地球でお会いしましょう-記録Ⅳ

記録Ⅳ 要点……サンと星の視界を同期することが可能。
 灰色の雲り空の下、幾万もの群衆の目線を一身に集める女がいた。白いレースのワンピース・ドレスに合わせた丸い帽子と黒い靴下。血色の悪い顔は俯き影を落としていて、まるで彼女の周りの世界だけモノクロになったようだった。一歩一歩を重く踏み締める靴だけが菫のような鮮やかな色彩を持ち、彼女を爪の先の死へ――広場の断頭台へと導いている。
 木製の梯子に手を掛けようとしたとき、女がついによろめいた。黙していた群衆の間にたちまち、罵倒、冷やかし、少しの心配の声は波のように押し寄せ広がり、忙しく駆ける小間使いの足をも引き止めた。枝のような足が外れて、ただ一つの菫色が、軽い身体を受け止めた兵隊の足を踏みつける。ぱっと紅く色づいた顔が上目遣いで兵隊に何か訴えるように口を小さく動かしている。それでも兵隊は歯牙にも掛けないといった様子で、女の体勢を整えてやると、何事もなかったかのように再び直立で黙した。女は顔を灰色に戻すと、付き人に支えられながら虚な瞳で短い梯子を登った。
 女はやがて、羽化を終えた蝶のように付き人の腕から離れた。質素な止まり木の棺に自らを横たえて、仰向けで両の手を胸の前に置く。このとき、女の瞳にはどのような空の色が映っていたのだろうか。この場に幾人もの群衆が集まっているのが嘘のように、辺りは鎮まりかえっている。沈黙を切り裂いたのは処刑人の口上、それから断頭台の部品を動かす音。これから人一人の命を()()()奪うものとしてはあまりにも軽快すぎる声音もやがて止むと、刃の火蓋は切って落とされた。
 すべての命運が尽きるその一瞬まで、ただ彼女の顔をまじまじと見つめ続ける。何かが光って伝ったような気がしたが、さいごまで夫を愛し、国そのものを愛した王女のことだ。それはきっと幻だろう。

 ――なぜ、自分は彼女のことを知っているというのだ?彼女の何を知っているというのだ?

 切先が白灰色の首筋に触れ、貫き、紅いものが側の処刑人に飛び散る
 ――ところで目が覚めた。立ち込める濃い匂いが鼻の奥、喉元まで貫いて一瞬どきりとする。だがそれは慣れた香りで、目の前で洒落た茶器に黒の液体が揺れるのを見つけると内心ほっとした。しばらく液体を見つめていると、その水面に黒い横顔がぬっと入り込んだ。その顔の主は、年端を過ぎたばかりに見える女給だった。白い肌に色めいた頬、黒を基調としたエプロンドレス姿は、先ほどみた王女の面影をどことなく思わせる。黒目の大きな瞳に覗き込まれて、おれは逃げるように椅子の背にもたれた。
「矢ッ張り。そろそろお目覚めかと思ってね。淹れ直して良かった」
「……Bo-2-19582」
 奇妙な羅列が口を滑り出た。女給はため息をつく。
「その呼び方。よしてといってるでしょう」
「……『ボッコちゃん』……?」
「ま、そッちのほうがましね」
 また口を滑らせて、女給は呆れたように踵を返した。おれはコーヒーカップを手に取ると、最初に目覚めた時のことがどんどん思い出されてきた。たしかこうして椅子に座って、あいつに――そう、サンに名前と好きなものを聞かれて、誤魔化して、クッキーを貰った。あのクッキーはなかなかうまかった。そう、ちょうどこの香りのコーヒーに合いそうな――
 ――熱と苦味が口内に走り、おれは喉の使い方を忘れてしまったようだった。激しく咽せる声が店内に響く。今になってやっと目覚めの感覚が取り戻されてきて、とすればおれは一瞬、夢を見せられていたのか。なるほど、過去に実際にあったことなのだが、先ほどの女王が処刑される光景よりはよほど夢らしい。
 ――そうだ。先ほどの感覚はまさしく、おれが今いる喫茶から一気に異国へ飛ばされて、女王の処刑の見物客になったような――現実にありえない出来事が目の前で繰り広げられたような、そんな心地だった。
「なぁ、おれは寝ていたのか?」
 心配そうな怪訝な面持ちで冷たい水を持ってきた女給に問いかけずにはいられなかった。
「えぇ、うぅん……まァねぇ」
「どうした、はっきり言えばいい」
「目、ぱっちり開いてたのよ。瞬き一つもしないで。目ェを開けたまま寝る方なんだって思って、そのまンましてたけど」
 そういえば、いつもより目が乾いているような気がして目を何度も瞬かせた。女給はからかうようにテーブルにもたれる。丸い黒の水面が揺らいだ。
「変な夢でも見てたンじゃない?どんな夢か聞かせて頂戴よ」
 おれは()()光景をそのまま話した。異国の曇天、広場に集まる群衆、その興味を一身に集める質素な服装の女。靴の紫色だけが頭の中にまだ鮮明に残っている。女が向かうのは断頭台。刃の大口を開ける死の淵に飛び込むように、何の澱みもなく台に寝かされる。その様は棺に横たわる体躯にまだ命が宿っていて、混沌とした涙を流しているようだった。
「でも、この女は女王である気がする。群衆の罵倒とか、不満を集めた末の王族の処刑など……随分おとぎ話じみた夢だった」
「あながち夢でもないかもね」
 意表を突かれた。茶器の中身よりも深い瞳に見つめられているのは横目でも痛いほどわかっていた。おれが先ほどの夢に対して抱いている違和感でさえも見透かされているような心地だ。やっと顔を見合わせると、女給はあながち不思議そうな顔で小首を傾げていた。
「だって、処刑された女王っていったらマリー・アントワネットじゃない?」
 マリー、と小さく呟く。叔母のことを思い出したが、今はどうでもいい。それよりも、マリー・アントワネットという女王が地球にいたかのような――まるでおれの夢が現実にあったことなのだと肯定するかのような口ぶりに内心驚いた。女給は知らないの?と小馬鹿にしたような笑い方でさらに追い討ちをかける。
「西方の、百虹菖国(イリスリリー)の女王サマ。愛する夫のお城で贅沢三昧。苦しい民のことなどつゆ知らず、血も涙もない最悪の女王サマ。……憧れるわぁ」
「あこがれ、だって?」
 サンがよく口にする感情だ。おれにはよくわからないが。女の黒い目が細まって、光を反射した瞳がぎらついているのはおっかない。あまり持つべき感情ではなさそうだ。
 客が増えてきたのに、女給は席を立たずに続ける。煙草の匂いに酔ってしまいそうだ。目の前の女も、狂ったようにぎらついた目を回している。
「素敵なことじゃなくて?穢らわしい現実とはおさらば、浪費が許される夢のような日々。――でもあたしにも、もうすぐそれが叶う。あたしね、今度ここを辞めるの。あたしの人生のパトロンがやッと見つかったのよ。すてきなおじさま」
「妙なことを。その果ては破滅だろうよ」
「いいえ!あなたこそ可笑しなことを」
 女給がテーブルを叩いた瞬間、場が凍りついた。文字通りのことだ。周囲の景色が止まった。談笑や論争をする客の顔はそのままで、壁の柱時計の振り子も戻らない。机上で冷めてしまったコーヒーの水面だけが揺れている。まだ鮮烈な光を一粒も取りこぼさない女給の瞳に射すくめられて、おれも動けない。やはりこの女は、処刑された女王にそっくりだ。まだ夫に愛され、国民から取り上げた重い税収で贅沢を尽くした頃のマリー・アントワネットに。――ちくしょう、どうしておれは女と女王が似ていることを知っている――?
 女が手をテーブルからぱっと離したとき、やっと周囲は何事もなく動き出した。女給はボーイに手招きされて、そのまま立ち上がる。鼻筋の通った横顔を見上げて、もう瞳の光の度合いはわからなかった。呟くような声で、最後に言い残す。
「あたしはうまくやるわ。()()()なおじさまはね、あたしになんでもくれて、なんでもしてくれる。だって」
 ふっと意識が遠のく。客の論争、冷え切った茶器が鳴る音、かったるい煙草の匂い、そしてけたたましい女給の笑い声。
「あたしに魂をくれたのよ!」
 そうか、しまった。この女は悪魔だ。おれは魂を抜かれてしまったのだ。
 全ての感覚が途切れゆく中で、久方ぶりに目をぎゅっと閉じた。

 次に目覚めた先は、白い部屋だった。コーヒーも煙草の匂いもしない、話をする他の客すらいない。ただ目の前には何も置かれていない、装飾もない白い四方形のテーブルだけ。喫茶店との急な落差に、胸が焼けるような心地がした。
「頭のおかしい女に誑かされて。みっともない」
 どこからともなく声がした。まだ少しだけ幼さを孕んだような男の声。どこに取り付けられているかもわからないスピーカーを通して、いつものアストライオスの声が部屋に響く。雑言を浴びせてくるのは茶飯事だが今日はマイクの調子が悪いらしく、時折聞こえる金切り声のようなノイズが耳を劈いて痛い。
「お前を地球に送り出した理由をわかっているのか」
「……これからの任務のために、おれたちが持つ能力について知ること、だ」
 問いかけたのはあちらなのに、苛立った様子でおれの答えを待たずに次の言葉を続けた。
「サンがいなくなった。行方不明だ」
「……は?」
 また金切り声が耳に障る。部屋は一瞬にして静寂に満たされる。サンは先に帰っていると思っていたのに。おれがこの部屋で目を覚ましたとき、目の前の椅子にサンが座って、また呑気な顔でクッキーをすすめてくるかと思っていた。ちょうど、サンのことを初めて視認したときのように。だが今、目の前の席はぽっかり空いている。とつぜん、それが不自然なことのように思われてきた。
 また、スピーカーの声に呼び戻される。
「サンは外に行きたがっていた。お前が何らかの手引きをしたのではないか」
「知らない。地球でもサンと合流していない」
「……ふん。役立たずめ」
 おまえの監視もそれほどではないんだな。なぜサンを追うことができなかった?――心の内で反論したが、マイクが途切れる音がした。それにサンがいない今、アストライオスに反抗したらどうなるかたまったものではない。
 だが、アストライオスの言う通りだ。おれにできることなどないだろう。おれは無機質な部屋で両手を組み合わせ、静かに目を閉じることしかできなかった。

 また、みた。今度も異国の風景だ。しかも先のアントワネット女王の処刑の時と似た地形、しかしてその時代よりは遥かに古いような街並みだ。
 処刑の広場もそっくりそのまま同じ、その目当てを取り囲む群衆の顔ぶれも似たようなものが並んでいる。だが、その視線の先には断頭台がなかった。柱ができそうな木材を幾つも重ねた台の中心に、一番太い丸太だけが縦に立てられている。そこに縛りつけられているのもまた――女だ。
 ちくしょう、これは誰の視界だ?夢でも現実だとしても、いまいましいのを立て続けに見せられると反吐が出る。
 おれは、今度はその場から早く立ち去ろうとした。しかしなぜか体が動かない。視界だけを物好きなやつに奪われたような感覚で、瞬きさえもままならなかった。まるで女が処刑されるのを目に焼き付けなければならないような――
 ふと、女が首を真上に上げるとおれと目が合った。そうしてやっと、おれはこの状況を空の上から俯瞰で見ているらしいことに気がついた。体が浮かんでいる感覚を覚えていく。だが生身のままではない、何かに乗っている。何に?その答えは一つしか思い浮かばない。
「サン……?ここはどこだ、どこにいる?」
 問いかけても声が出ない。それよりも、何よりも今は女の行く末を目に焼き付けたい。それがサンの答えであろうか、おれはもう動くのを諦めた。女の瞳は女王とは違っていた。それがおれにしても、興味深くなってきた。
 死の淵に立たされても、灼かなひかりを失わない瞳。松明を持った処刑人が足元の木材に火を移す。それでいてなお、こちらへの視線を外さない。彼女が見ているのはサンなのか、それとももっと遥か上空にいる神であろうか。身を少しずつ焼いていく炎、それにも勝る灯火がさいごの祈りを捧げたのを見届けて、やっとこちらの視線が外された。
 目はまっすぐに向き直ると、橙色の空をめがけて周りの景色を置き去りにしてゆく。なるほど、これが飛ぶという感覚か――

 ノックの音がした。
 控えめな音がおれを目覚めさせた。もっと浮遊感に浸っていたかったのに。椅子にもたれたまま揺れるような感覚を味わう。そういえば喉がひどく渇いている。スタアゲイザーでは結局、コーヒーを一滴も飲まなかった。サンの淹れる紅茶の香りが懐かしい。湿気のない息を大きく吐き出すと、疲れが全身を駆け巡った。ノックに応対する元気も出なかった。
 ドアの向こうの相手は、おれの応答がないのに痺れを切らしたのか鍵穴をいじる音を立てた。外からの鍵を持っているのはアストライオスだけだ。開くはずもない――だが開いた。音もなく静かに入ってきたのは、美しい女だった。
 もう、女はこりごりだ。それなのに彼女は――汗ばんだ白い肌の引き締まった体つき、なぜか濡れている長い黒髪。今まで目にしてきたどの女性よりも一段と艶を感じさせる。目のやり場に困っていると、彼女は手にしていたジュースの瓶と、それからグラスをおれと自分の方に一つずつテーブルの上に置いた。
『きょうは暑くてねえ。シャワー借りたら、のど渇いちゃった。あなたも、お飲みになる……』
「おまえ、誰だ……?」
 今までの女以上に色めいた、今まで以上になぞの女を前に絞り出すような疑問の声しか出せなかった。ジュースを一口あおった女はむせかけて、自分を落ち着かせるように静かにグラスを置いた。
『そんなこと、おっしゃらないでよ。ねえ』
 なれなれしさと押し付けがこもったような声に、おれは押し黙った。今まで出会ってきた者たちの中に、こんな女はいただろうか。その顔を頭の中に思い浮かべてみる。サン、アストライオス、魔術師の大叔父、叔母マリー、喫茶スタアゲイザーの怪異の面々。そういえば、人に化ける化け狐だか狸だかの怪異を目にしたような気がする。目の前の女はその類だろうか。そうだとして、ここまでやってきておれに術をかける真意がまるで読めない。
『よしてよ。怪異なんて。それより、あなたも喉が渇いたでしょう。冷えていておいしいわよ。さあ』
 女と目を合わせた。八の字に下げた眉尻の下で潤む瞳は、まるで本当に悲しんでいるようだ。しかし自分のグラスにおかわりを注ぎつつおれにもすすめてくる、その媚びたような上目遣いは、おれの思考を見透かしたようで気味が悪い。喫茶で出会った悪魔の女のものとはまた違ったおそろしさ。彼女のことをほんとうに知らないのにそれを責め立て、怪異だと疑ったのを読心し、喉の渇きまで見抜いたのか。
『本当に、あたしのことがわからない?仕方ないわね……それじゃあ』
 おれはもう我慢ならなかった――喉の渇きが。今思えば、なぞの女が持ってきたジュースに異物が入っていると疑うのは当然のことだ。それなのに、おれは何のためらいもなく口をつけてしまった。喉と鼻を突き抜ける果実の香りに、弾ける炭酸が舌を焦がす。喉を何度も鳴らして、女が注いでくれた分を一気に飲み干した。
 息を大きく吐きながらグラスを置いたとき。首を上に傾けてジュースを流し込んだその僅かの間に、女はいなくなっていた。
『私にかかれば、もう心配なさることはないでしょう』
 そして代わりに座っていたのは、なんと中年の男だった。白髪混じりの髪に、皺が刻まれ始めた顔は眼鏡をかけている。レンズ越しに落ち着いた鋭い眼光は、理知的な色を湛えていた。おれは椅子から勢いよく飛び上がった。飲み込みを終えていないジュースが気管に引っかかってむせる。中年の男は冗談だ、と笑い声を上げながら、きつく組んでいた白衣の袖口から白手袋の腕を覗かせて、おれのグラスにまたジュースを注いだ。おれは腰掛けることができずに、異物感の残る喉を押さえながら男を観察した。とつぜん、閃いたことがあったのだ。
 ――おれのことを知っているというなぞの女。それからこの、医者のような出たちをした中年の男。この二人の話しを、どこかで()()()ことがあるような気がしてならない。随分昔の話しで、他の話しと同じくらい短いから、そう思い出されるものではなかった。それはおれのトランクの、ラップトップに入っている――
「No-1-19651、か」
 また、奇妙な羅列が口を走らせた。途端に気難しい男の顔がぱっと晴れ、ご名答、という声とともに脇から取り出されたのは、見慣れたトランクだった。それは物心ついた時からおれのそばにあったトランクだ。中には小型のラップトップ、さらにそのメモリには千を超える話しが記録されている。話しの一つ一つに『No-1-19651』といった題目のような羅列が割り当てられている。なぞの女になぞの医者、という人物は小ばなしの一つを想起させた。
『この姿のままでいいか。しかし、さすがだ。おまえは千を超える話しとその題目を記憶しているのか』
「いや、確かに全ての話しは読んでいるが。今のは記録を検索し、引っ張り出してきた感覚に近い」
『おまえは、自分のトランクの話しは好きか』
「まあ、嫌いではない。いや、むしろ興味深い話しばかりだな。結末が想定外でおもしろい」
『そうか。……なればこそ、この姿にも納得がいく』
 医者の男はおれの顔をまじまじと覗きこんだ。いや、おれの瞳を鏡にして、その奥の膜にまで映る自分の姿を見ているような目つきだ。女でも男の姿でも、こいつは気味が悪い。だが同時に興味深い。おれは恐る恐る椅子に腰掛けて、もう一度グラスを一気にあおった。再びその姿を見た時、しかし中年の医者の男のままだった。
「なぜおれのトランクの話しのことを知っている」
『私はおまえの話しの第一の愛好家だ。いつも見ている』
「なぜ女にも男にもなれる。怪異ではないのか」
『私に対するおまえの見方に拠る。おまえが望めば怪異にもなれるが』
「……おまえは誰だ。名は」
 はぐらかすような答えばかりを並べ、ついに最後の質問には口を開かなかった。サンとおれがこの部屋で最初に交わした会話も、こんな調子だったような気がする。けれどもおれは自分の素性が本当にわからなかった――それは今もだが――から、何も答えようがなかったのだ。しかし、目の前で優雅にグラスをあおる男は、自分がどんな存在であるかは承知の上であえて答えないといった態度だ。おれはこれ以上聞くのをやめて、椅子の背にもたれるとまた目を閉じた。こうすれば、サンの居場所なら何とか掴めるような気がした。
『なぜ、Bo-2-19582を太陽名に変換することができたのだ?』
 だがおれの目はすぐに開かれた。太陽名?この男、先ほどから愛好家とか見方とか、太陽名に変換とか、妙なことばかり言う。医者の姿のままの男は穏やかな微笑み顔の前で両の指を組んで、患者に病状を説明するような淡々とした口調で続けた。
『まあいい。おまえはアストライオスから任務の報酬を貰っていないな。代わりに私がやろう』
「報酬?」
『おまえがきっと、今一番ほしいものだ。――サンは飛行機で過去に行くことができる。そうだな』
「サンの居場所を知っているのか」
 おれが身を乗り出すより早く、男は満足そうに頷いた。
『逆に言うと、過去にしか行けない。なぜ過去だけなのか?』
「サンの能力はそういうものではないのか。……いや、これは受け売りだが、過去は確定している事象だ。でも未来は未定だから……?」
『いい筋だが、惜しいな。サンも過去しか知り得ないからだ。――飛行機の行き先を決めているのはサンの思考だ。アストライオスの些末な蔵書から地球の歴史を知り、その知識が過去へと向かわせる。まぁ、今は飛行機が暴走しているようだが。帰りたいのは山々だが、サン自身が地球について知りたいと思っているのだろう』
「暴走しているから帰れないということか?」
 そうだな、と男は一区切り置くように指を解く。問答続きだが、この男との会話は悪くなかった。スタァゲイザーで気の合う怪異や魔術師たちと談義しているような気分だ。相手も幾分か柔らかくなった眼差しを絶やさなかった。
『お前は未来が視えるな。そして、サンとお前は視界が共有できる。そうだろう?』
 それでも、話題がいきなりおれの能力のことに移ってはっとした。おれの能力と、サンの居場所にはやはり関係性があるということなのか。
「じゃあ、最近みるのは夢じゃなくて、本当にサンが見ていた景色ということか」
『さすがだ、自覚はあったのだな。そうだ、おまえはサンの目を通して、地球で繰り広げられている歴史上の事象を実際に目にした。これはなかなか貴重なことだ』
「いつも見せられたのは女の処刑ばかりだったが」
『はは、仕方ない。サンの()()()()()()()で実際にあったことだからな。――ここで本題だ。お前は地球の未来を視ることができる。そうして視た未来をサンにも見せてやればいい
「そうすれば、サンの意識と好奇心を未来に向けることができる」
 男は大きく頷きながら満面の笑みを浮かべた。おれの口から出たサンの好奇心という言葉が、ひどく気に入ったようだった。

「自分でもわからないんだ、未来視のやり方は。何かきっかけがあれば……」
『その必要はない。サンのいる時点からの未来を視ればよいのだ。サンは今、どんどん過去に遡っている』
「急ぐか。でもやはり時間がない。地球の全ての歴史を、今からおれの頭の中に叩き込めってか」
『いいや。その必要もない。お前には本があるだろう』
 本?おれは固い表紙に何枚も薄い髪が挟まれている、いわゆる一般的な本の形を思い浮かべた。しかし、この形式にかなうものが多いここの蔵書は全てアストライオスのものだ。地球上でも本は借りるばかりだった。だから、おれの所有物としての本はないはずだ。しかし、目の前の男はわざとらしくテーブルの上のものをつつくように指さす。
 それはおれのトランクだった。頭の中を疑問符ばかりで埋めるおれに、男は手品でもするように大事にトランクを差し出す。
『魔術師として生まれたからには。本は命と同等だ。時には――ちょうど今の状況の時には、助けてくれることもある。肌身離さず持っておきなさい』
 おれはトランクを開いた。一緒にラップトップの蓋が開く。おれはサンとともに魔術師として生まれたが、魔術師の生まれながらの所有物たる本を持っていなかった。しかし、それは思い込みだった。本来の形に囚われていたのだ。
 眩むほど彩度の高い青に、奇妙な数列がずらりと並ぶ。それは一つ一つが題目の違う話し――物語だ。そうか、これがおれの本だったのか。
「だが、おれの物語の中にあったか?地球史についての話しが」
『地球史を並べ立てているだけのものはない。だが、物語の能力を借りる方法をとろうとすれば丁度良いのがある。Go-3-19686』
 言われた題目をおれはキーボードで入力する。物語の筋はもう思い浮かんでいた。――人知れず滅亡の途を辿る地球が、恐竜や古代植物を蜃気楼(ホログラム)として出現させる話し。
『太陽名は……今は伏せておこう。徒名は「地球の走馬灯」』
 おれが再び顔を上げると、医者風の男の代わりに座っていたのは寝癖頭に部屋着の年若い男だった。青髭の残る口で大きくあくびをしながら、いかにも気だるそうに立ち上がる。そうしておれのそばに来て画面を覗き込むと、片手でキーボードを操作した。黒く小さなボードのようなものが現れ、題目のよりもさらに長く複雑な文字数列が並んでいく。最後にエンターキーを強く叩くと、また何事もなかったかのようにGo-3-19686の画面に戻った。
『スペース、コントロール、C、V。これでおまえの物語の能力が、一時的におまえに移るようにした。多様は禁物だ』
 おれは言われた通りの四つのキーを同時に押した。途端に一瞬だけ眩暈がして、ぎゅっと閉じたままの瞼の裏に景色を見た。
 大雨が降り、海ができ、水の中に小さな生命が生まれる――生命は巨大化していき、殻を持った生き物は陸に上がる――陸に適応し、さらに大きくなっていく――虫が生まれる――恐竜が生き――隕石が降り注ぎ――恐竜は絶滅する――小さな哺乳類や鳥の時代――そうして猿が後ろの二本で歩き出し――脳が大きくなり――ヒトになる――ヒトは火を発明し――狩りや農作で他の動植物を蹂躙し――戦争で他の民族や国を蹂躙する――国は栄え、滅び――繰り返され、そうしてやっと、おれにも地球上で見慣れた風景が現れる。
 一瞬にして情報を浴びせられ、処理が追いつかない。今のまま目を閉じていた方が落ち着く。おれは今、本当に地球の今までの歴史を見せられているのだ。
『その視界を。地球の歩みを共有するのだ。でもそれだけではいけない。最後の方はお前の地球での思い出で埋めなさい』
 さすれば会えるさ。そう男は言い残したような気がするが、耳を通り抜けてしまった。
 この景色をサンに見せたらどう思うだろうか。きっと好奇心旺盛なあいつなら、楽しい景色だと興味を示してくれるかもしれない。そうして、今現在の地球に辿り着いてくれたらいい。

地球でお会いしましょう-記録Ⅳ

地球でお会いしましょう-記録Ⅳ

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-08-28

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