シューティング・ハート 暁のウォリアー 余白
シューティング・ハート 暁のウォリアー 余白
小さな駅から徒歩十分。
古く小さな商店街を抜けて、車が行き交う幅の道路に出てすぐの十字路で、ソースの焼ける香ばしい匂いがした。
大きな工場と思うような灰色の建物の一階、換気扇から煙と共にその匂いが流れ出る。
幟は「たこ焼き」の一つ。そこに出窓があり、人影が揺れながら手元を動かしている。
その出窓の横の軒先に、朱色があせた大きなのれん。
一面に大きな鯉が白抜きされ、左隅に「こいのぼり」と、ひらがなでサラリとこれも白抜きされている。
柱谷龍市は勢いよくのれんを押し上げて、サッシの引き戸を開けると、
「タツさん、売り上げ貢献に来ました」
と、いささかはた迷惑な大きな声で明るく奥の厨房に向かって挨拶する。
「相変わらずじゃかましいな、お前は」
荒っぽい物言いだが、藍色のTシャツとエプロンの白髪交じりの短髪姿は、親しみやすい下町のオッチャンだ。
「すみません。お邪魔します」
その後ろから、やや苦笑気味に二浦克己がのれんをくぐった。
「シゲさん、たこ焼き五人前お願いします」
入って右手、鉄板前に立っている細身の青年に、自分の背後を視線で示す。
見れば、二浦の背中に連なるように五人の少年がズルズルと数珠つなぎで入って来る。
五人はボロボロの野球グローブとバットを持ち、ポケットにボールをねじ込んでいる。
年長のカイセイと身体の大きなコータ。笑顔のコーキと引っ込み思案のタツト、ひと際小さいセータは、夕方になると近くの空き地で野球をしている小学生だ。
「こんにちはぁ」
誰ともなく間延びした声で挨拶する五人に、シゲが満面笑顔で挨拶を返し、二浦にレジ台の横に棚を指した。
「こども割引券がちょうど五枚あるよ。使うか?」
小さな樽型の貯金箱の横のボードに『こども割引』と書いたチケットが五枚貼り付けられていた。常連客のこころざしで通常メニューの半分を無料で食べられる食券である。
小さな樽型貯金箱も、中身はすべて『こども割引』の足しになる。
二浦の後ろにくっついて成り行きをワクワク顔で見ている五人が可愛らしい。
二浦が屈託なく笑って財布を出した。
「今日は一人前おごるって約束してたんです。一人一人前の五人分のたこ焼き、お願いします」
そう聞けば、シゲもよっしゃ!と引き受け、焼いている途中のたこ焼き器の前で手を動かす。
奥の厨房から、小さな五人に視線を合わせるように身体を倒し、
「向こうに座って食っていきな」
と、店の奥を指して手招きした。
「手を洗って座るんだぞ」
二浦は小さく五人に伝え、自分はお好み焼きを注文した。
五人は勝手知ったる様子で長い鉄板に並ぶカウンター席と、右手に五席ある小上がり席の間を奥に進み、厨房前を右手に曲がって広い土間に入った。
元々工場だった名残のような武骨な壁面に、むき出しの蛍光灯。端に形のいびつな大きな木のテーブル一つ、手前に四角い四人掛けのテーブルが三つ配置されている。
狭いが、畳の間もあり、絵本が何冊か散らかっていた。
少年五人は片隅にある洗面台で押し合いへし合いしながら手を洗った。
「ここの鉄板で焼いたお好み焼き、なんかうまいんですよね」
カウンター越しにたこ焼きをクルクル回しながら焼きを確認するシゲの手元を見ながら、二浦がポツリと呟く。
「鉄板が分厚いからな。それだけで味が違うらしい」
お好み焼きを焼く鉄板は、どこぞの鉄工所が廃業する時に出た鉄の板をそのままもらってきてここに据え、毎日夜な夜な砥石で平らにならしていった、という。
厨房から鉄板前に移動して来たタツが鉄板の温度を確かめて、生地を薄く丸く延ばし、その上にキャベツ、もやし、と重ねていく。
出窓に向けて並べたたこ焼き器の前で手を動かしていたシゲが、笑っている。
「省吾関係なく来るようになったね」
総長と仰ぐ香取省吾は、この建物の二階に住み、時にこの店を手伝っている。
「そう言えば、うちの総長は何処か行ったんですか。今日はいるって言ってましたが」
柱谷が店内を見回すが、いない。
「省吾は近くのウメさんちの電球替えに行ってるぞ。もうすぐ帰って来るだろう」
お好み焼きを華麗にひっくり返してタツが笑った。
シゲが焼きあがったたこ焼きをポンポンと五枚の皿に軽妙に盛って綺麗にソースを塗り、かつお節をふりかけた。
たこ焼きの上で踊るかつお節は少年たちが喜ぶ光景だ。
二浦はそれを受け取って、五人の所へ持って行き、また戻って来た。
今度は自分のお好み焼きを見つめる。
「タツさん、総長は高校卒業したらこの店を手伝うんですか?」
たこ焼きが焼けて、鉄板があって、見渡せば定食屋のようなメニューもできるようである。
おまけにカウンターと小上がり席の裏に、多目的で使えそうなスペースまである。
そこは昼間に近所の高齢者の集会所になったり、短時間のサークル活動に使ったりと色々できる。
タツは焼いている途中のお好み焼きを愛おしそうに眺めながら、肩をすくめた。
「どうかな。俺は自分で商売したかっただけだし、シゲはたこ焼き焼きたいだけでそこにいるからさ。それもジーサンの道楽でできているだけだからな」
元より、タツもシゲも、話に出た『ジーサン』も、香取省吾もその妹・寧々も血縁関係はない。
その関係を知っている柱谷は、納得しているのかしていないのか分からない顔で口を尖らせた。
「ふーん」
その返事を鼻で笑って、タツは手元のソバをほぐしながら問う。
「で、お前は何を食べるんだ」
「あ、俺はチキン南蛮定食の気分です」
「なんだ、二人とも来てたのか」
厨房の奥の勝手口らしい所から入って来た寧々が、愛想一つなくそう声をかけた。
両腕にナスビを多量に抱えている。
「まだ畑にそんなにあるのか、秋ナス」
タツが呆れながら、寧々の後ろを確認する。
「ジーサンはどうした? 一緒だったんだろ」
「じぃちゃんはオモテから入るって言って別れたよ。すぐ帰って来ると思う」
そう聞いて、入り口に目をやるが、誰も現れない。
焼きあがったお好み焼きを仕上げて、猫舌の二浦のために皿に盛った辺りで、入り口に小柄な老人が現れた。
ジーサンと呼ばれている老人だ。
白髪で頬がこけ、小柄で少し背中が曲がっている。
本名は言いたがらず、呼ばれたがらず、結局「ジーサン」と呼ばせている。
口々に、「お帰りなさい」と声をかけたが、ジーサンはその場から動こうとしない。
しばらくそのまま誰も何も言わず、微動だにしなかったが、その状態に嫌気がさしたのはジーサンだった。
「おい、落ちとるぞ」
アゴで何かを指しているようだが、意味が分からない。
「何が?」
そう問うが、ジーサンは戸口に立ったまま、ジッと通りの向こうを見ている。
寧々が厨房から出てジーサンの傍に寄り、その視線の方向へ向かったが、すぐに戻って来た。
「二人とも、手を貸して」
抑えた口調に柱谷と二浦が反応し、表に出て寧々に従った。
建物と隣家の高い塀の間の路地に入ると、黒い塊がまるで隠れるようにしてうずくまっていた。
五人の少年が仲良く押し合いへし合いしながら、たこ焼きを食べ尽くそうとしているテーブルからは離れた場所に、うずくまっていた男を座らせた。
五人の少年たちよりも年上だが、寧々たちよりは年下、おそらく中学生だろう。
寧々が泥だらけの見た目の中に、傷や血痕を一つひとつ確認していく。
二浦がお好み焼きを抱え、少年たちの視線を遮るように座り、柱谷もまた傷ついている男を隠すように仁王立ちでいた。
見つけた当事者のジーサンは遠いテーブルに座り、冷たい視線でその空間を眺めていた。
「おにいちゃん、ケンカ?」
年長のカイセイが、最後のたこ焼きを死守しながら小さく問う。
「さぁ、転んだだけかもな」
たいしたことではないよ、とでも言うように、二浦は小さく笑った。
少年五人がたこ焼きを平らげて、大きな声で「ごちそうさま」を言うと、空いた皿をてんでに持って洗面台横の「返却口」と書かれた台に戻して出ていった。
変わってタツが入って来る。
「ジーサン、人は落ちてるもんじゃないぞ」
タツが、小鉢が多めに載った膳を置きながら、ジーサンに言った。
「実際、転がっとったぞ。わしゃつまずきそうになった」
「危ないと思ったら、暗い場所は歩くなよ。いつもの用心深さはどこへいったんだ」
このジーサン、用心深いというよりは何気ない行動ですら面倒くさがるのだから、危ない事どころか、必要な事も無視する時がある。
まともに働いたことはないそうで、半世紀以上一日中を株の上がり下がりを気に掛けながら、テレビを見てたまに外を散歩し、自分では決して手を出さない畑の作物の成長を眺めることくらいしかしない。
この建物の二階アパートで暮らし、食事は三食、タツが作るものをココで食べる。
それが、この建物を貸し、タツに最初の資金を出す際の条件だった。
「じぃちゃん、ワザと通ったんだろ」
寧々が呆れたような声で間に入る。
おかしいと思った。
畑に行って成長したナスビを採って戻る時、いつもは最短コースで店に戻るのに、不意に隣家の高い塀との間を抜けて表に出る遠回りを選んだ。
ジーサンは、寧々には弱いのか、一瞬いたずらっぽく笑って、また不愛想に戻った。
「転ぶと骨が折れるから、気をつけてよね」
少し怒ったように言う寧々に、「おう」と一言返して、ジーサンは黙々食べ始めた。
寧々は視線を落とし、うつむいて震える男を見た。
幼い雰囲気もあるが、どこか荒れた印象も持てる。
そして、やけにおびえているように見える。
「それで、どうしてこんなに泥だらけなんだい」
顔に殴られた痕があり、衣服はドロドロでシャツは幾つか破れている。
頭にコブもあり、肩と腹部に痛みがあるようだ。
だが、どれも大怪我というほどのものではない。
その抱えているジャンパーの袖に縫い付けられた文字に気付いた。
「おまえ、不破と関りがあるのか」
寧々の指摘に、男は一層おびえたように目を見張る。
不破公と呼ばれる常磐井鼎が、自分の影響力を拡大させているのは香取たちも把握していた。その中で、中学生のグループも幾つかあるようだ。
もしそのグループのいずれかに属する者であれば、不破公の影響力が咲久耶市の端まで及んだと考えるべきなのか。
少し思案するように泥を払う手を止めた寧々が、戸口に気付いた。
「二浦、柱谷、来てたのか」
香取省吾が姿を見せた。
柱谷が返答する前に、小さな悲鳴が上がった。
「香取・・・」
その反応に、柱谷の形相が変わる。
「おまえ、総長に何か――」
「いえ、いえ、何も・・・。ただ、驚いて・・・」
寧々の手を押しのけて、また少し小さくなった。
ジーサンは、食べる手を止めて静観している。
二浦が香取に手短に説明した。
そこの路地に落ちてました、と。
怪訝な顔でその薄い説明を聞きながら、ふと思い出した光景がある。
「お前、さっき大勢で地元の小学生を脅していただろう」
ウメさん家まで行く途中、何かうるさい集団がワイワイとけたたましい声でまくし立てていた。
気になって普通に声をかけると、同じ柄のジャンパーを着てまくし立てていた集団が、大柄な香取に驚いて、たちまち格好の悪い捨て台詞を口々に散って行った。
あとに残ったのは、その集団に囲まれて震えていた小学生二人。
「あの集団の一人だろう。どうしてそんなに泥だらけなんだ。他の奴らはどうした」
しばらく無言が続いたが、問われた男はポツリと言葉を繋ぎ始めた。
要するに、香取によってイジメる対象を取り上げられた集団は、身内にその対象を作り、弄ぶことにしたようだ。
その対象にされかけたこの男は、地べたに転がされながらもなんとかそこから逃げ出して、路地に隠れ込んだという。
途中途切れる言葉を選んでいる様子もあり、話が一通り終わるまで、誰も何も口を挟まなかった。
「おまえ、人を殴ってるだろう」
香取が男の手の甲を示す。
男は咄嗟に両手の甲を丸めたジャンパーにくるむようにして隠した。
「殴られたとは言っているが、殴る側でもあったんだろ」
「そうなのかぃ」
寧々が念を押す。
男は小さく、小さく答えた。
「みんなが殴るように殴らないと、自分が殴られる・・・」
自分がやられる前に、他のメンバーが面白半分に殴られたという。
同じジャンパーを着て、一緒に小学生を取り巻いた仲間の一人を。
結局、それでは済まず、この男もやられる対象になったということだ。
「人を殴っておいて、自分が殴られたことを殊更言われても、自業自得だろうとしか言えんな」
柱谷が呆れたと言わんばかりの感想を述べると、ジーサンの冷たい声が背後からかかる。
「おまえらも、喧嘩するだろう。人を殴って、痛いとは思わないのか」
総長と呼ばれる香取省吾を筆頭に、柱谷も二浦も確かに喧嘩はする。
だが、
「俺らは無差別に喧嘩しませんよ」
柱谷は反論するが、ジーサンには通じない。
「でも殴るだろう。人を殴ると痛いぞ」
冷めた声が重く聞こえ、皆がこの説教を受け止めた。
確かに、人を殴ると痛いからだ。
泥だらけの男は、水をもらって喉を潤すと、早々に出ていった。
このまま帰って無事で過ごせるのか、仲間の中でやっていくのかどうか、そんなことは本人の行動次第というところか。
「あいつ、うまくしのげますかね」
「さぁな」
「相手が離れてくれりゃいいが、なかなか一度関わると縁を切るのは難しい。特に人を痛めつけて平気な奴らが相手ならな」
二浦が心配そうに呟き、香取はジーサンの前の席に座りながら生返事を返し、タツがポツリと何かを思い出すように言う。
「ずっと、やられっぱなしってことですかね」
柱谷が誰とはなく問いかけると、ジーサンが不愛想な顔で答えた。
「逃げればいいだろう。足はある」
「逃げられなかったら」
「逃げられないと思うなら、まず、近づくな。関わらないのが一番だ」
「でも、誰かと一緒にいたいと思うことってあるでしょう」
そう二浦は反論するが、ジーサンの声は冷たい。
「さみしい、という言葉は、孤独の中にある言葉じゃねぇ。大勢の中で感じるもんだ。他人を痛めつけたり、自分がやられるかもしれないと思う状況にいるくらいなら、ひとりぼっちでいる方がよほど安楽だよ。まずは黒い感情には近づかないことだ」
一人で気ままに生きて来た老人の言葉とは言え、少し考える余地があるように思えた。
一抹の無力感が空間を覆いつくそうとした矢先、柱谷が何かに気付いた。
「タツさん、俺のチキン南蛮定食は?」
二浦はお好み焼きを食べきった。
ジーサンももうすぐ食べ終わる。
一声で空気を変えてしまう柱谷に苦笑しながら、タツが笑って居直った。
「忘れてた」
シューティング・ハート 暁のウォリアー 余白