「月下」
虫一匹で誰かを殺せますか
少女は黒い夜と白い月灰色の漣を夕暮に模したワンピイスの前で両手を組む。
強い毒を持つ虫ではありません、蛾一匹で殺したいのです
一面の新雪に水彩絵具をポトポトと垂らし滲むを待った雪野原。その光景が彼女の眼球である。
三日月涼しい夜ですね、こんな刻は蛾が大層喜んでお話を聞かせてくれるのです。
月の繭が降る降る、淡い。
あら、私の蛾は短命ではないのです。人と同じくらい長生きするのですよ成虫の姿で、ねえ。あの、聞こえていらっしゃる?驚くのも無理はありません、虫がこんなに長寿だなんて御存知なかったのでしょう?でももう御存知なのですから、これからはもう怯えませんね。
万華鏡という単語はこの瞳には穏やかすぎる。
ひとり、御紹介しましょうか。此ノ子は躑躅と申します、見目の通り朱と紅鶸色を混ぜたやうな翼でしょう?雀みたくチッチッとは鳴きませんがねその代りうつくしい唄を教えてくれるのです。ほら、御覧なさいな、今丁度貴方のお顔に貼り付いて、耳元でかさかさと話しているでしょう?まあ可愛らしい、手ぶりで一生懸命に伝えて健気な仔……さあ、お別れに接吻をしてさしあげなさいね、折角聴いてくれたのだから、貴女のうつくしい鎮魂歌を。
少女はひらりとワンピイスを空に泳がせて口遊む
“お花を摘みましょ綺麗な花を
結わえてリイスにいたしましょう
扉の前に括りつけて
おいでおいでと呼びましょう
鱗粉まぶして仕上げたのなら
蔓でリボンを飾りましょう
まん丸リイス
魔除けのリイス
お花を摘みましょそうしましょ
“
旋律春を知らない野辺を伝って眠る樹木に呼び掛ける。躑躅の翼は色が深まり月下を飛ぶ、人の目覚めぬ町の外、少女と蛾の後ろ姿を見送る者は誰も無い。
一
鶏頭の鮮烈な赤がぼやりと視界に潜ると、否が応にも目は覚める。朝顔は横たえていた身体を起こし、格子向うの庭を見遣った、その瞳は新月から進まぬ空の色濃く深く、整えられた顎鬚は寝起きにも乱れぬ程度に短く揃い、引き緊った薄い唇はニコリともしない無表情、少し伸びた黒髪は後ろに無造作に手ぐしで撫でつけられて、呑気な欠伸もしない男。
朝顔は布団を適当に畳み部屋の隅へ押しのけた。だがもう一度布団を敷いていた場所へ戻ると、ストンと胡坐をかいてまた庭を見る。
「百年待っても百合は咲かん。」
光射す朝の翳、朝顔の瞳に届かない木漏れ日。
無理もない、此処は田舎の話ではなく、都会の監獄の物語。庭も檻の中の敷地の一つに過ぎないのだから。
ビルヂングは蛭のようにぐにゃぐにゃと背筋を伸ばして建ち並ぶ、もはや公園や空地の隙入る間も無いが、ぽっかりと柘榴の木が生える周りを伽藍並の面積で確保している土地があった。其処こそ朝顔の収監されている暁監獄所である。
世論は犯罪者の更生を擁護する風潮にあった、と言うのも二年前、少年院で相次ぐ自死が起きたため、その中には高層社会に名を列する者の一人息子も混じっていたし、村から都会に出て来て目の眩んでしまった学生帽も混じっていた。少年院の体制が厳しく問われ、貴賤混合で組まれた査察隊により天井裏の煤から廊下のタイルの溝まで調べは尽くされたが、少年院に落度は無しの結論に到った。民衆は不満を露わにするものの、武力で蜂起する策も胆勇も無知も持ち併せていなかったので、やがて少年院を問う声も静かに眠っていったのだが。
「死に際に男を騙す、命懸けで嘘を吐く女とは何だ。」
朝顔はとある作家の短編小説を読んでいた。
「詐欺師ではない。奴等は騙された奴が苦しむのを生き甲斐とするんだ、だが、この女は違う。
何だ此奴は、何がしたい、何故嘘を吐いた?」
息子を少年院で亡くした議員は納得しなかった、どうにかしてあの澄ました顔の院長の化けの皮を剝いでやりたかったが、生憎議員は常に国民によって銃をこめかみに突きつけられている奴隷である、私事で動く議員を国民の眼は許さない、だが不肖の息子でも息子は息子、可愛いと思わざるは親の心に非ず、雁字搦めの彼の一念は一人の男を引き寄せた。
男は殺し屋だと言った。そして、雪が好きだとも言った。昔、淡雪のような娘に恋をしたが自分の手は花を咲かす為の手ではない、狂った時計の針をぶっこ抜き、グサグサと椿を醜く引ッ千切る為の手であるゆえに、娘とは一言も交わすことをせぬまま此ノ街に流れて来たのだと言った。だが若し娘に何か危害を及ぼす者あれば、と言って愛用のライフルのボルトをするり撫ぜたかと思いきや雇い主の議員の眉間にひたりと冷たい鉄を無駄な力を込めない洗練と流麗を兼備えた所作でニコリと笑う。
二
“朝顔って言うんだぜ、彼奴の名前。男の癖に女郎みたいなお名前だい。”
子供は何でも見下したがる、特に同年代の者であれば殊更に。容姿名前趣味嗜好…兎角自らとは違う異様を血眼で探しそれを秘蔵の宝のように大切に大切に匿う、伝家の宝刀をして他者を傷つけせしめんとする餓鬼の一念の哀れさよ。
“彼奴の母親は商売女だぜ、遊女よ遊女、卑しい身分の生まれだい。だから男の名前に花の名前を付けたんだぜ学が無ェや。”
気の狂った母親は、我子の名前に自身の肌守りとする着物の柄の名を付けた。
「このお着物はねぇ、亡くなった貴方のお父様が私に初めて贈ってくださったものなのよ。」
子は今は亡き美しい母の言葉を信じていた。齢にして六歳、朝顔は初めて人を殺した、その数二。手近にあった小石を顔へと投げつけ目を眩まして重心の崩れた所をどんと突いてしまえば一人は簡単に転げ落ち、ひるんだもう一人はいとも容易く石燈籠に頭をしたたか打ちつけた。無駄一つ無い所作により田舎の子供達の遊び場であった神社の境内は事故現場となってしまった。朝顔は無口な子だったこともあり、母親の事情のみならず不運の事故で友人を亡くしたショックもあろうと、周りの大人達は少年に事故のことを聞かなかった。
カツン。一歩、一歩。
母が亡くなった後代りに育ててくれた祖母が亡くなる時には朝顔少年ではなく朝顔青年に迄成長し、彼は家族達の眠る墓地で深く一礼した後都会へ出た。
大阪の街は騒がしい。先づ人が騒がしい、そして車が騒がしい、とどめは自転車が騒がしい。
「よくもまあこんな場所に住もうって輩の気が知れねェが、まあこの街なら仕事に余ることは無さそうか。先づは道具の調達だな。」
大阪心斎橋から難波迄南下していく御堂筋には両脇に所狭しとホテル、ジュエリー、ブランド、外車達が安い防弾ガラス越しに白粉整えて高いメイクブランドのお化粧をして通行人を選んでいる、金持ちの旦那さんを掴まえて虜にさせて骨までしゃぶって見受させてもらうのだ。
「其処のお兄さん如何です?今期入ったばかりの新作で、銀の指輪ペア一つ分、如何です?彼女さんとお揃いで、身に着けましたらステキですよぉ?プロポーズとして、ドンッと贈っても」
「………………………………」
無言。その両眼は購入を迷う為の悩む眼でなく、今からこのクソ餓鬼をどう黙らせようかの思案。一目で安モンと分かる物押し売りやがって番頭風情が下卑た商売を。だが店内を見ると故郷ではまず見ない金額の商品が次々と来店する客によって飛ぶように売れていく。…成る程、此奴ァ景気が良さそうだ、資金調達にも困っていない、なら人を雇える可能性がある、それに佳い香りがする。
「オイ坊主。」
「ハイッ⁉」
先刻から無言の凝視にビクビクしていた販売員は、カモにならなかった青年の呼び掛けに良い反応をする。
「此処で雇ってほしいんだが。責任者は何處かなあ?」
にっこり。朝顔の笑顔は猫が微笑むような
「い、いえ。今当店で社員やアルバイトの募集は…」
「用心棒になってやると伝えて来い。」
底知れぬ整った笑顔。
「うちの若ェ奴で遊ばないで下さいよ旦那。」
「あんたが長か。」
恐怖に店員を泡吹いて気絶させてしまった後、その動搖が広まる前の雫を速やかに桶で受け止め波紋をも起こさせない、流石プロの始末屋は作法を得ている、一般人の動きと組み合わせた処理の為の作法を。
朝顔はスタッフルームの扉に案内されると長い階段を下ろされた、空間は暗く下りる程店内外の光が遠くなる。下りきった前にある扉をコンコンコンと叩けば、くたびれ顔の店のオーナーがソファに座って待っていた。
「あんな坊主店先に出しとく方が悪いんだろう?」
胸ポケットから煙草を取り出しマッチを摺る。パチリ燐光は青紫に染まり炎をくゆらせながら咥えたシガレットの巻紙に身を凭す。
フーッ。
煙を吐くと同時にソファにどっかと座り足を組む朝顔、緊張したままのオーナー。
「何故目を合わさない?」
少し鼻に掛かった低い声には物腰柔らかな表の音と彼の両眼の如く底無しの黒の裏の音が隠れている。だがその隠れんぼは弱者で無力で卑怯者であればある程見つけやすい。オーナーはすっかり硬直した。
「此処から佳い武器の香りがしてね、それで気になって入ったんだが…なぁオーナーさん。俺は此処の摘発に来たんじゃない。だから安心して商売のお話をしてくれ。俺はただのお客さんだよ。」
にっこり。
「あ……そうなのか?てっきりバレちまったのかと…」
「俺は警察官なんてガラじゃあねえ、むしろ正義とはかけ離れた人間だ、なんたって殺し屋をして働くためにこの街に来たんだからな。」
殺し屋?何で?と質問するのは野暮だろう。此処に銃を買いに来る奴はそれぞれ事情や過去を馬鹿正直に抱える胡散臭い奴ばっかりだ、多分、この男もそうだろうと、オーナーは問いを呑み込み立ち上がると、朝顔に着いて来るよう顎を動かす。だが朝顔は座ったまま片手を突き出し
「あんたが知る中で最も遠くから打てる物を一本与れ。」
「実際に見なくていいのか?」
「佳いライフルの香りなら間違えない。」
前言撤回、自分はこの男を並み居る始末屋と錯覚していた。この客は他と違う。ライフルがあるなど一言も教えてはいないし客に分かる筈も無いのに、この男はそれを嗅ぎつけいたというのか。冷汗をオーナーの太った背をしとどに伝う。
「分った。では最上等の物を持って来よう。他に必要な物は?」
「俺を雇ってくれる奴が欲しい。」
「それなら心当たりがある、其奴の情報も持って来よう。」
オーナーが隠し扉の壁に消えて行くのを見届けると、朝顔は居眠りをし始めた。オーナーのボディーガード五名に銃口を突き付けられたまま。
三
山百合雪、夏の白と冬の白を掛け合わせた名前の娘は一度会う者に全員瞠目させた、というのも彼女は常に自らの両肩に蛾を一匹ずつ載せているからで。ひとりは躑躅、もうひとりは雪丸と名付けられた紅百合目覚ましい三日月虫達は主人である雪によく懐いていた、林檎の蜜を一緒に吸い櫟や小楢の樹皮も分かち合う優しい主人。
「雪丸、寒くはない?」
躑躅よりも寒さが苦手な雪丸に声を掛けると、パタパタと翼を振って返事する。雪丸は素直な子で躑躅は少しおシャイな子、そして雪は優しい子。
「そろそろ暗くなりそうね、ほら御覧、もう李が湖に沈む。今晩の宿を探すから、ふたりとも外套の裏に隠れておいで。」
雪が羽織る真白な外套の裏地に蛾はそれぞれぴたりと貼り付き身を隠す。虫が一緒だと泊めてくれる場所は一気に無くなるから、少女の経験上の対策であった。すんなりした顎より少し長めの灰色の髪は所々くせっ毛らしくふわふわとよく風を吸う、その纏う気に大抵の人は関心を寄せ気を許してしまう。長い睫毛はふさふさと大きくも切れ長の瞳を覆い新雪の眼球をちらちらと蛇の舌のように覗かせれば、もう他人はすっかり雪への警戒を緩め安心してしまうのだ、可愛いワンピイスも相まって。ところで、冒頭でお話した物語を諸君は憶えておらるゝだろうか、あの詩の主人公こそ山百合雪であり、一つの町を黙らせた張本人。雪の手口は先ず相手への警戒心を解く事から始まり、その後雪丸と躑躅に相手の耳元で囁かせるともうお終い。証拠も痕跡も遺さない娘の手遊びがまさか人を殺めるなどとは警官達は露ほども考えないので依然犯人への足掛かりは見当らず捜査は難航、世間は好奇と恐怖半々の目でこの殺人者の噂を立てていたが、その中に雪の名前は上って来る筈も無く。
おまけに世間は今もう一つの話題にも湧いていた。それは、少年院の院長が何者かに射殺された事件である。新聞があれこれと犯人像の推測をする虚ろな記事を読み乍ら、真犯人である朝顔はカフェーで珈琲を啜っていた。
“少年院ノ院長ガ射殺サレシ現場ニハ銃弾ガ残サレテオリ、警察ハ此ノ弾カラ犯人ヲ追ウとシタガ、其ノ線ハ早々ニ潰レテシマッタトノ事実ヲ我々ハ入手シタ。現代デハ先ヅ使ハレナイ旧型ノライフル型銃デアリ、飛距離ハ凡ソ三千メエトル。此ノ距離デ相手ヲ正確ニ撃ツノハ不可能ダトノ見解カラ……”
「天下の警察も頼り無ェな。」
乾いた低い笑い声、新聞を畳んで机に放り、窓硝子越の川を見る。
“此処迄凄腕ノスナイパーは戦時中ニモ居ナカッタ…”
「じゃあ俺は置いてきぼりの軍人ってことかい。」
呟きは人の耳に入ることなく囁きのように珈琲と共に呑まれていった。しかしそのカフェーの硝子に一匹の白い蛾が留まって居たことを、朝顔は知らなかった。
お父様は如何して亡くなられたのかお話しましょう。
亡くなったのではないのですよお母様、貴女はあの女に捨てられたのです。きっと他所に好い男でも拵えたのでしょう。
お父様はね、流行病で亡くなられたの。
男に刺されて死んだのですよ、不潔だと罵られて。
あの方の子を妊娠したと知った時、母は涙があふれました。
女同士で子を産んでは男の立場が無いではないかと
お父様はとても愛情深い方でした
愛持つ者が妻を捨てるのですか
だから朝顔、お前も必ず優しい仔になれます
俺は貴女に似たかった
父と母に祝福されて生まれて来たのです
母を捨てた父なんぞ憎いだけです
だから朝顔……
いつも此処で目が覚める。病床で死の間際母が俺に何を言って、笑って息を引き取ったのか。知ろうとすれば目が覚める。そして必ずその夢には雫の落ちる音がする、ぽとり、ぽとり、ぽとりと一粒ずつ途切れぬように続く音が。
カフェーでいつの間にか転寝をしていたらしく、外はもう街灯が散らつき始めており、女給は文句の一つでも言いたげな不服顔で黒珈琲だけで長居する男を遠慮もせずじろりと見ている。
「客ッてのはすべき事が多いな。」
金を払うばかりでなく店を良い場であるよう保つ、従業員に不快な思いをさせないよう笑顔でいる事暴言や愚痴を発さぬ事おまけに店の物を壊さない事傷付けぬ事、紳士淑女の嗜みを失わぬ事、あれやこれやと注文が多くて肩が凝る。社交的な場は朝顔には不向きだが、警察がどう動くのか新聞で知る為にわざわざ入店した訳で。黒珈琲は彼の苦手な環境に居る緊張をほぐし過ぎたのか、すっかり微睡んだ珍客への露骨な視線を背に受けながら朝顔はようやっと店を出た。後は潜伏先のホテルにでも戻って次の指令が来るのを待つだけだ。少年院の院長を殺したことで雇い主は大層朝顔に入れ込んだ、また仕事を貰えるかいと煙草ふかして尋ぬれば、殺したい奴など無尽に湧くわ、だって。怖。
「もうあゝなった奴は箍が外れている、誰でも彼でも殺したがるぞ。」
まあ俺に仕事があがってくんならそれでいいか。エレベーターホールでボタンを押し、上りが降りて来るのを待つ。後は風呂に入ってゆっくり寝よう、まだ警察は俺まで辿り着かない。
「今晩は。朝顔さんですか?」
目だけで背後を確認すれば、一人の娘が立っていたが―――
「雪⁉」
初恋の人がこんな現れ方すれば、男は如何に反応するのが正しいのだろう。朝顔のように駈け寄って華奢な娘を深く抱きしめるのは、周りの観客には喜ばれ、拍手の音もほわほわしたが、
「見せモンじゃねえ」
と有無を言わせぬあの低音でお祝いムードを一気に白けさせ、青ざめた衆人達は一人また一人後退りしながらそれぞれの部屋に入って居った。後に残されたのは二人だけ、ポーンとエレベーターの到着し扉が開く音がする。二人はそのまゝ乗車して、どちらも一言も発さないままに朝顔の部屋へと入って行った。
四
人を殺める時、感情や激情で手を動かしてはならない。相手を確実に仕留むる手段に忠実に則る、一歩離れた額縁の外から眺めなければ何處かに綻びを許してしまう、殺人はさり気ない必要性を被せることで事故とすることが出来る、少年時代に朝顔が学んだことはあまりに並の少年達とかけ離れていた。
「父親が居ても居なくても同じだったろう。」
その返事はライフルで仕事を終らせた後、いつも話し掛けて来るもう一人の自分の問いに答えたものだった。
「如何してお前は人を殺すことを選んだんだ?」
「お国の為に生きる道を選んだからだ。」
「お国の為に殺して幸せだったか?」
「幸せが俺にはよく分からん。」
「でもお母様のことは好きだったんだろう?」
「頭が狂った中でも俺のことを見つめてくれた。」
「それが幸せと言うんじゃないか?」
「俺に幸せを与えてくださったお母様は幸せだったのだろうか。」
「俺は子を持ったことが無いから分らない。」
「お父様が居たらお母様は幸せだったろうか。」
「お父様が居たらお前は人を殺さなかったんじゃあないか?」
「父親が居ても居なくても同じだったろう。」
自問自答を繰り返す。母が枕に伏せた時も、その美しい魂が離れた時も、地方の学校に通った時も、戦争に行った時も帰還した時も、祖母が亡くなった時も、父親である女は一度も姿を見せた例が無かった。
「父親が居なくても子は育つ。」
壁に掛けたライフルの下、ベッドに胡坐をかく朝顔は煙草の箱を両手でいじっている。
「俺の記憶が正しいなら、蛾の前で煙草は禁止だったかな。」
雪は朝顔の横、同じベッドにきちんと正座している。
「はい。雪丸も躑躅も煙は苦手なので。」
娘の瞳は今白に彩色されておらず、佇む紫陽花の影を一色込めている。彼女の瞳は月の満ち欠けでその日毎に色が移る仕組みらしいが、どの色に変っても黒眼の模様は点々雫を垂らした花模様。花は朝顔を見つめている。
「如何して一言も仰有らずに戦争へ行ってしまったのですか?」
淡雪の愛しい君、触れてしまえば
「こうならないように町も離れたんだがな……」
染めずには居られなくなりそうな
「でもこうなっちゃいましたね。」
背中から蛾がふたり飛んで窓辺に行く
「俺はお前の父親を殺したのに、何故俺に懐く?」
翼は睦まじく戯れて紅い雪牡丹を咲かせている。
「私のこの瞳を、美しいと仰有ってくれたもう一人だからです。」
朝顔の母親だけがその地域で芸者をしている訳ではなかった。彼の育った地域は昔から芸者が多く、年中三味線の音が何處かしら耳に届く、だが或日その耳に悲鳴が聞えた。妾が多い町では痴話喧嘩や刃傷沙汰も珍しくなく、朝顔は男の死体も女の死体も見慣れていたし、叫び声もしょっちゅう流していたが、その悲鳴だけは聞き逃せなかった、何故、と考える暇も無く彼は走りだしていた。
雪には年の離れた姉が居り、彼女とは血が繋がってはいなかったものの、姉は雪を本当の妹以上に可愛がり、しょっちゅう美味しい物やお菓子を買っては手ずから食べさせ、綺麗な服を着せては毎日毎日抱きしめて囁くには
「おまえは普通の幸せを手に入れるのよ。とっても可愛いもの、すてきな人と結ばれるわ。その時は姉さんお祝いを贈るわ誰にも負けない程の祝福を。」
贈り物に優劣はありませんよと幼い雪が首を傾げれば、そうねと笑いながら妹の首筋にキスをした。雪の洋服はいつもぢろく長い襟が項までくるりと囲っていた。
「私達の父さんも、女の人だったら良かったのに。」
雪と父親は血縁関係だったが姉は違った。少女から娘へと成長し、娘から女性へと着物を脱ぐ羽化は艶をしたたらせる。その肌は愚かな男に涎で汚された。姉は毎晩布団から裸で起き可愛い妹にそのまま抱きつくと言うのである、
「私達の父さんも、女の人だったら良かったのに。」
姉は妹を可愛がった、その日は三日月の夜であった。姉は行為の際必ず雪の目にキスをして、
「貴女の目は綺麗ね、美しいわ。」
と褒めてくれた。いつもその美しい瞳からは涙があふれていた。
女の父親。そう言えばそんな噂を聞いたことがある、でもこの地域は広いから、若しそのような家族が居ても少女のか弱い脚で辿り着くは難しいだろう、でも、その人に逢えば、姉さんは元の姉さんに戻るかもしれない、その人、その人のご家族にさえ逢えたなら。しくしくと家の広い庭の一角で木陰に隠れて泣いていたら、ひらひらと紅い葉が目の前を掠めて落ちた。
「桜の葉?」
それにしてはやゝ大きい。触れようとするとピクリと動き少女はハッと息を呑む。葉っぱでない、生き物だ。蝶によく似ているけれどそれにしては羽が大きい、鳥の目玉のような模様の朱い羽で身体がほとんど覆われている、これは
「蛾だわ。」
一度二度夜の町中でお使いの際見た記憶がある、こんなに大きな羽ではなかったけれど、人々に酷く邪険にされた後蝿叩きで潰されていたのはこんな形をしていたっけ。
「苦しいのかしら。」
雪の家の庭には小さな滝と流れがあり、いつも水車がきりきりと清い音を立てて回っている、その流れにざんぶと両手を入れて瀕死の蛾へと振り掛けた。
「死んじゃ駄目。」
胸に抱きしめ小さな小さな額に接吻をする。バクバクと心臓が高鳴る、緊張は背筋にも走り冷たい汗がつうつう伝う。
「起きて、お願い。」
少女は利き手の手首にガッキと白歯を立てて薄い柔肌を噛み裂いた、滴る祈りを枝垂れる口吻に注ぐ。
「死んじゃ駄目……お願い……」
傍に居て。
雪が蛾を抱いて蹲る木陰の向こう、柵を隔てた木漏れ日の中、息を切らせた若い男が立っていた。光射す月の未だ出ぬ薄花桜の空の下、新月の目と新雪の目が合わさった陰陽の閃光は幼い娘と青年を瞬きさせた。
とくん
心音が肌に伝わる。もぞもぞと毛玉が動くようなむずがゆい感触に目をやると朱色の羽がぱたぱたと元気そうに雪の腕をたたいていた。
「あっ…良かった。」
あまりほっとして気が抜けたのか、平常よりやゝ上澄った声になってしまった。
「あ、…えぇと…」
しどろもどろになる。家族以外の誰かと喋ったことが無いから、こういう時どう振舞うべきか分らない、冷汗とは違う熱い汗が額からあふれて頬に熱を伝えている、言葉、言葉が出て来てくれない、恥かしい。俯向いたまゝの顔はそのままに視線だけを少しずつ上げていくと、青年はまだ同じ場所に立っていた、でも顔を見るのが恥かしい、でも、
ちらり
あゝ、そんな微笑みを、私は知らない。彼は唇だけ動かして、「美しい瞳だね」と告げて去って行った。肩によじ上って来ていた仔が言う、
“あの人は朝顔っていうんだよ”
彼の去った足下には、柵から零れた小さな躑躅の花がぽとりと咲いていた。
朝顔が出征の為都会へ去ったのと、雪の父親が何者かに殺されたのは、それから三日目のことである。
五
躑躅は一週間経っても一年過ぎても死ななかった。父の死んだ後姉は雪を抱きしめて泣き乍ら何度も何度も謝って、雪の望むこと欲しいもの何でも叶えよう揃えようとまで言ってくれたけれど、雪は他の女の子みたいにあれが欲しいのこれがしたいのなどは言わないし思ってもいない娘なので、いつも困ったように優しい眉根を寄せてにこにこ微笑むばかりであった、そのいたいけな表情を見て姉は涙零し雪をまた抱きしめる。そんな哀しいけれど穏やかな日を過ごせるようになったのだ、雪の望むものはもう叶えられていた。
でも、もっと欲を言えば……
「姉さん。」
満月の晩、雪は姉に初恋を話した。
「朝顔さんと言う方、御存知?」
「朝顔…?男にしては珍しい名前ね。そんな知己が居れば忘れないと思うのだけど…明日、お光さんがお米を届けてくれるから、その時に尋ねてみましょうか。」
こくりと素直に首肯いて、姉の腕の中に潜り込むと、それまで部屋の隅にじっと留まっていた躑躅がひらひらと雪の形の良い頭に載っかった。あの日のことを思うと涙があふれる、あの優しい微笑みを思うと涙があふれる。貴方は何方にいらっしゃるの、も一度逢える定めでしょうか。今夜も泣き乍ら眠りにつく雪の頬に躑躅がそっと頬を寄せた、懐かしい静かな晩である。空に星は滔々と流れ迷子を誘う天幕の相を為す、その内側に足を一歩踏み入れれば、固い床に靴音が高く響き、ずっと鳴り続けるのであろう、音に押される形で一歩、一歩、また一歩と踏み出して行くその先に、うつくしい北極星があれば良いけれど……
「雪、明日は神社に行こうね。朝顔さんに逢えるようにお願いしに行きましょう。」
躑躅の寄り添うとは反対の頬を白い指で撫でる。
星はみんなうつくしいものだから。
朝霧を胸いっぱいに吸う紫陽花は、一欠一欠が虫の羽を真似している。鮮明な輪郭は細くも凛と引緊まり、刺繍の針で縫われた肉眼では視えぬ血管に雫の名残が触れ合えばたちまちに颯と色を露わに震わせる、境内は静かな唄であふれていた。
「綺麗ね姉さん。」
「えゝそうねえ。」
姉は花を見て綺麗だと妹が言ったと思っている。
「神主さん、こんにちは。」
此処は縁結びの御利益が灼な事で知られる古い神社であり、一年中深緑の苔が石畳にも境内にも坐す人里離れた場所であるが、それでいて鬱蒼と陰気な匂いを漂わさず、むしろ清流に囲まれた空気晴れやかな鳥の憩い場のような観がある。
「ようお参りで御座居まする。」
神主も頭こそ白髪夥しく眉も髭も年月に染まってふさふさと色は抜けているものの腰骨はシャキリと据わり此処に配属されてからは一日も勤めを怠らぬこと五十年の背筋はひねくれていない。それでいて慎み深く人より前に出ない目立たないこと心掛ける謙虚さよ、滅切減った参拝客にも憤慨することなく粛々と神に仕える老爺は、姉妹に深く一礼をした。老齢なれども清廉なる正しき忠を尽す神主の心を受けて姉もまた丁寧に頭を下げる、妹はその真似を懸命に、姉に手渡された銀貨を落さぬように握りしめ歩く後をついていく。
チャリンチャリン…カラロコカラロコカロロカロロ
鈴を鳴らして手を合わす、その合掌に朝顔の無事を祈り、また巡り逢えますようにと情けを乞う。隣で目を閉じ祈る姉も、きっと同じように思ってくれているのだろうから、雪は不安と安心がない交ざった鼓動を自らの内に感じていた。
「雪、此処は昔お参りの人が澤山来ていたのよ。」
少し昔を思えばか、姉の瞳は雪を離れて苔蒸す石燈籠へと向けられている。
「昔って、どのくらい?」
「そうねえ、雪が生れる少し前のこと。此処は小さな子供達の遊び場だったのだけれど、事故が起ってしまったの、幼い子二人が亡くなってしまってね。一人は階段から足を滑らせて、一人は石燈籠の根際に頭を打つけてしまってね、可哀想に、もう一人の男の子が居たそうだけれど、物も言えないほどだったって。それはそうよね、一緒に遊んでいた子が急に死んでしまうなんて……その事故が起きてから、此処は不吉な場所だって噂が広まってしまってね…少し前は縁日なんかで大層賑っていたお社なのに、もう芸者も来ませんか、神主さん。」
「不吉を感ずるは人間の生存本能に因るものでございましょう、私が誰かを恨むなど思う道理もありませぬが、近頃は人っ子一人訪れなくなりました。確かに以前は芸者衆の御参詣が随分多くありましたが、今では結んだ御縁が切れると思われてしまい、とんと、お参りの方はいらっしゃりません。ですが人は移ろえど神は移ろいはしませぬで。」
「此処は今も昔も、縁結びの神様のお社なのね。」
「姉さん、朝顔さんのことを思ってくれたの?」
「えゝ。雪がその人と結ばれますようにと、きちんとお祈りして来たのよ。」
妹と姉はよく似た笑顔を交わし、神社の石段を手を取り合って下りて行く。帰り路に着く姉妹の後ろ姿をほくほくと見送る神主、唯だ一言。
「神の御前で嘘はいけませぬ、いけませぬ。」
六
お国の為に戦って、楽しかったかとまた自分が訊く。
「戦争に楽しいも何もあったものか。」
只人が殺したいから行ったのか?
「そんな理由でお婆ちゃんを置き去りに出来るかよ。」
父が嫁いだ先は陸軍将校の家だったんだろう?
「逢えると思ったから出征したとでも?」
違うのか。
「そんなに俺は執念深く映るのか?」
だってお前大きな山猫のような眼玉をしている。
「戦時中は誰でもそうなる。」
まだ眼が抜け切らないのはどうして?
「何でだろうなあ。まだ殺しを続けているからかもしれんな。」
何故人殺しになったんだろう
「天性のものだったに違いない。六歳で人を殺めてしまう子供だったもんなあ。」
撃ち殺したいのか
「父親を?」
だって父は女ながらに銃の名手だったんだろう?
「いつもお母様が話してくださった。おまえのお父様は外との戦いで大層ご活躍なされたからって。」
父親譲りの才か
「黙れ。」
煙草をぐしゃりと握り潰す。潰した煙草は未だ手の中で燃えている。
「朝顔さん。」
ベッドに眠る雪がとろんと目を開き、声を掛ける。
「雪。」
雪の一糸纏わぬ姿は正に月の繭を想わせる。
「ごめん、驚かせたな…俺は平気だ。」
再び布団に戻り、雪の身体を抱きしめる朝顔、その哀しい胸に額をうずめる雪。
「何方に行かれるのですか。」
「刑務所、と言ったらどうする?」
「何故?」
二人の鼓動はとくりとくりと合わさってゆく。
「お父様のこと?」
朝顔の頬に手を寄せる、一途な紫陽花の気貴さ。
「思い出した記憶がある。父親は陸軍のお偉いさんだったんだ。」
「だから戦争に行ってしまわれたの?」
温かい白魚の指に長い指を絡ませて、名残惜しむ冬の花よ。
「どうなんだろうな。俺も何故戦争に出たのかよく分らない。誰かを殺したかったのか、それとも、父を見つけたかったのか…」
「お父様に貴方を見つけてほしかったのでは?」
外に曙の霧が立ち込め始め、冬の朝には似合わぬのどかな薄桃が部屋に射し込む。光に反応したか、カーテンに留まっていた躑躅と雪丸は雪の背中にふわりと付いて、大きな翼をひらりと裸体に纏わせた。いとも清らなる女王のマント、塵も芥も寄せ付けぬ天真爛漫の毒のマント、その頭に旭の輝く朱華色。
「逢いに行きましょう、朝顔さま。貴方のお父上に、私も参ります。だからこうやって都会に出て来たの。」
今日の月は新月か、瞳は白無垢の紫陽花の色、雫は冴かな紅の色、雪景色に純潔の誓いを滴らせた恵み深き恋の色。
「おまえには敵わんな。」
その微笑みは、あの日と一つも変らなかった。
七
「雪、どうしても朝顔さんに逢いに行きたいの?」
姉さんどうして泣いてるの?
「姉さんを此処に残して行くの?」
置いて行きっこない、姉さんも一緒に行きましょう。
「姉さんは行けないの、此処から離れられないの。」
姉さん足に何か絡まってる
「ずっとあの人が私を離してくれないの。」
植物が、蔦が絡まっているわ姉さん、それだけでない、樹皮が、ぶ厚く、掴んでる。
「私はもう歩いて行かれない。恐ろしいの、あの人を殺したあの男が。」
あの男?
「あの人は殺された、酷い死に方をしてしまったの、天寿を全う出来なかった。」
あの人?姉さん、誰のことを仰有っているの、私、何だか分らない。
「憎い、憎い、彼奴が憎い。私のあの人を殺した彼奴が恨めしくって堪らない。」
待って、姉さん、一人で何を話しているの?妹の私にも教えてください、貴女は一体何に
「お前は妹じゃない、わたしとあの人の娘になってほしかったのに。私は妹なんざ欲しくなかった、あの人との子を孕みたかっただけなのに、如何してあの人にもう子供が居るのよ、姉のように振舞ってやってくれって、妹のように可愛がってくれって頼まれたから、私はそうしただけ。お前なんて殺してしまえばよかった。そしたらあの人が殺されることもなかったのに。お前が朝顔に出逢わなければ、朝顔がお前の為に人殺しなんざしなくって済んだのに。お前の所為だ、お前さえ生れていなければ、あの人は私だけを可愛がってくれたのに、何でお前は生れて来たんだ。」
姉さん、両足首に絡まっているそれはね、躑躅が食べてくれるわ。だからもう少しだけ待っていて。
「お前さえ生れていなければ。お前は悪い子だ、呪われた子だ、喜ばれない子だ。」
ほら、もう直に解けます。そしたらお庭の滝で洗いましょう、そのまま歩けば泥や土でもつれてしまう。
「私の優しさはあの人だけに与えたかったのに。」
躑躅ありがとう。もう此処迄噛ってくれたら後は私の手でほどけるわ。
「お前が嫌いだ。」
姉さん、傷が深いわ。今毒を吸い出しますから、少し痛みますけれど。
「止めろ、私に触るな汚らわしい。」
包帯が手元に無いから、私の両手でしばらく圧迫します。あゝでも良かった、もう傷が引いていきます。
「雪。」
ほら、御覧ください。傷痕に綺麗な花が咲きました。このお花、何てお名前か御存知?
「それは花か?」
憶えていらっしゃいませんか?真冬の曙の日、私が雪兎を作ったことがあったでしょう?その仔のお目々にこれを付けてあげなさいって、
「それは花なんぞじゃない、雪。それは泥だ。」
ビオラです。これは、ビオラと言う名の花なのです。珍しくはない植物ですけれど、これを手渡してくれた貴女のお顔はとても優しかった。
「そんな物私に見せるな。」
私は、貴女から優しさを教えていただいたのです、血の繋がった父からは平手打ちと暴言しか与えられなかったので。
「雪?如何したの?悲しいお顔をしているわ。」
だから、私は貴女を捨てたくないのです、見捨てたくない。私は貴女のご病気を必ず治します。
「怖い夢でも見たのね。おいで、姉さんと一緒に寝ましょう。」
病んだ芸者だって、生きていたっていいではありませんか、だって私の姉だもの。
三日月の晩の発作を一言も咎めないで、雪は微笑みを湛えるのを止めない。昔初めて逢った時、
「可愛い笑顔の妹が出来て嬉しい」
と、仰有ってくださった右頬の青痣いたましい笑顔を憶えているから。父に殴られても愛を求めた貴女は人とは違う強さをお持ちです。ならば妹の私にも何か強さがあるでしょうか。
「それが人殺しだったのか。」
愛しい朝顔は雪の泣痕残る頬を指でなぞる。
「この泣痕も貴方以外には見えませんよ。」
だって新月の夜に泣いた時のものだもの。
「他の泣痕も、あるのか?」
「三日月の晩、満月の晩、霞の夜、螢の夜…私の顔は泣痕だらけで醜いのです。」
「躑躅は美しかった。それは今でも変っておらん。それに、お前が優しいと言ってくれた俺の笑顔は、お前の泣き痕を見逃さなかったんだ。でも馬鹿だな、俺はてっきり父親だけが原因だと考えていたが…」
暴力を奮う男なぞ、死んでしまえばいいと思ったから、実行したのだが、やはり軍に入隊する以前は浅はかだ、まだまだ殺し方に深みだ足りていなかった。
「すまない。今の俺ならもっと上手く出来ていたかもしれないのに。」
雪丸がひらりと主人の背中を回って飛んで来ると、朝顔の口を塞ぐようにして被さった。
「駄目よ朝顔さま、それだけは…私は姉さんに罵られても姉さんを嫌わない。貴方が殺めるなんて、絶対に許さない。いくら大好きな貴方でも、許さない。」
乙女の怒りは恐ろしいと雇い主の愚痴を聞き流していた自分に少し後悔する。同じ殺し屋で初恋同士は流石に出来過ぎていると浮れていたが、きちんと異なる要素があって、安心した。気の抜けた笑みを零すと馬鹿にしましたねと頬がふくらのシマエナガ。吹き出す、怒る、笑う、怒る、乙女と青年は一仕事終えた彼岸花のあふれるホテルの一室で男の余裕と乙女の必死が対向する初初しい喧嘩を始め出した。硝煙の匂いと百合の花薫るその密室は、しばらく二人の口論の場となってしまった。
「掃除屋が来る迄なら付き合うが、彼等の仕事中は静かにしてなきゃならんぞ。」
「分ってます。じゃあお掃除が済んだら、美味しい物食べさせてください。大阪は何かしら食べられる所が澤山あると聞きました!」
部屋のインターホンがポーンと間延びした鈴を鳴らす。掃除屋の到着だ。
「おや、宮元さんの場所だったかい。」
宮元というのは、朝顔の仕事をする時の偽名である、この道に生きる者が本名を明かすことは先ず無い。初老の長が朝顔に挨拶すると、朝顔は一礼して部屋を出た、握られている手に連られて雪も外へ。
「何食べたい?何が食べられる?」
「大阪は何が美味しいですか?」
「俺は婆ちゃんの作ってくれたお握りと鍋以外の味はよく分らん。」
「私も、好物といった物は特段ないと思います。いつもは躑躅達と同じものを食べているくらいですから。だから、美味しい物を食べてみたいのです。一体美味しいが何なのか、知りたくて。」
「俺も舌が肥えていないからな、あんまり当てにはならんかもしれないが。」
「いいですよ。きっと貴方が美味しいと仰有る物が、私には美味しくないと感じるんでしょうから。」
つくづく朝顔は安心した。貴方の好きなものが私の好きなもの、というのは、彼の母親の病んでからの口癖であったから。
八
「雪、何を作っているの。」
初雪の朝、雪は嬉しくて庭に飛び出し、足跡をさくさくと埋めて行くと、其処には小さな林檎の樹が円い実を赤々と実らせていた。樹には立派な大きい果実が結ばれていたけれど、その幹の足元には小指の爪よりもやゝ小さい実が幾個か落ちて居た。誰かの腹を満たせる訳でもない小さな果物は、その半身を白い棺に自ら埋めて半ば眼を閉じて。その哀れな林檎の傍で少女は身をかがめ、赤く染まりゆく手指にも構わず何かを作っている。と、姉の声。
「兎。」
振りかえり姉を見つむる新雪の花。微笑み方はいつか見た想い人に似せて。姉はまだ幼い妹の傍に歩み寄ると、手作りの雪兎一羽を見た。
「まあ可愛い。上手に出来たのねえ、すごいわ。」
今日の病状は落ち着いている。その笑顔は初めて逢った日の笑顔。
「じゃあ姉さんも作ろうっと。」
毛皮の手袋をわざわざ脱いで器用に兎をもう一羽。
「目は…どうしましょう。もうこの実は落ちていないみたいだし、あゝ。
あすこにビオラがあるわ。少し摘んで来ましょう。」
鉢植えの花びらを幾枚か手折り、駈けて戻る間に雪はもう一羽兎を拵えていた。
「ほら雪、その仔のお目々にこれを付けてあげなさい。」
ちらりと肩越しに見えたビオラの植木鉢は、花弁だけでなく根こそぎ全て抉られていて
「可愛い兎さん達が出来たわね。」
その遺体に覆い被さるようにして、躑躅が土の水を飲んでいた。
姉はすっかり満足した顔つきで雪を一人残し言葉も掛けず父親の書斎へと向って行く後ろ姿を見送る妹の肩に、食事を終えた躑躅が留まり、頬を寄せる、その翼は朱色のみならず紅鶸色の雫滲む模様も混ざり、春と秋の名残を漂わせている。名残にまた、白露が。
「大丈夫よ。」
躑躅はこの言葉が大嫌いだった。主人がその語を発すると決まって濡れる頬を翼でぺしぺしと叩きまくるのである。
「御免。御免なさいよ。これは言ってはいけない言葉だったね、ごめんね、躑躅。」
胸に抱いて兎のもとへしゃがみ込む。雪は音を奪っていく。
かさり
躑躅がもぞりと動いて異音を雪に教えると、少女はハッと顔を上げて、異音の元へと眼を向ける。
「花?」
季節外れの鈴蘭が林檎の樹の幹から零れていた。
「幹に穴が…いつの間に?」
この樹は亡くなった雪の母親が大層気に入っていた樹で、毎日様子は見ていた筈なのに。穴はどんどん大きくなる。最初針穴ほどだった穴はじわりじわりと幹を呑み、指輪くらいの大きさになったところでピタリと波紋は止んで凪になる、鈴蘭がぽとぽとと樹皮からあふれて兎の周りにぱらぱらと散り、三羽のうち二羽はすっかり花に恵まれた。そして穴の中から、ひとりの真っ白な蛾が現れた。
「ヒメシロドクガだわ。」
一目見ると躑躅と同音に呟いた。
“お友達?”
「そうね、あなたのお友達よ。」
“名前が無いの。”
「泣かないで。私でよければ付けてあげる。」
“本当?”
「本当よ。この仔は躑躅、あなたとお友達になりたい仔よ。ほら、」
“友達?”
“友達、友達!”
「まんまるな顔が可愛いわね。雪兎の傍に居たから…まる、まる。雪丸、雪丸。あなたの名前は、雪丸。」
“名前嬉しい、雪丸、雪丸!”
“よかったね雪丸!”
ふたりの蛾はキャッキャと飛び回ってすっかりじゃれ合いを始めていた。その微笑ましい光景は涙で霞んでいく。ひとり目を拭う雪の異変に気づいたのか、ふたりはピタリと遊ぶのを止め少女の両肩にそっと載る。何も言えないで雪の中佇む妹を、姉は断熱の窓越しに一瞥した後遮光カーテンを音早く引いた。
その音が、中華料理の食堂の厨房奥から聞えた。
「如何して、姉は病んでしまったのでしょう。」
言いたい言葉を飲み込んだ。
「雪?」
様子が変だと感づいたのか、朝顔が煙の向うから声を掛ける。店内は熱気や蒸気で白く濁り、不安な簾の観を呈する。
お婆ちゃんは信心深い人で、いつも神棚は丁寧に掃除されていて、朝夕二回のお供えとお祈りを欠かしたことは亡くなる迄一度も無かった。
「おばあちゃん、どうしてお祈りをするの?」
母親が静かに寝入った時、布団の中で聞いてみたことがある。祖母は孫の背中を撫で乍ら教えてくれた。
「私達母娘はね、一度賊に襲われて命を奪われそうになったことが昔あったんだよ、まだ朝顔のお母さんが、おまえくらいの年齢の時。私とお母さんは、戦火を避けようと疎開先の此処へ向う途中だったけれど、列車が突然脱線してしまってね、それで亡くなってしまった人も随分居たけれど、私達は辛うじて無事だった。後峠一つ越えれば着いた処を、さぞ無念なことでしたろう。けれども弔いを充分にする時間も余裕も体力も生き残った乗客達には無くってね、そのまま呻き声や泣き声を置き去りにして峠を越えにかかったのさ。賊に襲われたのはその最中だよ。犯人達は皆日本人でね、外との戦い中に国内で秩序を乱すのかと私達の隣に居た紳士が叫びました。すると賊はどう答えたと思う?」
「なんて言ったの?」
「外との戦の所為で俺達は被害を食うたんだ、でなけりゃ誰が山賊に身を窶すかい、と涙しながら我鳴りましてね、生き残りの乗客達は皆ハッとして竦みましたよ。あゝせめて娘だけは生き永らえてほしいと祈り乍ら私は娘を抱きしめ目をきつくつむりました、もう殺されると直感して未練はあるが覚悟をしましたら、の、その時です。ギャッと男の魂消る声が、三、四聞えたと思いますと、シンと静かになりました。恐る恐る目を開きますとな、旭を背に受け馬に乗る一人の官軍の方がいらっしゃいました。
“怪我は無いか、負傷者はこちらで運ぼう。さあ頑張れもう一息で峠を越える。”
とまあ何とも涼しいお声で隆々と仰有る、その場に居た者は全員伏拝んで泣きました。それからは軍人様方の馬に勿体無い、皆分けて乗せていただきましてね、まあほんに神業というのはあのことでしょう、神様が、あの軍の方々をお遣わし下されたのです。
だから婆はこうやって、日毎お祈りを欠かさぬ訳なのですよ。有難や、有難や。」
お婆さんは朝顔の頭を撫でてそのままほくほくと寝入ったが、穏やかな表情の隣で朝顔少年は問い掛けた。
「では、お祈りを正しくすれば、お父様にも会うことが出来るでしょうか。」
父は来ないまま母は旅立ち、同い年の子供を殺し、やがて身体も大きくなったかつての少年は、祖母に尋ねた。
「お婆さん、父上は銃の名手だったと伺いましたが、本当ですか。」
今まで自分から父のことを訊かなかった筈の孫の言葉に祖母は驚き鍋作る手を思わず止める。
「如何したの朝顔、父親のことを訊くだなんて。」
「わたくしは、軍に入りとう御座居ます。」
「えゝ、何故そんな急に、まあ、何を。此度の戦は強制徴兵はありません、進んで死地に赴かずとも良いのです。」
「昔、教えてくれたお話がありましょう。神さまのお力で峠で命を拾えたお話を。あれを聴いてからずっと考えていたのです。私もそのような立派な人間になりたいと、それが、亡くなったお母様への孝行であると、父はたいへん御立派だったと、お母様は、いつも…教えて……」
「おゝ、まあ、おまえ、まあ、まあ、」
祖母はあふれる感情を堰き止めあえず、言葉も失い泣いて居た。
「今日まで育ててくれました御恩を決して仇では帰しません。必ず私は戻って参ります。」
固く抱き合い身を寄せ合う二人の肩は涙で深く湿っていた。鍋の煙が眼に映る。
「何か哀しいことでもあるのか。」
朝顔の問い掛けに雪は首を縦に動かす。
「姉の、ことを……」
棘は一度持ち主を選ぶと離れない。朝顔は雪の瞳に彼女の姉を思い、自分の母を重ねた。
「…軍の中で、一つの噂があると、聞いたことがある。」
「噂?」
「ある薬が軍人の間で出回っているという噂だ。その薬は、惚れ薬だそうだ。」
ポケットから煙草を取り出し最後の一本に火を点ける。
「意中の相手のことを念じながら飲むと、相手が自分から離れられなくなる効き目があるという触れ込みさ。俺も大阪に来てライフルを調達する時、武器商人の倉庫で見掛けた。」
佳い香りのライフルを希望通り手に取ると、にまっと口元を綻ばせ銃身を撫でる。一先ず命拾いをしたオーナーは、ご機嫌な朝顔の様子にほっと一息吐き、雇い主になりそうな男のことを話し始めた。
「その男は、高層階級の人物だ。息子を少年院で亡くした奴でな、少年院の院長を殺したいと憎んでいる。」
終戦間際に同じ階級の少尉が病院で読んでいた新聞の記事にあった気がする。
「俺等のこと、こんな小さな一面になっちまってる。」
陽気に話す朝顔と同じ年齢の青年少尉は、代々軍人の家系らしく、父親は師団の長を務めていた。
「もう敗戦が濃厚だと情報を流したからな。国民を冷めさすのが目的の作戦だ、見事に成功したようだな。」
一方朝顔は軍人一家ではないが、戦場での銃の腕前と頭の回転の速さ、そして冷酷さを高く買われ、一般市民の出にしては特例の出世を獲得していた。
「これも貴方の立案なんだろう、朝顔。」
「俺はただ上官殿に進言しただけだ、国土の士気を下げれば相手は警戒の段階を下げる。此方が弱体衰退していると敵に信じさせれば、此方の犠牲は少なくて済む。油断したら人は身を隠さなくなる、力押しで事を運ぼうとする、その正直な額をぶち抜けばいいだけの話だ。」
「賠償金はいくら貰えるかな。」
「政治には俺は疎い。それはお前のお父上や伯父上が考えることだろう。俺は一人でも多く敵を殺すのが仕事だ。」
仲間の少尉の吹き飛んだ左脚を軽く叩き、病室を後にする。死が重く垂れ込めている筈の病院は重症の兵士達の笑い声が満ちていた、見舞に来て酒を一緒に飲む奴もいる。庭には花が整えられて咲き揃い、若葉はつやつやと朝露を吸っている。
翌日戦争は終幕を迎えた。敵国の兵士を皆殺しにした銃撃戦の中で指揮をとったのは朝顔であった。
「自分に褒美は要りません。褒美は散って行った戦友達に与えて下さい。」
戦後上官に呼び出された朝顔は、勲章の授与を辞退したが、上官は諦めなかった。
「君のような男が武勲や褒美に興味が無いことは分っておるよ。でもな、私だけの一存ではない。陸軍将校直々のことなのだ。だから受け取るだけでも受け取ってくれ。」
上官は朝顔の性格をよく理解していた、数多の部下を一度も部下と呼んだ事の無い青年のことを。
「一般人の出なのによく此処まで出世出来たものだ。故郷のお祖母さんも誇りに思ってくださるだろう。」
冷血な作戦を練る者であるほど懐く者への想いは深い。断れば祖母を殺すという脅しである。
「式は明日だ。今日は家に手紙でも書いてやりなさい。」
「ハッ。」
部屋を後にした朝顔は、拳を固く握りしめる。
何故そうまでして俺を将校に会わせたがる?何を企んでいやがる狸ども。
「少尉殿。」
振り向くと軍曹が敬礼して自分を待っていた。
「留田少尉がお呼びです。」
「留田の部下か。」
留田は病院で朝顔が見舞った少尉の苗字であり、留田は出自の低い朝顔を見下すことない数少ない友である。
「病院か?」
「いいえ、留田少尉の自室に来てくれ、との言伝です。」
「そうか。」
昨日足を吹き千切られた奴が早速病院を脱走するなど、お前のお父上が聞けば卒倒するぞ。
「モルヒネでも持っていってやるか。」
彼奴に花は似合わんしな。
「花束を持って来てほしかったのに。」
「純情ぶるな阿呆。」
思いの外ピンピンしている戦友は、モルヒネの瓶を開けて笑う。朝顔もつられて笑い、皮のソファーに腰を沈めた。
「話ってなんだ?」
「薬の噂を知っているか?」
「薬?モルヒネのことか?」
「違う違う、惚れ薬のことだよ。」
「何だそりゃ。」
留田は空になった瓶を寝台に放り投げて、表情は唖然。
「おいおい嘘だろ、一等卒でも知ってる噂だぞ?お前なら軍の内部事情にも精通していると思ってたんだが。」
「俺は婆ちゃんに手紙を書きたいんだ。くだらん話ならもう俺は自室に戻る。」
ソファーから立ち上りモルヒネの瓶を手に取って、
「お前が取って病院を抜け出したって看護師に報告しとくよ。」
煙草を咥えて扉の前までずかずか歩くと留田の慌てた声がする。
「待て待て下らん話じゃない!お前の故郷の関係のある話かもしれないんだ!」
九
そもそも軍が惚れ薬などと嘘くさい代物に手を出す必要がない、そんな胡散臭い品は東京から少し離れた地方の遊郭場でしか流行らんだろうに。
「俺はそう言って、留田に溜息を浴びせた。だが彼奴は楽しそうに笑ったんだ。」
お前は流石一途なだけあってこのテのことには疎いね。でもな朝顔、世間をも少しよく見てみな、神聖視されている官軍も、裏は謀略だらけ。現に明日、お前は将校に会わなければならない状況になってるじゃないか。
「俺は反論出来なかった。上官は俺の性格をよく把握していて、俺が活躍出来る場を幾つも整えてくれてはいたが、それが軍の理想、あるべき姿と信じて疑わなかった。お婆ちゃんとお母様を窮地から救ってくださった軍人様方のように、正しい人ばかりが集うのだと…」
裏は謀略ばかり
「上官は一市民の功績を認め称えてくれたから俺に昇進を与えたのではない、一般階層出の軍人を上層部に抱き込みたかった、そして俺はそのお眼鏡に見事適った訳だ。」
「でも、何故?如何してそこまでして一般市民に拘ったのでしょう?」
「いいか朝顔、これから日本は敗戦国への支配を始めるその時一番何が重要なのかお前分るか?」
支配国の市民の懐柔。
「そう、今向うからしたら俺達は死神だ。自分達の手綱の命は此方が握っていると信じ恐れている。」
恐怖心を取り除く。
「そう、その為に考案されたのがドラッグだ。例の惚れ薬さ。」
恐怖は一度愛情を注がれれば簡単に溶けてしまう…それを支配国にばら撒く算段か?
「愛だけで難民の腹は満たせない。」
配給食糧に混ぜ込んで摂取させるのか。だが効果は?結果が出てなきゃ採用はされないぞ。
「それがお前の選ばれた理由の一つだよ朝顔。新薬には実験台が必要だ、粗悪品でないかを確かめる為に。」
朝顔は言葉を失った。最も正解に近しい疑惑、でもそれは
「芸者が多い地域の出身だから、目を付けられた。」
最も信じたくない正答で。
「朝顔、お前の故郷は軍の実験室にさせられたんだ。」
お母様。
雑音で塗れた中華料理屋は閉店も近くなりすっかり静まり返っていた。
「………」
雪は額に冷汗を浮べテーブルの中央を凝視したまま目線を動かせない。
「効き目は充分だった。今支配国の者達は日本に心酔している、良い国だ、優しい国だ、素晴らしい国だ、綺麗な国だってな具合にな。だが中にはその発言の最中に正反対の暴言を吐く者が稀に居るらしい、あんな国大っ嫌いだ、憎い国だ、呪われた国だって。」
「呪われた…」
掠れる声の瞼に流れる怨嗟の声は。
「お前は、呪われた子だ……」
手が震える、まさか、まさか
「それは薬が身体に合わなかった人間に起る症状だ、愛の言葉と同時に嫌悪の言葉を吐き散らす。逆に薬が合う人間は、その惚れた対象を褒めることしか出来なくなる。」
パッと電気が消され、店の中が真っ暗になった。
十
陸軍将校殿はどのようなひん曲ったお顔をされているのだろう、留田ですら未だお目に掛かった機会は無いと言う。
殺してやりたいが、此処は故郷ではない、偽装工作も通じない針の莚が常に天井から人間を見つめている世界だ、一瞬でも謀叛なりと指差されれば忽ちに天井は俺を殺すだろう。
「フーッ。」
鼻で呼吸をして脳を冷やす、落ち着け。若しかしたら留田の掴んでいる薬の話が全くの嘘かもしれないだろう、噂話はいくらでも創り出せる、留田は素直な奴だから本気にしてしまっただけかもしれない。
「でもそんな嘘を撒く理由が上にあるか?」
疑うな、疑うな、お婆ちゃんの話を思い出せ。
「軍人は立派な人でなければならない。」
俺が生きているのは軍人様に助けていただいたからだ
「それも仕組まれたことだったらどうする。あの辺りは国家に仇なす奴等がうようよ隠れ住みついていて、その殲滅の為の意図した脱線事故だとしたら?」
反乱分子を殺すのに一般人を犠牲にする作戦など有ってはならない。
「でも作戦のお陰で奴等は皆殺し、軍の御威光はあふれんばかりに輝いたじゃないか。」
それは一般市民を騙していることになる、自作自演なんて知ったら市民が黙っちゃいない
「だから俺が呼ばれたのか。」
カツン、カツン。
大扉の前で靴音を止め、三回規則正しくノックする。
「入りたまえ。」
上官のお声、
「失礼致します。」
扉を丁寧に閉じる、
「君が朝顔君だね。」
聞き馴れない女性の声。
「初めまして。私が陸軍将校宮前伊吹だ。宜しく。」
白い手袋をはめた手を差し出されたのでその手を握る。
「すまないね、本当はもっと大きな式にする予定だったんだが、そうも出来ない事情があってね。」
「朝顔、その椅子に座りなさい。」
上官の声、
「君に話しておきたいことがあるんだ。」
宮前将校の声、
「今軍の内部で一つの噂が特に騒がれていることを知っているだろうか。」
宮前将校の声、返事をしなければ。
「耳に挟んだことはあります。確か惚れ薬が支配国に出回っているらしい、など…」
全く抑揚が無ければ怪しまれる。
「ですが、自分には信じられません。まさかそのような手法で相手を丸め込むなど、いささか現実離れしていましょう。」
「それが嘘ではないのだよ。」
やはり。
「朝顔君、君に好いた人はいるかい?」
「いえ、恋愛事にはどうやら鈍い性分みたいでして、この齢になっても浮いた話の一つもありません。祖母はその事を大層気にしています。自分も祖母を喜ばせてやりたいのですが、どうもこの類のことは不得手なので、情けないとは思っております。」
「愛はな、人を変えるのだ。」
声色が変った。
「人の心をほどくのは、恐怖や支配などの腕力ではない、誰かを想う心が一等よく利く薬なんだよ。」
表情は見えない。窓の外に何がある?
「愛情を以て接すれば支配国は日本のことを敵ではなく愛すべき国家として溺れてくれる、そうすることで平和的に領土を拡げていくことが出来る、国土も小さく資源も乏しい島国はこうやって世界を呑み込んで行くんだよ。」
声色が戻った、俺を見た。眩しい瞳が癪に触る。撃ち殺したい衝動を口元に馴染ませる。
にっこり
「素晴しいご計画です。支配国の民草に被害を出させぬようによのご計らい、感服致します。わたくしめには到底思い付きもし得ぬ妙案に御座居ますね。」
笑っている、将校はどうやら安心したか?
「君なら同意してくれると思ったよ。やはり、私の目に狂いは無かったようだ。」
上官は将校殿のお言葉に気まずそうだ、視線を僅かに逸らした、上官は俺を抱き込むことに反対だったというわけか。留田御一家の垢でも飲んでろ。
「君には、国民の調査を頼みたい。」
俺の目を見て言う頼みは命令だ、断るなという腕力だ。
「支配国の、でございますか?」
「いいや我が国の国民達のことだ。」
上官が日本地図を将校と俺の前に広げて見せた。近畿地方の一部分に赤い丸が引かれている。
「今此の地域から始めているのだが。」
将校が指差す赤い丸の部分を凝視する。
「何を、始めているのですか?」
将校の口元が綻ぶ、俺を信用したと考えるべきか
「国民を薬漬けにする計画だよ。」
イカレ痴女とでも捉えるべきか
中華料理屋を追い出された二人はグリ下の石段に腰を降ろしてドブ川を眺めていた。川は夜だけのために此処まで黒くはならないだろう、何が混ざって水は汚れていくのであろう。
若い女子達の男共と遊ぶ声がキャンキャイと耳に入る。場所も弁えず淫行に身を凭している悲鳴が。
「此の場所に集まる人達は、もう薬を摂取したのかしら。」
姉さんの治療費を稼ぎたくって殺し屋になった。まともな方法では到底薬の代金や病院代入院費なんかを支払うことが叶わないと一瞬でも考えてしまったから。
「雪ちゃん、貴女と是非お見合いしたいと仰有る人が居るのだけれど…」
有難うお光さん、でも、私が嫁ぐと姉さんが一人きりになってしまうの。
「今は二人とも距離を置いた方が良いわ、おまいさん顔に傷まで付けられて…」
私が刃物を姉さんの傍に置いたのがいけないの、果物は台所で剝けばよかった。
「病院の先生はね、しばらく此方で預かるから、この町を遠く離れて嫁いだ方が良いって仰有っているの。先生のお弟子さんでね、雪ちゃんよりは少し年上だけれど若い方よ、とても優秀な方でね、人望も大層厚いお優しいお医者様なんですって。その人がね、お師匠さんから雪ちゃんの事情を聴いてどうにかして助けてあげたいって、仰有って…」
お光さん、私はその方に嫁ぐ心算は無いの。もう操を立てた殿方がいるの。
「初恋を大切にしたい気持ちはもう察するよ、女に生れて好いた人は一生に一度だもの、でもね、生きていくにはどう立ち回ったって構わないんだ。現に今、貴女の想う人は此処に居ない、何處に居るかも知れないじゃないか。」
戦争です、あの人、軍人になったのですって。躑躅が教えてくれました。
「此度の戦は劣勢になるって皆言っているよ、その人もご無事では済まない結果になるかもしれないのに。」
お光さん、それでも私は待ちたいのです。
「………」
気の好いお光さんは娘のガーゼ当てた片頬をそっと撫でて、言葉を失くす。雪は姉に切りつけられた頬に痛みは感じていない、最近うっかり指を刺しても薔薇の棘に手の平を掠めても階段から突き落とされても痛いと感じることが失くなって来ていた。近所の人達は皆気を揉んでどうにか引越しや結婚を勧めても、可憐な娘は瞳を閉ざして首を横に振るばかり、無理に連れ出すことも出来ず如何したものかと評定していた矢先に今日の刃傷沙汰、姉は妹の片頬をナイフで突き刺し一文字に腕を引いた、處女のパッと散った桜草は、赤い涙であったかもしれぬ。
「殺してやる。」
狂った女の雄叫びを聞きつけ、近所総出で扉を破ると娘の身体に馬乗りになって白い喉を狙う裸体の女、
「止めろ」
「危ない」
慌てて女を押しのけて羽交い絞めにして妹を介抱する。その瞳は青く梅雨の桜に濡れていた。
「緊急入院ということで、今も姉さんは病院に居ます。お金のことは心配するなと先生もお光さんも仰有ってくれたけれど、あの町の人達は都会の人ほどお金を持ってはいません。
だから早く、澤山お金を稼いで帰らないと。そう思って大阪へ来ました。」
そして一つの町を滅ぼした。
「大阪の町が一つ消えたと新聞記事を読んだ時は驚いた。誰かに依頼されたのか?」
路銀が乏しくなって来た頃、雪が電信局で寄った時、躑躅がうっかり衣服の外へ顔を覗かせてしまったことがある。慌てて戻した直後、
「随分可愛らしい子を連れていますね。」
と声を掛けられ立ち竦んだ。帽子を目深に下げたその人は、凛とした声で続けて話す、よく響く声の筈なのに、他の人達の耳には届いていないかのように電信局は通常の動きをしている。
「お嬢さんに一つ頼みたいことがあります。勿論報酬はきちんとお渡しいたしますよ、故郷の人達に自分は元気だと嘘の手紙を書かなくても良いくらいにはね。」
雪は他人とペラペラ気軽に話せる性質ではないのに、声の主は彼女の行動を正しく把握しているのは何故。どんな目をしているかは分らないけれど、電信局のざわめきや機械音、足音にも一切動かされず雪だけを見つめ続けていることは肌に刺さる気迫でピリピリと感じとれた。
「どなた?」
「これは、失礼。依頼をすると言うのに此方の素性を明かさないのは礼儀に悖る行為でしたね。どうぞお許しを、山百合雪さん。」
陰の下に覗く口元が笑う形をとっている。悪魔に見込まれた娘はその微笑みに気を取られ、うっかり一歩相手へと踏み出してしまう、その細腕をわし掴む。
「私は宮前伊吹と申します。朝顔という脱走兵を探しているのですが、御存知ないでしょうか。」
真正面から見るその瞳の光は怖かった。
乙女の腰にしなやかな手を回し、エスコートする如く電信局を後にすれば、黒く長細い車に乗せられ、雪は身を縮こませることしか出来ない。
「貴女に危害を加える心算はありません。お話を聞きたい、我々が求めているのは情報です。」
「朝顔さんのことは、知りません。初めて逢った日から一度もお目に掛かっていません。」
伊吹の瞳から逃れるように雪は窓硝子へと顔を背けたが、
「好いておられるのですね。」
伊吹の眼光は硝子越しにずっと雪を見つめていた、ヒッと娘の細い喉から悲鳴を呑む息。思わず両眼をぎゅっと閉じてしまえば、もう伊吹のお手玉遊び。震える乙女の清らかな耳元にそっと這い寄り、囁く蜜語。
「朝顔の居場所ですが、本当は把握しています。脱走したというのも真実ではありません、泳がせているのです。我々の依頼を引き受けていただければ、朝顔君の居場所をお教えしますし、貴女の路銀、お姉さんの治療に係る諸々の代金をお支払いいたしましょう。」
故郷、初恋、大好きな姉さん。悪魔の手練は美しく繊細に純情を絡め取る、哀れな糸人形の横がほへと傾き始めた雪の手首は伊吹に握られ彼女の口元へと寄せられた。
「これからお教えする町に向って下さい。其処の町民達は軍に歯向かう計画を立てている者達です、元は部落など無かった土地だったのですが、朝顔君が参加した戦争でどうやら大損した落魄貴族達が集って出来た町なのです。」
「その町を、どうしろと?」
唇は涙に濡れて望みを絶たれた処刑前の姫君みたく絶望がなまめかしく艶を生み出している。
「その町の近くに朝顔君は居ます。けれど例の町は軍人を見ると忽ちに生け捕って八ツ当りの慰み物にしてしまうのだとか、飽きたら雑巾よりも惨めに捨てられて…その遺体を中央にある官軍の本拠地にわざわざ送りつけてくるのです。私はこの目で実際無念の部下達の亡骸を見て来ました。」
「私に、町を殺せと?」
「人一人殺したことのない娘ならば簡単ですよ。」
季節はあの時と同じだったけれど、伊吹の微笑みは冬将軍も跣足で逃げ出すほど均衡整ったおぞましさであった。
「愛国心に満ちた男女が此処で戯れるとは考え難い。」
煙草はもう切れていた。
「薬漬けにして、その後はどうするんでしょう。」
「あの将校殿の考えなさる事は高尚だ。芸者の子である俺には到底理解及ばん程度にはな。」
「お母様のこと、聞かせて。」
口元は動いたが朝顔の声は聞えなかった。後ろで銃声が高く響いたから。
朝顔と雪は咄嗟に身をかがめ、段の下に伏せたが、
「もう撃って来ない。」
と朝顔が呟き身体を起こした。グリ下に集まっていた者達は未だ何があったのか、何故目の前に居た男がいきなり寝そべったのか、そして自分達は酷く鉄臭い液体でビショビショになっているがそれが何なのか理解が追いついていないようだった。しかし脳が状況を説明するより先に視界は悲鳴をあげるもの。
笑い興じていた筈の秘密基地は深夜に高い叫び声が幾条も立ち上り、パニックで地面に蹲る者四ツン這いになって石段を上り出す者、腰をへたんと抜かしてワアワア泣くことしか出来ぬ者、中には此処ぞとばかりに誰彼構わず女性に抱きつく者もおり、雪は後ろから身体を抱き竦められてしまった。
「離して!」
主人の悲鳴に躑躅と雪丸が翼を鋭く尖らせて切ッ先を無礼者の目元へ叩きつけ眼球を裂いた。ひるんだ男を朝顔が羽交い絞めにして
「此奴は情報屋でもなかったか。」
舌打ち混じりに首の骨を折って力の抜けた体をドブ川に放る。
「朝顔様!」
「雪、ホテルに戻ろう。」
「ですが、貴方や私を追う者がいるのでは逃げても意味がありません、それに、ホテルだってもう部屋は囲まれているかも。」
「今のは軍が愛用する三八式銃ではない音だった。それに、官軍が狙いを一般市民にして発砲する理由も無い。あの間延びした音は、単なる威嚇用の心算だったらしいが、どうやら下手くそな野郎がお前を招いているようだ。」
「そんな人、私には居ません。誰かに招待される覚えはないのに。」
キキイッ
橋の上で黒いロールスロイスが急停車し、橋上から朝顔と雪を見つけると一礼し、乗客側の扉を大きく開けた。
「乗れって言ってるみたいです。」
「乗ってやろう、一緒に。」
阿鼻叫喚の呻き嘆き叫び声をくぐり抜け、手を繋いだまま二人は橋へ上り、大きな入口に体ごと飛び込んだ。
「山百合雪さまですか?」
やはり狙いは彼女か
「誰かこの娘に逢いたいと仰有る方が居られるのですか?」
「えゝ、私達の主人が是非にと申しましてね。」
「俺も同伴させろ、この子は俺の妻なんだ。」
雪はこんな中でも耳を二つポッと染めた。
「宜しいですよ、ご主人さまも人が一人でも多く居らっしゃる方がお話も盛り上がるでしょうから。」
運転手の男は朗々と笑い話していたが、運転中ミラー越しに一度も朝顔を見外さなかった、まあ、朝顔も逆も然りで運転手を笑顔で睨みつけていたので、互いの視線は火花と触発状態に膠着していた。
雪はその様子を見ながら、胸の辺りでもぞもぞと時折不安を伝える躑躅と雪丸を宥めた。姉のよく歌っていた童唄を思い出す。
「行きはよいよい、帰りは怖い。」
低声で呟く思い出は車の走行音より儚い。
道頓堀から夜道を走り三人を乗せた車が辿り着いたのは天王寺だった。昼間の店々は声を潜め夜の露店が歯を突き出してケタケタ笑う、街を歩く群集は酔っぱらったようにふらふらと店を物色し、もやは店員と客の区別もつかない平等の場所には幾つか大層な御殿が建ち並び、そのうちの一つに朝顔達は案内される。
「どうぞ中へ。履き物はそのまゝで結構です。」
言われるままに土足で上がる、通されたのは大きなリビング、ソファーに座らせると運転手は電話を掛けた。
「お連れしました。一階に居ります。」
用件を手短に告げて切ると、彼は部屋を後にしたが、入れ替るように一人の若い男がやって来た。
一言で表せば好青年となるのだろう、朝顔と年は近い気もするがやゝ若く映るのは明るさの為であろうか、笑顔を作り慣れた唇の為であろうか、快活な気を振撒く若者は二人を見ると喜んだ。
「ようこそ山百合様。それと、旦那様ですね、本日は我が屋敷にお越しいただいて有難うございます。」
「来たって言うよりかは連れて来られた、の方が近いがな。」
朝顔の素直な嫌味も彼は真面目に受け取って、
「それに関しては申し訳ございませんでした、と謝る他よりありません。私が何としても連れて来るようにと命令したからです。部下の落度ではありません。責めるのであればどうぞ私を。」
言葉こそは美しい。だが朝顔は目の前のこの男をどうにも信用しきれないでいた、戦場で一番油断ならないのはこのような人間だと朝顔は学んでいたから。信じた隙に刃物を捻じ込む奴は大義の皮や道徳倫理の蓑を着て相手に近寄るのが常套手段。気を許してはいけない、軍と同じだ。
「あの、」
朝顔の警戒心を感じ取り乍らも雪は口を開いた。
「何故私に会いたかったのです?」
怖がってばかりもいられない、相手に呑まれてばかりは嫌。
「山百合様。」
若者はニコリニコリとお目当てに近寄る。あと少し手を伸ばせば髪の毛に届きそうな距離まで来ると彼はピタリと足を止めた。
若者の後頭部に小銃を音無く漣をも欺く動きで押し当てる朝顔の怒りを流石に流しきれなかったらしい。
「人妻だと知っているならとっとと離れろ。」
「彼女を深く好いているのですね。」
若者の言葉に雪は冷やりと汗を感じた、思い出されたのは伊吹の声。
「朝顔様。」
夫に顔を向けて首を振る。早く此処を去らなければ。
「あの、貴方のことを私は知りません。私はただの娘ですが、人殺しを生業としています。私に会いたいと仰有っていただけるのは嬉しいのですが、私は貴方の考えている女とは違います。ですので、折角ですがもう失礼致します。」
「いいえ何も思い違いなどしていませんよ。」
殺し屋になりきれていない乙女よ、怪しい奴に背中を見せて逃げてはいけない。
雪の背中を見て若者はニタリと笑みを深める。朝顔が駈け寄るよりも先に二人の足元がパカリと暗い口を開けた。
「アリスは何處に行くでしょう?」
睨む新月の瞳に眩しい笑顔が鈍く映り、すぐに何も見えなくなった。
人一人が通れるくらいの管の通路を滑らされ、放り出されたのは広い地下室。羽虫の集る白熱灯が丸く一つだけ灯る部屋は黴と血の匂いが重く垂れ込み壁にも床にも死臭が根深く染み込んでいる。
「雪。」
此処には自分しか居ない。
「雪。」
声を大きくしても返事は無い、出られるような扉も無い。
「あの男は何が狙いなんだ…?」
何故雪を狙う?殺し屋として雇いたいのか?それとも女として欲しいのか?だが雪のことを知る人であれば彼女が結婚の申し込みを承諾しないことは知っている筈、お光さんや故郷の人が知るように…否。
「知っているから狙ったのか?雪は殺しをするのに本名を使っているような子だ、殺しの腕が欲しいのなら彼女を求めることはない…」
屑みたいな横恋慕。だがそれなら俺だけが邪魔だろう、雪まで落とす必要は無い。床が開いて足から落ちる彼女の瞳は恐怖に染まっていた、その顔を見てあの野郎は笑っていやがったな。それに、あの台詞。
彼女を深く好いているのですね
雪はあの言葉を聞いた直後俺を頻りに気に掛けていた、誰が見ても慌てていると分るくらいに。あんなに恐怖をおぼえさせる人物はきっと一人だけ。
「宮前中将。」
あの真っ赤な女の手下か?だが宮前将校が雪を狙う理由が分らない、何故?
「くそっ。」
先刻から何で何でと子供くさい、戦いに理由なぞあるようでない、前線に立った瞬間相手を殺すことよりも自分が生き残ることを考える奴は愚かか?
「でもお婆ちゃんはお帰りって言って、抱きしめてくれたもんな。」
祖母の温もりを思えば病み乍らも微笑んで頭を撫でてくれたお母様を思い出す
お母様のこと聞かせて
「夫婦の時間を奪いやがって下衆野郎。」
狙いをつけた壁の一角を利き手で力一杯殴りるける。
「軍人が一芸だけで成り立つと思うなよ。」
コンクリートの湿った壁は少しずつ歪みを顕にし、とうとう朝顔に一点を殴り続けられたことで隠し扉を吐き出した。上着の裾を細長く裂き破れた皮膚に巻きつけ乍ら朝顔は地下室を勢い良く駈け去った。
十一
町には誰も動いている人は居なかった。だって私が殺したから、ナイフも銃も握れない非力な奴が人を殺める方法なんて、きっと探せばもっとあるんだろう。
伊吹と名乗る女性をふりほどいて車の中から逃げ出した。何處に辿り着くかも分らないまま躑躅と雪丸の温もりだけを落さないように走り続けた、口から血が溢れて息がうまく出来なくなった時足がもつれて目が眩んで背中が焼きごてを押し付けられたように痛くなって熱くなって前のめりにどうと倒れた。その時人の足音が微かに聞えたような気がしたけれど眼をつぶって意識を捨てた。
“起きた!”
躑躅と雪丸の鼻声で意識を取り戻す。
「お嬢さん、大丈夫かい?」
介抱してくれたのは質素な着物をきちんと身につけたおじさまだった、しばらく起き上がることも出来なかったのが、おじさまや彼のご近所の人達は迷惑な顔を一切せず私をよく気に掛けてくださった。故郷のお光さんやお医者の先生達を想い出す。
「お嬢さんも故郷を追われて来たのかい?」
「いえ、私は追い出された訳ではありません。都会に行って仕事をするために来たのです。」
二週間程して歩けるまでに回復し、声も元通り出せるようになり、躑躅と雪丸もすっかり元気になって平屋の外でちらちらと遊んで居るのを眺めていると、桃を剝いてくれたおじさまが私に問い掛けた。姉さんが病気であり入院中だと言うことも話すとおじさまは深い憐みのお表情をされて、何度も何度も深く相槌を打ってくれた。
「此処は都会ほどの稼ぎはないがそれでも君の故郷へと送るくらいの用立は望める場所だ。どうだろう、雪さんさえ良ければ此処で働かないかね。あゝ、身体を売れだなんて言わないよ。少し気取った所もある奴等だがこの町に住む者は皆気の好い者ばかりだから。」
ほら、やっぱり、あの恐ろしい人から逃げて来て良かったんだ。だってこんなに優しい方々と出会えたのだもの、人殺しを断って良かった、正しかったんだ。昔姉さんとお参りしたお社の神様に感謝を唱える心は
「それに、俺達の仕事も都会と関わりがあるものなんだ。」
おじさまが床下から取り出した麻袋によって
「此奴を中央に運んでやるんだよ。」
何故なのですかと譫言を唱えることしか出来なくなった。
「淀屋橋のホテルを拠点にして動く元軍人が居るらしい。其奴を次の獲物にしよう。」
円陣を組んで座る輪の中に、雪はきちんと正座をして並んでいた。
「どんな顔だ。」
「こんな顔の奴だよ。」
一人が朝顔の写真を中央に置く。
「此奴目に光が無いや。」
「軍人なんて皆そうだろう。」
「どんな大義を掲げていても所詮は地方から食う為に集まって来た田舎者の集団さ。見ろよこのいけ好かない顔。」
「でも此奴は少尉だったと言う噂だぜ。」
「よっぽど遣り手の男だな。」
「馬鹿言え一般市民の出である貧乏人が其処迄出世出来る訳が無い。」
「それもそうだな、こんな奴が結婚すらも出来る筈無い。」
「どうやって襲撃しようか、居場所はもう割れている。」
「ホテル内に毒をバラ撒こう、換気室に侵入すれば簡単だ。」
「それじゃ一般人も巻き込むぞ。」
「構うものか、戦争に賛同した国民共も同罪に決まっている。それに淀屋橋には元軍人やその家族が澤山住んでいる。殺すことに何を躊躇うことがある。」
拳を握りしめることもせず、躑躅を町へ解き放った。
「君は殺しの天才だよ、殺人する為に生れて来たんだ。」
悪夢を見て流した涙を人差指で掬って舐める、想像しているよりもしょっぱい味がした。意識の未だ戻らない雪を座らせる部屋は暁監獄所の一室を模して造られていた。窓こそ無いのは地下の為だが、間取りと植木鉢はそっくりそのまま切り取ってはめこんだかのように正確である。そしてその鉢には白百合が一本首をうつむけて咲いている。
「白百合を置くように指示したのは宮前中将のご提案だったんだ。囚人には先ず更生の意思を植え付けることが大切だからって、聖母マリアの花を各部屋に置いて世話をさせるんだって仰有るのだもの、一兵士である俺が逆らえる訳無いよね。」
雪はまだ泣いている。
「あの御方の発想は特異だよ。優しいと思ったら怖い、怖いと思ったらお優しい、まあだからこそ部下達は心酔するんだろうなあ、それに美人さんだし。」
戦争に赴く兵士の中には、只人を殺してみたいから、と言う本音で来た奴も居た、そんな奴等の心理が分らない訳ではない、俺は飯を腹一杯食わせてくれれば何の仕事でも構わなかったから、お国の為なんて建前でなく本心で宣う奴は気味悪かった。何で人殺しが国益に繋がるんだよ、とんだ都合の良い方程式だと鼻で笑った。
「死んでいった部下達の名前って憶えていらっしゃいますか?」
昔の脱線事故の資料をペラペラと捲りながら宮前中将に一度質問したことがある、あの時は資料保管庫での雑務を頼まれていて、偶然中将も其の場にいらっしゃった、てっきり誰も居ないと思い込んでいたのに上官が座ってるもんだからきちんと仕事をする羽目になってしまったのは残念だ。
「君は水無辺一等卒だね。」
あの凛とした声、あゝ立派なお方ってのはこんな感じなのかと疎ましさが両肩を圧する。
「はい。わたくしなどの名前を御存知でいらっしゃいますこと、恐悦至極にございます。」
「ははは、そう改まる必要も無い。大切な部下の名は階級関係無く頭に入っているとも。」
大層な大義とやらの為に働く人種に怖気立つ。敬礼を崩さぬまゝ笑顔のまま訊いてやった、人を駒として見ている将校殿は死んだ奴等のことなぞ心に留めてもいなさらないだろう、代りはいくらでもやって来るのだから。
水無辺はてっきり宮前中将を侮っていたが、彼女の狂気は推し測りきれていなかった。
「私は死んだ者の名前は全員憶えている。勿論兵士達だけではない、彼等のご家族、友人、恋人、ペット……兵士一人に関わった命の名前まで忘れたことは無い。」
一昨日の攻撃だけでも千人以上は死んだって言うのに。今も戦死した兵士達は増えているのに、過去の作戦や攻撃を数えてみる気はもはや出来ない、回想してしまえばこの女の狂気をもっと実感してしまうからだ、これ以上踏み入るな。水無辺は本能の叫びに従おうとするも、理性が言うことを聞かない、宮前中将に引き寄せられる。
「水無辺君、君は特別な一等卒だ、実は私が此処に来たのは君に逢う為だったんだよ。」
否、彼女は偶々此の保管室で休んでいただけだ。だがそれを水無辺が知る由も無い。
「如何して、わたくしに。」
「我々の計画を教えてあげよう、君は物事を一歩退いた視点で見ることの出来る本能の持ち主だよ、そんな君にだからこそ話すのだよ。」
惚れ薬は、ただの塩水でもそうと信じれば作用する。
水無辺はその日から宮前伊吹の手足となり働いたが、反乱分子の町を壊すのに宮前中将は兵士である彼を用いず、田舎から出て来た何も出来ない娘に目を付けた。此処迄記せば雪がこの若者、水無辺陽一に狙われた理由も賢明なる読者諸君は御推察し得るであろう。
「何も出来ない筈の小娘がさ、何でいきなり人殺し完璧にしちゃうんだよ。」
無垢な乙女には人殺しの才があることを通信局で一目見た際伊吹は見抜いていたのである。そして彼女の方が駄犬よりも使い勝手の良いことも。
「しがない一等卒を見初めてくださったあの御方に、手出ししようとするなよアバズレが。」
「俺の妻を侮辱するな。」
声の先を見届けることも出来ず、水無辺の告白は宮前中将の耳には二度と届かなかった。
十二
貴方はとてもお優しいのね
まさか、自分は人殺しの家系です。
私に買って来てくださったの?
貴女に似合うと思ったので。
あまり遅くまで起きていては毒ですよ
貴女の傍では仕事をしたくありません、貴女が汚れてしまう気がして。
母から教わった料理なんですよ、上手に出来たかしら?
貴女はお義母さまに似てお料理が上手だ。
寒くなりますとね、鍋が一番良いのだって言うんです
毎日寒ければ毎日でも鍋が食べられますね。冬は美しい季節です、お腹の子も冬に生まれる予定なのでしょう?きっと貴女に似てうつくしい優しい子に育ちます。
大阪で博覧会が開かれたら、いつか親子三人で行きませんか
あゝ、私も政治を専門とする職に就けば良かったのです。
大丈夫ですよ、きっと貴方に似て
部屋の中で目を覚ます。満月が九割方欠けた夜は暗く、居眠る机にまで光は届かない。
少し、寝すぎてしまったようだ。
十三
「雪。」
縛られていた縄をほどき未だ眠る身体を軽く搖さぶると、微かな呻き声が涙に濡れる唇から漏れた。意識はある、死んではいない。胸を少し撫でおろして息を吸う。此処から出なければ、とりあえず拠点にしている淀屋橋まで戻って一回は落ち着きたいところだが、殺し屋の予定や計画は狂うのが相場だ。未だ屋敷の中には運転手である部下も残っているだろう、先ずは此の場を生き延びてからだ。雪を肩に抱えて走り出すと、
“止まって。”
「⁉」
声がした。雪とよく似ているが雪とは違う声、これは…
“私は躑躅。”
彼女の左肩の辺りからもぞもぞと蠢き顔を覗かせたのは紅く脈打つ蛾であった。
“僕は雪丸。”
反対の肩からももうひとり。雪はいつもふたりに話し掛けていたが、朝顔は話をしたことは一度もなかったので驚いて足が止まるのも無理はない。が、それがどうやらふたりの目的だったらしい。
“助けてくれる人が此方に来る。”
「信用出来る奴か?」
“分らないけれど、此の屋敷からは出してくれるみたい。その人僕等と一緒で此処を嫌っているから、手を貸してくれる。”
小銃をいつでも撃てるように警戒は止めないまま、朝顔はその人物を待った。
「朝顔。」
前から通路を歩いて来たのは運転手である男だった。だがその服装は、彼にとってよく見慣れた格好をしている。
「お前軍人だったのか。」
「下手くそな鉄砲を撃てばまさか現役軍人だとは思われまい。」
「あの馬鹿は俺がもう撃ち殺した、お前の主人だった男だ。」
留田さんから話は聞いていたが、本当に此処まで一途とは。
「あゝそれで良いんだ、水無辺はもう見放されていたからな。」
やはり宮前中将の配下の者だったか。
「俺の任務は水無辺を見張ることだった、自分を中将の右腕だと一人で思い込んで疑いもしない奴でね、近頃は勝手な殺しをあちこちで働いていた。」
「軍に恨みを持つ人々を殺しまわってでもしていたのか?」
「聞いたとおりの嫌味な人物だな貴方。でもまあ、そんなとこさ。無闇な殺しは軍の仕事じゃない。」
軍は計画を立てて狙うものな
「だからあいつがもう生きちゃいないのなら俺のお役も御免ってわけ、せいせいするよ。こんな巫山戯た御殿を建ててこの地域の地主気取りだったんだ。レールを逸れて目的を違えた者をいつまでも俺達が見逃す筈が無い。」
「宮前中将は随分大目に見ていたんだな。たかだか一兵士にこんな建物建てられる財力は無いだろう。」
「殺した奴等から奪った金さ。組織的犯罪には大金が必要だ。」
「成程な……」
金欲しさに仕事を利用していたと言うことか。
「全く、軍人を名乗る資格も無い男だった。」
「宮前伊吹はどうなんだ?」
歩く足を止め問い掛ける、あと一歩進めばもう屋敷の外だ。
「…何だって?」
前に立っていた男が此方を振りかえらずに問い返す。朝顔は引き金に掛け続けている。
「この国を薬漬けにしようと計画している宮前伊吹は軍人の鑑なのか?」
男は黙って煙草に火を点けて吸い始めた、実にゆったりした動きで。
「宮前中将は国を愛しているだけだ。」
「愛国心のある者が何故国民を支配しようとする。」
「支配じゃない、言ったろう国を愛しているだけだと。」
平行線。交わることの無い考え方だ。
「まだ雪を狙うのか?」
男は半ば呆れた様子で笑い煙を長く吐いた。
「山百合雪の命を奪えとの命令は受けていない。そもそも水無辺の暴走だったんだ、宮前中将の御意思ではない。彼女に目を付けた理由は人殺しの才があったからだ。」
「彼女は殺しに向いていない。」
「何の教育も訓練も受けていない娘が一夜で町を黙らせられると思っているのか?軍にも居るだろう、人殺しの為に入隊していないのに元々手際が良い奴とか。」
貴方のお父様はね、銃の名手だったのよ
「そうだな。」
朝顔はあっさり引き下がり、肩をすくめて立ち去る男を見送った。
俺は何を躍起になっているんだ。人殺しが国民を憂う資格などある筈も無いと言うのに、宮前を非難する権利などあるのだろうか。
それでも雪の林檎の頬には皮を裂いた痕がある。
逢いに行きましょう、朝顔さま。
「避けては通れん、か。」
弱気を捨てて近くのタクシー乗り場へと歩き出す。
カツン、カツン、カツン
十四
夏に生れた太陽のような子供、いつも光が頭上に輝きますようにと両親の祝福を受けて与えられたのは向日葵という名前、初めての贈りもの。向日葵は都会の富豪の一人娘、蝶よ花よと可愛がられた愛娘、父も母も目に入れても痛くないと普段より人に話していたので、向日葵を知る者はまばゆい笑顔とにこにこ顔の両親を同時に思い浮べるくらいだったが、喜ばない知人が一人居た。その男は近頃娘を流行病で亡くした向日葵の父の弟である宮前桜と言う陸軍大将であった。
兄は優しい人であった。娘を亡くした弟を常に気に掛け嫁のことも心配してくれている人格者であった、金銭だけで人は幸せになれないと分っている人であった。
娘を亡くした痛みは娘が生きている人には感じられない
心労で弱りゆく妻の手を取りながら毎日その無礼な考えを振り払った、妻は娘の名前を譫言で繰り返し、豊かに結っていた黒髪はあわれ色も白に褪せてしまっている。もう長くは無い。桜は妻の食事に毒を入れた。
娘は病、妻は自殺、妻子を失った弟を兄は大層心配した、一緒に暮らそうと度々噛んで含めるように言い聞かしてくれたけれど桜は静かに拒絶するばかり、それに仕事がありますからと、とうとう兄弟が共に暮す道は閉ざされたまま兄とその妻はこの世を去った、事故に巻き込まれたのである。
向日葵はまだ幼く、召使い達がひどく悲しんでいる理由も分らない、父と母はまだお仕事から帰らないのであろうか。母乳をねだりぐずり始めた幼子を、女中の手から受け取ったのは桜であった。そして、こう話し掛けた。
「ただいま伊吹、父上が帰ったぞ。」
兄の屋敷には直属の部下達を忍ばせていた。
大阪でも随一の富豪とその妻の交通事故、そして召使い全員が屋敷と共に焼き払われた事件は街を賑わす一面となった。しかし犯人の目星が付かない日々が続いたことで事件は人の口から忘れ去られ、事故には人はお悔みを申し上げることしか出来ないことから、いつしか一面はまた別の内容へと変って行った。
宮前大将は御立派な方だ、亡くなられた御兄弟の子を引き取り育てるなんて。流石代々陸軍将校を務めて来た血筋だけある、なにしろお祖父様は賊から一般市民を守るために馳せ参じた大尉殿であるからな、義の心は人一倍お強い一族なのであろう。
水無辺は勘の良すぎる男だった。
大阪は当時戦争孤児が多く、その子を引き取った育ての親が生みの親から貰った名前を改めてから養うことは変った例ではなかった。新しい名を与えることで新しい生活に馴染んでもらいやすくする為、悲しい過去を思い出させない為、より一層愛着を抱かせるようにする為など様々な憶測は今でも交わされているが、結局真相はどうなのかは分らない、朝顔の生れた時にはもう孤児など絶滅した言葉であったから。
軍は支配国から受け取った賠償金を元手に家族を亡くした子供等の施設を幾つも立て、人並み以上の生活を与えた。親を失った悲しみが軍への思慕を上回るようになるのも時間の問題であった。やがて孤児は路上から居なくなり、皆新たな名前を与えられ光の中で成長した。お腹いっぱい食べられて、質の良い教育を施され、安眠出来る衛生的な環境を与えられる、暑さにも寒さにも暴力にも怯え苦しむことはない。
「愛国心を国民の心に育まなければならない。理不尽な環境に生きる者は必ず国家を憎むようになる、だからこそ国を恨むことの無いように先手を打ち、国民を保護し、上等の生活を送らせる。」
桜はよく娘に自らの計画を話していた。伊吹は頭を撫でてくれる力の大きな手が大好きで、いつも撫でてとねだれば父は仕事の時とは打って変ったにこにこと穏やかな顔で愛娘の頭をよしよしと撫でてくれるのだった。
「では、世間を憎む人達は悪人ですか?」
「悪人ではない。人は生れた時から悪人であることは無い、成長の過程で経験した出来事によってどう生きるのかがその都度決まっていくのだよ。だから世間を憎む人が居たとしたら、その人が恨まなくても済むように我々が与え導かなければならない。伊吹、分るかい?」
「はい、お父さま。」
「おまえは私の妻に似て賢く優しい子だ。きっと立派で優しい女性に成長することだろう。」
また撫でてくれたことが嬉しくて、
「じゃあ私がすてきな大人になったら、お父さまと結婚する!」
幼い女の子によくある話ではあると桜は分っていたが娘の無邪気な健気さが嬉しくて、
「あゝ。将来をほんとうに楽しみにしているよ。」
親子は本当に幸せであった。
「先生、こんにちは。」
お光は今日も診療所に米を届けに来た。
「あゝ、お光さんこんにちは。」
いつも有難うねえと礼を言い米を受け取る医師にお光は今日も質問する。
「雪ちゃんのお姉さん、具合はどうです?」
「今日はよく眠っています、睡眠薬要らずですな。近頃は毎日泣いてばかりでしたから当然ではあるのですが。薬が抜けて来てからというもの毎日雪ちゃんに謝っていますよ。」
「まさか身体に薬があったなんて、聞いて皆驚きましたよ、てっきり治らないものだと思っていたけれど、治療が出来るって聞いて安心したわ。…でも、まだ雪ちゃんには教えない方が良いんですか?」
先生は古びた椅子に腰をよっこいなと掛け足元に米袋を置くと、はあと一つ溜息をついて頷いた。
「本当は今すぐにでも会わせたいところですが、医は仁術ばかりでは立ち行きません。あの子のことだから、お姉さんが正気に戻ったと手紙で知ればすぐにでも飛んで帰って来るでしょう。でも、今はまだお姉さんは完全に落ち着いている状態ではないから、慌てて会わせて何が起きてしまうかも予測がつかない。せめて、お姉さんが泣かない程度にまで冷静にならないと面会はまだ……いや、待てよ、うん、むゝ、うむうむ、あゝ、それなら大丈夫かもしれないぞ。」
また先生の独り言が始まったわと呆れるお光に構わず先生、何か納得したそうで。
「直接会わせるのが駄目なら、会わせずに話をしたらいい、文通のやり取りをさせてみよう。リハビリ、リハビリ。」
午後からの診療がもうすぐ始まるのに先生庭にある物置小屋へと走って行って、ごそごそがさがさと物探しを始めてしまった。先生は便箋を耕作の為の道具なんかと一緒に仕舞っておく性分らしい。
「一寸先生、もう患者さん来てますよ。」
私は先生の助手ではないのだけれど、とお光は内心溜息をつく。
「どうせ宮元の神主お爺さんでしょう、湿布を渡しておいてください。」
医師が物置へ走った途端診療所の扉を開けた神主さん。随分軽々しくあしらわれたお爺さんは怒ることもなくほほほと笑っていたが、直ぐに真顔になって思い出したかのように話し始めた。
「先生、今日は腰の具合のご相談ではありませぬ、お客さんがいらっしゃいまして、此方迄案内し申したのですが。」
「客人ですって?こんな田舎に誰が来るんです?」
「初めまして。山百合雪さんのご自宅は何處でしょう?」
他所者の瞳は眩しかった。
十五
“雪、手紙が来ているよ。”
雪丸が耳元で話し掛ける。雪はホテルのフロントに問い合わせると丁度手紙が一通彼女宛に届いた所ですと答えられたので、娘は手紙を受け取ると部屋へ戻ってから開封すると、
「爆発物でないか確認させてくれ。」
朝顔の忠告を受けてしまった。彼に手渡すとためつすがめつ眺めた後文は雪の手に戻って来た。
「お姉さんの筆跡だから今直ぐにでも読みたい気持ちは察する。でも用心に越したことはない。それに、手紙と思わせておいて薄型の爆弾の封を切らせるなんて、戦争中はよく使った手だ。軍人なら誰でも出来る技だ。」
「えゝ、分っています。」
そうだ、姉の文字を見た瞬間姉と笑い合っていた自分に戻ったが、其処に朝顔は居ないし躑躅も雪丸も居ない、満月を並んで見上げていた姉妹の微笑みは記憶の中、今の自分はうつくしい記憶に生きる自分ではない。
人殺しの、才能。
雪は封筒をナイフで開き姉の文字を追い始めた、其処に先程までの少女の頬の紅潮は無く、ふっくらした唇を一文字に引緊める若い娘の悔しさを冷静に噛み殺す面持だけがあった。
「姉さん、身体の中の薬が抜けたって。」
それでも姉は慕わしい、新雪を溶かし湧き水へと促す春の温もりを誰が遮ることの出来よう。朝顔は雪の頬を撫でてやりたかったが、今それは自分の番ではないと考え直す、姉妹の逢瀬を邪魔する無粋な奴にはなりたくない。
「そうか。」
一言、一言だけで今はいい。
「雪丸、手紙を書きましょう、躑躅も、おいで。」
姉の文字はぽつりぽつりと泣いていた、自分への謝罪の涙で濡れた瞳は同時に朝顔との幸せを心から願ってもいて、そしていつか許されるのであれば、二人の睦まじい顔を見て祝ってあげたい、とも。だが心の中ではもう自分は雪に二度と会わぬ方が良いのかもしれないと思い詰めてもいる。
どちらの姉の想いに応えるべきか迷う雪に、最後の一行が迷いを立ち処にかき消した。
―宮前伊吹さまと言う軍人の方がいらっしゃいましたが、知っている方ですか?
淀屋橋の街の目覚めは早い。車も列車も寝ぼけ眼を叩いて起こしてシャッシャと走り出す。
「朝一の列車に乗れば夕方には着く。」
昨晩の朝顔の提案に乗るべく二人は曙も未だ衣を纏わぬほどの早朝にホテルを出た。
しばらく淀屋橋を中心に仕事をする予定であったが、今はそんな悠長なことを言ってはいられない、あの女が二人の故郷にやって来ている。薬の実験台にした町を、奴が観光目当てに訪れるなど考え辛い。雪の姉から薬が検出されたと聞いて口封じの為に町を殺しに来たのだろうか、それとも彼等を人質にして二人を自在に動かす駒とするのだろうか、嫌な憶測ばかりが頭を幾つもよぎっていく、顔色が悪いのは雪ばかりではない。
人は斯様な時「大丈夫」だの「心配無い」などという言葉の言霊を借りて互いに互いを励まし合うが常であろうが、朝顔は戦場で戦友に何度もその言葉を掛け続けたが、彼等は欠損した肉体で朝顔の腕の中、笑顔で死んでいった。気休め、などでは決して無かったが、どうしても言葉の力では助けられない状況を彼は嫌と言うほど目の当りにした。今の二人に掛けられる言葉は
「朝顔!山百合さん!」
彼等の名前だけだと。
「おまえ……」
無類の友である留田はそれをよく分っていた。
高い列車代が無駄になるから止めろと言われたのが留田でなければ朝顔はその者を殴ってでも雪の手を曳いて乗車したであろう。急に足を止めた朝顔の背中に顔面をぶつける雪、思わず留田はくふっと堪えきれなかった。
「留田、どういう事だ?」
「どういう事は此方の文句だぜ朝顔?突然軍を辞めたと思ったら行方知れず、自殺したなんて噂も流れてたけど、俺は信じなかったね、おまえのことだ、よくいる学生のように世間に絶望して命を手放すような健気さは持ち併せていないだろう、だから探すことにした。その為に俺は宮前中将の直轄の部隊に居る。そのおかげで今こうなってるって訳さ。」
始発列車の蒸気がプラットフォームの高い天井いっぱいに煙の網を張る。
「朝顔さま、列車が。」
「俺を信じろ朝顔。」
決断は早かった。汽笛が空を仰いで長く鳴る。むんずと留田の襟首を掴み雪の手を離さぬまま出発間際の黒い列車に転がり込む。友人は背中を打ったのか軽く呻き声がした。
「朝顔…!」
「留田、おまえを信じている。だがな、俺はお前の口からじゃなくて宮前の口から直接聞きたい。列車の中で俺が軍を抜けた後何をしていたのかも全て話す。」
息をきらす雪の背をさすりながら朝顔は友を真直ぐに見る。
そうだったな、おまえは狙撃手なのにいざと言う時は思いきりの良さがあった。緻密な計画の中に愚直な正面突撃を見事に捻じ込む大胆さがあった。
「分った。なら俺も知り得た情報を全て話そう。」
でなければおまえと肩を並べる資格も無いや、
「本当におまえは暗いのにまぶしい奴だと、なあ山百合さん?」
雪の返事は言うまでもない。
「切符の確認は五つ目の駅に着くまで無い筈だ、それまでは席に座って話をしよう。」
「でも朝顔さま、駅の数は二十幾つもありますよ。」
「安心しな奥方さま、切符の確認をする駅の途中で車両点検に入るんだよ、その時乗務員は総出で点検を始めるから警戒が一番手薄になる。」
「隙は其処で産まれる。」
「相手の隙をこじ開けて広げていくのが朝顔の基本的な戦略なんだよ、相手を誘って自分達に機会をくれるのを待つんだ。」
トメタさん、と言ったっけ。阿吽の呼吸は羨ましい。
「おいで、先ずは座ろう。」
私も未だ聞けていない、朝顔さまがどうして都会で殺し屋をしているのか。私に、話してくださるかな、貴方のことも、お母様のことも。
三人は四人掛けのテーブル付の座席へ移り、朝顔と雪は隣同士、留田は朝顔の正面にそれぞれ腰を下ろす。
「時系列順で話そうか。何で俺が軍を抜けたのか。」
支配国の女が一人、身売りの為に中央を来る日も来る日もふらついていたことがある。支配国となった国は支配される以前よりも豊かで満たされた生活を全員与えられた筈なのに、何故体を売るようなことをしているのかと、軍の間では不気味な怪談話として扱われており、怪異に興味本位で手を出す者はいなかった。若しかしたら我々に反逆の意思ある者が放った女かもしれないと、日課である戦友達の墓参を終えた朝顔は彼女に接触することにした。いずれにせよいつまでも放置していて気持ちの良いものではないだろうからと、その時はさほど重要なものとも認識せずに居たのだが。
その女は日が暮れると何處かへ帰って行ったので、部下に命じて尾行させた。支配国と日本を繋ぐ大橋はもう完成してよく使われていたから、その橋を渡って故郷へ帰るものだとばかり思っていたが。
「女は支配国へ戻りませんでした。」
翌日またふらふらとやって来た女を窓越しに見つつ、報告して来た部下に問う。
「では何處に?」
「それが……申しあげにくいのですが…」
「此処には俺とお前しか話をする者はいない。構わないから言ってみなさい。」
「は……実は、女は墓地に行きました。其処で寝泊りをしているようで、墓地の近所にある家の住人達からも聞いたのでまず間違い無いかと。」
女の名前は和子と言った、本名かどうかは疑わしいがそう名乗っていると界隈で聞いたと言う。
「和子は憐れむべき娘さんだよ。」
その日の仕事を終えた朝顔は和子に声を掛けた。阿呆の留田には「雪ちゃんに怒られるぞ」揶揄されたので拳骨一発と「お前は山百合さんと呼べ」と忠告を見舞ってから和子と共に夕暮の道を歩いて行った。
「貴女は日本語がお上手ですね。故郷で日本語の勉強でもされていたのですか?」
和子を褒めると彼女は顔を赤らめた。
「亡くなった父に教わったのです、日本国はとても良いお国ですから、日本語を学んでおいて損なことは無いからと…」
「そうでしたか…悲しいことを思い出させてしまって申し訳無い、配慮が足りませんでした、お恥かしい。」
素直に軍帽を取り頭を下げる朝顔に、和子は愉快な声でクスクス笑う。
「そんな、今更気にはしませんわ。だって日本国は本当に素晴らしい国ですもの。今となってはもっと早く支配下に入るべきだったと、政治家や軍部への批判が高まっていて、つい先日もテロが起きましたもの。」
支配国では内乱を引き起す必要がある。日本の傘下に与すべきと言う者達と、屈してはならぬと唱える者達の二つの勢力をぶつけさせるのだ、そしてその犠牲は支配国民に回って来る、其処を日本軍が助けに入り内乱を鎮め信用を得ると言うのが宮前中将のもう一つの作戦であった。薬が万民に適合するかは分らない、とあのいつもの笑顔でそう言っていた。
テロを起こさせたのは我々だ、そのことに薄々気づいている支配国民も居たであろうが、もう薬に浸った脳ではそれも憶えていないかもしれない。盲愛と罵倒、どちらを細胞に植えつけられるかはその時にならないと分らない博打。
その博打は順々に支配国民へと美味い配給食糧を通して与えられ、暴動は軍の予定通りに勃発し続けている、もうじき支配国が日本と名乗るのも遠くない。
「和子さん、貴女何故ご自分を売りに来ているのです?」
「それは、夫がそうしなさいと申すのです。」
問題のある夫から逃げて墓地で暮しているのか?だがそのようなことをさせずとも、彼等の国には日本の与えたきちんとした仕事がある筈だ、賃金もかつての支配国の相場よりも格段に上げているのだが、おかしい。
「そうですか…そのようなご事情がおありとは知りませんでした。私も一軍人です、貴女の旦那さんとお話して、もうこのような商売を止めさせてもらえるよう頼み込んでみましょう。」
支配国の者が慕わしく思うような言動をしろ、そして軍のイメージを良い心証へと傾かせるのだ。それが支配国民に対する軍人の正しい在り方なのだから、正気を手放しつつある彼等にはとびきり親切に接しろ、信頼してもらい敬われることが薬の効かん失敗作達への褒美なのだぞ、ガハハハハ。
上官の嫌な教訓に従った訳ではない。ただ、墓地に居るのは和子一人だけだと部下は報告した筈、墓の中には夫らしき者が共に暮している様子は無いとのことだった。果して彼女の脳内ではどういう辻褄が合わさっているのかを知りたくなり此処迄一緒に歩いて来た次第。墓地の入口の白い門の前。
「和子さん、此の墓地は、支配国の者達の墓は眠らない処ですよ。」
「えゝどうぞ、中で夫がお待ちです。」
そんな筈無いだろう、此の墓地は軍の戦友達の墓地なんだぞ。支配国民と日本国の間では未だ婚姻は法で禁じられている、それはこの国の婦女達を日本の男達から守る為に早々に両国に公布した法律で、支配された側の人権をおろそかにする事は望んでいないと付け加えた事も良く効いた。日本側に禁止事項を付与すれば相手は此方が自分達と対等な位置にあると錯覚するから軍に不満を抱く者は格段に減った。この法案も俺達が考えましたよね中将殿。
なのに和子は日本軍の墓地へずんずん歩き、一人の墓の前でストンと座って私に手招きしながら朗らかに笑った。
「ようこそ軍人さん。この方が私の夫です。」
その墓地は名前が記されておらず黒味をカッチリまとう大きな焦茶色の岩が正面を向き据えられている場所だった、無縁墓地。縁故者の見つからない戦友達は皆この立派な墓石の下で大切な人と逢えていると信じて日参の際は必ず忘れずに参る場所を、自分の夫と言っている和子。言葉も無く佇んでいると裾を引かれた。向くと、日本人のおばさんが「一寸此方へ」とでも言いたでにたげに手招く。彼女は和子を憐れむべき娘さんだとそう評した。
「和子ちゃんはね、支配国の貴族の出身だったのよ、立派な旦那さんも貰ってね、ご家族皆仲が良かったそうよ。でも日本が勝ったでしょう、そしたら政治家や貴族達が敗戦の原因だって責める声が向こうの国では澤山上がったんですって。最初のうちは何とか鎮静出来ていたのだけれど、段々抑えきれなくなって、とうとう内乱に発展したんですって。それでご両親も旦那さんも処刑されて、和子ちゃんも殺されるところだったんだけれど、あの通り顔がいいでしょう?それで供物にしようって言って故郷を追い出されたんですよ。」
「供物?何への供物なんです?」
おばさんは潜めていた声を一層グッと潜めて言った。
「素晴しい我々の神様にですって……日本軍へのよ。」
薬は愛国心を産めたのだろう。自分達の暮らしていた国を破壊し親兄弟友人恋人を殺した敵国を我々の神様と崇めるほどに、自分達の信仰をも忘れて無かった事にするほどによく作用している。和子のように気の狂ってしまった者は薬の副作用として扱われていくのであろう。
だが、愛国心を人工的な物を用いてでも育ませる理由は何だ?計画が進めば支配国もいずれ日本国となるのであろうが、日本国はいずれ支配国のような構図になってゆくのである。そうして騙して騙して手懐けて、薬が切れたら何とする?夢を現実だと錯覚し続けた目がパチリと開いた時、澤山の日本国民は何を思うのであろうか?
答えは出なかった。和子のことを教えてくれたおばさん達が住むこの一帯は支配国へのスパイ達が住居を構えていた場所だから、此処には未だ惚れ薬が混入されていないのであろう、おばさんの瞳はお母様のように光ってはいない。
「有難うおばさん、和子は自分が保養施設へ連れて行きましょう、そろそろ寒くなりだしますから、彼女を此処に居続けさせる訳にもいきませんので。」
以前宮前中将の前でしたような笑顔でニコロと会釈し和子を連れて町を後にする。
数日後保養施設内で和子が自殺したことを人伝に聞いた。
「故郷が実験台にされたって聞いた時、辞めてしまえば良かったが、その故郷を人質にされたら逃げる訳にもいかなくなった。それからは従順なフリをするようにしたが……」
「和子って娘の自殺を聞いて、フリも出来なくなった?」
「留田、俺はそんないい奴に見えるか?」
「朝顔様はいい人です。」
朝顔もだけど貴女も勿論いい人だよ雪ちゃん。
「雪ちゃん、貴女もいい人だよ。直ぐにそんな言葉を軍人に掛けられる女の子なんて珍しいよ。」
朝顔が地獄に落ちても天国から力ずくで引っ張り上げるタイプだな、「諸共に地獄へ」と縋るのとはまた違う健気さが芯にある。
「おい阿呆、雪ちゃん呼びはやめろ。山百合さんか奥方さまと呼べって言ってるだろう。」
「私の呼び方は好きにしてくださっていいですから、朝顔さま続きを。」
「雪、この男はかわいい娘を見るとすぐに口説く阿呆坊だ。油断するな。」
「いいから。お早く。」
「………男っていうのは、何か目的が無いと歩いていられなくなる生き物だ。故郷で見て来た女性のように生きていれば何とかなる、と言える力強さが無い。生きる為の何か、活動行動する為の何かが無いとすぐに立ち止まってウジウジ悩むものなんだ。でも見栄だけは一丁前に持っているからそれを噯気にも出さない。一人で考え込んで苦しむだけ苦しむのが好きな性分なんだ。」
「それが、何か?」
「俺は軍に居る目標を失った。お母様とお婆ちゃんの恩人のような軍人になりたいと思って入った筈なのに、努力や研鑽の日々は理想と遠く離れた姿のもとに俺を連れて行った。……いや、そもそも本当に立派な軍人になりたくて入隊したわけじゃなかったのかもな。単に、父親に見つけてほしかっただけかもしれないし、父を殺したかっただけかもしれない。」
「おまえ、親父さんの顔知ってるのか?」
「知らない。俺が生まれた後家を出て行ったらしいからな。でも、会ったことの無い奴でも、血の繋がった息子なら一目見れば分るんじゃないかと…分ってくれる筈だと思っていたが、結局父親らしき奴は分らなかった。」
「お写真も、残されていなかったのですか?」
「お婆ちゃんが写真嫌いでね、撮影したら魂が抜けるって信じてたから。」
列車は石炭燃やす黒い煙を吐いて空に届かず消えてゆく。まだ駅三つぶんしか駈けていない鋼鉄はレールをきしませ歯噛して朝顔の故郷へと向っている、その音はどくんどくんと心臓の悲鳴のように耳に響く。
「おまえの話が終ったのなら、今度は俺の番だな。まだ時間はあるがもう率直に言おう。俺は、おまえの父親が誰か知っている。宮前伊吹日本国陸軍中将だ。」
列車はトンネルへ入った。
十六
朝顔の母親と祖母は疎開先に無事辿り着いた。其処は嘗て歴史の授業で学んだような不便な田舎ではなく、都会と然程変らないインフレ整備の備わった町であった。だが田舎であることにはやはり変りなく、整えられた町でも人々は穏やかで堅実な日を過ごしており、疎開に来た者達を差別することもせず丁重に労わってくれた甲斐あって、朝顔の母親となる子は素直で優しく愛敬のある美しい娘へと成長した。
彼女は日本人によくあるぱっちりとした一重瞼ではなく、春の花の莟のようにふっくらとした二重瞼の瞳が特徴的で、その涼しい眦は誰にも等しく笑みをもたらす仔猫のような愛くるしさをあふれんばかりに湛えていた。唇は紅をささずとも恥じらう牡丹の色を咲かせて一度も不服や不機嫌にひん曲がることは無く、鈴の声は軽やかに小鳥の歌かと翼を重ねて含んだ笑いは町の人を必ず笑顔にさせることが出来た。その魅力を皆は親の贈った名前の賜物ゆえと褒めあった、まるで太陽の光を取次ぐ御使いのような花の娘、向日葵とはあの子以外に名乗れる者はいないと。
向日葵の母、つまり朝顔の祖母は昔名を馳せた遊女であったので、向日葵も自らが遊郭で働くことを何の疑いも持たず大門の向うの世界へと足を踏み入れた。元より本名が芸名のようだからと抱え主は改めて仕事用の名を彼女に与えはしなかった、その為町中に向日葵の名前が売れッ妓となって広まって行き、慰安に来ていた軍隊の中ではすっかり高嶺の花と崇められる、町民達は節制をして花へと貢ぐようになる、いつしか女房達の悋気混じりの井戸端会議ではこの町が潤うのはあの娘のお陰だわとまで言われたが、同時にあの花が私達の貯えを全部吸い取っちまうとも言われていた。他の遊女達の口も似たような言葉を発してばかり。向日葵さんが居たら私らの商売上がったりやわと妬まれても向日葵は決して弱音も悪態も漏らさなかった。それもその筈、向日葵は耳が聞えなかったのだたから。
生来のものである。にも関わらず彼女は声での会話が出来ていたので、女手一つで育てた母親が娘の両耳の事情を知ることになったのは、もう少し成長してからであったのだが、注ぐ愛情の深さは減るどころか
「向日葵、貴女は特別光に恵まれた子なのよ。」
耳が不自由と知ってなお一層愛おしく感じ、神さまを恨むどころが全ての神さまに深く感謝した。この娘に世間の汚い言葉や音を聞かせなくて済んだことに、彼女の愛する者の声だけがそのかわいい両耳に届くことに。
客があれこれ喋っても、向日葵はいつもにこにこしているばかり、会話は無いが自分の話を黙って聞いてくれていると思ってしまえば客は充分に満足するのだ、幸いなことに無体を強いる客は一人もいなかった。店に来た時よりも数倍満足した表情で帰って行く客達を毎日見ていると、最初の内は陰口ばかり言っていた同僚達も、向日葵の優しい威に惹かれて慕わずにはいられなくなっていくのも思えば自然な流れであったのだろう。
その日向日葵は墓参りに来ていた。其処は町の中心部から山の麓へと続く緩い一本道を下り切った場所にある、墓守りは居らぬが草は節度ある長さに刈り揃えられて荒れた卒塔婆も見当らない春には菫、夏には緑葉、秋は烏瓜の実もまろく、冬には椿が咲く処、自ずと町の墓参の客が手入れをする寂しいが綺麗に整えられた墓場である。今日は店こそ違うが境遇は同じ一人の遊女の月命日であったから。
八千代と言う名の若い女であった。客として来た一人の軍人に岡惚れしたが商売女を娶るは家の恥だと酷く罵られたそうで、その日以来八千代は塞ぎ込むように客も振り放題、自棄になってはいけませんと親切な抱え主が宥め賺しても赤い瞳は戻らない。
向日葵は八千代の噂を聞き、彼女を哀しいと思う一方軍とはまあ情け無いものよと怒りを感じるいつもは慎ましやかな唇が怖く一文字に引緊まるのを見た同僚や童達は初めて見る向日葵の表情に全員残らず恐れをなした。
女将さんにはちと御得意様へご挨拶回りに、とても良い香りの花が裏手に澤山咲いていましたのでお裾分けに行って参りますと得意の笑顔で快諾させると、駒下駄履いてコツコツと訪れたは軍の駐屯所がある処。
申し申し、お願いいたします、と少し声を張って尋ぬれば、もう黒い水がどっと溢れたように我先にと押し来る者達。
「向日葵さんご機嫌よう」
「何か我々に御用でしょうか」
「中央から送って貰った英国の茶葉があるのです」
「お前抜け駆けはずるいぞ」
「貴様何を企んでおる」
………………………………………………
………………………………………………
相手の声は分らなくても何を話しているかは丸見えだ。八千代さんが来た時はきっと門前払いで済ますのでしょうね。おゝいやだ、私などに浮き立つその足で何故何方も八千代さんを迎えに来ようとしないのかしら。例え店先が違っていても私達は遊女です、遊女には遊女なりの意地がありますと、この坊や達に刻みつけてあげましょう。
「お花を澤山摘みましたので、町の方々にあげて回っているのです、宜しければ軍人さん達も、如何です?」
是非、是非、と答えている。あげますものか。花は本来気軽に与えるものではない。
「あゝでも……誇り高い日本国軍の敷地内に商売女の摘んだ花を飾れば規律が緩んでしまいますわね。尊き日本国の軍人さま方に、私は何て不遜な真似を……あゝお恥しい、今直ぐにでも立ち去ってしまいましょう。あゝどうぞ鞭打ちだけは平にご容赦を……」
と背中を向けて震え出す。
「私達は所詮卑しい商売女、あゝ随分御贔屓にしていただきましたゆえ我々はつけ上がっていたのやもしれませぬ。おゝ恐ろしいこと。申し訳のお詫びの言葉もこの身の程知らずの口から出る物なら謝意の思いも霞みましょう。こうなれば、もう私達は軍からのお客様を一切お断りいたします。短い間では御座居ましたが、私達に有頂天を味わわせていただけましたこと、お礼申し上げなければなりませんが、もう、これにてさようならです。どうぞ遊女どものことなどサッパリお忘れになり、お国の為にお力尽されてくださいまし。」
タッと駈け去るその後を、弱輩共はお待ちよの一声も上げられないで、上等兵に叱咤されてようやく自らの訓練場へとトボトボ戻って行った。
もう町中は大笑い、主婦も農民も商売人も若旦那もご隠居も腹を抱えて破顔する。勿論仲間の遊女達もいい気味だわ偉そうな軍人さんと大喜び。町中の賑やかさが耳に届いて数日ぶりに顔を外へ見せた八千代の瞳の先には悪戯が大成功を収めた子供の大将みたいに頬を上気させて微笑みあふれてやまぬとでも言いたげな表情をした向日葵が此方に向って手を振っていたので、おっかなびっくりながらも振り返す、と、向日葵はその場できちんと一礼するとひらりと自分の店へと帰って行った。天の川の流れに合わせて滑っていくように踊る彼女は、八千代の眼にはもう合掌せずには居られないほど尊い光の鱗粉後光に輝く火取り虫に見えた。
「向日葵さんはああ言うところがあるのよね。」
「あら、どういうところ?」
「まあ。自分では気が付かないものなのかしら。大人しい子だって思わせておいてあんな昨日のような大胆なことしちゃうんだもの。」
「でも、町の人達だって困っていたでしょう?軍人さんは横暴だわ、私とお母様を救ってくださった方々はちっともそんなこと無かったのに。」
「それはそうよねえ。正直内の店の旦那さんも女将さんもあの方々が来た日は良い顔しなかったもの。」
「追い払ったら店を潰すことになるぞって脅されていたからね。」
「私達の店以外でもそんな事してたんですって。金は入っても芸妓の元気が減って行くのでは商売なんざまわらないわ。」
「本当に胸がスッとしてね、せいせいしたのなんのって。」
「向日葵、貴女は凄い娘よ。他所のお店の新入りちゃんの為にあそこまで動けるなんて。」
「やめてよ、立派な人になりたくって手が出た訳じゃないのだもの。」
「貴女はいい人よ、だからあの八千代ちゃんも笑って旅立てたじゃないの。」
「でも、自殺までは止められなかったわ。」
「遊女はね、一度死のうと思ったらもう死ぬしかないの。やっぱりやめた、は遊女の心意気に非ずってね。だからあの娘は笑いながら最後まで遊女として生ききったのよ。」
八千代の死に顔はとても穏やかで、温かい夢を見て眠る幼い少女のような表情をしていた。そして置き手紙の最後には、“向日葵さん有難う”と付け加えられていた。その筆跡に震えは一つも見当らなかった。
自分を責める代りに、彼女は毎月八千代のお墓へと手を合せに行くことにして、今に到っている。だがその墓場にはもう一人参拝者が居たのだった。
十七
その参拝者は祖母の墓を訪れていた。養父がいつも聞かしてくれた祖父の話の舞台は此の町で、此処は祖母の生れ故郷であった。祖母と結婚した後に町の近辺を警備する部隊に志願したと父はいつも話してくれた。由緒正しい家の墓ではなく田舎町の墓への埋葬は祖母の遺言であったらしい、親類縁者の反対を退け祖父は愛する妻の魂をその生れた土地へと帰したのだと。孫である伊吹はそのお話が好きで、幼い時はよく父にもう一度もう一度とねだったものだ。如何してお祖父様とお祖母様のお話が好きなんだいと父が尋ねると伊吹はにっこりして「ないしょ」をするのがいつものことだった。
「お祖母様、伊吹が参りましたよ。」
墓石を水で洗い雫を白い手拭で拭き取って花を取り換え水を差し両手を合せて目をつむる。
「本日は大尉に昇進した報告に参りました。」
女の身でありながら男社会で出世する、聞えは良いがそれは男女同権、男女平等の風潮による後押しを受けたものであることと、養父である宮前中将の存在による恩恵の賜物であることは薄々感じてはいた。
「でも私は軍にとって体の好い偶像です。女である私を昇進させることで、組織の印象を良い方へと傾けて、日本国が軍事国家である正当性を国民達に疑わせないようにする為だと言う戦略なんです。女は男の副産物でしかいられないなど、哀しいことではありませんか。」
でもお祖母様、貴女はそうでない。祖父と同じ立場に立てていた
「貴女が羨ましい、私もお祖母様みたいに強く在りたい。」
兵舎の中では涙など一滴も見せられない、泣き落しがお上手だなどと言われたくないから部屋の中でも泣き声一つあげなかった伊吹は、此処でしか泣くことが出来ないのだ。蹲り軍帽も軍服も今は剝ぎ取ってしまいたい、でも、此の町の駐屯所に視察するという仕事がある、あゝでもそれとて見分を広める為とは建前であって、中央で腫れ物になっている自分を地方へやりたいだけの思惑に因る任務じゃあないか馬鹿馬鹿しい、けれど放棄すれば視察もまともに出来ないのかとやはり女はとやはり親の御威光あってこその娘かと言われてしまうのであろう。あゝ嫌だ、私はお父様のような、お祖父様方のような立派な軍人になりたいのに、自分を愛することもままならぬ身が愛国心など抱けるでしょうか、お父様…
「もし?…あの、お具合が悪いのですか?」
声の在り処を仰ぐと、太陽を後ろに向日葵が心配そうな表情で伊吹を見つめていた。
つい先日軍人さん達を揶揄ったばかりだから、信頼なんて到底出来る筈も無いけれど、その方は何だか放っておけない仔犬のようで、失礼ではあることを覚悟して声を掛けた。私をハッと見上げた瞳には涙がほんとうに小さな一粒だけ留まっていて、女の方だとか関係無く女軍人さんを抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫よ。貴女は此処に居ていいの。」
言った直後に後悔する。私ったら何言ってるの⁉此処はお墓よ、この人のお家なわけがないじゃない!お墓にずっと居ていいって、何?そんな言葉如何して言っちゃったの私…あわあわと頭の中が忙しいのにかまけて居るとその方が一言仰有った。
「有難う。」
その後激しい嗚咽が私の着物を通してくぐもった勢いで心臓を貫いて耳の奥へ響いて来た。その音がとても哀しくて、いたましくて、切なくて、でも愛おしく感じて、私はその後何も言えず彼女の小さな背中を撫でさすり続けた。昼時の眩しい光が丁度ぶ厚い雲に覆われて、墓地を薄暗く涼しくしてくれる。こんなに離れ難い人、今まで居なかった。
お父様、如何して私の父上と母上は亡くなってしまったの?
「交通事故に遭ってしまってね。救急隊員が駆けつけた時にはもう二人とも息がなかった。」
では私の前の家が焼けてしまったのは?
「兄さんの家はとてもお金持ちだったからね、泥棒や賊に襲われてしまったんだ。」
お父様は何でもよく御存知なのね。
「私は兄を愛していた。たった一人の兄だからね。」
ねえお父様、私もお父様みたいな立派な人になれるかしら
「おまえは私の娘なのだから、必ず立派な女性になれるよ。」
そうだったら良いなあ、でもお父様は嘘なんて仰有らないもの、きっと私もそうなれるんだわ。ねえお父様。
嘘つき。
「あら、目が覚めたかしら?」
快い声が聞える。女性の声だ。私は確か……
「あ、急に起き上がってはいけないわ。大丈夫?」
「貴女は…」
どなたであろう。真昼間墓地の中で女とは言え軍人に膝枕をし続けてくれていたなんて、申し訳無い。
「あの、どなたか存じ上げませぬが、大変失礼なことを貴女にさせてしまいました。申し訳ありません、軍に籍を置く身でありながら情けない。お詫びと言っては、その、何ですが、何か一つお食事をおごらせていただけませんか、勿論お嫌でしたら、無理にとは申しませんが……」
相手が男であれば体を与えれば済むであろうが、女性の場合はどうするのが正解なのか分らず頭の中で整理がつかない、みっともない、笑われてしまわないだろうか…
「まあ、お食事ですって?」
嫌だったかな
「嬉しいわ!丁度おやつ時ですし、美味しい甘味処があるの、一緒に食べてほしいパフェーがあるのだけれど、大きくて一人では食べきれそうにもないんです。でも二人ならきっと食べられると思うの。是非、私をお食事に誘ってくださらない?軍人さん。」
「はあ……」
初対面の軍服に緊張もせず怯みもせず、まるで友人に話すように喋る人は今まで見たことがない。天真爛漫と言うのはこのような女性を言うのであろうか?
「……パフェーはお嫌いだったかしら?」
いや、私を見つめて首を傾げる仕草は少しあざとさが
「い、いいえ。嫌いではありません。」
両手をふわりと合わせて忽ち嬉しそうな顔をする。とても演技とは思えない…
「良かった。では早速参りましょう。」
鼻歌交じりに私の手を取って先を歩き出す。美しい唇、素直な鼻筋、愛敬に満ちた瞳、軽やかな髪。
家柄の都合で上層階級の女性と接する機会は多かったが、それらの中にこのような方は一人も居なかった。
「女軍人の手に触れれば殿方との結婚に恵まれないことがうつりそうだわ」と握手をも忌避された手を、貴女はしっかりと握ってくれている。
「私の名前はね、向日葵と言います。この町で遊女として働いているの。」
顔に傷のある女の顔など見たくないわと揶揄された顔を貴女はわざわざ振り向き見つめてくれている。
その美しい瞳に映る自分の顔が、昔父親と結婚すると言って笑っていた無邪気な時分の姿をしていた。
美しい君、愛しい君、背中に旭光の翼を湛えた私の救い。君を守りたいから私は軍人になったのだろうと柄にも無い言葉を呟きたくなる唇を引緊めて、握られた手を握り返して名を名乗る。
「私は宮前伊吹。日本国陸軍に所属しています。」
どうか、どうか、この名を呼んで。
「伊吹さん、苺のパフェーが待ってるわ。」
「えゝ。」
二人は最初ゆっくり歩いていたが段々足早になりしまいにはどちらともなく駈け出していた。山道を町にかけて登りゆく笑い声は夏の若葉に吸われて内緒のお話をしているようであった。
十八
夏は長く秋は短い、冬は長く春は短い。そしてまた夏が訪れる。
伊吹は此の町に長期滞在し、たるみきったと悪評のある此処の駐屯所を叩き直し矯正することを中央から厳命された。視察の際の報告書が見事に要点を捉え駐屯所の無能さを明らかにしていたからである。中央の魂胆としては扱いの難しい伊吹を田舎に左遷し無理難題を任せて中央に戻らせまいとするものであっただろうが、伊吹はその命を受けて僅か半年で軍人の墓場とまで言われていた田舎の駐屯所を中央にも引けを取らない程の精鋭部隊へと成長させていた。
これには上も舌を巻いたろう。そして、伊吹を除け者扱いするよりも中枢へ据えた方が良さそうだとも考えた。今の日本軍の主戦法は近接での闘いであるが、やはりそれではどうしても犠牲が多くなる。かと言って銃撃部隊を組めるほど正確で精密で容赦の無い射撃が出来る人間は多くない。が、伊吹は中央の求める銃撃が出来た。そしてその技術と胆勇、冷酷さを部下に徹底して叩き込み、陸軍でもトップクラスの銃撃部隊を作り上げていたのである。この手腕はこれからの戦争で必ず役に立つからと、伊吹は中央へ呼ばれることになった。
父からの祝いの言葉とお褒めの言葉があふれた手紙を微笑みの内に読んで仕舞うと、伊吹は傍らで眠りに就く向日葵のはだけた身体に布団をそっと被せ直した。その薄い腹部にはもう新しい命が宿っていた。
中央へ行くと決めた伊吹を向日葵は引き止めようとはしなかった。
「貴女はきっとこの片田舎で収まる人ではないのでしょう。」
と微笑んだ瞳は潤む月夜の空を仰いだ後の色に染まっていた。
「この子が生れたら、貴女のことをお話してあげます。銃の名手でとても立派な軍人さんだと。」
「必ず中央で三人で暮らそう。毎日文を書くから、返事を寄越してくれないか。」
「勿論。」
列車は白い蒸気を高く掲げ乍ら都会へと駆けて行く。
―お元気ですか。今日は父と久し振りに会いました。私が貴女の故郷で部下達を鍛え上げたことを大層お喜びでした。その成果は私一人に因るものではなく、私を信じてくれた女性のお陰ですとお伝えしますと、貴女について澤山のことを訊かれてしまいました。あんなに他者に関心のある父は初めて見ましたので、嬉しさやら珍しさが勝り我が子のことは言い出せませんでした。次回お会いした時、私と貴女の関係、そして子供のことを伝えようと思います。
どうぞお身体お大事にしてください。
―お手紙拝見致しました。診療所の先生曰く、現状は母子共に至って健康だとのことです。先生は毎日散歩をすると良いと仰有ってくださいましたよ。私達の家と診療所を毎日一往復すれば丁度良い運動量になりますから、毎日診療においでなさいお代は要らないからと仰有ってくださいました。本当に親切なお医者さんで私は恵まれています。母だけでなく同じ店で働いていた妓達やご近所の人達も随分心配してくれます。此方は大丈夫ですから、どうぞお勤めに励んでくださいね。
―近頃軍議が長引くことが多く、決まった時間に睡眠をとることが難しくなりました。軍人である以上それは覚悟していたのですが、貴女を身請けしてから過ごした一年はまるで娘の時分のように素直な日々を送りましたので、未だ身体が本来の生活に慣れきっていないようです。父に話せば弛んでいると叱咤されてしまいそうなので内緒にしています。昔から父への内緒事は得意でしたので、孫のことを聞いたらきっと父は喜んでくださるでしょう。早く貴女を此方へ招きたいものです。
私にもっと実力や権威があれば向日葵さんを待たせることもないであろうに、無力な私をお許しください。きっと、貴女達を中央へお呼び出来るよう私も尽しますゆえ。
気候が不安定になってまいりましたので、くれぐれも体調にはお気をつけてください。
―筆跡が乱れていましたよ。冷静を装って誤魔化そうとされていましたが、綺麗な字で私の目は騙せません。貴女は私への内緒事はあまりお上手ではないようです。
神社の神主さんを憶えていますか、宮元のお爺さんです。お爺さんは先日中央から地鎮祭を依頼されて何十年振りに都会へ行かれたのですが、その時立ち寄ったカフェーで伊吹さまのことを耳にされたそうです。水軍の将校様との御縁談があがっているとの噂を聞いたのですって。
貴女は立派なお方です。そして優しいお方です。立派な方なればこそ他の女が羨むような御縁談にも恵まれましょうし、お優しいからこそ私へ事実の告白もし得なかったのでしょう。全てを正直に申すことなど人の身では不可能なことだとは存じています。内緒事や秘密事は人を人足らしめるものですから。
ただ、貴女がその秘密に因り御自身のお体やお心を傷めつけていやしまいかと、それだけが気掛かりです。
―貴女に似合うと思い街の呉服屋で買った物をお贈りします。先のお詫びになるとは思いませんが、後ろめたさに背を押されて購入した訳ではないことをご承知いただきたく存じます。
縁談の話ですが、宮元の神主さまの仰有った通りです。私は父からそのお話を聞いた時即座にお断り申したのでありますが、父も中々に頑固ですので互いに一歩も譲りませんでした、何故そんなに頑なに拒むのか相手に不足は無い筈と尋ねられた際、私は貴女のお腹の中に我子が居ることを正直に話しました。すると父は暫く黙った後、顔を見せて話すだけでも良いから見合いに出席するように告げました。そうすれば向日葵さんとの仲を認めると仰有っていただけました。互いに忙しい身であるからと見合いは三ヶ月後に決まりました。ですがそれは形だけの見合いです、私にはもうかけがえ無い妻子が待っている身なのですから。
―近頃は眠ってばかりのような気がいたします。無理に起きているのは身心に悪影響を及ぼすので、眠りたい時は欲求に従うようにと助言を頂戴いたしましたので、今ではその通りに日々を過ごしております。
送っていただいたお着物、とても綺麗です。私の為に選んでくださいましたこと、心から嬉しく思います。子供の名前は、この贈り物から取って、朝顔にしようかと思います。是非夫の意見を聞かせてくださいまし。
「手紙はこれで最後だ。」
潜り込んだ貨物車両の中、もう人目を忍ぶ必要の無い荷物の中で留田は十枚にも満たない手紙を読み終えた朝顔に告げる。
「では、宮前中将は、朝顔さんが自分の息子だと知っていたのですか。」
雪の言葉に留田は頷く。
「おまえは知らなかったが、向こうはずっと知っていた。太郎や大輔なんかじゃない、朝顔って言う野郎の名前は珍しい。」
目を掛けていたのも親心か。
「父親なら、」
新月の空に雲は縢らない。
「何故妻子を捨てたんだ?惚れ薬の実験台で頭のおかしくなった妻が出世の邪魔になったからか?それともその見合い相手にまんまと誑かされたのか?」
もっと激昂するかと思っていた。実の父親の正体を知ったら、ぶち殺したい衝動で居ても立ってもいられなくなってしまうのではないかと恐れていたが、人殺しの依頼を完遂した時と同じくらい感情は凪いでいた。
「何方も違う。」
留田の声が頭に響くのが分る。
「おまえのお母さんは、最後の手紙を書き終えた後、急に意識を失くして、植物状態になったからだ。」
こんな時友は嘘をついていない。
「嘘だ。植物状態の人間が赤子を抱え続けられる訳が無い。」
「それが出来たんだ。町医者の先生も信じられないって驚いてた。おまえを帝王切開で産んだ直後向日葵さんは目を覚ました。念の為術前にはきちんと全身麻酔はかけていたから痛みでどうこうなった訳じゃなかったが、それから向日葵さんは精神を傷めてしまったんだ。」
「嘘だ。先生もお婆ちゃんもそう言ってなかった。」
「言うなと言われたんだ。医師から電報を受けて直ぐに飛んで来た宮前中将に。」
何で、
「出生の経緯を知れば、子供は必ず自分を責めるようになるからと、自分を産む為に使用した麻酔の所為で母親の気が狂ったと知れば、自分は生れて来ない方が良かったんだって思い詰めて生きることになるからって、それだけは絶対させたくないって言ったんだ。妻や自分に似て、心の優しい子になるからって。」
お父様。
“だから朝顔、貴方は必ず優しい人になるわ。だってお父様とお母様の子供だもの。”
忘れていた記憶、向き合えなかった想い出はあふれて零れ落ち、伝う様はまるで頬を撫でるよう。
十九
断じて兄が羨ましかったことなど無い。軍人の家系に生れ乍らも人を殺めるのが嫌だと言って一族の宿命から逃げた臆病な兄など手本にもしたくなかったが、父は兄の弱さを非難するどころか優しさだと認めたではないか。
「おまえも兄さんのような優しさを持っているよ、桜。」
何てことを仰有るのです母上まで。私はあのような軟弱者ではありません。軍人として一兵士として国を愛し国を護る者です。国防の責務を捨てて好きに生きるなど、愛国心が無い逆賊の行いにも等しい。
兄の生き方を否定する為に桜はどんどん戦果を挙げて行き、中将にまで出世した。勿論士官学校在籍時の成績は常にトップで上官からも目を掛けられていた為に人よりも活躍出来る場を多く与えられていた恩恵もあるが、それを抜きにしても桜の活躍は目覚ましかった。
兄である宮前桃は商人としての才があり、豪商として成功を収めていた。だが彼は武器の類を一つも取り扱おうとはしなかったので、よく桜は兄に怒りの声を荒げた。
「兄上ほどの人脈があれば、もっと性能の高い銃や多くの爆薬を入手することなど難しくはない筈だ。何故軍への協力を拒むのです。」
「戦争を利用して儲けようとは思わない。」
「兄上個人の儲けになるのではありません、国益となるのです。此の国は資源に乏しい。中東や西欧諸国のように潤澤な資源が生れ乍らに無いのです。日本国は他の国を植民地化して国土を広げていかなければすぐに立ちゆかなくなる。」
「なら支配や侵略ではなく同盟を結び貿易で生き延びる道を選ぶべきだ。桜、何度頼まれても私はお前達軍部に手を貸すことはしない。……もうこの話は止めにしよう。また妻や向日葵達を怯えさせる訳にはいかないから。」
なんて呑気な個人主義だ。国と国との同盟が清いものだと本当に信じているのか?どの国も個人の利益を勘定して動いているんだぞ、国全体のことを憂慮して動いている奴など実在していると思っているのか?全て個々人に目をやり過ぎた思想が蔓延したから国は国を想えなくなってしまったんじゃあないか。
「兄さん、貴方は強いお方だ。父上は間違っていなかった。」
「桜。」
「私が愚かでした。確かに戦で国土を拡大すると言う手段は野蛮です。我々には言語が与えられている、武力ではなく言語を以て相手と理解しあう事こそ、我が国が率先して進めて行かなければならない責務なのですね。」
「理解してくれたのか。」
えゝ、よく理解しましたよ。
「優しい兄を持てて私は幸せ者です、恵まれている。明日、軍議でこの結論を提案しようと思います。」
兄は嬉しそうに私の肩を抱いた。その温もりは翌日二度と感じられなくなった。
「父上。」
書斎の音を叩く音。
「入りなさい。」
寝巻姿の伊吹は扉を開けて静かに閉めると、いそいそとした様子でソファーに座る父親の正面に座った。
「扉はもう少し静かに閉めなさい。そんなに浮足立っている様子を召使い達に見られたら陰で笑われてしまうよ。」
「申し訳ありません父上。でも、待ちきれないのです。見合いに出席するだけ出席したのですから、約束を果たしていただけると思うと、つい。」
兄の悪い癖は娘にも受け継がれていたようだ。
「父上、向日葵と朝顔を中央に呼んでも良いのでしょう?」
人を信じすぎないように教育した心算だったが
「私に子育ての才は無かったようだな。」
「はい?」
「伊吹、おまえの妻と子を中央に招くことは出来ない。」
「何故です。」
思ったより激昂していないのは、褒めてやろう。
「その向日葵と言う女とその子供は、日本の在り方を根本から変えてしまいかねないからだ。」
「身分差の恋は愚かだと?」
「身分の問題ではない。女同士で子を成した事が問題なのだ。」
「それなら身籠った妻よりも夫である私の方が責め立てられるのでは?女を孕ませられる女の方が特異な存在ではないでしょうか。」
正しい反論だ。だが軍の上層部は正論で通られるほどお人好しではない。
「おまえの手腕は軍にとって必要な部品だ、取り換えの利かん貴重なパーツ。だが女の方はどうだ、惚れた者の子を妊娠する女は珍しくも無い。」
「私にとってはかけがえの無い存在です。」
感情的になるな。
「それはおまえ一個人の視点だ。国から見るとおまえの方が格段に有用な存在だ、何せ墮落しきったあの田舎の奴等を中央にも劣らんほど、否中央にも勝るほどの部隊へ見事に育て上げたのだからな、あんな短期間で。」
「だから私を欠かすことは出来ないと?私を守る為に向日葵と朝顔を非難の的に据えろと仰有るのですか。」
「そうだ。若しおまえが女を中央へ連れて来れば我々はそうしなければならない。箝口令が如何に無力なものかは世間を見れば分るであろう、軍とて例外ではない。」
「では、二人をこのまゝ、田舎に住まわせろと?」
兄の遺伝か、私の教えか。
「向日葵は麻酔の為に精神を病んでいるのです。ですが中央にはそのような患者でも入院させられる治療施設が多くあります。其処に通えば、向日葵はきっと回復すると、そうすれば私と逢った頃のように未来を見つめるあの眼差しが取り戻せるのではないかと、そして親子三人………ですが、彼女は今、過去に暮らしています。私との日々を繰り返し想い出しては語り聞かせているのです、まだ生れたばかりの朝顔に……そんな、そんな二人を、私の為に十字架に掛けることなど出来る訳が無い。」
他を想うとは本来そういうことだ。自分を傷付け相手を苦しめさせることだ。
「私は、中央での責務を果たします。此の国の為に、身を尽して命を全う致します。」
「妻子は?」
「捨てます。中央へは決して呼び寄せたりはしません。」
軍を率いるには決断力の素早さも必要だ。
伊吹の瞳にはその日から桜によく似た光輝が灯るようになった。
「宮前桜はその後陸軍を辞職した。その後の行方は今も分らない。」
「まさか、お父様、が…?」
「いや、中将は父親の辞職に反対していた一派の一人だ。恨んで殺す、なんて真似することは無いだろう。」
“でももうその人死んでるよ。”
「雪丸?」
“最近亡くなったんだって”
「朝顔さま、雪丸が、宮前桜氏はもう亡くなっていると…」
「何⁉」
「本当か、雪。」
「その人、どうして亡くなったの?」
“殺された”
「…殺された、と……。」
「あの冷酷さは自分の鬱憤を晴らす為のものじゃないと思っていたが……」
“違う留田、伊吹じゃない。”
「雪、雪丸は誰だと言っている?」
その時雪丸が雪の肩からパッと離れて、朝顔の頬にすり寄った。
“泣かないで朝顔。君の所為じゃない、あの人覚悟していたよ。”
「待ってよ雪丸、それじゃあまさか…」
“朝顔が殺した少年院の院長さん、あの人、朝顔のお祖父さん。”
心斎橋のオーナーの顔がニタニタ笑っているように思えた。
二十
軍が開発に着手した惚れ薬が、何故心斎橋の店にあったのか。軍の計画は極秘で、瓶を易々と信用ならない輩に手渡すことなど有り得ない、内通者?いや違う、オーナーは他人に協力を求めてはいない、全部自分で仕組んだのだ。軍人の中に不埒な奴が居ないことは作者が保証しよう。では何故彼が?宮前桜が恐れ嫌った個人主義の延長線上に発生した復讐心の為である。この男は個人の幸せ無くして全体の幸せなど有り得ないと信じる者であった。要は桜を殺したくて殺したくて仕方の無い男であったのだ読者諸君、彼はかつて保養所で亡くなったうら若い娘、和子の夫である。
日本国はとても良い国だと、常々和子の父親は話をしていた。貴族のくせに人を疑わない人であったので、その影響は妻にも娘にも及んでいたのは当然であり、市民達にも優しく分け隔て無く接していたので、天性の愛し愛される人柄は彼の生れた国を象徴しているかのようだった。
和子の夫の名前は凛々千代と言い、彼もまた貴族の出自であったが父親の不正や母親の浮気の為に没落して市民に成り下がった青年であった。
そのような境遇の者を、国民は見逃さない。
これから記すは彼の受けた陰険で残忍な仕打ち、理不尽な責め苦、そして目覚めた凶悪性…などではなく、そのような事態にならぬよう先手を打って和子の父親は彼を救い出し、自分達と同じ暮らしを与えたこと、そして助けられた青年は恩人の一人娘に恋をしたこと。
「和子さん、貴女に贈りたいものがあるのです。」
「まあ凛々千代さん、何かしら?」
この国では惚れた相手に自分の想いの丈を示す為に髪留めを一つ手渡すことが古来より続けられていた。
「貴女の御髪に、似合うと思って。」
「有難う凛々千代さま。家に戻って早速鏡を見ながら付けてくださる?」
そして髪留めは贈った相手が贈られた女性の髪に飾る、というのがこの国の習いである。
「えゝ、それでは今直ぐにでも、ご自宅で付けてさし上げましょう。必ずよくお似合になりますよ。」
「有難う凛々千代さま。」
二人はもう直き斜陽になる帰り路を手を繋いでのんびり帰って行った。
「このような生活、父と母がそれぞれ逮捕される以前の生活でも味わえた例がありません。父は自分以外の者を服従させないと暴力を奮う男でしたし、母はメイド達をいじめるが楽しみ、と言った女なのですもの。いつかあの二人のように私も成ってしまうのではないかと、毎日祈りながら眠っています。どうか、実の両親のようになりませんようにと…」
「神様は必ず憐みをくださいますわ。貴族も市民も隔て無く恵みをもたらしてくださいます。私達には美しい神様がただお一人居られるのですから、大丈夫ですよ凛々千代様、私の夫はそのような人にはなりません。だって、とてもお優しい方じゃありませんか。」
桜の花が風に押されて道行く人の頭を次々と掠めていく。和子の頬には花びらがくっ付いた。
「付いてますよ。」
と取ろうとすると、
「折角だからこのまんまで良いわ。自然に離れる時迄咲かしておいてあげましょう。」
綺麗な桜の花びらを取ってしまうのは勿体無い、と言われて、家に着く少し前辺りまで、凛々千代の左手は手持無沙汰のままであった。
日本国はいきなり戦争を吹っ掛けて来た訳ではない。当初は外交上の諍いであったものが、いつしか武力を行使することになっていたのであり、不思議なことには誰一人として戦争の始まりを知らないのである。
神話に様々な解釈や多くの脚色が付与されていくように、戦争の始まりは両国民の想像力を刺激し澤山の議論が新聞に飛び交い市民は安心出来る唯一解を求めていく。
凛々千代の国ではその答えが政治家と貴族を巻き込んだものとなってしまったのである。
日夜家の周りは血気盛んな学生達に取り囲まれ外出することもまゝならない。食料を買いに行くことも配送してもらうことも出来なくなり、家族の中で最も若い和子が先ず倒れた。せめて娘と婿の命だけでも見逃してほしいと訴えに向かった父親が刺し殺され、夫の亡骸に正気を失した妻は殴り殺された、家主を亡くした家にどっと群集がなだれ込み、青白く痩せた頬の妻は義憤を主張する手によって次々と夫の目の前で犯されていく。未だ折られていない左手を伸ばし妻の名前を叫ぶ、五月蠅いと誰かに言われて後頭部を力一杯殴られる、目の前が赤く赤く滲んでゆく、走馬燈すら心は望まなかった。
処刑と名を冠し行われた虐殺の被害者達は墓に葬られることも認められず嘗て日雇いの者達が寝泊りしていた空地の一隅に乱雑に積み重ねられた。死骸は腐り肉がずる剝け黄ばんだ骨の間からは蛆や蚯蚓が顔を覗かせ、それらを狙って烏が来る、虫を喰らい死肉をついばむ。食事を終えまた飛び立とうとする羽音に充血した両眼を裂けんばかりに見開きその両脚をボキボキと鈍い音させて握り潰した手があった。烏の絶叫、だが助けに来てくれる勇者など鳥の世界に居やしない、断末魔を空に放つ喉に噛みついて血を啜る、最早人と同様肉塊と化した烏は目玉を抉られ洞になった二つの穴からどろりと体液を零し鼻先を伝い嘴を伝い涎の如くだらりと長く舌を吐く。
食う為でなく生き物を殺すのは人間だけなのよと世間知らずな妻の言葉を思い出す。優しい日本国が此の国に戦争を仕掛けたのは食っていく為なのであろうか。
日本国に膝をついた故国はやがて日本国と名乗らされるであろう、そして日本になるのだろう。だが
「俺は日本人じゃない。」
凛々千代は殺しの味を覚えてしまった。物を壊すことの楽しさを知ってしまった。
「昔は親を憎んだものだが、今となっては嬉しくも思うよ。」
仕事の依頼人の情報が暗号で記された紙切れを朝顔に手渡し乍らオーナーはそう言った。
「何故?」
朝顔は暗号の内容を一目見て即座に解読し、煙草の火を紙に移して灰皿に捨てる。
「俺の根幹を示してくれていたからさ。」
「そういうもんかね。」
母親を捨てた奴が自分の基礎とは思いたくねェな。
「ところで、」
親の話を逸らしオーナーの後ろに置かれている瓶に指を向けた。
「その小瓶、一体何だ。ただの趣味にしては些か可愛くないか?」
軍に在籍していた際に見掛けたものとよく似ているが、まさか。
「此奴は惚れ薬さ。軍から極秘で入手したんだが、これが面白いくらいよく効くのさ。」
あの工場は誰でも自由に出入り可能な場所じゃない筈だったと記憶しているが
「へえ、誰から流して貰ったんだよ。軍に協力者でも居るのかい?」
「今回のターゲットさ。少年院の院長だよ。奴は軍の上層部と関わりがあってね、そのツテで回して貰ったんだ。」
「商売仲間を殺されちまっても良いのか?」
「旦那、貴方は俺と同じだ。人を殺すのが楽しいんだろう?誰でも良いから人間を撃ちたいってギラついた眼をしてやがる。」
「そんなんじゃねェよ。その為に殺し屋になった訳じゃない。」
即座に否定するってことはその通りと認めるようなものだ。此奴も綺麗な顔していたって所詮は欲望に忠実なんだ。今や支配国と呼ばれるようになった俺の国の市民達と一緒だ、結局皆暴力が好きなんだ!
「仕事はちゃんと済ませて来るから安心してろ。」
朝顔はオーナーに吐き捨ててその場を後にした。
二十一
太陽は空の真上に到達している。目を潰さんばかりの光は列車に照りつけるが車両の瞳は背中に無い。
「軍の上層部が少年院の院長と太いパイプがあって、その院長がおまえの祖父さんで、祖父さんと心斎橋の武器商人が繋がっているって?」
「ほ、本当なのですか?」
「阿呆の留田は信じてるかもしれんが、此奴に構うな雪。これは明らかに作り話だ。」
「一言多いからお前は部下達にクソ朝顔とか陰で言われてたんだぞ。」
「どの点が、作り話なのですか?」
「雪、雪丸に少年院の院長のことを訊いてみてくれ。」
「雪丸、少年院の院長さんのことを詳しく教えてくれるかしら。」
“宮前桜でしょう?もうその人は居ないよ。宮前桜はとても悲しい人、いつもしくしく泣いてる人、でももう泣いてない。朝顔が殺したからだよ、宮前桜は泣かなくてよくなったの。”
「しくしく泣いてる人?」
“泣いてる人は僕わかる。でも泣いてない人は僕雪達以外わかんない、生きてるか死んでるかわからない。”
雪丸にとって主人とその夫、夫の友人や主人の姉は判別出来るが、他の人は泣いていなければ生死の区別も付けられないと言う。
“僕のわからないは躑躅が知ってる。躑躅は心臓の音しってる仔だから。”
「躑躅、貴女宮前桜と言う方のこと、分かる?」
“知っているよ、そのお爺ちゃん生きてるよ。音が見えるから、きれいに咲いているの。”
「雪、躑躅は桜が生きていると言っていないか?」
「朝顔さま、どういう事です?お祖父様を依頼で殺したのではないのですか?」
もう留田は口をぽかんのまんま。
「父親が、お母様の愛した方が中将だってことは今留田の話を聴いて初めて知った。でも、父方の祖父が生きていることはもう知ってたんだよ。」
「朝顔、おまえ軍辞めるって言って誰に最後挨拶した?」
「お父様、だ。その時はあのクソ生意気なきらっきらした眼に唾でも吐いてやろうって気概で出向いたんだが、俺が言葉を発する前に言われたんだ。
(少年院の院長に会いなさい)
それだけであの人はご自分の部屋を出て行かれて、残された俺は宙吊りにされたような気分だった。もう直属の上官じゃないから従う義理は無いと意地になってその時は会いに行かなかった。でも…」
(朝顔、おまえは愛された子だよ。それはこれからも変らないからね。)
故郷に帰ってお婆ちゃんの最期の言葉を聴いた後、あの時伊吹中将に言われた言葉を想い出して、それで少年院のある都会にまた出向いた。まさかその後で雪に逢うことになるとは予期していなかったが。」
「私に再会する前に、お祖父様に逢っていたのですか?」
「兵籍簿の写しも持っていなかったが、少年院の番兵は俺の顔を一目見て直ぐ敬礼してくれたよ。宮前伊吹中将の最後の命令で来たと伝えたら素直に通してくれたよ。」
「で、感動の出会いになった訳か?」
とんでも無い。院長室に入った途端日本刀で斬り掛かって来た爺さんだぞ。
咄嗟に身を躱し、肌身離さぬ拳銃に指を掛ける。距離を置こうと足を退らせソファーの背面の位置に立ち眉間に照準を合わせ引き金を引く、弾は皮膚を裂き、血が滴る。……日本刀を持たないもう片方の掌から。
「この距離で銃弾握んのかよ。」
「手榴弾のように爆発することはあるまい。」
「そう言う問題なのか…」
互いに殺気敵意を仕舞い朝顔は来客用のソファーに、桜はいつ取り出したのか包帯で掌の止血をしつつ机の前に座った。
「君は朝顔君、と言ったな。」
「えゝ、先日退役した一軍人です。今日は上官の言葉に従って来ました。」
伊吹、顔も素性も変えた儂をどうやって探し出した。
「宮前伊吹中将のご命令で…唯一言貴方に会え、と。」
親子三人で暮らすさゝやかな夢を儂が奪ったから、その腹いせか?否、今のあの娘は個の感情で動くことはするまい。……だが……
「朝顔君、老人の独り言に付き合ってくれんかね。」
そういう台詞は戦友の中にも多く居た。
「構いませんよ。戦友もそう話す者が澤山居たので。」
「儂はな、子供の小さな願いを潰したことがある。」
君の家族を引き裂いたのだ、夫に妻子を捨てさせた。
「軍の為に、国益の為に、国民の為に、国の為に。儂は個人主義が嫌いでな、儂の兄は典型的な個人主義者で、一人の幸せ無くして全体の幸せは望めないと考えるお人好しな……やさしい、人だった。でも儂は兄の思想を受け容れられなかった。誰かの幸せは誰かの幸せの上に成り立つものでは断じて無い。誰かが笑えば誰かが泣き、誰か喜べば誰かが苦しむ、自分の幸せは他人の幸せではない。自分が良ければそれで良い、などと言える者達が恐ろしかった。如何してその幸せを相手に分け与えて己が身を半分苦しめることが出来ないのかと。」
戦前は本当に恐ろしかった。国民は与えても与えても飽きること無く自分一人の快楽の為に手段を選ばない人間ばかりで、人が空を見上ぐるのは天照大御神への感謝を捧げる作法では無く目新しい何かが降って来るのを待ちほうけている。
「もはや国を愛する生命を捨てた人々の為に、何故部下や仲間達は死ななければならなかったのか、答えが判明せぬ日を過ごしていると、戦争が起きた。」
「爺さん、貴方の考えは察するよ。大きな変革を起す時は大きな事件が勃発してしまった時が良い。旧来の価値観や思想を変えるにはその方法が一番最適だ。時勢を味方に付けたら国民は疑わない。俺も嘗ての民主国家より今の軍事国家の方が居心地が良い。」
これは儂の遺伝か、伊吹の教育の結果か。
「でもな、俺の初恋の女の子のお姉さんが、軍政権には馴染めなかったんだ。あの惚れ薬は凄いよ、最近では支配国と日本国の民衆の顔立ちも似て来て見た目ではもう皆日本人だ。でも、日本人になりきれない人は如何したら良い?その子のお姉さんだけじゃない、支配国のお嬢さん、それに、それに…………お母様……」
「向日葵さんのことか?」
涙の頬は、幼い伊吹とそっくりだ。
「何故貴方がお母様の名前を…?」
「私の同僚の話だが……」
宮前桜、宮前伊吹のそれぞれの名は伏せられてはいたが、話の内容は留田が話したものそのものであった。同僚は貴方の親友だったのかと問えば、我々の世代は誰しも似たようなことをしていたから他人事とは思えず憶えていたのだと返答され、その同僚の行方は知らないが惨めに生き延びているだろうとも付け加えられた。独り言を聞いてくれと朝顔に頼んだ時から彼の口調こそは静かで落ち着いたものであったが、両眼からは音も立てず涙が流れ続けて居たのは、孫にしか分らなかった。
「だから院長を殺す依頼を受けた時、俺は殺したくなかったんだ。あの時は分らんかったが、まさか自分の爺ちゃんだなんて夢にも思わなかったけどな…」
「朝顔、おまえ大丈夫か?俺の話で情報量多過ぎて頭馬鹿になってないか?」
「私も付いて行くのが大変です、こんな話…」
「正直今仮眠を取りたいが、全員寝たらバレた時不味いだろう。」
“私達が見張り番してあげるよ。”
“任せて任せて。”
「この仔達が見張り役をしてくれると言っています。」
「じゃあお言葉に甘えて」
「寝るか。」
お疲れさま、少し休みなさい。雲は晴れて日が高い。
二十二
雪の自宅は家主である父親こそもう此世には居ないものの、可愛い雪ちゃんがまた姉妹仲良く暮せることを願って、朝顔のお婆ちゃんやお光さん達を始めとして近所の人達が庭と室内の手入れを欠かさなかった。そのお陰で雑草は群がらず、埃は溜まらず、綺麗でもの寂しいお屋敷として建ち続けている。
人を待つ白壁に、客人の影が一つ映る。
「あの…軍のお偉い方が、私達の家に何の御用でしょう。」
雪の姉、夕浪は突然来訪した伊吹を我が家まで案内した。診療所を訪れて彼女の口から妹の名を耳にした姉は涙も拭いきらぬまゝ寝台から飛んで走り、塵埃一つ寄せ付けぬ制服の外套にしがみつく。
「妹を、妹を御存知なのですか?」
罪悪感に喘ぐ白い喉は掠れた声で妹を探す。
「えゝ。お逢いしたことはありますよ。とても可愛らしいお嬢さんでした。」
「あの子は、元気ですか?何をしていますか?」
夕浪の頬を白い真四角のハンケチで拭い乍ら、伊吹の瞳はにこやかに細められた。
「お姉さん、落ち着いて下さい。雪さんは健やかにお勤めを果たしていらっしゃいますよ。働きに出たのはお金を稼ぐ為と、もう一つ初恋の男性に逢いたかったから、なのでしょう?健気な子ではありませんか。必ず故郷に元気な姿でお戻りになるでしょうから、それまで信じて待っておあげなさい。貴女の想いが彼女には何より嬉しい筈ですから。」
「軍人さま…」
夕浪のはやる動悸は鎮まったらしく、その場にぺたんと座り込む。その背中をお光や神主さん達に支えられながら治療室へと戻って行く。
「お姉さん、医師の許可が下りてからで結構ですので、貴女のご自宅へと案内していただけませんか?」
そして今、数分前に先生からのサインが出たので二人は屋敷の前に居る、ということなのだが、此処に到着するまで伊吹は一言も話さなかったので、夕浪は軍人がわざわざこの町に、しかも自分達の家に来訪した理由を未だ知らないでいた。
「一度雪さんのご実家を訪れてみたかったのです。」
伊吹は青い格子の窓硝子を見た。
「息子の初恋の女性のお宅を父親がいきなり訪ねるのは無作法でしたでしょうか?」
「息子…?」
「大変申し遅れました。私は日本国陸軍中将、宮前伊吹と申します。そして息子の名前は朝顔と言います、御存知でしょう?」
「朝顔さんの…お父さん?」
「えゝ。」
「本当に…女性だったのですね。」
「私が世間から、とりわけ男性から非難を受けないのは軍部が求める人材だからです、そうでなければ息子の顔を見る前に殺されていたでしょうから。」
「はあ…」
軍部の事情には詳しくないから伊吹さんが何を仰有っているのかは分らないけれど、
「あの、では殺されずに済んだのに、如何して奥様を、その、……置き去りにされたのです?」
「私が妻子を捨てることを自分で選んだからです。」
この光に満ちた瞳は、どれだけの選択を迫られて来たのだろう。
「とんだ失礼を…私に貴女を問う資格などありません。私は姉でありながら妹の身を責め苛みました女。誰の負い目も指さすことは致しません。」
「夕浪さん、貴女の過去は薬によって齎されたものです。」
「お医者の先生もお光さんもそう仰有ってくれました。けれど、私の心の中に雪を嫌う胞子が僅かでも根を張っていたのだと思うんです。薬は、それを黴に成長させただけで……私はもう、妹に顔を合わせることが出来ない。」
あの子は哀しい優しさを持つことの出来る子だから、姉を責められないかもしれない、それに、またあのような酷い目に遭わせないと言い切る根拠も無い。
「顔を合わせない方が幸せ、と言う仲もありますの。」
「会えることが叶う距離なら、無理にでも会った方が後悔は残りませんよ。」
妻の微笑みを想い出す。本当は駄々をこねても私を中央へ行かせたくなかったろうに。
軍部が此の町を薬の最初の実験台に選んだ時は口中が血の味であふれて気を微かにも弛めれば唇から血が漏れていたであろう。効く者と効かない者、てっきり町の住民は支配国の人民達のように熱狂か悪口の二つに分かれると予測していたが、部下からの報告書を確認して我々は大いに驚いた。効かない者は一名のみ、後はこれまでと変らず長閑に生活しているなど信じ難い。二つ目の実験台の土地では全員が残らず何方かに分かれたと言うのに。
だが此の町を詳らかに研究する猶予は時間・資金共に残されていなかったので、軍は此の町を放っておいて、二つ目の実験地のデータを基に薬を拡散させていった。もう国土の三割は軍の手に掛かっている。あれは未だ二割に満たない時分だったか、朝顔に計画を教えたのは。
あの子は私達に似て身内に嘘を吐くのが下手くそだった。当時彼の上官はすっかり騙されていたが、あの子のはちきれんばかりの憤慨を感じ取れんから奴は出世がいつまで経っても出来んのだ。
母親の病が軍に因るものだと暗に言われてもあの子は不貞腐れず忠実に自分の勤めを果たし続けた。私が本心を話してあげればと夢想しない日は無かったが、私はもう宮前向日葵ではなく宮前伊吹として生きている、宮前伊吹は軍の為部下の為に生きる人間だ、あの子に真実を話して抱きしめてしまえば、必ず軍の格は一気に下がる。私が個人の願いや欲の為に軍を利用していると思われることは、亡くなった部下や同僚達の遺体を土足で踏みにじる行為と同じ、彼等は皆国の為に死んだのだ、栓を抜いた手榴弾を持って突撃していく若者達を射撃部隊が発足する迄何百何千見送ったろう。如何して彼等の名前を忘れられることが出来ようか。国を愛し国防の責務を負った者達は報われなければならない、その報いとは此の軍事国家を維持していくことだ。
朝顔、私はおまえに嘘を吐く。この薬の撒き散らしに参加してほしい訳じゃない、一般の出自だとかどうでも良い、向日葵はこの惚れ薬に因って精神を病んだのだと信じ込ませる為に嘘を吐く。軍を恨み、仕事をこなし、そしていつか出て行きなさい。
「朝顔が入隊してから、少年院の院長が刷新されたんです。桃畑大河と言う初老の爺さんらしいが、兎角鬼神の如き権幕で囚人達を院長直々に監視して見回るんですって。それに怖気づいて自殺する囚人がどんどん霊安室に運ばれる事件が起きたんです。少し新聞でも盛り上がりましてね、其処から更生を求める声が上がり始めたんですよ、更生施設は軍が造りました。少年院での問題により軍は軍人を育てる施設を増やせました…こんな事態を引き起せられるのはね、あの人しか居ないんです。」
夕浪の驚く姿を横目で見つつ伊吹は雪達のお屋敷に入って行く。
「お邪魔いたします。」
履物を脱ぎ丁寧に並べると、スタスタと迷い無く二階へと階段を昇る。
「待って伊吹さん!」
夕浪の止める声を聞き乍ら、閉められている寝室の間の襖を勢い良くカァンと左右に開け放つ。
「お久し振りです父上。」
笑う瞳の先には、銃弾に射抜かれた肩の治療を受ける桃田大河―宮前桜が半身起した姿で布団の上に座って居た。
二十三
治療を担当しているのは、お医者先生の弟子である。彼は純朴で実直な青年であり、雪に一度は恋をしたが惚れた娘に想い人ありと知ってからは己の初恋をきっぱり諦めた潔い性格の持ち主でもあったので、たとえ恋仇から頼まれたからと言って医者の本分を捻じ曲げるようなことは決してせず、桜の治療回復に心血を注ぎ手を尽してくれていたのである。だがあくまでも内密に、と師匠であるお医者先生を通して忠告されていた為、伊吹の突然の訪問にはいたく驚いた。
「誰です、貴女は。」
患者の傍からすっくと立ち上り、桜と伊吹の間に割って入る。
「若先生、構いません。その人は儂に危害を加えにやって来た者ではありません。」
桜の制止する声は極めて静かで、低く落ち着いていた。
「突然現れたのですから、お医者様が警戒なさるのも当然です。私は日本国陸軍中将宮前伊吹。其方の患者さんの娘です。
父が行方をくらましてから随分探しましたが、まさか此方におられたとは。」
「若先生、夕浪さん、暫く彼女と二人きりにしてはもらえませんか。父娘で話したいことがありますゆえ……」
弟子と夕浪は顔を見合せると、二人に一礼して襖を閉め、階段をとんとんと降りて行った。音が聞えなくなると伊吹は口を開いた。
「貴方の孫に助けられましたか。」
「少年院の長になる腹積りでは無かったのだがな。しがない掃除夫の爺々として生きようと思っていたのだが。」
「一目で見て貴方は人の上に立つ人間だとバレますよ。」
伊吹は苦笑いする。
「前任の院長が掃除夫にしておくにはおっかない面だからと危惧してな、秘書として傍に置かれた。」
「前任の者は耐えられたんですか、父上を従わせてることに。」
「堪え得るような奴なら儂は此の場に居らん。」
「それもそうですね。」
沈黙。
「儂はもう死んだことになっている、連れ戻そうとしても世間は許さんぞ。」
「連れ戻したくて貴方を探し続けていた訳ではありません。」
部下に頼まず自分の手で。
「少年院の院長が新しく就任して、自殺者が相次ぎ、軍に新たな施設を増やせる口実が世論に挙がった時、貴方の背中を想い出した。」
実の父の命日に墓前で見た雨降る日の背中。日輪は雲間から射さず夏の終りの寂しい風は墓に供えた向日葵の花を搖らし、花は太陽を見つけられないで水中に佇む。一度だけ見せたあの背中を、私はもう忘れてしまっていたとばかり思っていたけれど、忘れていた涙があふれた時、
「逢いたくなったんです。ただ、逢いたかった。娘が父の元を訪れるのに、特別な理由など必要ですか。」
就寝時にも外すことのない軍帽を取る。随分髪が伸びたんです、貴方の前ではいつも短く切り揃えていましたけれど。
「もう戻る場所が無いのであれば、此処で生きて下さいよ。地位も肩書も担えないのであれば、ただの父親として生きてくださいよ、これからは、私の為に生きて……お父様。」
兄達を亡くした時は幼さのあまり泣くことは無かった。本来実父の為に紡がれ流される言葉と涙が、養父にそそがれることの不憫さと健気さよ。この時初めて宮前桜は自分の為に泣くことをゆるされた。
烈日は今この時は重なる薄雲に覆われて、二人だけの屋敷は柔らかい陽だまりに満たされた・夕方が来るまで、もう少し。
列車の走る音に紛れて三等車両の乗客達の大きな話し声が耳に入って来る。
「日本国万歳」
「日本国万歳」
日本国、と言うのは何を指すのかな。大切な雪のこと?ほんのちょっと気に食わない朝顔のこと?アホウの留田のこと?本当はとっても優しい筈の夕浪のことかな。
違っていたらいいな、と思う。だって生きているか分らない人達に、雪達のこと褒めてほしくなんかないもん。躑躅は僕のこといつまでも赤ん坊だって笑うけれど、自分だって僕みたいに泣き虫なのに雪の前では気取っちゃっているのをきちんと知っている。
「日本国万歳」
「日本国万歳」
ずっと聞えて来る。不気味な声だな、烏がお腹を空かせて機嫌の悪い時の唸り声によく似ている。朝顔に逢うまでにも澤山聞いて来たけど、今日のは特にうるさいや。
一等車両は静かで、二等車両も静か。大声を揃って上げているのは此の三等車両だけと言うことになる。運良く乗り合ったのは全員が愛国主義者になった者どもらしいが、どうやらお偉い方は薬を飲んでいないようだ。未だ飲まされていないだけかもしれないが。いずれにせよ薬の効かなかった地域のことを調べる必要はある。その後確実に、絶対、一〇〇パーセント神経に作用する薬を製造しよう、何、金は吐く程にあるから心配はいるまい。惚れ薬ではなく人への殺意を高めるだけの物を。
もう殺したかった宮前桜は殺されたのだから、道中次の狙いを決めておかなくては。またあのおっかない銃男に頼むとしよう。
暁監獄所を御存知ですか?えゝ、あの有名な。でございますよ。以前道頓堀で発砲事件があったでしょう。その犯人が捕縛されたのですって旦那。犯人、犯人ですか?えゝそう犯人が入れられたのが暁監獄所なんです、何せ一般市民一人殺してますからね、それに脱走兵ときた、ただじゃあ法が置いときませんや。……へへ、私が法律を語るなって?まあそうですね御尤も。私は心斎橋で無法を働く下っ端でございますから。
今日はね、オーナーがいらっしゃいませんので込み入った話は出来ないので、御用件だけ仰有って、え、オーナーは何處に行かれたのか、ですか?あゝ私も生憎詳しく教えては貰えませんでしたので、細かい行先は分りませんが、あゝ確か田舎の方に向かうってなことを仰有っていたような…
読者の皆様は此の語り手である男を憶えておられるだろうか。心斎橋にて朝顔をただの伊達男として気軽に声を掛けた挙句気迫により気絶したあの若造が今の語り手となっていたのだが、彼は早々に退場した。話をしていた相手のサイレンサー銃によって両目を撃ち抜かれ絶命したのである。他の者も皆そうであった。つまり、オーナーの店は最早部下が一人の男によって殺害されていたのである。
読者の興味は今この一人の男に集中しているであろう。彼の名を伏せて朝顔達の故郷の話に戻っても作者としては混乱しないが読み手は「?」と混乱するのでやはり名前を明かしておこう。
殺しの後には、掃除屋が必要なのだ。
二十四
一番最初に目を覚ましたのは留田だった。仲良くうずくまりあい双方共に生きているのか分らないくらいに静かに寝息一つ立てずに眠るものだから、傍目には心中した恋人同士に見てとってしまう。
「駄目だ!二人とも、死ぬな!」
寝起きに冷静且つ正しい判断の出来ない少尉は留田だけであろう。二人の包まる毛布を搖らし声を掛け続けると
“そろそろ見回りが始まるよ。”
躑躅が呼び掛けたが今此の状況で声が聞ける者はいない。だが留田は躑躅が動いたのは何かのサインだと考え、考え、考えた。でも留田は妙な所で阿呆であった。
二人とふたりを抱え、列車の後ろから路線のある野原へ転がり降りたのである。
「夫婦だからって、いつまでもいちゃついてもらっちゃあ困るんだよね。」
人差し指を一本立てて説く留田の頭には朝顔にお仕置きされた名残のたんこぶがいくつも咲いていた。
“留田咲いてる!生きてるよ!”「躑躅、たんこぶは花ではありませんよ。」
可愛い仔を撫で終えてから溜息をつく。
「随分手前で降りてしまいましたね私達は…どうやって町に向いましょうか。」
「次の列車は後一時間したら此処を通るが、ポイントが近くに無いから速度を落すことはしてくれそうに無い。全力疾走中の列車に飛び乗るのは危険だ。それに、」
朝顔は肩から掛けていた三八式歩兵銃のボルトを撫でる。
「もう一人誰かが来そうな気がする。軍人直感だ。」
あのオーナーじゃなければ良いんだが。
野原は川に挟まれているから、この時間だときっと…
「居た!舟乗りだ!」
「故郷には川が流れています、其処迄送って貰いましょう!」
「留田、おまえの財布を寄越せ。」
船頭に財布を丸ごと手渡し銃口をこめかみにヒタリと押し当てる。
「死にたくなきゃあ、どんな荒い道でも手段でも構わないからあの列車よりも早く川を下れ。」
慣れた手つきで脅しを掛ける朝顔を勿論留田は諫めない、軍人は脅す行為をしょっちゅうする機会があるから。雪は夫の行為を舟に座って仰ぎ見ていたが、顔を下に俯向けた後舟を必死で進める船頭を真直ぐに見、
「苦しんで死ぬのがお望みか、苦しまないで死ぬのが良いか、間に合わなかった時改めてお尋ねしますね。なので列車に追いつくか追い越すかしないと貴方は私に殺されますよ。だって私、殺し屋ですもの。」
後日この時の船頭は生きた心地がしなかったとだけ同僚に話したが、今でも元気に仕事を続けて居る。
ぼろぞうきんのようになった船頭に礼を言い、三人はようやく着いた故郷の道を走っていた。先ずは夕浪が無事かどうか、近所の人達が無事かどうかを町の中央にあり情報の一番集まる診療所へと向かったが、その道中雪の家の前を過ぎると、
「雪!」
瞳を声の方に向けて身体を傾け走り続ける。新雪の両眼がようやく射し込んだ陽光に溶けて、溶けて、大好きな姉の胸に飛び込んだ。
「姉さん、姉さん…」
「ごめんね、ごめんねえ……」
もっと抱きしめてほしいけど、今は探す人が居る。拭いきらぬ涙のまゝ顔を上げて姉に問う。
「宮前伊吹…伊吹さんのこと?彼女なら今二階にいらっしゃるわ。」
駈け上がった先、閉められた襖を朝顔が勢い良くカァンと開くと、よく似た瞳の父娘が結納品のカタログを眺めており、此方を見向くと
「お帰り朝顔。」
と異口同音に微笑んだ。気の抜けた三人はそれぞれその場に倒れ込み、船頭には非常に悪いことをしたと猛省した。
「留田から、全て聞きました。彼が嘘を吐いている素振も口調も全く無かった。俺は友を信じます。そして、宮前中将、貴女を自分の、……父親だと思いたい。宮前桜殿は、父方の祖父だと思いたい。だから、これから先、俺に向って、謝罪の言葉を発さないでいただきたい。…お母様は、誰のことも憎まれていなかったから、それが、麻酔に因る言葉であったとしても、お母様のあの表情は、とても幸せそうなものであったから……お二人を、俺は恨んでいません、怒ってもいません。だから、だから、謝る必要など無いのでやめてください。
そして、雪との結婚を認めてください。」
涙はもう列車で流した。伝えたかったことを言い切る。お父様、お爺ちゃん。
凛とした佇まいはおまえに良く似たのだな、伊吹。
この子の大胆さは母親譲りかしら、向日葵。
父娘は深く一度頷くと、朝顔の横に正座する雪を見て、深々と頭を下げた。朝顔は雪の肩を抱き寄せ妻は嬉し涙の白露混じりにお辞儀をする。部屋の中は相変らず電気こそ点いてはいなかったが、太陽が陽だまりの花を一輪咲かせているので自然な明るさに照らされていた。
二十五
大団円の話っていうのは、その後何も書かれていないだけ、実は直後に破滅するのよ
如何して君はそんなに怖い話ばかりするんだい?
貴方がそのような事をしない為に話すのよ
神様がついているから俺達は大丈夫なんじゃなかったのかい?
気まずくなったら黙りか。
ねえ、答えてくれよ
返事してくれ
俺はこのままでいいんだろう?
愛国心を植えつけるなんて、人にはきっと出来ない所業であったのだ、国を愛し憂う心など持っていなければ、他国を殺すことなど人類は選ばなくても済んだのに。
「らしくも無い。」
学生が考えるようなことを考えてしまった。あの齢ぐらいの奴等は糾弾するのが好きなもの、そして言うだけ言って責任を取ることには尻込みするもの、そしてまた次の逃げ道に大義の名を冠して示すもの、ああ、ああ、本当に反吐が出る。
戦争を仕掛けた日本国も勿論嫌いだが支配国となり汚いケツを振る自国民も嫌いだ。
貴方がそう思うようになってしまったのは何故?
生れつきこういう性格だったんだよ。
でも貴方は私達と暮らして居る時そのような方ではなかったではないの。
本当はこういう人格だったんだ。ずっと抑えつけていたから今溢れて出して止まらないようになっているんだよ。
優しい横がほを私は忘れていません。
何を馬鹿なこと言ってるんだ死人のくせに。
お願い、目を覚まして。貴方は自分が見えていないの。
愛した女の涙で呪いが解けるとでも?
よく一緒に本を読んだではありませんか、お忘れですか?
あんな生臭い物語は頭のイカレた糞餓鬼にしか響かない。
「お伽噺を血塗れにしたメルヘンの方が皆は好きなんだろう?」
列車の到着の音と共に雑音は無くなった。オーナーの座っていた席には髪留めが一つ捨てられており、乗客を降ろした列車は再び走り始めると、山を越えて見えなくなった。
都会の熱狂を持たぬ町は、黄昏時の身支度を始めている。夕暮をこうやって眺めたのはいつ以来だろう、と感傷に浸る雪は、屋敷の庭に立って天の衣を仰ぎ見て居た。その斜め後ろに、懐かしい草履の足音が聞えると、彼女は振り向く。
「姉さん。」
沈む灯し火を背にして輝く妹の瞳はこんな微笑み方をしていたかしら。
「雪、都会では何の仕事をしていたの?」
自分の所為で追い出すような形になってしまったけれど、それでも消息は知っておきたいと思うのは、抑えられない。
「先生やお光さんが尋ねても首を横に振るだけだって聞いたわ。話したくないなら、無理に話す必要は無いけれど…」
都会では遊女を手酷く扱う男はざらに居ると噂を耳にしたことがある。そんな輩がこの子を見て邪な企みをすることだって充分に有り得る危険だから、怖い目に遭ったり酷い仕打ちを受けたりしなかったかを知りたい、そしてゆるされるのであれば貴女に寄り添っていたい。
雪、貴女いつから無理に笑うようになってしまったの?
「姉さん私、人殺しをするの。」
風が強く一陣響き、それを合図に天の衣は裾も袂も翻らせて裏地に隠した真黄色な黒猫の瞳をにいと細める。今日は、三日月。
「それは、貴女が自分で選んだの?」
庭の草は吹く風に皆背を曲げ頭を垂れているが、ふたりの蛾はさも涼しといったかろやかな体捌きで舞っている。
「決めたのは私。一度は断ったけれど、逃げたけれど、見逃してはもらえなかった。才能のある人は放っておかれないものなのね。」
「才能?」
「殺しの才能。姉さんの心を壊した父さんの血は私に受け継がれていたの。人を殺す才能が。」
違う
「そんな才能貴女には無いわ。受け継がれてもいない、私の身を蝕んだのはあの人でなくて薬だと先生が仰有っていたもの。」
違う
「私にはあの酷い男の血が混じっている。それをずっと見ないふりして抑えつけていたのよ。でもね、あの人…伊吹さんにはそれが見えていた。」
「雪に殺しを頼んだのは伊吹さんなの?」
「教えてもらったんじゃあないのよ姉さん、あの人は私に人殺しを依頼したの。そして私は結果実行することになったの。…一寸前に大阪で一つの町が一晩でなくなったことがあったでしょう?三日月の晩に。」
雪の瞳は綺麗ね、万華鏡みたいだわ。
幼い妹が含羞む記憶が風に崩れて散っていく。
二十七
大阪で一つの町が滅びたと新聞が報じた時、世間は犯人を予測しその手法をも推理したものの、結局真相は分らずじまい、答えの無い問いを人は避けたがる、けれど忘れた頃に再び同じ問いを投げ掛けられたら、不思議とまた考える努力をする生き物なのである。
以前はすこぶる治安の悪いと人の寄り付かなかった辺境の地であったのに対し、今度は正反対に長閑な田舎町が一晩で滅びたと言う。さらに前回と異なり今回は生き残りが二人居たのも、人々の興味をさらに惹いた。それは二人共日本国陸軍の出身者で、一人は元軍人一人は現役の少尉だった。だが現役軍人の方は未だ意識が戻らず、時折指を8の字に動かして何かを伝えようとする動きをするが、すぐに人事不省に陥り、今でも目を覚まさないと言う。そしてもう片方の退役軍人は、本事件の首謀者、犯人だと名告り出た。
被害者の中には町民全員のみならず、陸軍中将も含まれていたのでこの事件は前にも増して大きく世間をどよめかせた。日本国万歳の挨拶の内にもこの一件への好奇・興味が見え隠れしているのを国民達は自覚していただろうか。大きな搖れを与えたのは表社会に生活する者達だけでなく、裏社会に身を置く者にも同じであった。殺された筈の少年院の院長がいただの、凄腕の武器商人がいただの、どよみは一向に収束しない。
「あーあ。」
暁監獄所の中で、見張りの目を盗んで溜息を吐く男があった。彼は嘗て亡くなった上官の命で厄介者の右腕兼見張りを任されていた男だった。彼の罪は道頓堀での銃の発砲に因る一般市民の殺害。
「折角心斎橋の武器店も掃除屋に頼んで潰してもらったのに、追加報酬分損した気分だ。」
どれもこれも上官の指示だったのに。
「見事に軍は勢いを失くしちまったなあ。」
「どうせまた似たような才の持ち主が現れるさ。」
愚痴をぼやく男に声を掛けた青年が居た。
「まさかこんな形で再会するとはな。」
世間は狭い、と男が笑う。
「おまえ罪状を全面肯定しているんだってな。このままじゃあ死刑になるぞ。」
「俺がやったことなんだから、否定する必要は無いだろう。」
青年は一度もその姿勢を崩さず、国選弁護士の必死の訴えにも首を横に振るばかりで、とうとう死刑の判決を言い渡された。
「被告人、何か言いたいことはありますか?」
裁判長の言葉に、青年は微笑んでこう答えた。
「あの町には、うつくしい蛾がおりました。」
その美しい瞳は新月の瞳孔を湛え乍らも、三日月の弧をにっこりと描いていた。
終
「月下」