百合の君(17)

百合の君(17)

 蟻螂(ぎろう)は空を渡っていた。刃渡り六尺にもなる國切丸(くにきりまる)は、前にかざせば鉄の盾だ。蟻螂は一斉に飛んでくる矢の、國切丸に阻まれる音を手のひらで聞いた。それは早くも蟻螂には勝てぬと悟った敵の、悲鳴や嘆息(たんそく)のようでもあった。下から放たれたそれらの声は、上昇気流が軍艦鳥(ぐんかんどり)を運ぶように、蟻螂を上空に押し上げた。蟻螂が見上げると、太陽が輝いている。太陽は、蟻螂の接近を許していた。むしろ太陽に引かれるように、蟻螂は上昇を続けた。そして頂点に達したとき、初めてそれに気がついた。
 木に登って、こちらを見ている男達がいる。最初は敵かと思ったが、彼らは武器の代わりに握り飯を頬張り、のんきそうに戦場(いくさば)を眺めている。野次馬だ。
 蟻螂は武道大会を思い出した。ただ見ているだけの者には、こちらの必死も思いも何も伝わりはしない。喜平の死も、彼らにとっては気晴らしの一つに過ぎない。ただの阿呆な百姓のくせに、自分には他人の人生を覗く特権があると勘違いしているのだ。俺は圧倒的な力を示し、奴らを黙らせなくてはいけない。
 その怒りは蟻螂をさらに遠く高く導いた。そして、ついには谷をまたいで鷹のように、喜平の(かたき)を真下にとらえた。
 敵はまだ十五、六の、蟻螂と同じくらいの若者だ。心臓が強く脈打ち、血が逆流しているかのように全身を激しく巡った。場に及ぼす影響力を引力というのなら、蟻螂は間違いなくその場で一番の引力を持っていた。敵も味方も突撃を止めて蟻螂を見上げ、野次馬たちは手にしていた食べ物を落っことした。仇もぼんやりと空を眺めていたが、やがて標的が自分だと知ると、背を向けて逃げ始めた。恐怖で手が開かないのか、転んでも弓を握ったまま離さない。間もなく、地球の引力によって二人は出会うだろう。加速する蟻螂の落下速度は、もはや矢よりも速い。二人はいま、友人同士よりも強く結ばれたのだ。
 瞬間、恐怖を感じた。それはすぐには分からなかったが、山をさまよっていた頃のものだった。叫び声が聞こえて見上げると、大勢の猿たちが歯茎を出して威嚇している。敵の顔は、あの時の猿と似ていた。それは猿も怯えていたということなのか、敵の驚いて口を開けた表情が猿に似ていただけなのか、蟻螂にも分からなかった。
 着地と同時、蟻螂は振り下ろした刀で敵の首を()ねた。少年の首は猿の表情のまま落ちた。人間の頭とは、ずいぶん重い物のようだ。鈍い音を立てながら谷底に向かって転がって、木の根に引っかかって止まった。
 向かってくる槍をかわし、突き返す。國切丸は六尺もあるのだ。長さで槍にも負けない。横に振ると何人もの腕が、肩が、首が飛んだ。蟻螂の腕力と國切丸の重さの前では、甲冑も紙同然だ。
 蟻螂は叫んだ。刀が自分の体の一部になったようだった。切っ先が触角のようになり、すべての敵の動きが分かる。蟻螂は飛んでくる矢を右手で掴んで、目の前の敵に突き立てた。そのまま左手で刀を振り、横から迫って来る敵の胴を真っ二つにする。
 砂埃が舞っていた。霞む視界が、蟻螂から現実感を奪っていたのだろうか。自分の腕の先で、人が死んでいるという自覚は全くなかった。しかし、思考は澄んでいた。余計な事を考えたら、死ぬのは自分だと本能的に知っていたのだ。何百万、いや何十億年の生命の歴史の中で、生存競争に勝ち抜いた先祖の記憶が、人にそれを教えるのだ。
 蟻螂は蟷螂(かまきり)のように、動くものをほとんど自動的に斬りつけていた。國切丸を受け止めようと構えた敵の刀は、小枝のように折れた。砕けた武具の鉄粉が、砂煙と混ざって光っていた。
 野次馬はその美しさにため息をついていたが、敵兵は硬直した。まさに伝説の中の鬼だ。鬼が力のはけ口を求めて暴れ狂っている。
 敵兵はみな逃げ出した。しかし、蟻螂の目はそれを逃さなかった。そして馬に追いつく脚力で追いかけると、後ろから思いきり國切丸を振った。まるで赤い肥料を畑に撒いているかのようだった。事実、それらの血肉は、冬山の厳しい環境に耐える草木や動物たちにとって、この上ない滋養となるだろう。
 蟻螂は追いかけながら次々と敵を切り倒し吹き飛ばし薙ぎ払い、とうとう正面に立ちふさがった騎馬武者を、馬の首ごと真っ二つにした。

百合の君(17)

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あらすじ:侍になった蟻螂は、初陣で友人を失う。怒りに駆られた蟻螂は、敵陣目がけて飛び上がった。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-08-17

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