kumo
いつものホテルを後にし、しばらく歩いたところで、墨くんが立ち止まった。黄色く光る太陽に無防備な首をさらけ出して、頭上を眺めている。
「おれ次はクモに生まれ変わろうかな」
彼の視線を辿ると、電信柱に大きな蜘蛛の巣がはってあるのが見えた。
「墨くん、あんなに働けるの?」
率直な疑問を口にする。
私の発言に墨くんは、は?という顔をして、すぐに「ああ」と空を指差して言った。
「ちがうちがう。クモって、あれよ」
空には白い雲が落ち着き払った様子で横たわっていた。見た瞬間「やあ」と言われた気さえした。
「あっ、そっちね」
二人して空を眺める。つめたい空気が鼻からすうっと入って、脳に伝わり、ついさっきまで"そんなこと言われたら好きになる"とのたまう墨くんをころしてやりたいなと思っていた自分はどこかへ消え去った。なんて穏やかな朝だろう。
正直、ホテルはうまく眠れないから好きじゃない。かといって墨くんを家に入れたくはないし、墨くんは墨くんで決まった住処を持っていないし…
仕方ないけど、こんなことのためにわざわざお金を使っているのは時々馬鹿らしくなる。まあそれでもこうしていたいとは思うのだから、本当に本当に仕方ないけど。
「というか、前世がクモだったんじゃない?」
「それは空にある方?虫の方?」
「あーでも、どっちも納得感あるなあ」
どういう意味?言いながら笑う、名前の通り真っ黒い服を着た墨くん。痩身ではあるけれど、弱々しさや儚さみたいなものは欠片もない。むしろ青い炎のような生のパワーを強く感じる。よく食べるし。眉も太く黒々しくて、姿勢がいい。髭も割と濃くて、首のはじめ辺りにも剃り跡が侵食している。そこにはぽつぽつ赤い斑点がある。きっと彼の体にはサラサラの血液が流れているんだろう。
墨くんに馬乗りになって首を絞めるとき、そのじょりじょりに手を刺激されると、私は叫びだしたくなる。嫌なんじゃなくて、愛おしいって気持ちとそれに付随する憎らしさとでたまらなくなって、あーー!!と叫んで発散したくなる感じ。
ミステリアスといえばミステリアス。だけど本人曰く「本当に何も考えてないだけ」らしく、普段の姿を見てるとまあそうなんだろうなと思う。近寄り難いけど、一度近付いてしまえば、という人だ。たぶん「この人のことを本当に理解しているのは自分だけ」と思っている人があちこちにいる。だから墨くんは色んな人に愛されている。
一度だけ飲んだ墨くんのバイト先のおじさんは、あいつといるとヒヤヒヤすると言いつつも実はかわいいと思っているのが丸わかりだったし、二度鉢合わせた人妻は「墨くんは前世の魂の片割れだ」という夢のような勘違いに浸っているようだったし、三度街なかですれ違った女子高生は、彼は自分を救ってくれた大切な人だから、いつかちゃんと恩返しがしたいと話していた。
おじさんの浅黒い肌とガタガタな歯の笑顔には正直ちょっとどきっとしたし、人妻はとりわけ美人というわけでもないのにきらきらしてて綺麗だったし、墨くんの話をする女子高生の声色は、青空に白い軌跡を描く飛行機のように明るかった。
全て墨くんによるものだ。
この人たらしによって不幸になった人間も確かに存在するだろうが、墨くんの存在は概ね世界を幸せにしているように見えた。
私は、今のところ不幸にも幸せにもなっていない、と思う。
「あっ。ねぇ、ここすごいよ、ほら」
街路樹の低木の一部にクモの巣がぐるぐる巻きになって真っ白になっていた。
「おお、頑張ってんなあ」
小さい子供をほめるみたいに彼は言う。
「頑張ってんねぇ」
とりとめのない言葉のボールが、ぽーん、と道路に投げ出され、ずっと向こうへ跳ねていく。こういう日の朝はなんだか頭がふわふわしてしまう。
「俺たちだって頑張ってるよなー」
「そうかなあ」
「少なくとも、藍沢さんはすげぇ頑張ってると思うよ」
ボールは無理に拾いに行こうとすると、車にぶつかってケガしてしまう。
「あなたはもっとちゃんとしなさい」
どういう意味?言いながら笑う、名前の通り真っ黒い服を着た墨くん。死神のようだ。
たとえば、石鹸箱にしまえるくらい小さくなった墨くんを連れて、どこか遠くへ旅に出たとしたら、私は二度とこの街に帰らないような気がする。
この街どころか、地球上のどこにも、私たちが帰る場所なんてつくらないような気がする。
「じゃあね」
墨くんの背中が遠くなっていく。どこに行くかは知らない。きっと私は永遠に、そうやって過ごしていくのだと思う。墨くんは、地獄に下りてきたひとすじの蜘蛛の糸でもなければ、私を捕らえる蜘蛛の巣でもないのだから。
kumo