訪問

1

 食事をしながら、テーブルの上の羽虫を目で追っていたらいつのまにか見えなくなった。目線の先にはラップに包まれたオムライス。俺がさっき作った。ケチャップが表面の水蒸気と混ざって、血の膜のように広がっている。ケチャップはあとからかけるようにしとくんだったな、と思う。聴くでもなく流していたラジオが視聴者からのお便りを読み始める。埼玉県のあすかさん。50代。今日は、お隣が飼ってるわんちゃんが、そばまで来てくれて、なんと私の名前を呼んだんです。それって聞き間違えじゃないんですかって思うでしょう。でも本当に読んだんです。お隣さんも目を丸くしてたんです。あすかって。あ、す、か、って。
 オムライスの食器を手に持って、階段を上がる。廊下はやけに暗い。足音だけがみしみしと鳴る。つきあたりの扉の前に屈んで皿を床に置く。こうしていれば皿はいつのまにかなくなり、次見た時には半分残した状態で放置されている。こんなに静かな家の中にも人はいるのだ。何をしているのかわからないが生活音も聞こえる。時々トイレが水浸しになっている。俺以外の人間の時間が流れている。置いとくよ、と扉に向かって声をかける。まわりの空気が一瞬緊張するのを感じる。3秒待って、そこをあとにする。なんだって習慣だ。慣れれば当たり前になる。不思議なものだと思う。
 ソファに座ってぼんやりしているとインターホンが鳴った。妻かと思ったがすぐに違うと思った。まだ9時だ。宅配だろうか。それにしては遅い。立ち上がってディスプレイをのぞく。広角レンズに顔が大きく歪められた男が写っている。黒いジャケットを羽織っている。小柄で、落ち着きがない感じだ。宗教の勧誘か、何かのセールスかなと、適当な文句を考える。
「すみません。島田です。高校の時同じクラスだった。こんな時間に申し訳ないです」男は言った。まるで覚えていない。だって高校生なんて何十年も前だ。覚えている人間の方が少ない。それに、島田なんていう人間は今までに何人も会った。カメラ越しに、男はレンズをまっすぐ見ている。俺は記憶をたどってみたがすぐに面倒になった。高校生の時のことなんて、ずっと思い出してない。ひさしぶり、と言ってみた。口に出してみると、今開けると続いた。仕方ないから玄関に向かうことになった。

「変わらないな。ずっと会ってないのに、昨日まで一緒に授業を受けてたみたいだよな」
「どうかしたの」
「そうだよな。悪いな、遅くに。こんなところじゃなんだからさ、あげてくれないかな。だめだろう?」おかしな話し方だと思った。
「まあいいよ。誰もいないみたいなもんだし」
 気がつくと男は靴を脱いだ状態でそこに立っていた。手を伸ばせば頭の上に手のひらを乗せられそうな距離だ。ぎょろついた目を輝かせている。
 居間に連れていくと、島田と名乗る男は自分で椅子をひいて座った。お茶をだすと一息でそれを飲み干した。
「奥さん帰ってないんだな」適当に話を合わせているとあまり話したくないことを聞いてきた。
「たまにね。サークルがあるみたいなんだ。時間ができたから友達つくるって意気込んでるよ」男は興味がなさそうなふりをしてふうんと言った。すかさず、今日急に訪問したわけを聞いた。
「ああ、そうだよな。突然思い出したんだ。俺とお前でタイムカプセル埋めたこと。ほら、子供が宝物とか入れて土の下に埋めるやつ」
「タイムカプセル」復唱。まるで覚えていない。島田という友達がいたことすら思い出せないのに、その男と埋めたタイムカプセルを思い出せるはずがない。
「思い出すだろ。小6の時だっけな。お前が言い出したんだぜ。でかい杉の木があっただろ。校門の前に。間違いない。夜中に待ち合わせして、誰にも見つからないように穴を掘ったんだ。こんなちっさいスコップで」男は手をパーに広げた。そしてそのままピッチャーに手を伸ばしてお茶のおかわりを注いだ。覚えてない、と正直に言った。島田は懐かしいよなと返事をした。
「建て替えとかしてないみたいだから、きっとまだあるぜ。思い出せて良かった。今から掘り出しに行こう。待ちくたびれてるかもな」
 そんなものが実在するとは思えなかった。男は家の前に車を停めていた。外から息子の部屋を見上げると、カーテンの向こうに人影が見えた。車が走り出すと、なぜか秘密を作っているようなうしろめたい気分になった。
 

2

「それにしても、お前とこうして会えるなんてな」運転席でハンドルを握りながら島田は言った。車は夜の国道を勢いよく走った。運転の荒さが目立ち、居心地の良くない気分だった。
「ああ。俺も良かったと思うよ」
 島田は少し黙った。何かを言おうとして、タイミングを見計らっているような感じだ。
「奥さん、帰ってなかったな」
「さっきも言っただろう。サークルに行ってるみたいなんだ。俺が仕事でずっと家を空けてる間はけっこう何でも任せちゃってたしな。何も言えない」
 車はトンネルに入った。島田の顔が影になり、口元だけが浮かび上がっている。気のせいだと思うが、ふと目を向けると、口角が意地悪く釣り上がっているように見えた。
「そうなのかな」島田は言った。「何か思い当たる節でもあるんじゃないの」
 背中に汗が滲むのが分かった。行き交う車の音が轟音となってあたりを包む。
 
 妻の様子が変わったのは、はっきりときっかけがあった。
 その日、俺と妻は動物園に行っていた。一番下の娘が就職をして家を出た時で、息子が突然帰ってくる直前だったと思う。忙しく働いていたから、まともな休みの日に何をするのが正しいのかなんて、とうの昔に忘れてしまっていた。動物園に行こうかと言い始めたのは妻の方だった。電車の中吊り広告に気になる動物の写真が掲載されていたらしい。休日に出かける友達を作るほど積極的なタイプではもともとなかったし、俺も日まだだったから付き合うことにした。
 案外楽しい日だった。地獄みたいに暑い日で、日が当たるところと、影が伸びているところで、世界が二分されているみたいだった。妻は、売店で買ったラムネの瓶を持った手を前に伸ばして、縦にしてかざした。そしたら、向こうの檻で歩き回っているキリンと瓶が同じサイズに見えた。遠近法で。妻は右目と左目を交互に閉じて、目の錯覚でキリンが消えたり、また出てきたりするのを楽しんでた。何回か繰り返してるうちに異変に気がついた。妻はまるで、目の錯覚の向こうに何かを探してるみたいに見えた。眉をしかめながら、思いがけず信じられないものをみてしまったような表情をしている。それがやめられないでいるみたいに見えた。
「もうよしたら」と言うが先か、あっと妻は言った。瓶が手から滑り落ちて砕けた。何が起きたのか分からなかった。妻が見ている方向には、さっきと同じようにキリンがいた。でもそれを見ているのではないのが分かった。もっと向こうにある何かなのか、キリンの向こうにある何かなのか。その日は帰りながらも様子がおかしかった。無理に話を合わせているような感じがした。それについて特に聞くことにはしなかったけど、時々思い出したように、妻が何かを打ち明けようとしていることに気がついた。夏の終わりを感じさせる夜だった。ささやかに虫の鳴き声があたりを満たしていた。

「着いたぜ」
 島田の声ではっとした。もうあれから2年経つ。その日から妻は何かを取り返そうとするみたいに夜に外を出歩くようになった。
 校門をよじのぼって、杉の木の下に近づいていった。たしかに気の根っこあたりから何かに呼ばれているような気がした。もちろん気のせいだ。でも島田が言うタイムカプセルは埋まってるのかもしれないな、とその時には思っていた。
 どこから出してきたのか、島田はスコップを手渡してきた。ふたりで地面に刃をつきたてて、5分くらい掘り続けた。俺は掘りながら息子のことを考えていた。あいつはこれからどうなるんだろう。いつかはひとりで生きていくようになるんだろうか。俺にあいつに対してしてやるべきことがあるんだろうか。それを待っているのかもしれないなと思う。でももちろん俺にはそれが分からない。息子のことなんて、もうずいぶん考えていない。最後のことについて妻と話をしたのは、大学受験の時だったかもしれない。
 腰のあたりくらいまで埋まるくらいになった。いつのまにか地面にしゃがみこんで、肩から身体をつっこんでいるみたいな格好にならないと掘り進められないほどになっていた。俺が伸ばした腕の先で、スコップが何か固くて薄い素材のものにぶつかる感触があった。
「あった」思わず声が出た。疲労がどっと肩にのしかかった。息子のことはいつのまにか忘れていた。俺は早くタイムカプセルをこの目で拝みたかった。12歳の俺は一体そこに何を収めたのだろう。島田はしぼりだすような声で、おっしゃあと唸った。55歳にふさわしい中年の唸りだった。俺はその姿を自分に重ねずにはいられなかった。
 タイムカプセルは炊飯器くらいの大きさの、正方形のステンレスのケースだった。くまなく錆び付いていて、ジュラ紀の地層から発掘されたのだと言っても通ったかもしれない。それくらい年季を感じた。天板が薄い蓋になっていて、そこに指をかけた。開けるぞ。
 それが中から出てきた時、俺も島田も言葉を失った。中に入っていたのはたったひとつの物品だった。瓶詰めのキリンの人形。ローマ字ロゴの入ったジュースの瓶に、ライターくらいのキリンの人形が入っていた。人形は見るからに瓶の口よりも大きなサイズだった。どうやって中に詰めたのだろう。これが、10代の俺と島田が、未来の俺たちに託そうと地中深くに隠した宝だというのか。島田も実際に何を埋めたのかは覚えていなかったようで、おおとか、ああとか漏らしていたが、納得いかない様子で様々な角度から物品を眺めていた。指先で摘んだ瓶を振り回すと、キリンが音を立てて揺れた。
「やらないといけないことがある」俺は言った。「順番に、ひとつずつやらないといけない。そうでないと俺は全部なくしてしまうような気がする。それが存在していたこともすっかり忘れてしまうくらいに。次に思い出した時には多分もう遅いんだと思う」島田に対して言ってるんじゃない。キリンに言ってるんでもない。自分に対して言ってるのですらない。俺の声じゃないみたいだった。言いながら、それはキリンを瓶から取り出すよりは、やりようがあるかもしれないなと思った。

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  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-08-29

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