ループ小説、そして夜は明ける
My novels are over and over again, but they are encountering daybreak.
夜、老人は酷くうなされていた。日の出とともに冷や汗を拭いながら目覚めても、未だうなされていた。夢は鮮明に老人の脳裏に染み付いている。とはいうものの、実は老人が見ていたのは夢ではなく、遠い記憶である。何度も、そう何十、何百と同じ映像を再生してきた。
鈴木秀和、高校一年生の夏、祭りの夜。トラックのヘッドランプが目映く明滅して、少年を赤く染め上げている。視界の左右には行楽の群衆が、混沌としたノイズを発して、一体のものに注目している。彼らが眼で刺す先には、円盤状に広がる血溜まりの中に、瞳を虚ろに開いて倒れる浴衣姿があった。彼女はこちらを見ていたのかもしれない。何もかも老いぼれた今となっては定かではないが。散々なサイレンが徐々に大きくなっていくところで、いつも老人は目を覚ます。
彼女というのは、斎藤香菜である。秀和少年にとっては、幼馴染と云える存在で、夏祭りの日も途中まで一緒に居たはずだ。当時においては、家族よりも大切な、尊い存在、と思っていた節がある。けれど、彼女が血を流して倒れているのを見て、泣き出したり、目眩気味になったりした憶えはない。むしろ、あっ死んでいる、という薄情な実感のみであった。――ところが老人は往生際、悲壮の絶頂へと達していた。彼女の顔が、老人にはどうすることもできない、たった一つの魂が、癌となって彼を蝕む、それが老人の死期を早めている、といっても相当のようだった。
「一生の、トラウマ」
老人には理解っていた。その一生というのは息絶えるまでではない。もしもこのまま息絶えて総て済むようならば、今頃老人のマインドは安らかな方へ向かっていただろう。彼には、香菜をみすみす死なせたというトラウマが、真っ暗闇に揺蕩うことになろうと、構わず付き纏うであろうことが潜在的な確信としてあった。
窓から寝室を仄明らめる光が、彼の頬の水滴に反射した。窓際の花瓶をふと見ると、かつて生けられていたものは、すっかり木製台の面を塵で覆い、茎すら瓶の縁に凭れている。老人は口内に不快な感触をおぼえた。――苦みのような、繊維のような。部屋を見渡せば、光の粒子が流れ落ちていた。よほど、埃は積もっている。
老人は気付く。数日、あるいは数週間、自分は寝静まっていたのだと。何度か同じ経験をしていた。老人の記憶では、花を飾ったのはつい昨日のことである。目の前の花瓶には、それが何の花であったのかを知る由もない程に枯れ果てた植物が入っている。老人の憶えているかぎりでは、あれは紫色のスイートピーであった。
その時、老人を睡魔が襲った。意識こそしていなかったが、外では蝉がひっきりなしに鳴いている。それは子守唄のよう。または、反復する音に朦朧としたか。いずれにせよ、老人の意識は、淡く青い窓から遠のいていく。布団の温もりへと、沈んでいった。
夕暮れ、静まった寝室、老人の横たえた体を白い霧が包んだ。
老人はまた、同じ夢に冷や汗を滲ませた。
老人の眠る部屋は、徐ろに仄明らんでいく。窓からの光が光度を波打たせ、だんだん赤らみ、最期は堕天を迎えた。老人こそ目撃していないが、地上の一切を影絵へと変貌させる夕の瞬間は、最期の花火の破裂と同じくらい、まさにその日中で最も強い光を放っていた。ただ老人が目蓋を刺す光線に反応を示すことはなかった。冷や汗は束の間――枯れた。
「お疲れさま」
夜半を迎えた時刻、老人の耳を誰かの声が掠めた。寝耳に水を掛けられたように、老人は咄嗟に開眼し、体を起こす。不精ひげに覆われた口元を程々に使役した。
「僕の、身を、案じてくれたあんたは――ああ、さては使徒であるな。さて、僕はもう死ぬのだな」
老人は俯いて、思索する。
謎の声の主が、埃と月光とで、霧のように白む書斎の隅の方から、ふわりと顕現した。
「残念、神様は生憎不在、というより元々居なくてね。私は使徒ではない、謂わば傍観者だよ。君を、この先に導くという意味では、使徒と似たものかもしれない。何せ、君は死ぬ、というかもう既に死んでいる。ほら、部屋を見廻してごらん」
老人は言われるがまま、首を右、左に動かした。
「――もう夜だったのか」
「うん」
声の主はそのまま老人に見つめられた。暫くして、老人が訝しげに言った。
「ガヤ...聖書か」
「――へ?」
「お前は、ずっとそいつに宿って、僕を観ていたのか」
老人が視線を投げる先は空中である。そこに、本来は書斎にしまわれているはずの新約聖書が、文鳥みたいに飛んでいるのだ。本の表紙からは、どこから現れたのか、一つの目が瞬いたり、眼球を回したりして、老人をまた見つめているようであった。
「そうだなー、二十パーセント正解。君は、私がずっとこの本に宿っていた、と言ったね。たしかに、今はこの本を媒体として、君と接触している。けれど、今だけだ。普段は、君の想像可能な視野よりもずっと遠くから傍観していたんだ。君が、この世界に意識を抱いた瞬間からね」
「ふーん、そいつは面白い超常現象だな」
老人は感慨に耽るように、机上の貝の小物の方を向いた。
「あー、君、どうせ走馬灯だ、とか決めつけているでしょー」
「...当たり前だ」
老人の背はすっかり丸まっていた。図体に対して大きすぎるセーターは皺だらけである。掛布団の上で固く組まれた手は――指先まで黒い汚れの一つない。ただ威厳を魅せるがごとく、口元を隙間なく噤んでいる。それが、石膏像のように動き出す。
「お前は、僕がもう死んでいると教えてくれたな。最期とともに訪れるという三途の川がこう・・なのか、と考えると、そうだな、胸がすくって具合だ。得体の知れないガヤと駄弁って終わるとはな」
「ガヤって何だよ」
「お前のことだよ。傍観者なんだろう?」
「――まあ、いいや。神様が居てくれた方がよかったかい?」
聖書に宿るそれ・・が訊くと、老人は埃まみれの机上の、長方形に机の木面が露わになっている部分に手を伸ばした。
「居ても居なくても――そいつが僕に恵んでくれるものが果たしてあるのか、というと、期待はできないな。僕には他人に自慢できる徳がない。生き恥を晒し続けて、いっそ首を括ろうかと――いや、天国がないのだったら、無意味だ。――これで、よかったんだろうな」
「だったら、君の人生は、満足のいくものだったのかな」
聖書に宿るそれ・・は、からかうようなやんちゃ声で、老人に迫った。
「...はあ。――知っていて、総て観ていて言っているよなあ」
老人は溜め息を吐く。
「あれえ、作家として随分稼いでいたじゃないか。勿論、文豪としての名声もある。肝心の万年筆は、インクが枯れたままみたいだけれど。社畜より、楽しい人生じゃないかい?」
「僕は社畜としての人生を知らない」
「君が言った通り、私は総て、そう総てを知っている。その上で、考えてみてよ。君にも、社畜として一生を終える人生があったかもしれない・・・・・・・・ってね。小説家だろう? 物語を創るのは本業じゃん」
「...会社勤めのサラリーマン。そういう人生を歩んでいた方が、まだマシだったと思うよ」
すると、聖書は老人の周りをあちこち飛び回りだした。
「そうだよ、君の今の不幸感はねえ、あらゆるパターンの中でも頭一つ抜けているんだよねえ。面白いのは、そんな君が、この世界で執筆した作品たちだよ。朗らかで多幸的な恋愛系ライトノベル。あれは駄目でしょー。読者はもれなく、君をそういう人だ・・・・・・と認識していたよ。君のどこに、そんな気力を生む源泉があるものか、なんて頭を悩ませたなー。観ている側としては、」
「ガヤ、一旦黙らないか? 最期に、嫌なことを次々思い出しちまう」
老人は地を震わすような低い声で言った。聖書に宿るそれ・・は「ごめんごめん」と軽い釈明をした。相変わらずの月光が、老人をピックアップしている。
「僕はようやく、苦行を終えて休むことができるんだ。今更、蒸し返すようなことを諭して、意地悪なものだな」
「そんなあ、言わないでよ。なあ、私はただのガヤじゃあないんだぜ。ほら、君のお仲間がさ、転生ものとか書いていただろう。私は、君にそれと似た体験をさせてあげることができるのさ。リスタート? ループ? まあ、つまり、君は特定の目的のために人生のやり直しをすることができる。言葉のとおり、誕生から大往生――大往生できるかは分からないけれど、もう一回、いや何度でも、君の目的が達せられるまで挑戦できる」
「――夏祭りの日、あの事故を、どうにかしろと?」
老人は怪訝な顔を聖書に向けた。
「それは、君次第さ。一つ補足すると、君が指定さえすれば、開始地点は任意の時間的位置になる。当然、このまま消滅したっていい。でも、もしかしたら、君の挙げたイベントを、君にとってより良い方向に持っていけば、少なくとも今よりは満足のいく人生を体験できるんじゃないかなーと思ったりもするんだよねえ」
「嫌味な言い方をしやがる」
「私にとっても、君にとっても悪くはない内容じゃないかい?」
「ガヤは何がいいんだよ」
「ほら、人間モニタリングってあるでしょ。あれだよ。見ていて愉快でしょ」
「...」
「さ、君の好きにしな。そして宣言したまえー。二つに一つだよ」
「...」
老人は聖書に一瞥を投げ、掛布団を押し離し、がらんとした花瓶に星光を落とす窓へと歩み寄った。彼の体は、青年時代ですら感じることがなかった程、まるで風に靡く便箋のように、老人の意思で制御しきれない軽さであった。
老人の額に影が射す。聖書に埋まる眼球は、まじまじと彼の姿を見つめている。
「――庭に出てもいいかな?」
「ん、私に訊いた? 好きにしたら。ここは君の家なんだから」
「いや、まあ。――じゃあ、行ってくるよ」
「...変なの」
老人はやはり、体の身軽さを感じた。その違和感は抱えたままに、老人の手で軋む音を響かせながら閉じられた戸の前にて棒立ちしていた。手持ち無沙汰で、足先まで震える想像が巡る。老人は心臓を隙間風が弄ぶのを感じていた。体内を暴れる野分は、記憶の遠くから、目につく限りのものを連れてくる。だが、嵐もほどなくして収まり、吹き残したもの――。
「僕は、死んだんだ。果たすべきことに一歩も近づけなかった、なんて後悔が付き纏うような、惨めな人生が終わった。僕は、このままこの家に居れば、何をしなくてもいいが、つまりもう何もできない――」
老人の体は、倒れようにも倒れない。向かいの木目が現れた壁を見るでもなく見ている。
老人は、特に足下に感じる違和感の正体に気付いていた。
老人には、すでに足首から下が存在しなかった。膝にかけては曖昧なものと化している。
撮影を終えたドラマのセットのような廊下を、腰の曲がった男が進んでいく。
夜空も庭も沈黙していた。これまで、これらに脈動を感じていたのが嘘のようだと、老人は呆気にとられていた。
住居の周囲を林が並んでいる。電柱が一本だけ見え、それはこの家に電気を送るがためのものであった。そういうことで、静寂なのはいつもの通りであったが――いずれも息吹は無い。
老人の額を、冷たい汗が滴った。
「――人生みんな、悪い夢だったのかもな」
「それは見当違いだよ」
老人は背後に、醜い声を聞いた。
「君は事実として、この世界に生きて、今もきっと憶えがあるであろう、数多の日々を過ごした。それらは決して夢ではない。その証拠に、君は何十年も前の出来事にすら、トラウマを抱えている」
声の主――聖書に宿るそれ・・は、光の斑点がぶちまかれた暗天を遮り、老人の前に現れた。
「私が君に与えた選択肢は二つあるけれど、君自身が選択することができる道は一つしかないのだよー。もしかしたら、勘違いしているかもしれないから補足するけれど、君がこのまま、この家で、何もしないというなら、君は消滅する。ただし、君のもつ具象的な形状体が消滅するだけで、魂――つまり、君の意識は、真っ暗闇の中に兀然と存在し続ける。するとどういう顛末を下るかは――ご想像の通りさ。君のもつ記憶は、夢物語じゃない。夢なら、いつかふとした瞬間に忘れてしまえるけれど。なあ、分かったかい?」
「...ガヤめ、催促がましく喋りやがって」
「私も、いつまでも君がこうだと、暇で仕様がないからさ」
老人は、果てなき銀河を眺めながら、思索する。――だが、たしかに、老人の現状のスキーマにおいて、辿れるルートはただ一つであるらしかった。所詮、もう一回、約八十年を生きるだけだ。忌まわしき事故も、未来を知っている状態なら、防ぐことなど容易である。もう一回、約八十年。老人の危惧など、ガヤに対するプライド程度のものであった。
老人は、銀河から視線を落とし、深く畳まれた皺でぐちゃぐちゃになった口元を動かした。
「ガヤの野郎。僕は、人生をやり直す。――本当に、戻れるんだよな?」
「うん、勿論。さて、いつに戻りたい?」
「僕が高校一年生だった時の、八月一日に戻しておくれ」
「――了解。くれぐれも、その、頑張りな」
「――ガヤのくせに、何言ってんだ」
老人はそう言って、自宅の方へ歩き出した。その途端、ほんのさっきまで夜空を眺めていた方向から、重量のあるものが草叢に落下するのが聞こえた。老人が確信的な予感に駆り立てられて、茂みをかき分けてみると、ちょうどフェンスの傍辺りに、夜の闇よりも真っ黒な文庫サイズの本が落ちていた。――表紙に金のインクで「THE NEW TESTAMENT」と刷り込まれた、本が落ちていた。
老人は徐ろに本を開いた。
「あれ、滲んでる...」
老人の知らない、紫黒の染みがあった。
僕とガヤの、死後の対談は、突如として途絶えた。それからのことは――夢だったのかもしれない。憶えが何もないのだ。
目覚めると、僕は白昼にリビングのソファーで横になり、白い天井を見上げていた。
目覚めると、僕は白昼にリビングのソファーで横になり、白い天井を見上げていた。
目覚めると――以下略。
目覚めると――以下略。
――以下略。
略。
略。略。略。略。――。
某日、晩秋らしく、歩道に死に姿が散らばっていた。息の詰まるような麗らかな空に見下されながら、僕は自宅の最寄駅から帰っている。
ひげを生やし、白髪が混じった、背の曲がった――老人。
横で付き添う老人が言った。
「秀和と居ると、青春時代を思い出しますなあ」
「まあ、あんたとはよく放課後に将棋を指して――いたっけな」
彼はすると「忘れん坊めえ、薄情なもんだ」と、添える程度の力量で僕の肩を小突いた。
「それにしても、久しぶりに顔を拝めた。秀和さんは、同窓会にも、旧友の葬式にも全く来られんかったからねー。斎藤さんの式場に現れるとは、まさか思ってもみなかったで」
この老人は随分と陽気な様子である。彼は中学校で知り合った頃がお喋りだったから、今もそうだということだろう。
「秀和は、なんで今日の式は来られたんだ? 斎藤さんと特別親しかったような印象はないのだけれど」
「...幼馴染だったんだ。校内でこそ接触は少なかったけれど、まあ、色々とあったのさ。親に頼まれたり、香菜の方からお願いされたり。何より――彼女、極度のヒステリックでね。結構、長い――間、面倒を見てやっていたんだ」
彼はトーンを落として「それはご苦労」と呟いた。冷たい風がひっきりなしに吹きつけてくる。
「...変なことを訊くが、いいか?」
突然僕が話しかけたことに、彼は若干慌てた素振りを見せたが、直ぐに「ああ」と答えた。
「秀和と儂も、会えるのはこれが最後かもしれないでな」
「じゃあ、さ、三郎は死んだ後、どうする?」
僕がそう言うと、彼は立ち止まり、宙を向いた。
「死んだ後、か」
ぶつぶつと単語だったりを呟く彼の頭上を、数匹の雀が小虫を咥えて飛び去っていった。
三郎老人は雀に触発されたのか、顔を上げた。
「多分、儂が考える間もなく、地上の何かに転生しているんじゃないかな。あー、願わくば、猫にでもして下されば、神さま仏さまー」
彼はそうして空を仰いだ。向かいの歩道に沿う電柱から、烏が鳴いた。
「神任せなもんだな」
「もうこの歳だ。縋るものがないと、とても正気では居られんよ」
三郎とは大通りで別れた。僕は帰る素振りをみせて、彼の姿が見えなくなるまで見送った。
僕は、その後の三郎の行末を知らない。
僕の自宅は山荘のような風貌をしている。母方の祖父母から譲り受けた住居で、それなりに気に入って住んでいる。そもそもの敷地が、住宅街にある一軒家の三倍はある。四方を林で囲って天然の壁にしているのもあって、近所の家並からは隔離されたような土地である。林は防音になる。虫や鳥が寄り集まる。朝から晩まで、この家は静寂に包まれるのだ。祖父母は、よくもまあほどほどに栄えた町のど真ん中で、こんな寂しい家に住み続けたものだと思う。祖父母だから、娘である母が独り立ちしていたので、二人きりでということだが、気まずくて仕様がなかったのではなかろうか。しかし、祖父母の生前、一度たりともそういう感情を受け取ることはなかった。さも笑い合う、天寿全う、この世に一点の悔いなし、という様子だった。いつもいつも、そうだった。もしかしたら、あの二人または片方が僕と同じように人生をループしていて、成れの果てがああいう生活だったのではないか、と考察したこともあったが、死者への冒涜みたいで馬鹿々々しくなって、その考えを捨てた。
僕みたいに、というのも変な話だ。不思議なことに、前世の記憶らしいものを時折脳裏に宿すが、想像の域を出ない。頭蓋の中の情景など、幾らでも構築できる。予想不可な事故から香菜を救えたのも、単なる奇跡だったのだろう。自動車の真っ赤なヘッドライト、小池に落ちる色とりどりの火の玉、群衆と虫の声。僕は浴衣姿の香菜を抱いて、ひんやりとしたアスファルトの上にへたり込んでいる。鮮明で嫌味な夏のある情景は、いつでも引き出せる。
ただ――子供みたいな変な話が、それで済まされないのは理解っている。僕には、香菜を事故から助けた夏祭りの日より後の今までの記憶が全くというほど無い。基本的な社会生活習慣や人間関係なんかははっきりとしているから、記憶喪失とは違うのだろう。記憶が無い、というのは語弊があるかもしれない。――時間が経つのが早すぎた。
「時間が経つのが、早すぎたな」
一人っきりのリビングでこう呟くと、キザっぽく聞こえる。だが、これは事実的なものだ。追懐に耽っているのではない。まさに、濁流のように時々刻々が過ぎた。人生をループしている。――これを事実として認めるには、充分すぎる〝被害〟に思える。
「被害って、何だろうな」
僕はブラックコーヒーを湛えるカップを片手に、縁側を眺めている。空がだんだんと煙ってきていて、庭の果てに見える林には闇が射していた。
斎藤香菜の逝去から三日。夏祭りの事故をきっかけに、忌み思われてから世間話すらしなくなった、幼馴染。なのに、香菜の訃報が届いたとき、嵐が去ったような、束の間の休息を味わった。香菜という人が僕にとってどのような関係値であったのか、思春期の心情は定かではない。ただひたすらに、惰性の執着を香菜という人に寄せていた、のかもしれない。休息感と執着心の根源を、僕は知らない。
――今後を生きるイメージが全く浮上しなかった。
「あっ、」
と、僕に幽かな声が上がった。
曇天に、まだ昼空が覗いている。
自動車が走り去ったらしい軋轢が辺りにそよいだ。
だだ広い庭が壊死しかけている。町の息吹は実感している。
――やっぱり、この家は祖父母には不似合いだった。彼らの最期が此処だったのかは親から知らされなかった気がするので分からないが、もし仮に、彼らが此の景色を眺めながら覚めぬ眠りについたのであれば、なんと可哀想なことであっただろう。
僕は、そういう景色を横目に、椅子へと凭れかかる。片手のカップを卓上に置いて、深く座り込む。
この部屋にあるレコードから音楽が流れ出すのを想像する。それはジャズだろうか。はたまた、クラシックか。ロックでも、何だっていい。僕は流れるメロディーに耳を貸さない。虫の音にでも喩えて、するとメロディーは子守唄として聞こえてくることだろう。
一人。
の、生活感と朗らかな想像で、僕は目蓋の重みに耐えられなくなる。
僕は――老人は、眠っていた。
小鳥の囀りに目が覚めた。
群青で飽和した際限のない天井に黒い影が飛び回っている。それは、底冷えの霧が立ち込める草原に怯えるようであった。
ドン。
――トン、トン、トン。
「すみませーん」
女性らしい、透きとおった声。
――おかしい。
――寝ぼけているのか? 整理したいことが処理できない。
――その声に、従いたくはない。
そんな、そんなはずはない。
僕は眼を擦って、椅子から腰をあげる。
裸足で木の床板を踏む音だけが反響している。
ステンドグラスが誂えられた玄関戸には、淡い人影があった。
「今、開けます」
玄関口には、十代くらいの少女が立っていた。少女――斎藤香菜だった。僕のよく知る、彼女の姿がそこにはあった。
――彼女のことは、よく知っている。
「僕はまだ、死んじゃいないよなあ?」
「...お邪魔しますね」
彼女は僕の発言など無視して、中に入る。
目眩がした。その脳裏に流れた情景は、はたして走馬灯だろうか。――此の世界に息があるか、ないかというだけだ。
香菜が珍しく中学校内で僕を呼び出したことがあった。放課後、数学の授業でのみ使う教室に茜色が射していた。
当時から、香菜は世渡りが上手い、という具合で、朝のホームルームから、部活を終えて帰宅するまで、必ず誰かに囲まれていた。美人だったのだ。外見も、人付き合いも。
香菜は教室の扉を力無く開けて現れた。
「ごめん、待たせたね」
「うん、待ったよ」
清楚な制服に身を包み、長い黒髪を風に靡かせる彼女を見ると、普段から自宅の付近で会うより、寒気がした。華の人を思わせたのだ。
僕は手の平を頭の裏にあてたり、後ろで組んだりと、忙しなくしていたので、彼女は僕の何かを察したのか、
「立ったまま話すのも変な感じだし、座ろう」
と、慌てた様子で教室に並んでいた机のうち二つを向かい合わせにした。
「そんな、面談みたいな」
「こうした方が、私には気楽なの」
「――わかんねえな」
別に椅子だけ向き合ったらいいだろう、と愚痴を溢しながらも、僕らは机を挟んで向き合った。彼女は目を細めて、ニコニコ笑っていた。寒気がした。
「ねえ、ひでー、私、死にたいな」
「ん...」
そんな笑顔で言われても、困るよ。僕が彼女の世話をしないといけない理由。斎藤香菜は突発的にヒステリーを起こすことがあった。実はこのことは、僕だけが知っていた、彼女の精神障害だった。幼少期から親の繋がりで香菜と関わることが多かったが、彼女は僕の前で幾度もパニックを起こした。突然、窓から飛び降りようとしたり、画用紙をバラバラに破いたり、僕に殴りかかったり。小さな僕の目にもその異常性は明らかであったようで、自分なりに色々と調べて、それが精神障害であることを知った。当時の僕は何を考えたのか、大人には香菜の言動を全く知らせなかった。――これが、僕一人で香菜の世話をしなくてはならなくなった理由。
彼女の自傷未遂は、徐々にシリアスな方向へエスカレートしていた。
死にたい、と言う相手に返す言葉を持ち合わせる人間がこの世に居るのだろうか。少なくとも僕には、出鱈目なことしか言えなかった。
「香菜が、死んだら、悲しむよ」
「誰が?」
「えっと、香菜の父さん、母さん、僕も含めた、友人の方々、とか」
「へー。まあでも、死んだ後のことは私には分からないし、関係ないね」
「ああ、そう、か」
萎縮する僕をよそに、彼女は窓を見つめて、
「死にたいな」
と、呟く。
とある頃から、僕は気付いていた。香菜のヒステリーを、僕以外の誰も知らない、それは香菜が僕の前以外で、パニックを起こしていない証拠だ。だから、多分香菜は僕の前で発散することで、症状を抑えているのだろうと。僕は思い込むことにした。
話を聴いてあげるんだ。手を差し伸べてやろうとしなくたって、彼女が発散できたらいいんだ。
彼女と関わることを、作業としてあしらっていたのも束の間だった。
顔に逆光を浴びる香菜が言った。
「私、いつか、みんなと上手くやれなくなる瞬間が来るかもしれない」
「えっ、そんなことを考えていたの?」
思わず僕は絶句した。続けて彼女は、仄かに上がった口角に日々の不安を湛えるかのようにして、内心を告げる。
「今でも、みんな嫌なんだ。ひでーの前で、時々見せちゃうような衝動を隠して、自分を着飾ったまま人と付き合ってきた。ひでーも知っていると思う、毎日私の傍にやって来る人たちがいるでしょ? 人間の一面だけを理解した気になって、私を囃し立ててくる人たち。クラスメイトを見ていると、人間って、小説で読むほど高尚じゃないんだなって、幻滅するの。でも私も、ひでーも、人間である限りは社会と関わるか、死しかない。社会と関わらないと、地位も金も援助も得られない。金がないと、生きてはいけない。そんな事を考えていると――私がこれからを生きるイメージができなかった。だから、この世界から逃げ出したくなったの」
「ん、そう、なんだ」
彼女は、グラウンドで駆ける生徒でも見ている。僕は真直ぐ向き合うこともできなかった。このままでは、無責任だ。なんたって香菜は――脈絡もなく命を捨てに奔る。彼女を放っておけば、本当に死ぬ。香菜を失う。
香菜は、僕の方に身を乗り出した。
「ひでーは、私に死んでほしい、とは思っていないと思うけど、私がひでーを呼んでこんな話をしているのは――」
このときは、すっと言葉が出てきた。
「僕に、自殺を思い止めるよう言ってほしいから? それとも、僕も道連れにして心中でもしたいから?」
香菜は呆気にとられた顔をした。それから、愉快げに笑い、
「ひでー、小説の読みすぎだよー」
とからかった。僕には勿論笑えることではなかった。ただ、彼女はすぐに付け加えた。
「でも、そうだなあ、そんな感じかもね。死ぬなら一人は嫌だ。でも、有象無象と生きるのも嫌だ。未だ、撞着している。――これからも、ひでーにはお世話になりそうだね」
「自覚があるなら――」
すんでのところで、出かかっていた言葉を呑んだ。
「いや、何でもない。危険なことは、しないでくれよ」
「今は、しないよ」
「――明日は?」
「...明日の自分なんて、知らないや」
そう言って香菜は僕に「さようなら。また明日」を告げ、そそくさと教室から出ていった。窓が赤く染まっている。薄暗い黒板の前には、男子中学生が一人立っていた。
「僕には、どうしようもないことが、多すぎる」
世界を変える大革命を僕が先導する様を思い浮かべた。到底、正夢にはならない。
――中学、高校と進学した。僕は、香菜に片手でも差し伸べてやることができなかった――。
あの事故に、香菜が巻き込まれていた世界線があったかもしれない。そんなことを考えると、やけにリアルに、その情景が浮かばれた。
血溜まりの中に、虚ろな目で仰向けに倒れる浴衣姿の女性。その眼は僕の方を見つめている。力無い彼女の身体を、僕は脳裏に映す。――一生の、トラウマ。
振り返った先に、訪問者の姿は既に無かった。徐ろに、先程まで寝ていたリビングへ足を伸ばすと、そこに居た。
「随分と、寂しい家を選んだんだね。私は好きだよ、このセンス」
彼女は僕が現れたことに直ぐ気付いたようで、庭を眺めながら無愛想に喋りかけてくる。
黒い長髪を垂らし、染み一つない真白のワンピースを纏っている。細身で清楚な女性。霧の中に居るでもないはずなのに、彼女の肌は凛として輝くようだった。
彼女は軽く息継ぎをした。
「君は、斎藤香菜という女性を憶えているかな?」
「...あっ、ああ――」
知っている。お前を見て、思い出した。多分僕は、お前のことも知っている。
「ガヤの野郎、か」
すると彼女は嘲るように笑いながらジャンプして振り向き、僕の顔を覗き込んだ。
「ははっ、久し振りだね。まさか君が、私の演技を見破るなんて」
玄関で聞いた声が空耳かのようだった。彼女は――香菜の体に宿るそれ・・は、少年みたいに笑っている。
「お前に人心は無いそうだ。そんな姿で化けて出やがって」
「それは――失敬な。この女性の姿は、私のオリジナルだよ。ほら、可愛いでしょ」
「...は?」
たしかに彼女は、香菜だった。余程の記憶の相違がない限り、間違いないのだ。
「香菜は、ガヤ、お前だったのか」
「んー、大体正解。この子は私が丁寧に作り上げたからね。でも、君の人生を裏切るようなことはしていないよ」
「どういうことだ、人生を裏切るようなことはしていないって」
「私が自ら斎藤香菜を使役していた訳じゃない。彼女に魂を形成して、それに委託していた。ほら、彼女は普通の人間さ」
香菜の体に宿るそれ・・は、無邪気に「コーヒー淹れてよ」とせがんできた。
「今回はね、君と話しがしたいんだ。ちょっとした、お願いがあって来た」
僕は彼女が言ったのを聞き流しつつ、キッチンへと向かっていた。
「君はまだ、死んでいないんだよ」
湯を沸かす音に重ねて、砂粒みたいに挽かれたコーヒー豆がパサッと紙のフィルターの上に落ちる。
「まあ、先にあんたの頼みを聞こう。了承するかはその後だな」
僕には、引き受けるつもりなどさらさらない。
――彼女の返答は遅かった。奴には珍しく、微動だにせず、発言を、渋っているみたいだ。
「...ガヤ、この期に及んで、どうして躊躇っている?」
「あっ、ごめん。これは、ただ私の個人的なお願いだ。――でも、よくよく考えると、こんなの、君は逆上するかもね。ただ、気になったことがあって、私にも理由が分からなかった。でも――」
上品な佇まいで、彼女は霧の晴れかかった草原の風に揺られている。言葉に詰まっているのか、僅かに見える口元は、空回る吃りをしている。その姿が思わせぶり・・・・・なのが恨めしかった。
沸いた湯を、カップに乗せたフィルタに注ぎ込む。茶黒い泡がぼつぼつ膨らんで、弾ける。
「この芳香は、酸味が強そうだね。君のそういうセンス、好きだよ」
「そりゃ有難いな」
僕は両手をカップで塞いで、ダイニングテーブルの上にそれらを置いた。思わしく縁側を見ると、陽の光が溜まっていた。彼女は小池に影を映し、コーヒーの芳香に誘われてか、すっと椅子に座った。
「いただくわ」
「どうぞ」
「優しっ」
「くそったれが」
僕は赤面していたようだ。彼女がへらへら笑いこけていた。
「いつも、私の前では感情的になるね。その様が、見ていて愉快なんだけどさ」
そう言うと、彼女はカップからコーヒーを呑んだ。喋り疲れた喉を潤しているようだった。直ぐに満足げにその手を置いた。
深い溜め息の後、僕は頬杖をついた。
「僕に何を頼みたい? はっきり言っておくれ」
「あー、うん、そうだね。君は我を忘れて逆上したりしないかな」
彼女は、黒い染みが所々に付着したか細い指を、カップに添えている。執拗に、陶器の側面をなぞっている。
「...君は今、一人暮らしにしては無駄に広大な家に住んでいるよね」
「元々、二人住みだったのを譲り受けたからな」
「よく言えば長閑だけど、客観的に見たら気が狂っているよね。孤独もいいところだよ」
「――で? 僕の気が狂っていることを指摘しにわざわざ現れたわけじゃあないだろう」
「勿論。続きがある。私にはね、君が生涯独身であることが不思議でならないんだよねー。それはおろか、交友関係まで断ち切るようなことになって。――とはいえ、そんな君を、私が罵ることはしないよ。君の心中に関しては、察しがつくからね。私の推測が誤りでなければ――斎藤香菜に拒絶されたのがきっかけだよね?」
香菜の形を成したそれ・・の前で、僕は呆然とカップの中で波を描く茶黒い液面を凝視している。
拒絶は――された。ガヤの言いまわしに間違ったニュアンスは含まれていない。高校一年生の夏、盆を過ぎた頃。夏祭りがあるから、と香菜に連れられて(僕が連れて?)行った。
嫌な回想。一発目の花火が街中の夜の闇を照らした瞬間、夏の行楽客は一斉に空を見上げた。僕も行楽客の例に外れない。きっと香菜が僕の傍で「綺麗」とかいう美辞麗句を呟くものだろうと思っていた。――火の玉の破裂が加速する。雑踏に紛れて迷子になっているのか? いや、火薬玉が昇る火の柱は二人で見た。その途端に、群衆は尽く足を止めた。此処に居ないのはつまり――香菜自身で何処かへ去ったということだ。――この辺りの議論から、記憶が錯綜する。上手く描写できなくなるが、拒絶、その記憶は判然としている。間一髪というところで、香菜を道路の脇に救い出すことができた。僕は、浴衣姿の彼女を両手で固く抱え、自動車の真っ赤なヘッドライトが明滅するのをぼんやりと眺めている。香菜は直後、意識がはっきりしなかった。ただ、それも僅かなことで、徐ろに眼を開いて、辺りをキョロキョロ見廻す。それから――青ざめて、泣き出して、物一つ言わず僕を押し退けて、逃げるように群衆の中へ駆け込んでいった。それ以降、僕と香菜が、コミュニケーションを取ることはなかった。僕は香菜に忌み思われたと思って、萎縮していたからだ。
香菜の体に宿るそれ・・は、訝しげに首を傾げた。
「私には、斎藤香菜が君を拒絶した理由がわからないんだよ。私は残念ながら、人の心を窺うことはできないんだ。そこで、ね、君に、彼女が君のことを拒絶したときの心中を調べてもらいたいんだ」
「...知れるなら、僕だって知りたいよ。でも、香菜はつい先日死んだ。それに――あんたは僕に、未だ生きている、と言ったが、僕も充分年老いている。直に息は絶えるだろう」
「君の寿命かい? あと一年残っているよ」
「...」
ガヤは雑に死期を宣告した。
「まだそんなに生きなきゃならんのか」
彼女は僕の動揺を遮って話を進めた。
「君は、憶えているかな。かれこれ、んー、ずっと前。君は何と小説家でしたー。っというのもあって、君には残りの一年で、君の〝一生〟を小説にしてもらいたい。きっと、遺作、ということになると思うけどね」
「――小説を執筆することと、香菜の心情を知ること、何が関係あるというのかな?」
僕がそう言うと、彼女は気怠そうに椅子の背へ凭れかかった。
「えー、分からない? 君が人生をループしているのは、斎藤香菜が関わっているじゃん。君の記憶は今、断片的だろう。それを文字におこして、整理したら、登場人物の心情だって読み取れるよ、きっと」
「それ、書き終えた頃には僕、死ぬだろう。あんたに分がいいだけじゃねえか」
「――仕様がない、君がそこまで渋るなら」
と言い、コーヒーを啜った。
「君は、もうループできないよ。だから、一年後、君が死ねば、そのまま君は消滅する。意識だけが、なーにもない闇を揺蕩うことになる。いいかい、君はこのまま死ぬんだ」
「――ループできないって、いったい何故?」
「君も、一旦胸に手を置いて思い出したほうがいいよ、色々と。君がループできているのは、私と契約したお陰。その契約は、君が斎藤香菜を事故から助けるために人生をループする、というものだ。つ、ま、り、既に君の目的は達せられている。だったらもう潔く死を迎えるしかないよ」
っと、ガヤはすまし顔で言う。
「ねえ、老人さん。このまま適当に死んじゃっていいんですかー? この世界に何か一つでも遺したくないですか? そうでもしないと、君が存在したことを、みんな忘れるよ」
「僕を、唆すか」
「私は、君が消える前に現れただけだよー。今回ばかりは、本当に、君の好きにするしかないよ」
馬鹿らしい。こいつの口車にみすみす乗るなんて。嘘はつかないから、その点一定の信頼はおいている。僕は一年後、死ぬ。あまりにも長い努力が無駄とも言われず消滅する。ああ、もう、やけくそだ。――うん、書けばいい。
「了承した。その代わり、あんたには老人の世話くらいしてもらうぞ。家事、身の回り、買い物」
「いいよ。やってあげるさ」
そう言うと彼女は玄関へ赴き、暫くして原稿用紙の束を三つ持ってきた。
「取り敢えず、これくらいあれば充分でしょ。さあ、思い思いに書いてね」
押し付けられるように、僕はそれらを書斎に運び込んだ。書くものは、祖父のくれた万年筆がある。机の引き出しに、ポツンと放置されていた。
僕の家には、小説家の鈴木秀和と、居候の斎藤香菜が住んでいる。
老人は、春の夕陽が暮れ泥むのを、ベットに横たわって観察している。傍の小椅子に、細身で白色のワンピースを纏った女性が腰かけている。
老人は不精ひげだらけの口を徐ろに使役する。
「なあ、いったい僕は何年の時を生きた?」
「ざっと、千年以上。――君の体感ではね。実は、たった八十年しか、君は生きていない。長命は、どうだった? 楽しい?」
「いや――息が詰まりそうだ。馬鹿らしい」
「馬鹿らしい?」
「僕は、十回以上、人生を繰り返したってことだろう。そこまでして助けたかった命は、はかねえもんだ、あっさり死んでしまった。結局、原稿も、断筆してしまった。僕の――僕の千年を考えるよ。このまま、僕が息絶えたら、千年は無かったことになっちまう。――中途半端な原稿は、はたして語ってくれるのか。――果てしない旅と、結末がつり合わないじゃないか」
「まだ、そんなに物を考えるんだね」
「...ああ、馬鹿らしい」
傍で、高校生くらいの少女は老人と共に窓に馳せる。
老人は時折、身悶え、咳込んだ。窓は開かれ、カーテンがたなびいている。カラスの咆哮、風の轟き。老人は絞り出すように、声を出した。
「香菜、心残りは貴方だけだ。貴方が、月並みに人生を歩めればそれでよかったんだ。貴方の心情を、僕は知り得なかった。さようならも言い出せない。神は居なくても、運命はあった。自分で定めた運命に抗った、馬鹿な僕は、惨めに果てる。これは――自滅だ」
老人は言いきり、落ちついて仰向けになって天井を俯瞰した。そうして、ゆっくりと呼吸をしながら、目蓋を閉じた。老人の耳に、囁く声は届いている。
「優しくて、唯一生きていてほしい人の、迷惑になりたくなかった。ごめんなさい。私は、死ぬしかなかった人です。貴方は――ひでーは、生きるしかなかった人です」
――さようなら。苦しみ、悔いて。
そして、夜は明けた。
一軒家の書斎で、老人と彼の遺稿が発見された。
鳥は群を連ねて飛び回り、虫は跳ねる。
夏を迎えた。
ループ小説、そして夜は明ける