返すリズムが云々などと言って、それなりに様になる詩的表現はつけられるだろうが、そういうものを持ち出すのは気が引けた。

 波が普段の生活で形骸化している経験や、どんよりとした人間関係の行き詰まりに、新たな意味づけをしてくれたので、少し憑き物が取れて身軽になったような気分を浩一は感じた。一人のおじさんが、砂浜からこちらに向かって歩いてきた。浩一の前で足を止めてヒスイを拾ったといって、わざわざ見せてきた。浩一は愛想笑いをして、少し驚いた表情をしてみせた。このあたりはヒスイの取れる海岸らしく、少し離れた場所では親子連れがたくさんいたが、浩一のいる場所は人の影はまばらであった。浩一はヒスイには興味がなく、ネット上で見た海岸の画像がきれいだったので、今回の旅行先にこの地を選んだだけだった。

 浩一は眼鏡をはずしてみた。海の水色と、浜あたりに広がる石の色と、茂る草木の緑色と、自分が座っているあたりの階段と路上の灰色がぼやけていい感じで混ざり合った。少しだけ周囲の世界を受容できる心持になった。裸眼で見える世界は、心を落ち着かせるものだった。海からの風を受けた浩一は、もう少しここにいようと思った。

海辺

海辺

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-09-05

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