オニキスたちの実験日和
1
皆は記憶と呼ぶそれは、わたしにとっては自覚だった。
翼があることを今の今まで忘れていた、だからとんでみたんだ。どうして飛べないんだろう、と思ったのも、だから、当たり前。
自覚が間違っているよ、なんて、おとなは子どもになかなか言わないでしょう?
ましてここは、子どもという貴重なリソースを保護し育てる場所なのだから。
あ、翼が「あった」のは忘れてて良かったんだ、思い出さなきゃいけないのは飛べないってことだ、と自覚して。
重力と揚力の背信を受けて、わたしは、清潔な白い部屋に着地した。
2
古くなったホルマリン液の匂いが好きなのだと言うと、講師すら眉をひそめることがある。
講義棟の外れにある、いかにも安価な材質でつくられた第二理科室は、わたしがネストで一番落ち着く場所だ。
からからと引き戸を開けて、分厚いカーテンを開けて。資料保存の名目で過度に温度調節された室内ははんやりとしており、また薄暗い。トリメのわたしにはなおさらだ。
部屋の北側には、標本入りの瓶と共に、小さな哺乳類や魚類の骨格標本が並んでいる。皆がこの場所を好かない理由の大半は、標本が「記憶」を刺激するからだ。わたしはそれらをじっくり見てから、西側の壁を埋めている戸棚へ向かう。わたしだけの宝物。他の誰にも譲りたくない、教えたくないものが、ここには詰まっていた。
色とりどりの鉱石たちを、そうっとピンセットでつまむ。彼らからは、きしむ音、しゃらしゃらと鳴る鈴のような音が聞こえてくる。
3
「友達は、今日は一緒じゃないんだね」
図書室という場所に不釣合いともいえる、どこまでも通る明るい声を持つ上級生。彼の姿がないことを尋ねると、こちらはいかにも本の虫といった風体の彼はそっと首を振った。今日だけじゃないよ。その答えに、わたしはとんでもなくデリカシーに欠けたことを言ったのかと口を閉じてしまった。
「あぁ、きっときみが想像している理由ではなくてね。やりたいことがあるから、ネストを出て今は別の場所で暮らしてる」
あからさまにほっとするわたしを見、彼は微笑む。ゆったりと咲く、大木の花のようだとわたしは思う。
「……ん? ネストを出て、って、卒業じゃなくって?」
「特例中の特例だけどね。昔風に言うと、中退ってことになるのかな。行った先にも、いざってときに助けてくれるひとはいるんだ」
「そんなこと、できるんだ。考えたこともなかった……すごいなぁ」
「そう、彼はすごいんだよ」
子どもは皆、ネストで保護され、教育を受ける。当たり前だと思っていたそれらを崩す「彼」を、ちょっと尊敬してしまう。
わたしには、できるだろうか。当たり前だと思っていること、気付かぬうちに押し付けられていることをはねのける、何かが。
「じゃあ、つまんなかったり寂しかったりはしないの。私なら……少しだけ、寂しい」
「全然。っていうと嘘になるけれど、私も同じようなものだしね」
彼はまた笑った。そういえば、再び他のネストで短期間学ぶのだと、以前教えてくれたっけ。
「ここじゃない、他の場所へ行っても私たちの本質は変わらない。だからあれとまた会うことがあれば、変わらない挨拶をするだけだよ」
オニキスたちの実験日和
ここからはじまる、新しいおはなし。