遠い色
あたらよ文学賞 第二回「青」 にて応募したものを加筆修正。
通過なし。
遠い色
焼け付くような春だった。開いた窓から吹き込む風が褪せた空をさらう。肩で切り揃えた髪が揺れる横顔は鮮烈で、眼差しの先に火傷のような春が宿る。振り向く彼女は微笑んで、指で作ったカメラのシャッターを切った。死ぬほど焦がれた色を見た。気のせいだ。
紙と粘土と油、木製家具に染み付いたにおいが漂う。時間を重ねて出来た傷と汚れだらけの工作台の一つには、絵の具とスケッチブックが乱雑に広がっていた。その横に立てられたイーゼルに、塗り始めたばかりのキャンバス。その前に座る僕、灰塚琥珀の視線の先には、窓辺から外を見る横顔があった。頬の柔らかさと顎先の凛とした線が、外の明るさに照らされて白く浮き上がる。肩の上で踊る毛先まで柔らかく光を帯び、姿勢が良くすらりと伸びた背も、白い手脚も霞んだ景色に溶け込んだ。目尻が緩やかに上がる切れ長の目には窓越しの空と雲が映り込み、ふと細まってこちらに視線を寄越して笑った。
甘条愛。今年入学したばかりの新入生で、この高校の文化部で一番入部数の多い写真部の部員だ。入部者は何となく青春を謳歌したがる生徒が多く、顧問もやる気があるのか微妙で、活動内容も写真に関することなら部員が各々で決めていいことになっていると聞く。顧問も一応管理者として生徒を監督しているが、きちんと活動しているかといった各自の進捗を気にかけることはないという。彼女はそんな写真部の幽霊部員だ。文字通り名前だけ所属している部員なのかは定かではないが、彼女がカメラを嗜むのは本当のようだった。ただ、部に顔を出している様子はなく、なぜか写真部の部室からは遠いはずの美術室に入り浸っている。
入学式から一週間経ったあの日、美術部最後の制作を考えるために訪れた美術室に甘条が居た時は、状況の理解が追いつかなかった。所属している美術部は総勢十五人、三年が三人、二年が十人で今年の一年は二人と聞いていた。三年のうち二人は受験でほぼ引退状態、二年の半分は大物制作を好んでいるために部室に来ることは滅多になく、残り半分は演劇部と兼任している。新しく入ったばかりの一年は二年の雰囲気を好んで大物制作に加わった。実質、この美術室を使うのは変わり者と呼ばれている三年の僕だけだ。入学式翌日のオリエンテーションで入部希望者と顔合わせをしたのは覚えているが、そこに甘条は居なかったから、美術室に来ていた彼女が何者なのか判断出来なかったのだ。それでも、彼女に見た花火のような色が忘れられずに、気付けば「モデルになってくれないか」と声をかけていた。彼女は一言「いいですよ」と笑った。
一息吐いて筆を置く。パレットの上には暖色系の絵の具のみが並んでいた。これからどう色を塗れば、あの日の色が出るのか考える。
「灰塚先輩って」
不意に掛けられた声に顔を上げると、甘条は窓際で同じポーズのまま、顔だけこちらを向いていた。口元は悪戯な笑みを浮かべている。
「暖色系が好きなんですか?」
問われた言葉につい視線を逸らす。紛らわせようと、下地の色を塗っていくことにする。
「……別に。好きでも嫌いでもない」
「私、先輩は青色が好きなんだと思ってました」
手が止まってしまった。甘条は笑みを深めるばかりだ。
「先輩が変わり者って言われてるの、聞きました。青い絵の具を使えばいいのに、青を使わないで青色のものを描くからって」
遠慮のない言葉は慣れたもので、作業を再開する。甘条の口は止まらない。
「それでもコンクールに何度か入賞してますよね。空と海の景色の絵。青なんて一色も使ってないのに、ちゃんと空も海も分かるように描いてて。青を使えばもっと描けるのに」
「だから変人だって?」
「違いますよ。そんな不機嫌にならないでくださいな」
少しばかり苛立ちの含まれた返事にも臆することなく、甘条は変わらず軽やかに返す。
「青は透明なんです」
筆とキャンバス地の擦れる音だけ響く教室に、彼女の声は波打って聞こえた。同時に耳元で囁かれたような近さを帯びて、思わずまた手を止めてしまう。彼女を見れば、いつの間にかまた遠くを眼差していた。
「人はないものを表現する時に青を使うんです。正しく青いものなんてひと握りで、大抵は光の色とか、わずかな成分とか、その微妙なさじ加減でしかないんです。青は、ずっと透明な色」
横顔にあの日の色を見た気がして眺めていると、前触れもなく彼女とまた目が合った。反射で伏せようとした顔は平静を装って留める。
「……じゃあ、地球が青かったっていうのは地球は存在しないってことになるけど」
「うん。そうかも」
ころころと飴玉を口で転がすような音で笑う。飴もいずれは溶けてなくなってしまうっけ。
「先輩はどうして、青を使わないんですか?」
いつもの癖で言い訳を探そうと視線を泳がせた。そうして視界に入り込んだのは、よく使い込んで黒ずんだ木の画材ケース。随分と長い間、ケースの底に転がったままでいるあの褪せた色の絵の具を思い出す。
「作られた青は、僕の知る青じゃないから」
普段は黙り込んでしまうか適当に誤魔化すのに、彼女の前では本心が零れた。口にしてから言葉が格好つけたような鼻につく響きを帯びていることに気付き、口を噤む。だが、甘条からは嘲笑も困惑も飛んでは来なかった。彼女は笑みもなくこちらを見ていた。
「先輩にとって、青ってなんですか?」
丁度鳴ったチャイムに掻き消された声は、それでもはっきりと耳に届いた。彼女は手早く荷物をまとめる。扉から出る間際、いつものように笑って「また来週」と囁いて行く。残された空間には確かに彼女の最後の問いの余韻が漂うが、やがて消えてしまった。
雨。いつもより色のない世界で、甘条はいつも通りに窓辺で佇む。これまでとほぼ変わらない居住まいで、飽きる様子もなく外を見ていた。時々伏せられる瞼と、規則正しく呼吸で上下する胸元が、彼女が生きている人間なのだと主張する。雨音だけが静けさだ。
「雨、止まないですね」
思いがけず投げられた言葉には退屈とも悲しみとも違う静があった。
「明日まで続くらしい」
「先輩は、雨なら何色で描くんですか?」
好奇心を滲ませた笑顔を浮かべてこちらを見ていた。それが少し気に入らなくて、黙ってまたキャンバスと向き合う。
「君にとっての青はなんだ」
露骨に逸らされた話題に彼女は嫌な顔もせず、口元に弧を描いたままでいた。
「青写真って知ってますか?」
「青写真?」
「化学反応で写真の光の明暗が、青色の濃淡で表現される写真です」
急に弾んだ響きがして甘条を見れば、外の暗さと電球の明かりのせいで、いつもより目が光を反射しているように見えた。いつもは質問ばかりで彼女が写真のことを語る様子が珍しく、そういえば写真部所属だったなとぼんやり思い出す。
「でもね」
また声のトーンが変わった。さっきの輝きは抑えられ、いつもの彼女の雰囲気が宿る。その時初めて、知り合ってから見てきた彼女はずっと物憂げだったのかと気付いた。
「言葉として使われるときは、未来の意味になるんです。おかしいでしょう? 確かにあるのに、ずっと見えないものになるんです」
未来なんて不確かなのにね、と呟いた言葉は寂しそうだった。初めて見る、彼女の確かな揺らぎだった。
「ねえ、先輩。先輩は青をどう描くの? 先輩の青って、なに?」
途方に暮れた色に昔の自分を見る。青を失くしたばかりの、呼吸も出来ない日々に揉まれていたことを思い出す。今も。だから答えられはしなかった。
何も言わないでいるうちに、窓に打ち付ける雨と風が強くなった。このままでは帰ることもままならなくなりそうだ。
「それじゃあ、先輩」
いつの間にか荷物をまとめた甘条はそう言って美術室を出て行った。いつもは「また来週」と続くのに、それがなかった。来週、彼女とはここで会えない気がした。世界はまた灰色に空いた。
一週間後、やはり甘条は現れなかった。モデルを頼んでから半年、初めてのことだった。本来三年は部活も引退している時期だが、夏休み前には大学への進学も決まり、好きなだけ絵を描ける身には関係のないことだ。煩わしいことも心配事もなく、好きに過ごすことが許されている。だから焦ることはない。卒業までに完成させられるならそれでいい。
それからまた一週間、二週間、一ヶ月経つ。彼女が現れることはなかった。学年も違い、部活も違う。名前と学年以外に知っていることはなく、美術室だけが接点の彼女を見かけることもない。交友関係はあるのか、普段は何をしているのか、余計な詮索をしない代わりに詮索されないようにして来た。深く関わらないように連絡先も交換していない。そのうち、甘条愛という存在が本当に居たのかなどと浮かんでは視界が歪んで見えた。
キャンバスの先の窓、傍には彼女が立っていて。日差しに毛先が白く艶を帯び、横顔の輪郭が流れるようだ。曇りの日も、雨の日も、晴れの日も変わらずその目は遠くを見つめる。退屈そうで、けれどこちらを振り向いたら口元を綻ばせていた。儚げな雰囲気とは裏腹に無遠慮で小生意気なことばかり口にする。同じ口であんな途方に暮れて未来の話をするくせに。
記憶の中の彼女を思い起こして色を塗る。どこに居るのだろう。本当は最初から居なかったのか。そんなことはない。だって彼女と話をした。記憶の中には居るんだ。こうして描いている。記憶の中にしか居ない彼女を描いている。違う。彼女はこんなんじゃない。この色じゃない。あの日見たのはもっと鮮やかだ。伏せた睫毛に光が見えた。薄く影が落ちていた。何色だっけ。凛としていた。今にも崩れそうだった。涼しげに立っていて遠く眼差した瞳に春が焼け付いていた。彼女は窓越しに見えた青がよく似合う。
……あぁ、そうか。甘条愛は僕にとっての青だった。あの日、彼女に青を見た。褪せてしまった、死ぬほど焦がれた青色だ。だから彼女を描きたかった。
止まっていた筆を動かす。やわらかな青光りに照らされた影、その目には春に燃えた花色が宿り、青空に身を委ねる。透明なガラス越しに見える景色に彼女は微笑み、光の輪郭に確かな青が見えるように描いた。冬も近い季節だが、眺める先に桜を描き込んだ。これで終わりだ。背後の気配がそれを告げる。
「完成したんですね」
それが甘条であることを疑うことはなかった。ここには僕と、彼女しか来ない。見なくても、彼女が満足そうに、あの悪戯な顔で笑っていることは分かる。
「……僕には青が見えない。昔は見えていたのに。本当に好きだったんだ。空の青色が一番好きだ。でも、今の僕には見えない。いつか見えることがあるとも言われたけど、一生見えないかも知れない。……けど、あの日、君のいる景色に見えた空が青くて。本当に青くて。残したかった」
「今日の先輩、よく喋りますね。私、ずっと知ってましたよ。……青、ちゃんと見えてます」
彼女らしい返しに思わず笑ってしまう。振り向いて彼女を見れば、やはりあの笑みを浮かべて立っていた。見ない間に少し髪が伸びたようだ。
「ずっとどこに居たんだ?」
訊くと彼女は持っていた用紙をひらひらと見せつけて来た。何の紙だと思っていると、何が書かれているかも分からないまま、彼女はそれを大胆に折っていく。ものの数秒で出来たのは紙飛行機だ。
「不確かな未来と向き合いに」
悪戯っ子の顔で答え、紙飛行機を飛ばした。よく飛ぶそれは、しばらく教室の中を泳いでいた。
彼女と出会ってから二度目の春。僕は卒業した。『青青青』と題したあの絵は今頃、美術室の隅に立て掛けたままなのだろう。「甘条愛」と名前の書かれた進路希望調査票の紙飛行機と一緒に。
遠い色
・甘条愛(あまじょう あい)はそれぞれ「天(あま)青(じょう)藍(あい)」とした名前。
灰塚の作品タイトルは「青青青」と彼女の名前を指している。
・灰塚の目は後天的に「青色」が識別出来なくなっている。
・琥珀にはブルーアンバーという種類がある。彼にも青がある。