僕と人魚の奇妙な関係性

ヒロインは人魚だが、深海鯨類と呼ばれるれっきとした哺乳類。某国海軍に属し、太平洋せましと暴れまわる。


 海は青い。
 どこまで行っても青い。海中では、波の上から見るよりももっと青い。
 コバルトと一緒に潜水すると、まるで青いゼリーの中に浮かんでいるような気がするほどだ。
 コバルトというのが、僕とコンビを組むサイレンの名だ。サイレンって、アンデルセンの童話に出てくる半人半魚の女のことだよ。
 だが実在のサイレンを、コペンハーゲンに展示してある人魚像と比べることはできない。
 サイズが全然違うもの。
 実在のサイレンは、クジラに負けないほどの大きさがあるから。でないと深海では暮らせない。
 金髪碧眼の美女たちだが、肉食なので歯はナイフのように尖っている。
「それで今日は、どんな仕事をするのだね?」
 とコバルトが口を開いた。
 僕は潜水服に身を包み、コバルトの肩の上に座って水中を進んでいる。
「最近、どこやら外国の潜水艦が領海侵犯をするらしくてね」
「日本のことか?」
「うん」
「またつまらんパトロールか」
「仕方ないよ。それが仕事だもん」
「ふん、潜水艦といえば、先ほどから一隻が走っているぞ。距離はまだ遠いが、航行音だけは聞こえる。音質からして、イノシシのように胴体の太い艦だ。お前の友軍ではなかろうよ」
「じゃあ日本の潜水艦じゃないか」
「そうかもしれぬ」
「じゃあ追跡してよ」
「どうせいつもと同じで、領海外へ出るのを見届けるだけのことだろう?」
「そりゃそうだよ。僕はまだ訓練生だもん」
 するとコバルトの表情が変わった。
「以前から疑問に思っていたのだが、お前はよくもストロベリー校に入学できたものだな。裏口入学でもしたのか?」
「そうじゃないよ。祖父が提督だから、機密情報に近づく資格あり、とみなされたらしい。ストロベリー自体が超極秘の部隊だから、学力検査よりも身元調べの方が厳重なんだってさ」
「そうかい」
 そんなことを言いながらも潜水艦をめざし、すでにコバルトは進行方向を変えつつある。


 やがて、青い水中を進む黒く長い影が、遠く前方に浮かび上がることになった。
 だがまだ形ははっきりせず、僕の目には、潜水艦なのだかクジラなのだか区別もつかない。
「あれかい?」
 聴覚だけでなく、サイレンは視力も非常に発達している。
「間違いなく潜水艦だ。モーター音が聞こえる。潜水しているということは、多少は周囲を警戒しているのだろう。合衆国の潜水艦なら浮上したまま、ディ-ゼルエンジンをガンガン鳴らして進むはずだからな」
「これは手柄ものかもね。あいつは海岸へ接近しようとしてるよ」
「日本人め、どうせ立ち小便でもしたくなったのさ」
 コバルトの機嫌には関係なく、初手柄を夢見て僕の気分は高まったが、結論に飛びつくわけにはいかない。
 合衆国のものか日本国のものか、まず潜水艦の種類をはっきり見分けなくてはならないのだ。
「ねえコバルト、魚雷発射管の数を数えてよ」
「お前の仕事だろうが」
「僕にはまだ見えないよ」
「正面に近寄ってやるから、自分の指で数えろ」
 実はコバルトとは、彼女の本名ではなかった。
 わが合衆国とは一応の協力関係にあるものの、どこでどうヘソを曲げたのか、
「人間なんぞに私の本名を教えてやれるものか」
 と本人が頑張るものだから、仕方なく海軍はあだ名をつけた。それが瞳の色からコバルト。


「1、2…」
 僕が指を動かし始めたのは、潜水艦とすれ違う距離があとたった100メートルというところ。
「…これは絶対に合衆国の船じゃないよ。日本海軍だ」
 魚雷発射管の数が合わないのだ。こんな海岸近くまで日本艦が侵入しているのなら、ただごとではない。
 僕はとっさに海図に視線を走らせた。見やすいように、海図はコバルトのほおにペタンと貼り付けてある。
 僕はそれを指で追いながら、 
「正確な現在位置はどこ?」
「知らん」
「あの潜水艦の正確な進行方向は?」
「知らん。調べるのはお前の仕事だ。道具は持っていよう?」
 潜水艦には窓はなく、外部で何が起こっているかを知る方法はない。
 だからこそソナーを使うのだが、泳ぐときにもサイレンはほとんど音を立てない。僕とコバルトが追跡していることに潜水艦が気付く可能性は非常に小さかった。
 スピードを落とし、潜水艦のあとをついてゆくのだから、まるでコバンザメになったような気分だ。
 こうまで近いと、ゴウゴウというモーター音が、水を通して直接、僕の鼓膜にも響くほどだ。
「泳いでついて行くよりも、あいつの甲板に腰かけた方がラクチンじゃないかなあ」
 と僕が提案すると、コバルトはさらに呆れた顔をした。
「お前は本当によくストロベリー校に入学できたな。感心するよ」
「なぜ?」
「あの潜水艦をよく見ろ。甲板に突き出している長い棒は何だ? 釣りざおか? ソナーだぞ。話し声どころか、お前の息の音まで聞かれてしまうぞ」
「じゃあどうする?」
「真後ろをつけてゆくのさ。自分のスクリューが雑音になって、ソナーも真後ろだけは聞くことができないからな」
 だがこの後は結局、何も起きなかった。
 追跡されているとも知らず潜水艦は航行を続けたが、それ以上は海岸に接近することもなく、やがてゆっくりと進路を変え、外海へと鼻を向けた。
 そして数時間後には領海を出ていったのだ。
 結局僕のした仕事も、潜水艦の形式、進路、速度といったデータを司令部へ報告するだけに終わった。
 いくら軍隊といっても、平時とはそんなものさ。訓練とパトロール以外、兵隊にやることはない。
 だけど戦争は、足音も立てずに忍び寄る。


 僕が訓練校を卒業したのが、ちょうどこのころ。
 でも卒業といっても、生活に大きな変化があったわけじゃない。
 身分が学生から正規兵になり、少尉という階級がついたくらい。
 相変わらずコバルトとコンビを組んで、世間どころか、家族にだって自分の仕事内容を打ち明けられない日々は変わらない。
 世の常識的な人々の間では、もちろんサイレンなど実在しないことになっている。
 どこの動物園へ行っても水族館へ行っても、サイレンなんか展示していない。
 だが実在するのだから仕方がない。
 最初に目撃した人はさぞかし驚いただろうが、すぐさま海軍に連絡が入り、大ケガをして砂浜で死にかけていた個体が秘密裏に収容されたのだ。
 そこから研究が始まり、やがて回復したサイレンが協力的だったこともあり、ストロベリー部隊が設立されて現在に至っている。
 子供の頃の僕は弱虫で、お化けでさえ怖かった。真夜中に一人でトイレに行くのも苦労したほどだ。
 それが今では、サイレンなんて怪物と一緒に海に潜っている。
 すべてがまるで夢のようじゃないか。


 この日も僕とコバルトは、いつものように潜水艦を追跡していた。
 しかし毎回同じ仕事ばかりで、コバルトじゃなくても退屈していたのだろう。こんなことを言い出した。
「お前が所属して、この私をコキ使っている部隊のことだが、なぜ『ストロベリー』なんて名なんだ? この仕事と赤い果実にどういう関係がある?」
 僕は答えた。
「そうじゃないよ。秘密の部隊だけど、何か名称を付けなくちゃならない。スパイの目をごまかすために、できるだけ海とも人魚とも潜水服とも関係のない単語を選んだんだってさ」
「それでストロベリーか? まさかお前の祖父がそう名付けたのではあるまいな」
「お祖父さんの仕事ぶりなんか知らないよ。ただ僕が知っているのは、お祖父さんは息子に自分の跡を継がせたかったけど、女の子しか生まれなくて、その後は孫に希望を託したんだけど、孫たちも軍人には興味を示さなかったんだよ」
「それでどうなった?」
「お祖父さんはついに『だれか孫の一人でも職業軍人の道を選ばぬ限り、ワシの遺産は誰にも相続させないぞ』と宣言してしまった」
「絵に描いたような老害だな」
「だからみんなで作戦を練り、不運な一名を人身御供に差し出すことに決まったんだよ」
「それがお前か?」
「できるだけ競争率が低くて、楽そうな部隊に願書を出したら、それがストロベリーだった」
「まさか、ストロベリーがサイレンと協力する部隊だとは夢にも知らなかったのか?」
「知ってたら入隊してないよ」


 敵潜水艦がついに速度を落としたのが、ほぼ半日後のこと。
 僕はつい居眠りをしていたが、
「おいこら、仕事中に寝る軍人があるか!」
 とコバルトが優しく揺り起こしてくれたのだ。
 おかげでヘルメットの中であちこちぶつけ、僕の額はズキズキしている。
 でも耳を澄ませると、確かにモーター音が小さくなり、潜水艦は浮上する気配を見せているじゃないか。
 距離をとって待ち構えると、潜水艦がゆっくりと浮上を始めたので、僕がどれだけドキドキしたことか。
「ここはどこ? 港じゃないよね?」
 いかにも呆れた顔で、コバルトは口から息をゴボッと大きく吹き出した。
「寝ぼけ頭を振って、よく見ろ。港ではないが、まわり中が船だらけではないか」
「ちょっとごめんよ」
「やれやれ、お前はまた私の柔肌にクツの跡をつけるのか」
 僕はコバルトの肩の上に立ち上がって、波の上にそっと頭を出してみたんだ。
 波の穏やかな日で、日はとっくに暮れ、星の多い晴れた夜空が頭上に広がっている。
 だが静かな夜ではない。
 この潜水艦だけでなく、周囲はいくつものエンジン音で満ち、海上は時ならぬ混雑を見せていたんだ。
 もう一度見回し、意外さに僕は口をあんぐりと開けた。
 大洋の中央にサンゴ礁があり、これを目印に集合しているのは間違いない。
 でも月光に照らされた鉄のシルエットが遠く近く、いくつも波の上に影を落としている。
 なんのことはない。
 僕は巨大な敵艦隊の真ん中にいた。
 日本の連合艦隊だ。


 潜水艦だけでなく、戦艦や空母、巡洋艦の姿も見える。
 広くもない海域に、何十隻もが密集しているのだ。まるで軍艦の駐車場のような眺めだ。 
「これ何? 全部日本の船だよ。旭日旗ばっかりだ」
 僕がそう言った時には、呆れるのにも程があるといった顔でコバルトが腕を動かし、僕の顔に水をザバッと跳ねかけた。
 それがあまりの勢いなので、押し流されないよう、僕はコバルトの髪にしがみつかなくてはならなかった。
「まだ寝ぼけているのか? 大日本帝国が、合衆国へむけて侵略を開始しているのだよ。そのために艦隊がここに集結しているのが分からんか?」
「まさか」
 僕は見回し続けたが、すぐにコバルトの正しさに気が付いた。並んでいる艦艇の種類と数は、最大規模の奇襲攻撃と考えて矛盾のないものだった。
 コトコトと打つ僕の心臓は、アクセル全開のエンジンのようになりつつある。耳の中で、じんじんと耳鳴りも始まった。
 だけど僕は、まだ全面的には信じることができなかった。
「ねえコバルト、だけどやっぱり…」
「お前のようなガキには無理かもしれぬが、私のように長く生きていると、そろそろ日本人が何かデカいことを計画していると感じられるものだよ。あの国の物の考え方は、何十年たっても変わるものじゃない」
「じゃあどうするんだい?」


 ところが、それに答える前に僕の足をつかみ、コバルトは不意に水中へ引き戻そうとした。
 のんびりできないのは確かだ。黒々とした夜間の海面とはいえ、どこで誰に目撃されるかもしれないのだ。
 だがコバルトの配慮も一瞬遅かった。僕は見られてしまったのだ。思わぬ人声が波の上に響いた。
「おまえ、何をしてるんだ?」
 水面を破って海中へと落ちてゆきながらも、僕は見ることができた。
 潜水艦の隣には駆逐艦がいて、その甲板は僕がいる海面よりもずっと高いのだが、とにかくそこを一人の日本兵が歩いていて、その手の中にはカービン銃がある。見張りに立っているのだろう。
 もちろん今はカービン銃を僕に向け、引き金を引き続けている。
 すでにコバルトは逃走を始めていた。これまでに経験がないほどの勢いで海水がヘルメットをなぶってゆくが、その後を追うようにピュンピュンと音を立て、弾丸が海面を突き破る。
 コバルトは深度も取りつつある。弾丸を避けるため、駆逐艦の真下に潜り込むつもりだと気が付いた。
「どうしよう、どうしよう?」
 僕は声には出さなかったつもりだが、あるいは耳に届いたのかもしれない。赤く塗られた竜骨の下を横切りながら、コバルトは答えた。
「難しく考えることはない。お前の姿は目撃されたが、私が見られたわけではない。ストロベリー部隊の秘密は健在さ」
「それはいいけど…」
「もちろん、日本が奇襲攻撃を準備していることを、1秒でも早くワシントンへ連絡する必要がある」
「そんな方法ないよ」
「そうだな。我々は無線機など持たぬしな」
「もしも日本が本当に奇襲攻撃を実行したら、合衆国は損害をこうむると思う?」
「ああ大損害をな。正直なところ、それがどの程度になるか想像がつかぬ。ところでお前、私と交わした約束を覚えていような?」
「なんだっけ?」
「忘れっぽい餓鬼め。お前に手柄を立てさせてやるから、お前は私に礼をするのだ。最高級の牛肉が、そうさな20キロでいい。それを寄こせ。いいな?」
 だが今、僕たちは敵に追われ、命がけの逃避行が始まりつつあるのだ。正直に言って、コバルトの言葉なんか僕の耳には入らなかった。
「わかったわかった。それでいいから早く逃げようよ」
 苦しまぎれに僕はそんな返事をしてしまった。


 僕の姿を求め、日本人が本格的な捜索を開始するには2分とかからなかった。
 すべての船のサーチライトがともされたかと思うほど周囲は明るくなり、いくつもの光のビームが水中に差し込み、闇を切り裂きはじめたのだ。
 そして爆雷攻撃が始まった。
 爆雷とは要するに、船上から水中へ落として爆発させる爆弾だ。本来は潜水艦相手の兵器だが、人間相手にだって、もちろん役に立つ。
 ただ今のところは僕の正確な位置が不明で、あてずっぽうに投下しているのに過ぎない。
 それでも、ドッドッと水中に爆発音が響くのは恐ろしい。そのたびに僕は全身が揺り動かされる。
「気にするなトルク、爆雷などそうそう命中するものではない」
 そう気軽に言うが、『お前』ではなく『トルク』と本名を呼ぶときにはコバルトも相当に真剣なのだと分かるほどには、僕たちの付き合いは長かった。
 その間も、ドッドッドッと水中に爆発音が響き続ける。もしもすぐ近くで爆雷を食らったら、潜水服の中で僕はペチャンコになる。
「気になるなら、お前は私の胸に隠れていろ」
 サイズは少々違っても、コバルトは人魚なんだ。人魚の胸は裸と昔から決まっている。
「なんだって?」
「いちいち萌える必要はない。私の胸にあるのは乳房ではないぞ。深海鯨類である我々が、なぜ子供を胸で授乳する必要がある?」
 ということだそうだ。
 お説をそのままに承知することにして、僕はコバルトの胸の2つのふくらみの間に隠れるしかなかった。
 胸に押し付けて安定させるだけでなく、コバルトは両腕で僕をかき抱くようにした。
 普段は憎まれ口の多いコバルトのどこにそんな親切心が隠れていたのか、と僕が不審に感じるほどだった。
 それでも爆雷はやまない。甲板上から次々に海中へと投げ込まれるのだ。
 30分が過ぎても、爆雷攻撃はまだやまなかった。
「なあトルク、つまりなんとしても、日本はお前を生かして帰す気はないということだ。たとえ爆雷の在庫がゼロになってもな」
 おそらく日本は僕のことを偵察兵と考え、海中に隠れている潜水艦からやってきていると思ったのだろう。
 まさかサイレンに乗って戦う兵が存在するとは、普通の想像力の人間なら思いもしないだろうから。

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 爆雷とはドラム缶のような形の装置で、海中に投下する直前、深度何メートルで爆発させるかを決めるダイヤルを回しておく。
 あの時きっと日本軍は、それを30から40メートルに合わせていたのだろうが、どこにだって、あわて者がいる。
 だから爆雷の1個が、なんと60メートルの深さに誤って設定されたまま、水面を破って落ちてきたのだ。
 そして僕たちは、ちょうど60メートルの深さにいた。
 すべてが本当に思いがけないことだった。
 僕を胸にかかえて全速航行中、突然コバルトは目の前に1個の爆雷を発見した。そしてギリギリのタイミングで回避しようとした。
 つまり体を丸め、爆雷にクルリと背中を向けたのだ。そして爆雷が爆発した。
 水中であっても、爆発時には、目もくらむまぶしい光が出るのだね。それに音も出る。
 音だけでなく、圧力や衝撃波は水中をとてもよく伝わる。全身を巨大なハンマーでたたかれるようなショックに襲われ、コバルトはあっという間に気を失ってしまった。
 このとき僕が感じた恐怖を想像してもらえるだろうか。
 気を失ったコバルトは、すぐさま無人の飛行機のように降下を始めたのだ。いや、深海へ向けての墜落と言うべきだ。
 このままでは、僕が生存できる深さなど、あっという間に通り過ぎてしまう。
 しかもコバルトの両腕はまだ僕をしっかりと抱いたまま、僕には脱出する方法もないのだ。
 恐怖のあまり、僕もそのまま気を失ってしまった。

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 結局、僕を目覚めさせたのは、天井からしたたり落ちる水滴だったかもしれない。冷たいしずくが僕の顔にぶつかった。
 目を開き、あわてて起き上がると、なぜか僕は水の外にいた。ヘルメットも外されて、空気をじかに呼吸している。
 波の音が聞こえるから波打ち際で、空気タンクも背中から外され、僕の隣に置かれていた。
 ランプの光が天井や周囲の壁にキラキラと反射するが、同時に暗い場所だ。
 どうやら洞窟の内部で、その出口が海に向かって突き出しているのだと分かった。波の音はそこから聞こえているのだ。
「お目覚めですか?」
 声がしたのでキョロキョロすると、この瞬間まで気が付かなかったのだが、すぐそばにサイレンがいた。
 なんと空気タンクだけでなく、さらに僕の服まで脱がせようというのか、尖った爪で器用にボタンを外そうとしている。ピョンと起き上がり、僕は一歩離れなくてはならなかった。
 なんだか楽しそうな表情で、サイレンは僕を観察している。
 一般にサイレンは金髪碧眼だが、このサイレンは黒い髪と瞳を持っている。コバルトと同じなのは、いかにも深海育ちらしく肌が透き通るように白いところだ。
「リリー」
 僕はこのサイレンを知っていた。コバルトと同じようにストロベリーに属しているサイレンだ。
 美人だが、ラテン的にとんがったような顔のコバルトとは違って、リリーにはいかにも優しげで、はかなげな雰囲気がある。
「私の名を知って下さっているのですね。光栄です」
「ここはどこだい? コバルトは?」
 リリーはクスリと笑い、
「誰も知らない秘密の洞窟です。人間はもちろん、サイレンたちだって知りません。無人の小さなサンゴ礁にあるのです。航路からは遠く離れ、船が通りかかることもありません」
 その言葉通り、見回せば、いかにも秘密の隠れ家といった場所だ。ちょっとした倉庫ぐらいの広さで、ストロベリー基地からくすねてきたのか、非常食料の入っているらしい木箱がすみに積まれている。
「コバルトは?」
「ああ、そのお話もしなくてはなりませんね。でも、きっとコバルトは生きていないと思いますよ。後頭部に爆雷を食らい、くるくると回転しながら深海へ落ちてゆくのを見ました。あなた一人を助けるだけで精いっぱいだったのですよ」
「助けるって?」
「いくらコバルトでも、至近距離で爆雷が爆発したのでは、どうしようもありません」
「それでここは?」
「以前から私は、人間をペットとして飼ってみたいと思っていたのです。ここが、今日からあなたの家です。そこに非常食料が置いてあるのが見えるでしょう? 好きにお食べなさい」
「それじゃあ、ただの監禁じゃないか。僕じゃなくて、あんたの相棒を監禁するのじゃダメなのかい? あいつはどうした?」
「トーマスのことですか? あの人は繊細過ぎたのかもしれません。ここへ閉じ込めて3日目に自殺してしまいました。私に飼われることがそんなに嫌だったのですかねえ」
 僕はトーマスを思い浮かべようとした。
 知らない顔ではなかったが、ろくに口をきいたこともなく印象は薄い。死んでいようが、どうであろうが、どうでもいい感じ。
 言っていることのとんでもなさとは反対に、リリーは優しげに微笑んでいる。心を落ち着けて、僕は状況を見つめ直そうとした。

12


 リリーの言うとおりであれば、ここは知る者とてない海の真っただ中。小さなサンゴ礁の一角で、しかも洞窟の中だ。
 死んだ気になって泳いで、たとえ一時はリリーの目を逃れて洞窟から脱出しても、その先がいけない。僕の力だけでは、サンゴ礁を離れることさえできないじゃないか。
 これはまずい…。
 ところが状況は、まったく予想を外れた方向へ走り出した。このとき洞窟の中に、ある声が突然大きく響いたのだ。
「これは何だ? お前たちの愛の巣か?」
 話し手の姿を求めて、僕とリリーはキョロキョロと見まわした。
 誰の声だろう?
 それどころか、あまりに耳慣れたその話しぶりに『そんなんじゃないよ』と僕はとっさに言い返そうとしたぐらいだ。  
 でも僕の口からは、どんな言葉も出てこなかった。僕はそれほど驚いていたのだろう。
 僕の目玉は、きっとゴルフボールのように大きくなっていたに違いない。
「コバルト!」
 そばの水面が突然ザザッと泡立ち、水が割れたかと思うと、その姿が見えた。
 そこには、もちろんコバルトがいた。すねた子供みたいな顔をして、僕を見てニヤリと笑っているんだ。
 見たところコバルトに異常はなく、負傷しているようにも見えない。

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 僕の口からは、こんな言葉がついて出た。
「愛の巣なんて冗談じゃない。僕は誘拐されてきたんだよ。元はと言えば、全部コバルトの責任じゃないか」
 もちろんコバルトも黙ってはいない。
「何をぬかす。私は大変なのだぞ。さっきの爆雷のせいで、後頭部の毛が一部抜けてしまった。どうしてくれる?」
「ははん、いい気味だ…。だけど、よくここが分かったね」
「毛は抜けたが、私は爆雷で死んだのではない。深海まで落ちてゆく道半ばで目を覚ましたよ。急いで駆け上がってきたら、リリーがいそいそと、この洞窟へ入る後ろ姿が見えた」
「なんと」
「なんと」
 僕とリリーは同時に声を上げた。
 つまりこの瞬間、僕をめぐって、コバルトとリリーが相争うという構図が出来上がったわけだ。
 リリーは僕をペットとして。コバルトはコバルトで、相棒に対しては変に義理堅いことを僕はよく知っている。
 サイレンたちには奇妙な習慣があって、もめごとや喧嘩は、いつも腕相撲で決着をつけることになっていた。
 つまらない理由で死人やケガ人を出さないための彼女たちなりの知恵なのかもしれない。
 だからイザという時に備えて、サイレンたちは普段から右腕を鍛えている。そういえばコバルトだって、暇な時には用もないのに海藻を引き抜いて練習しているのをよく目にした。
 だからこの時も、もう少しで僕の目の前で2匹が取っ組み合いを始め、そこらの小石やら岩やらを跳ね飛ばして、ドスンバタンやることになるはずだった。
「うへえ…」
 踏みつぶされたら困るから、僕は洞窟のすみへ移動することにした。ところがそのとき突然、洞窟外から聞こえてくる音がある。
 何の音かは分からない。ウォーンと低く遠く、腹に響く不快な音なのだ。

14


「どうした、何の音だ?」
「飛行機か?」
 聴覚の鋭いサイレンたちの方が、よっぽど反応が早かった。僕の耳には、遠いかすかなうなり声としかまだ聞こえない。
「そういえば爆雷の音がやんだぞ」
「日本人め、ついにトルクの捜索をあきらめたな」
 ふううっと、リリーは大きなため息をついた。
「時間になったから、やつらは予定通りに作戦を始めたのだろう。合衆国に対する全面的な奇襲攻撃だからな。今さら変更も延期もできまいさ」
「おいトルク」
 と、コバルトが僕めがけてヘルメットを投げてきたのは、この時だった。両手を使って、僕はかろうじて受け取った。
「それをかぶれ。タンクにエアはあるか?」
 さっそく僕のエアタンクを手にしたのはリリーだった。メーターを横目でのぞき込んでいる。
「エアは少し足りぬな」
「なら詰めておけ。私は先に出る」
「私はあんたの部下ではないぞ」
 コバルトをにらみ返しながらも給気管を手にし、口にくわえてリリーは息を吹き込み始めている。
 あのサイズの体の肺活量なのだ。たった数回吹き込むだけで、僕のエアタンクはすぐに満タンになってしまった。
 それをリリーは、僕の背にドスンと乗せた。
「早く準備をなさい。今度こそ逃げ出せるといいですね」
 リリーの肩に乗せられて洞窟を抜け出ると、そこにコバルトが待機していた。
「トルク、水の上を見てみろ。面白いぞ」

15


 言われたとおり肩に乗って、僕は波の上にヘルメットを突き出してみようとした。もうすっかり夜は明けている。
「夜明けと同時に、日本は艦載機の離陸を始めやがった。見たこともない規模の攻撃部隊だぞ」
 コバルトの言う通り、空母から離陸した日本の戦闘機が何十と、すでに空を埋め尽くしつつある。
 空母は風上へ向けて全力で走り、艦載機たちはエンジンを響かせ、ツバメの子のように甲板を離れてゆくのだ。
「何機いるのかな?」
 僕がつぶやくと、いつの間にかリリーも並んで空を見上げていた。
「空母は6隻だから、少なく見積もっても300機。迎え撃つ合衆国が日曜の朝とあっては、どうしても気がゆるんでいるでしょう。きっと忘れられない日曜となるでしょうね」
「では行くぞ」とコバルトが言うと、リリーはジロリとにらみ返した。
「あんたの命令など聞く義務はないが、今回だけは仕方がないかも…。トルクさえいなければ深海へもぐって、どんな敵艦隊でもアッという間にまいてしまうものを」
「ではリリー、あんたはついてこないのか?」
「ついて行くさ。幸い日本船団は風上へ向かって全速前進中。私たちは風下へと向かいましょうぞ」
「とりあえず目的地は三日月島としよう。よいな?」
「三日月島って何だい?」僕には分らなかった。
「海図を見ろ。このあたりで唯一住人のいる島だ」
「そこで何をするんだい?」
「三日月島には灯台がある。ということは、無線機もあるということじゃないか」
「それはそうだけど…」
「ありがたいのは、三日月島は合衆国海軍が設置した灯台だということさ。働いているのはみな海軍軍人。ならば?」
 僕は少しの間考えたのだが、
「わかんないや」
 すると、コバルトはリリーと顔を見合わせた。
「私の苦労が分かるかね? リリー」
「人間のガキなど皆同じさ。私のトーマスにも大きな違いはなかったね…。ねえトルク」
 リリーは僕に話しかけた。
「…灯台職員が海軍軍人であるということはつまり、海軍規則に従うべき人々であるということです。海軍規則において、ストロベリー部隊はどういう扱いを受けています?」
「ああ、そうか」
 ここまで言われて、僕にもやっと意味が分かった。

16


「トルク、お前は私たち二人の間に入れ」
 ここで僕は、生まれて初めての経験をした。2頭のサイレンが、左右から僕の体をつかんだのだ。僕は2頭の間にはさまれる形になった。
 そして2頭は泳ぎ始めた。
 もう少し正確に言えば、空気タンクから伸びている伝声管を無造作につかみ、2頭は僕の体をまるで荷物のように引っ張り始めたのだ。
 深度は取らず、上空を行く航空機からかろうじて見つからないあたりだ。
 だがスピードはものすごかった。体全体が水にぶつかり、まるで川の急流に立ち向かっている時のような気持ちがするほどだ。
 ゴム製の潜水服も、脱げてしまいそうなほどバタバタと揺れる。
 サイレンがこんなにも速く泳げるなんて、僕は全然知らなかった。ストロベリー校でも習ったことはない。
 僕がそう言うと、コバルトが答えた。
「知らなかったと? こちらの手の内を、どうして人間どもにすべて見せてやらねばならん?」
 ああ、いつもこうなんだ。
 大体サイレンという連中には親切心やら、おもてなしの心などハナから期待できない。
 こういう泳ぎ方をすると、自然と僕の体は後ろを向くことになる。コバルトの肩の上にいる時と違って、僕の目の前には後方の風景が開けるんだ。
 魚と違ってウロコなど1枚もないサイレンの尾びれが2つ、僕の左右で躍動しつつ水を蹴るさまは、まるで2気筒エンジンのような眺めだ。
 だが後ろを向いているからこそ、僕は新たな敵の出現に気づけたのだ、とは言えるかもしれない。何かが視野のすみを横切った時に、僕はすぐに反応することができた。
「?」
 まだ遠いので形はわからない。 
 ただ、何か白い物体が光にひるがえったのは確かだ。

17


 僕は当惑しただけだったが、サイレンたちの反応はもっと早かった。2頭が話し合ったわけでもないのに突然方向を変え、舵を右に切ったのだ。
 僕は表情をのぞき込んだが、コバルトが何を考えているのかは理解できなかった。
「まさか日本人が追跡してきたのじゃないよね」
 このとき偶然にも、コバルトが水面に頭を出し、もう一度息を吸った。おかげで僕も相手の姿を再び見ることができた。
 たまたま同じ瞬間に、敵も水上に姿を見せたのだ。波の上に全身を出し、大きく弧を描いてジャンプした。
 これで姿がよく見えた。
「シャチだ」
 クジラの一種で、肉食の獰猛な野生動物だ。黒い体には白い模様があり、遠くからでもよく目立つ。
 白と黒に塗り分けられた姿を、まるでパンダのような平和のシンボルと見たがる人もいるが、とんでもない。
 シャチのことは、別名オルカともいう。しかしそれは最近の新しい呼び方で、古来、捕鯨船乗組員たちはもっとふさわしい名で呼んできた。「ホエールキラー」
 クジラを見かけるたびに見境なく殺し、食っちまうからだそうだ。
 実地訓練だけではなく、ストロベリー校においても、もちろん座学の授業がある。そこで習ったんだ。
 教師が声を大にする。
「シャチとは、サイレンにとって唯一の天敵である」
 早い話が、日本軍からはサッサと逃げ出すことのできたサイレンたちも、うかうかしていたらシャチには食われてしまうということ。
 だから僕も、背中に緊張が走るのを感じないではいられなかった。
「シャチだよコバルト、どうする?」
 でも返事をしたのはリリーだった。
「こんな時にシャチと出会うとは、運のいいことですね。しかも2頭います」
「本当に?」
「ええ、人間の目にはまだ見えていないだけです」
「どうするんだい?」
「私のランドセルの中に狙撃銃があります。用意しなさい」

18


 ランドセルとはその名の通り、サイレンが背負っているカバンのことだ。
 分厚い牛の皮で作られ、必要な装備品が収められている。装備品ついては僕も一通り知識を持っていたが、納得できなかった。
「狙撃銃なんて、どうして持ってるんだい?」
「死んだトーマスは、もともとは狙撃の訓練生でした」
 リリーの背に移動し、金具を外してランドセルを開いたのはいいが正直な話、いざその狙撃銃が顔を出しても、何をどうしたらいいのか、僕には見当もつかなかった。
 いい機嫌とはとても呼べない声で、コバルトが口を開いた。
「リリー、トルクを手伝ってやってくれ。銃器については、こいつは全くの初心者だ」
「まさか、銃を撃った経験が一度もないと?」
「そのまさかさ。これまでは沿海の軽い任務しかしてこなかった。今日は私とあんたで、チェリーボーイに初体験をさせようというのさ」
「冗談ではないよ」
「私はいつだってまじめさ、リリー」
「☆〇!」
 ここでリリーは何かを言った。ごく短い単語だが、僕の知らない、もちろん訓練校でも習わない言葉だった。きっとサイレン語の辞書にも載っていない卑語だろう。
 それでもコバルトの表情は変わらない。
「おやおや、皇女ともあろうお方が、そんな言葉を使うとはな」
 ストロベリーの狙撃銃とはどういったものか、残念ながら実物を見て嬉しくなることはない。
 旧式の対戦車小銃を陸軍からもらい受け、海水に耐えるように各部をメッキ加工してある。
 全長が長いことは長い。僕の身長とあまり変わらないサイズのある銃だ。
 リリーに言われるまま、僕はそれを見よう見マネで組み立てなくてはならなかった。
「違います。それは安全装置。薬室を開くレバーはこちら」
 いかにも肉食動物らしく極限までツメの尖った指で、リリーは説明してくれた。
 でも、その説明が役に立つのか立たないのか、僕はまだ取扱説明書を読んでいるレベルだったんだ。
「『サイレンの体に一点を決め、そこに銃床を押し当てて安定させろ』と書いてあるよ。基準点にするんだってさ。コバルトのどこを基準点にしよう?」
 と僕はリリーに相談した。
「分かりやすい場所がいいですね。うまい具合に後頭部の毛が少し抜けているではないですか。あそこを基準点にすればよろしい」
「人の毛の話ばかりしやがって。お前たち、いつか覚えていろよ」
 とコバルトの声は、腹の減った猫のように機嫌が悪い。

19


「…それにお前たち、シャチだっていつまでも待ってはくれないぞ」
 とコバルトは機嫌の悪い声を続けた。
 多少口径が大きくても銃である限り、水中で役に立つわけがない。水の抵抗で、弾丸はすぐに減速してしまうのだ。
 だからコバルトは水面に背中を出し、シャチを引き付けるため、わずかに減速したのだ。僕は両手でギリギリ一杯、銃をかかえている。
 その瞬間、シャチがジャンプをした。僕は引き金を引いた。
「痛え」
 銃床を頭で支えるコバルトの悲鳴が聞こえる。
 しかし弾丸は銃口を離れるばかりで、シャチに命中するどころか何の成果も生まず、波のかなたへと飛び去ってしまった。
 次に声を上げたのはコバルトだが、そのくらいの権利は僕も認めてやっていい。
 なにしろ銃床がその後頭部、例の毛の抜けたあたりをイヤというほど直撃したのだ。
「お前、何を考えてやがる? 本当に痛いぞ。毛が生えなくなったらどうする?」
 コバルトの毛になど、僕はあまり関心もなかった。そもそもコバルトの金髪は本当に豊かで、抜けたと言っても、ただ本人が大げさに言っているだけだったのだ。
 それよりも僕にとっては、シャチのほうがよっぽど大きな問題だった。
 2頭のシャチがサイレンたちばかりでなく、僕までも胃の中に入れたがるとまでは考えなかったが、ここでサイレンたちを失えば、僕も死ぬことになるのは確実だ。
 それに比べれば、コバルトの髪の毛など、本当にどうでもいい問題でしかない。
「トルク、これまでは儀礼的な理由で口にしませんでしたが、あなたは本当にノロマなのですね」
 突然そんなことをリリーが言い出すので驚いたが、なんと賛同者もいた。
「その通りさリリー。こいつには血筋以外、何のとりえもありゃしない」
「例のナントカ提督の孫だというやつか? やれやれ」
「どうするね?」
「ここは私が何とかしようよ、コバルト。貸しだよ」
「わかったよ」

20


 どうするつもりかと僕は見ていることしかできなかったが、その僕の手の中から、リリーは銃を受け取った。いや、奪い取ったんだ。
「提督のお孫さんや、よく見ておおきよ…。これが薬室」
 カチンとレバーを引き、リリーは銃の一部を開いた。僕なら両手にも余る大型の銃だが、サイレンの手の中にあるとおもちゃのようでしかない。
「さあトルク、50口径の弾丸をここに1発だけ入れる。見えるね?」
「見えるよ」
「このサイズがあっても銃であることは変わらないから、水中で撃っても意味はない。シャチが水上に顔を出した時でないと」
「どうやってシャチに顔を出させるのさ」
「それは簡単です。コバルトが実演してくれるでしょう」
「えっ?」
 たしかにコバルトは実演してくれた。僕が無防備でいすぎたこともあろうが、突然、長い腕で僕の肩をつかみ、2匹のシャチの目の前へひょいとほうり出したのだ。
「!」
 シャチの赤い4つの目が、それを見逃すはずはない。僕なんか、空腹な狼の群れの前に置かれた弁当箱みたいなものでしかない。
 バン。
 もちろん、すかさず銃の引き金が引かれた。リリーの指が引いたのだ。
 50口径と言えば、一般の歩兵が使う小銃というよりも、むしろ戦車や装甲車が装備する兵器に近い。
 そんなもので直撃されたのだから、シャチの一匹はあっさり即死してしまった。命中した頭部が、まるで手品のように一瞬で消えてしまったのだ。
 血が混じって、周囲の海水が赤く変わる。即死は確実だが、まだもう一匹いるのだ。
 しかもそいつは、相棒の死や運命を気にする様子もない。どれだけ空腹なのやら。
 しかもそいつは、もう僕からいくらもないところに迫っていた。
 コバルトの体にしがみつき、手足をバタバタさせながらも、僕はある一点が気になっていた。
 なるほどシャチは恐ろしい相手だ。だがそれでも、50口径弾で処理できる敵だと分かったわけだ。
 リリーがすぐにあの銃の薬室を開いて、もう一発を装填してくれればいいんだが。
 ところがなぜか、リリーはそうしないのだ。銃を手に抱えたまま、水中で体をぐるりと一回転させた。
 このとき僕は気が付いた。絶望的な思いだ。

21


「リリーのやつ、2発目の弾丸なんか持っていないんだ」
 僕の思いが伝染したのだろう。なぜかこの時、リリーが顔を上げた。
 そうです、もちろん私は2発目なんざ持ってませんよ、とでも言うようにニヤリと笑ったんだ。僕の感じた絶望が想像できるかい?
 次の瞬間、リリーは尾をフル回転させ、水面に上半身を突き出した。そして表情を消した。
「黒と白のクジラ野郎、食えるものなら私を食ってみな」
 とリリーは言った。
 シャチが言葉を理解するとは僕も思わない。だがこの次に起こったことは、そう考えないと理解不能かもしれない。
 僕を見捨て、リリーを見すえて、シャチが大きく口を開いたのだ。尖った歯がずらりと並び、いかにも毎朝の歯磨きが面倒くさそうな口だ。
 一方で、どういう体の動きなのか、リリーはまだ上半身を水上に保っていた。まるで映画で見る日本のサムライのようにスキがなく、上半身は波の上に微動もしない。
 しかも銃はと言えば、リリーの手の中で上下逆さまにされ、刀のように垂直に持たれている。
 シャチが動いた。
 その瞬間には波としぶきが大きく上がり、僕の目に見えたのは、ただ銃身がグニャリと折れ曲がったということだけだった。
 しかし、何もないのに銃身だけが曲がるはずはない。やがてシャチの口と鼻から血が噴き出すにつれ、やっと僕も意味を理解することができた。
 銃身で頭蓋骨をたたき割られ、シャチは即死していた。尾びれまで含め、その体はもはやピクリともしないのだ。
「ふん」
 ため息をつき、用のないおもちゃであるかのように、リリーは銃をポンと投げ捨てた。
 しかも、リリーがしたことはそれだけじゃない。シャチの傷口に手をねじ込み、肉塊を大きくちぎり取ったんだ。子供の頭ほどの大きさがある。
 同じようにもう一つ取り出し、肉塊は2つになった。
「あんたも食うだろう?」
 一つを自分の口の中に入れつつ、リリーはコバルトの前に差し出した。
「食わいでか。抜けた毛の仇うちだ」
 いそいそと手を伸ばして、コバルトは受け取った。どうやら髪の毛の話は本当に切実であるらしい。

22


 シャチの牙を逃れて数時間後には、三日月島の砂浜に上陸し、僕は潜水服を脱ごうとしていた。
 ここは本当に小さな島で、沖から見るとコロンと丸く、まるで子ガメが水に浮いているようにしか見えない。
 だが近づくにつれて島らしくなり、三日月のように丸い形をした岬の先にある灯台を見分けることができるようになる。
 背の高い灯台は海岸べりにあり、石灰石でできた真っ白な建物だが、僕がドアをたたくと、すぐに中から開いてくれた。目つきの鋭い男たちだ。
 軍服までは着ていないが、一目で軍人だと知れる感じ。
 もちろん彼らも同時に、ストロベリーに所属していることを示す僕の階級章に気が付いたに違いない。表情が一瞬でこわばるのが見えた。
 合衆国海軍においては、ストロベリー隊員の発する要求はすべて無条件に認められ、実行されることに決まっていた。
 いつどこで、どんなに奇妙な指示を出しても、一般兵の側には質問する権利すら与えられていないのだ。
 逆に言えば、ストロベリー兵が持っている情報は、常に最高機密として扱われるということ。
 僕は口を開いた。
「無線機を使わせてください。司令部へ緊急連絡があります」

23


 高速艇に乗って僕がストロベリー基地に帰りついたのは、数日後のこと。
 コバルトもリリーも、三日月島から直接基地へと帰らせてあった。単身であれば、サイレンは深海深くへと潜航できるし、深海ではシャチと出会うこともない。
 下船して桟橋を歩き、1時間後には地下プールへと長い階段を下りて行ったが、僕は手ぶらではなかった。
 地下プールというのは分厚い屋根に覆われた掩体壕のようなもので、窓は一つもないから、中で何をしているかを知る方法はない。
 僕だって、ここへ出入りするときには顔と身分証をチェックされ、身体検査を受けなくてはならない。
 しばらく行くともう一つゲートがあり、ここでももう一度、さらに厳重に誰何される。この先は直接、地下プールにつながっているのだ。
 だが僕の通り抜けに問題はなかった。僕の顔はよく知られているから。
 深海に慣れたサイレンたちのために、地下プールはいつも薄暗くされている。僕も一瞬立ち止まって、目が慣れるのを待った。
 だが階段を下りてくる足音で気が付いていたのだろう。サイレンたちの耳はそれほど鋭い。
 だからこそ、戦場では潜水艦のソナーといい勝負をするわけだ。
 サイレンたちはそれぞれ思い思いに水中に寝そべっていたが、僕が水面近くまで行くと、水面に顔を出して、コバルトが迎えてくれた。
「どうせお前は、私とした約束など忘れているのだろう?」
 そう言った時のコバルトの表情が何に似ているかときかれれば、スネた猫というのが一番近い。
「約束? どんな約束をしたっけな」
「ああ分かってたんだ。しょせんお前はそういう人間だよ。協力して損した」
 そう言いながらわざと水を跳ねかけてくるのを予期し、僕はヒラリとよけることに成功した。僕だってコバルトとの付き合いは長い。
 それに今着ているのは新品の制服だから、濡らされるのは困る。
「じゃあコバルト、これは何かな?」
 と僕が取り出した茶色い紙包みに、コバルトの2個の目玉は釘付けになってしまった。
「お前、まさか…」
「この町で手に入る最高級の牛肉だよ。1か月の給料が飛ぶんだから、心して食べ…」
 ところが僕は、セリフを最後まで言い終えることができなかった。文字通り目の色を変えたコバルトが水面から飛び出し、コンクリート床の上に上半身を投げ出してきたのだ。
「おお友よ、わが戦友よ。早く寄越せ」
 よみがえった亡者のように腕を差し出すその必死な表情には、僕も笑うしかない。
 もちろん僕は、じらしたりはしなかった。ヒモを切り、茶色い包み紙を取り除くと、すぐに投げてやった。

24


 コバルトの食べっぷりは、お世辞にも上品とは言えなかったが、見ていて微笑ましく感じるところがないでもない。
 大きな肉をかじりもせず、両手でつかんで口の中に運び、水中に戻ったはいいが、あまりのうまさに身をよじらせているのだ。
 そのために水が泡立ち、
「あの激しさは、まるでシャチの断末魔みたいだな」
 と僕は不謹慎なことを思ったりした。
 このまま立っていても仕方がないから、僕は椅子を見つけて腰かけることにした。サイレンは、本当にうまそうに牛肉を食う。
 やっと食べ終わっても、まだコバルトは余韻にふけっている様子だ。水面に長く身を伸ばし、ぼんやりしている。
 僕は話しかけた。
「リリーにもこの肉をやらなくていいかな? いちおう協力してくれたわけだし」
 だが、それに対するコバルトの答えは非常に冷たかった。
「ほっとけ、ほっとけ。あいつの新しい相棒が決まったとついさっき発表があった。また食い殺してしまうだろうが、まあ関係ないな」
「そう思うかい?」
「思う? 確実さ。トーマスは自殺したんじゃない…。それよりも、明日からまた日本の潜水艦を探しにいこう。たくさん見つけて、お前をドンドン出世させてやる。だから今みたいな肉を寄こせ」
「僕は出世には興味ないんだがなあ」
「本物の戦争も始まったし、そうもいくまいよ。先日見た日本の潜水艦だが、あれは全くの新型だぞ。ただの潜水艦ではなく、潜水空母というやつだ」
「潜水空母って何だい?」
「文字通りの意味さ。あれを使って日本人が何をする気なのかも見当がつく。見当がつけば、待ち受けるのは簡単じゃないか」
「僕は…」
「まあいいってこと。お前は出世して提督閣下になり、私はうまい肉が食える。このことは報告書には書くな。お前と私で手柄を独占するんだ」
「でも…」
「さあこれは前祝い。派手にやろう」 
 話しながら、薄暗い水中で準備していたのだろう。しかも僕は腰かけていたのだから逃げようがない。
 あの大きな尾で水を跳ねかけられてしまうと、僕は頭のてっぺんからクツのつま先まで、今度こそびしょぬれにされてしまった。
 それに続く遠慮のない笑い声を聞きながら、思わないではいられなかった。僕とコバルトは、想像以上に長い付き合いになるのかもしれない。

25(第2部)


「ねえコバルト、ニュースが2つある。どっちから聞きたい?」
 僕とコバルトは、いつものように海中を前進していた。
 海中は海中だけど、まだ基地を離れてはいなくて、ゲートを出てすぐのところ。
 視線を上に向ければ、大きいのや小さいのや、様々な軍艦の船底が笹の葉のような形をして、あちこちに浮かんでいるのを見ることができる。
 戦争が始まって数か月がたち、前線の生活には僕も慣れつつある。
 言い忘れていたけど、僕のようにサイレンに乗る者のことを、ストロベリーではライダーと呼んでいた。サイレンライダーだ。
 戦争って、どんなふうかって?
 さあ? 僕が目にしているのは、前線の一部の一部の、そのまた一部に過ぎないからね。全体像なんて分かりっこない。
 そういえば、あるとき戦艦ヤマトを見たよ。
 夜間、遠くにチラリと見かけただけだが、あまりのでかさに、コバルトと2人して口をポカンと開けた。でも、まさか攻撃命令が出ていたわけじゃなし、そのまま見送った。
 巡洋艦を家来のように何隻も引き連れて、ヤマトはずっと南へ下って行ったよ。

26


「それで、悪いニュースが2つだって?」
 本人は気づいていないが、コバルトは深みのある実にいい声をしている。僕は耳にするだけで気持ちがよかった。
「どっちのニュースから聞きたい?」
「どちらでも」
「じゃあ日本の話をしよう。日本軍が飛ばしている戦闘機のことは知ってるよね?」
「ジークのことか?」
「そうそれ。正式名称が分からなくて、アメリカ軍が適当につけた名前だけどね。こいつの性能が抜きんでていて、海軍も空軍も苦労してる」
「格闘戦が特にうまいと聞いたが」
「そうらしい。弱点を探るための研究をしたいのだけど、とにかく1機でも実物が手に入らないことには手の付けようがない。だから『遺棄された機体を海上で発見した場合には傷をつけず、万難を排して持ち帰れ』という命令が海軍全体に出た」
「そうかい?」
 どうもまだコバルトは、話の行き先が読めていないようだ。僕が表情をのぞき込むと、リンゴほどもある青い目玉で、じろりと見つめ返してきた。
「それでね、今から数時間前、海面に浮いている1機が発見された。パイロットの姿はなく、不時着したらしい」
「ならば、それを拾い上げればよいではないか」
「だけど沈んでしまった。場所はここから200キロ南方。水深は1000メートル内外と推定される」
 ゆっくりとだが前進を続けていたコバルトの尾が、ピタリと停止してしまった。
「まさかお前、私にそれを取りに行けというのではあるまいな。私は落し物係ではないぞ」
「そういう命令が出ちゃったんだよ。さっき中隊長から言われた。今日のパトロールは中止だよ」

27


「くそったれ…」
 そういうコバルトの気持ちも分からないではない。
 いつも地下プールでじっとしているコバルトにとっては、パトロールに出かけるのは『犬の散歩』みたいな気晴らし効果があるのだろうから。
 でも海軍はペットホテルではないし、サイレンもお客様ではない。
 コバルトの目がきらりと光り、また意地悪を口にした。
「もしも、いま私がストライキを始めたらどうする?」
 サイレンは軍人でも軍属でもないし、その前に人間ですらない。
 建前上、サイレンたちは好意でアメリカ軍に協力している形になっている。いつでも好きな時に辞職できるんだ。
 だから辞職しないまでも、コバルトがストライキと口にした日には…。
「僕がつるし上げられる」僕は正直に答えた。
 ネズミをつかまえた猫のような顔をして、コバルトはニヤリと笑った。
「それは面白い。リリーと一緒に見物しよう」
 僕は2つ目のニュースを披露する気になった。
「そのリリーが問題なんだよ。トーマスだけじゃなく、その次に相棒になったライダーも先日、行方不明になったよね」
「敵の流れ弾に触れたという話だったが」
「だけどついに、海軍はリリーを疑い始めたらしい。食っているとまでは本気で考えてないけど、相棒を故意に死なせているのではないかって」
「常識に縛られて、人間というのもバカな生物だな。今頃気づいたのか」
「だから最近は『人食いリリー』とあだ名がついてる」
「奇遇だな。私も『人を食った』と言われるぞ」
「あんたの場合は、そういう性格だからさ…。それでリリーの安全性を確かめるため、当分リリーは僕とコンビを組むことに決まった」
「私はどうなるのだ?」
「だから三人組になるんだよ。ほらほら急ごうよ。あそこで船が待ってる」
 コバルトをせかして見上げると、少し先に赤い艦底が見えている。へさきの尖ったスピードの出そうな船だ。

28


 僕とコバルトを待っていた船は、船名をゼブラといった。
 表向きはフリゲート艦の一種とされているけれど実態は違って、艦底部には竜骨を避けて大きなドアがあり、そこからサイレンが出入りできるようになっている。
 要するにサイレン専用の輸送艦なんだ。
 あきらめた風にため息をついて、口から大きな泡を吐き出し、コバルトは再び前進を始めた。
 やがて、ゼブラの艦底を直接見上げることができる場所までやって来た。
 B29の爆弾倉ほどもあるドアがあり、僕とコバルトを待って大きく開いている。
「この入口を見るたびにカンオケのフタを思い出すのは、私だけかね?」
 そんなことを言いながらも、いざドアをくぐり抜ける時には、僕が頭をぶつけないように、コバルトは片手でそっと押さえてくれた。
 ドアを通り過ぎると、すぐに四角い部屋になる。サイレンを入れるために、ここには常に水があるのだが、それだけじゃなくて、今日は先客がいた。
「リリー」
 ゆったりと尾を伸ばして水に体を預け、リリーはリラックスしていた様子だ。僕が声をかけると振り向いた。
「なんだか知らないけれど、また一緒にお仕事をすることになりましたね」
「そうだね」
「人間の肉はうまかったか?」
 というセリフは、もちろんコバルトの口から出た。
 機嫌を悪くするふうでもなく、リリーはコバルトに場所を開けたが、2頭がいて狭い場所ではもちろんない。
「また後で来るよ。僕はブリッジへ出頭しなくちゃならない」
 そう言って僕がハシゴを登ろうとすると、コバルトが僕の足をつかんだ。
「待てコラ。私を人食いサイレンと二人きりにする気か?」
「…」
 僕は困ってしまったが、リリーが助け舟を出してくれた。
「トルク、気にすることはありませんよ。私はグルメですから」
「グルメだと?」とコバルトがにらむ。
「運悪く今日はマヨネーズを忘れてね。そうでなければ味付けのしようもあったろうがね」
 コバルトが何かを言い返す前にエンジン音が高まり、船が動き始めた。

29


 翌朝になって水槽へ降りてゆくと、喧嘩するでもなく、コバルトはリリーと話し込んでいるふうだったが、すぐ僕に気づき、
「よう裏切者、この船をどうやって沈没させるか、リリーと相談しているところだ。お前も加わらないか?」
「あんたの冗談は笑えないよ」
「冗談なものか。私はいつだってまじめさ」
「そんなことより、ジークが沈んだ海域に到着したよ。もうすぐドアが開く」
 コバルトはいかにもゲンナリした顔をしたが、もうあきらめたのか何も言わなかった。
 30分後には僕は一人、ゆらゆら揺れるボートの上にいた。ゼブラを離れて、波間に漕ぎ出していったが、さいわい波の強い日ではない。
 コバルトとリリーは長いクサリを手に、ついさっき波の下に姿を消したところだ。
 仲の良い少女たちのように手をつなぎ、潜水を始める姿は、かわいらしいと言ってよかった。
 こうやってサイレンが加わる作戦はもちろん極秘で、まわりは人払いがされ、船影はゼブラしかない。しかも周辺海域は空軍機によって警備されていると聞いた。
 もちろん僕は、コバルトたちについては行かなかった。
 潜水服を着ても、人間は60メートルか、せいぜい100メートルしか潜ることができないから。
 その代わり僕はボートに乗り、海面に身を乗り出して、コバルトたちと打ち合わせをした。
「機体を発見できると思うかい?」
「燃料が漏れているのだな。かすかだがガソリンの匂いが海中を漂っている。なんとかなるだろう」
 そういってコバルトたちは潜水していった。
 思うに海水とは、人間には分からないだけで、実は様々な匂いに満ちているのだろう。サイレンの敏感な鼻はそれを鋭くかぎ分けることができる。
 コバルトたちの姿が見えなくなると、とりあえず僕は暇になった。クレーンから伸びて水中へ消えてゆくクサリのゆっくりとした動きを眺めている他は、することがない。
 だから少しのんびりすることにして、朝食代わりに渡されていたコーラの栓を抜いた。

30


 でも僕は、そのコーラを飲み切ることができなかった。
 ボート周囲の水面が突然、沸騰するように波立ったかと思うと、水面下から何かが衝突してきたんだ。
 コーラびんが僕の前歯にぶつかってガチンと音を立てるだけじゃなく、ボートが揺れて大きく浸水し、まるで急行列車に追突されたような気分だったが、
「あっ!」
 僕は水中へ放り出されてしまった。
「大丈夫ですか?」
 手足をばたつかせて水面に顔を出すと、リリーの声が聞こえた。衝突してきたのはリリーだったんだ。
「私は警告に来たのです」
 リリーの声も緊張している。腕にしがみつくと、そっと持ち上げ、僕を肩の上に乗せてくれた。
 見回しても、ボートの姿はもう見えなかった。一瞬で沈没してしまったのだろう。
「何があったんだい? コバルトはどこ?」
「それどころではありませんよ」
「またシャチが出たのかい?」
「シャチよりももっと怖い者の尾を踏んでしまいました。今はコバルトが相手をしています」
「ジークは見つけた?」
「マッコウ鯨の墓場の真ん中で逆立ちをしていました。損傷もなく、翼を広げて、まるで十字架のような姿でしたよ」
「マッコウ鯨の墓場って?」
「アフリカ象の伝説を聞いたことはありませんか? 象の場合には伝説にすぎませんが、死期を悟ったマッコウ鯨たちが世界中から集まる墓場が実在するのです。過去何千年分もの骨が、見渡す限り海底に散らばっています」
「へえ」
「感心している場合ではありませんよ。私とコバルトは墓場荒らしに見えたに違いありません。墓守をしている一頭が襲い掛かってきたのです。今はコバルトが食い止めているのですが…」
 海面が再び大きく割れたのは、このときのことだ。
「!」
 サイレンを見慣れている僕の目にも、マッコウ鯨とは想像以上に大きかった。
 体長は20メートル近く、そのサイズは地下鉄電車が泳いでいるようなものと思ってもらえばいい。頭でっかちの流線型で、色は濃い灰色をしている。
 コバルトの体も大きいが、それでも鯨に比べると半分ほどでしかない。
 その鯨が、今は背中にコバルトを乗せているんだ。水面を垂直に突き破り、ロケットのように空中に躍り出た。
「やっほー」
 よく見るとコバルトは体を低くし、競馬の騎手のように鯨の背中にしがみついている。
 だがそれも一瞬のこと。見たことがないほどの水しぶきを立て、コバルトも鯨も再び水中に消えてしまった。
 どうしていいやら、僕には見当もつかなかった。口をポカンと開けていたかもしれない。

31


 だがリリーは違っていた。
「後を追いますよ、つかまって」
 リリーは猛然と泳ぎ始めた。
「方角が分かるのかい?」
「音が聞こえます。潜水艦のソナーよりも正確ですよ。それにコバルトは、わざと音を立てています。尾を曲げ、水中に乱流を起こして」
 だがリリーは潜水することができなかった。僕は潜水服を着ているわけではないのだ。
 僕たちは波を蹴立てて進み、あっという間にゼブラは背後に遠く小さくなってしまった。
「どうしよう?」
「船に合図をしてやりなさい。ジークへクサリを取り付ける準備はもう済んでいるのです」
 僕は立ち上がり、右手を何回か大きくグルグルと回したが、
「ちゃんと通じるかなあ?」
「誰かが双眼鏡で見ているはずです。意味は通じるでしょう…。ほら」
「なに?」
「聞こえませんか? クレーンのエンジン音が大きくなりました。引き上げを開始するようです」
「コバルトは?」
「再び浮上してくるのを待つしかありません」
「あのまま深海まで潜っちゃったんじゃないかなあ」
「それはありえません。さっきの一瞬では、鯨は充分な空気を吸うことができなかったでしょう。見ていてごらんなさい。1分か2分でまた顔を出しますよ」
「なぜ分かるんだい?」
「捕鯨船乗りたちの知識ですよ。鯨が一度息を吸ったら1分間、二度吸ったら2分間潜水します」
「深海へ潜る時には?」
「その時には、もっともっとしっかり息を吸わなくてはなりません。時間も手間もかかります。体中の血液に酸素をたっぷりと含ませる必要があるのです」 
「へえ…」
 リリーの正しさはすぐに証明された。かなり前方だけれど、コバルトと鯨がポンと姿を現したんだ。
 もう一度、ロケットのように空中へ飛び出してきた。
「コバルトはまだ背中につかまってるよ。尖ったツメが役に立ってるね」
「コバルトも好きでやっているのではなく、それしか方法がないのです。鯨の牙が届かない唯一の場所は、その鯨の背中の上ですから」
「どうやって助けるんだい?」
「あれほど巨大な生物を殺すのは、事実上不可能です。捕鯨船団が必要ですね」
「じゃあ、どうするんだい?」
「モリを出しなさい。私のランドセルの中に入っています」
「モリって、漁師が使うヤリみたいなやつかい?」
「今日のあなたは、捕鯨船の見習い乗組員のようなものです。モリにはロープを結び付けなさい」
「あれ? コバルトが何か言ってるよ」
 波の音にかき消され、僕の耳には届かなかったが、口が動いているのは分かる。それでもリリーの耳は聞き分けたようだ。
「いつものような罵詈雑言です。あなたのお耳に入れるようなことではありません」
 だけど、そう聞いて安心した僕は少し変わっているかもしれない。コバルトにはまだ悪口を言う余裕があるということなんだ。

32


 コバルトを振り落とそうと、鯨は何回も激しく体を回転させる。もちろん、それで落ちてしまうほど、コバルトもヤワくはない。
「モリの用意できたよ」
「ロープも?」
「結び付けた」
「では振り落とされないように、よござんすか?」
「OK」
 ここでリリーは、ものすごい加速を始めた。水をたたく尾の速度が急上昇したのだが、それだけではない。
 次の瞬間、まるで平たい小石を投げた時のように、リリーは長い体を水面に飛び出させたのだ。
 そう、確かにあの瞬間のリリーは空を飛んでいた。僕はその背中にいた。
 だが重力に従い、リリーは再び水面に落ちる。
 それでもリリーの尾は力を失いはしないから、水をたたき、一瞬後に再び体は空中に浮かんでいる。それから、また落下。
 これをリリーは何回も繰り返した。巨大なモーターボートのように、速度が目に見えて増加する。
 もちろん水面に落下するたび、僕の正面には壁のような海水が押し寄せるが、リリーは気になんぞしてくれない。
 僕は両手首に巻き付け、リリーの髪に全力でつかまらなくてはならなかった。長いモリは、リリーが口にくわえている。
 水中では、体の大きな鯨よりも、細長いサイレンの方が速く泳げるようだ。じりじりとだが確実に、リリーは鯨に追いついていった。
「泳ぎながらでは、私はモリを投げることができません」
「僕が投げるのかい?」
「コバルトに命中しないよう、注意して鯨の尾を狙いなさい」
「コバルトの体にこんなものを刺したら、後で殺されるよ」
 こんな時なのに、リリーはクスッと笑って見せた。
「その場合には、私もあまり同情はできませんね」

33


 僕には予言の才能があるのかもしれない。その後は、言ったとおりのことが起こったのだ。
 覚悟を決めて腕に力を込め、僕の手を離れたモリはヒュウと飛んで行き、だが狙いが悪いせいで鯨の尾を外れ、とんでもない方向へ。
 その先にいるのはコバルトだ。
「あっ」
 コバルトも横目で僕を観察していたらしい。
 突然、ブンと尾を横に動かしたかと思うと、モリを弾き飛ばすことができた。
 コバルトの肌には傷一つついてはいない。くるくると回りながら、モリは水に落ちた。
「ロープを手繰り寄せなさい。もう一度投げるのです」
 リリーの声は落ち着いているが、僕はもう自信がなかった。
「でも…」
「投げられないのなら、並走して、体を直接ぶつけるしかありませんよ。どちらがお好み?」
「どっちもヤダ」
「軍隊にヤダはありません」
「コバルトを見てよ。ものすごく怒って、目から毒液でも噴き出しそうな顔してる」
「まさにバシリスクですね。さあ、もう一回投げなさい。私の体力も無限に続くわけではないのですから」
 結論から言えば、2回目の攻撃で、僕は鯨の尾の根元にモリを突き刺すことに成功した。
 投げるタイミングに合わせて、リリーが水面から高くジャンプしてくれたおかげも、もちろん大きい。

34


 だが鯨の皮膚は分厚い。皮下脂肪はもっと分厚い。
 刺さったといっても僕の腕力では、モリの刃先がやっと隠れるかどうかという深さだ。
「あれで十分です。モリには返しがあるから、そうそう抜けるものですか」
 リリーの言葉通り、モリは抜けることなく、傷口は出血を始めている。周囲の水が赤くなりかけているのだ。
 ところが、
「まずい」
 リリーが声を上げた。
「どうしたんだい?」
「鯨が潜水の準備をしています」
「えっ?」
 その言葉通りだった。波の様子が変わり、鯨が水中へと沈み始めていると分かる。
 灰色の体が水面を切り裂くさまは、まるで潜水艦のような眺めだが、もちろんコバルトをその背に乗せたままだ。
 さらに大きな波しぶきが上がる。
 あっという間に、鯨とコバルトは波の下に姿を消してしまった。後に残るのは、モリにつながれたロープだけ。
 だがそのロープも、ずんずん引かれて水中へ消えてゆくのだ。
 リリーの声も緊張を隠せない。
「奴め、密かに潜水の準備を進めていたのか」
「コバルトはどうなるんだい?」
「背中につかまったままでいる他ありません。手を離した途端、牙の餌食ですから…、おっと」
「なに?」
「ロープの長さはどのくらいでした?」
「20メートルもなかったと思う」
「そうでしょうね。ものすごい引きの力です」
 これまでリリーはロープの端を片手で持っていたのだが、それを持ち替え、手首に強く巻き付けた。
「ごらんなさい。私はもう泳いではいませんよ。鯨の力に引かれているだけです」
「深海に逃がすことは防げる?」
「どうでしょう? 鯨の疲労を待つしかありませんね」
 それは本当に強い力だった。リリーの体は決して小さくはない。それを背中の上の僕ごと、鯨はどんどん引っ張っていくのだ。
 リリーの体は白い三角形の波を高く立て、まるで機関車のようなパワーじゃないか。

35


 5分間かそこら、鯨は僕とリリーを引き続けた。
 ロープはピンと伸びて波間に消え、僕は僕で、まるでジェットコースターに乗ったような気分だったが、それもあっという間に終わりを告げた。
「あら?」
 当てが外れたような顔をして、リリーが声を上げたんだ。ロープにつながれていた手首を引き寄せる。
 もはやロープは力なくダラリとし、リリーが手繰り寄せると、すぐに終わってしまった。
「切れてるのかい?」
 リリーは、ロープの終点に目を近づけた。
「切断面から見て、コバルトが噛み千切ったようですね」
「どうして?」
 一瞬言葉を止め、リリーは僕を振り返った。さっきまであれほどスピードが出ていたのが、今はもう波にプカプカ浮かんでいるだけだ。
「これ以上あなたを巻き込まないためでしょう。コバルトなりに気を使っているのですよ」
「まさか」
「まさかも何も、これが真実ですよ」
「どうしよう?」
 2人とも何も思いつけないでいるままに波はやがて完全に静まり、見回しても、さっきの大騒ぎを思い起こさせるものは、もはや何もなかった。 
「…」
 しばらくして、リリーが口を開いた。
「船へ戻りましょう。ここにいても、できることは何もありません」

36


 僕とリリーがゼブラに帰りついたころには、引き揚げ作業は終わろうとしていた。
 濃い緑色の機体を目にして、あれが日本のジークかとは思ったけれど、コバルトの行方が気にかかって、眺めたり観察したりする余裕は僕にはなかった。
 それでも、ポタポタと水をたらすジークを水兵たちが甲板に乗せると、海域を離れる命令がすぐにブリッジから出た。
 もちろんコバルトは帰ってこない。
 コバルトの行方よりも、一刻も早くジークを本土の基地へ届けることのほうが重要なのだ。戦争とはそういうものだ。
 それは僕にも理解できる。文句を言う気はない。
 だけど、それと行動を起こさないこととは違う。リリーと一緒に船底のハッチから水槽に入ると、僕は階段を駆け上がっていった。
 ブリッジへたどり着くと、頭からつま先までずぶ濡れの僕を見て、士官たちが眉をひそめた。でも気にせず、僕は言った。
「艦長、これはリリーの発案なんですが」
「リリーがどうした? コバルトはどこへ行った?」
 僕の説明を聞いても、艦長は納得した顔をしなかった。
「それが何の役に立つのだね? その鯨にしてもコバルトにしても、もうこの近辺にはおらず、何キロもかなたかもしれないのだろう?」
「だから1発だけでいいんです。爆雷を発射して…」
「お前は、爆雷一発がいくらするか知っているのか?」
「知りません…」
 僕は引き下がりかけたが、艦長は何かを感じてくれたらしい。
「リリーの発案だと言ったな。海のことはサイレンの方がよく知っていよう。お前の発案なら説得力ゼロだが」
 艦長は振り返り、副長を呼び寄せた。副長は不思議そうな顔をしたが、艦長の命令を聞くと、すぐに実行してくれた。
「後方にできるだけ離して、爆雷を1発だけ発射せい。深度は…」
 艦長が見つめるので、僕は答えた。
「できるだけ深くで」
「タイマーを最長の120秒にセットしろ」
「アイアイサー」
 そして命令は実行された。
 火薬の力で爆雷は甲板上から発射され、海面に落ちてやがて120秒後、ボウンという爆音とともに海面が大きく盛り上がった。
 といっても船上から見ると、ただそれだけのものでしかない。
 そのまま泡が消え、波がおさまっても何も起きなかった。鯨は気配もなく、もちろんコバルトも帰ってこなかった。
 エンジンをふかし、煙突からは黒く濃い煙を吹いてゼブラは動き始めた。

37


 この日から僕の生活は、大きく変わってしまった。
 ストロベリー基地には10頭ばかりのサイレンがいて、それぞれが地下プールの中に居場所を与えられている。
 コンクリート壁で仕切った部屋のようなもので、僕たちはストールと呼んでいたが、コバルトのストールは主を失ってしまったのだ。
 コバルトは、暇つぶしによく本を読んでいた。
 意外な読書家で、ストールに面して、床の乾いたプールサイドがあり、そこに上半身を預けて前かがみになり、あの尖った爪で器用にページをめくることができた。
 空っぽのストールの前を通りかかるたびに、そこに積み上げてある何十冊もの本が目について仕方がなかった。
 口が悪くて冗談もきついが、僕はコバルトの存在にそれほどなじんでいたのだ。
 僕の新しい相棒は、自然にリリーが務めることになった。そして幸いにも、僕はまだ食われてはいない。
 あるときリリーが気を回して、
「私と2人きりになるのはお嫌でしょうか? でも、コバルトと仲の良かったあなたを食べることなどできるものですか」
「仲がいいもんか、あんなジャジャ馬」
 リリーは目を丸くし、
「あら知らなかったのですか?
あなたとコバルトの言い合いを、サイレンたちは夫婦ゲンカと呼んでいたのですよ…」
 だけどコバルトが、これだけで終わるはずがない。

38


 1週間ほどがたち、つまり僕とリリーで1度か2度パトロールを済ませた頃だったけれど、朝食をとろうと食堂へ降りていったら、偶然に中隊長と顔を合わせた。
「お前、あの話は聞いたのか?」
「なんです?」
「ついさっきコバルトが戻ってきたのだとよ」
 そんなことだと思った。
 というのが僕の感想だった。でも朝食はお預けにして、すぐに地下へ駆けていったのだから、僕にだって、かわいいところがあるじゃないか。
 プールへ行ってみると、いたいた。
 このときは7、8頭のサイレンがいたが、でもなぜか全員が一番深い中心部に集まっているんだ。
 しかも車座になり、何かヒソヒソ話し込んでいるふう。
 噂話が好きなのは、人間もサイレンも変わらない。車座の中心にいるのは、もちろんコバルトだった。
 冒険の内容を面白おかしく話してやっていたのだろうが、僕の足音にすぐに反応し、コバルトが振り向いた。
 そして、まだ聞き足りなそうなサイレンたちを後に、こちらへとやって来た。
 コバルトは元気そうだった。
 ケガをした様子もない。髪の色ツヤも変わらず、瞳は輝き、食事に不自由したようでもない。
 なんだかホッとして、もう少しで涙が出そうだったけれど、うまく隠せたと思う。
 ああ、人生の中で何度も経験しないような素晴らしい瞬間じゃないか。
 僕は胸がいっぱいだ。瞳はもちろん見つめ合う。
 だけど何もかもぶち壊し。あの腐れサイレンの第一声はこうだった。
「トルク、何か言ったらどうだね? それともリリーに舌を食われたのか?」

39


 僕が怒って何も言わずにいると、コバルトは続けた。
「わかった、わかった。分かったからそんな顔をするな…。お前ににらまれても、痛くもかゆくもない」
「あの鯨はどうなった?」
「モービーディックか? あの後は本当に大変だったのだぞ…。だが今日はもう疲れた。おいおい話してやる」
「だって…」
「次のパトロールまで待て。どうせパトロール中は、時間つぶしにダベるしかないじゃないか。その時まで楽しみにしとけ」
 言い出したら止まらない。結局この日は、コバルトはもう何も教えてくれなかった。
 僕は好奇心で頭が爆発しそうになったまま、引きさがるしかなかったんだ。しぶしぶ僕は、食堂へと戻りかけた。
「おい待て」
 僕がジロリと振り返ると、コバルトは面白そうに笑った。
「お前に土産がある」
 そう言いながら、僕に向かって投げて寄こしたものがある。何も考えず、僕は反射的に受け取ってしまったけれど、
「何これ?」
 思わずそう言いたくなるようなものだった。
 大きさは石鹸ぐらい。小石のような見かけで、きちんとした形はしていないが、小石ほど重くはない。
 鼻のそばに近づけると、何か奇妙な芳香がある。
「それはリュウゼン香というのだよ。マッコウ鯨のクソの一種だ。モービーディックが偶然ひりだしたのを拾っておいた」
「えっ」
 驚いて僕が放り出したのを、コバルトはうまくキャッチした。
「これ1個で、お前の年収ほどの値段がつくのだぞ」
「いらないよ、そんなもの。鯨の肛門から出てきたんじゃないか」
 でもコバルトは強引だった。
「いいから持っていろ。でないと、お前の口にネジこむぞ」

40


「おやトルク、今日のお前は、えらく上機嫌じゃないか? そうか、私の話が聞きたいのだな」
 やっとパトロールの日がやって来た。
 僕とコバルトはいつものように海に出たが、リリーの姿はなかった。頭痛がするということで、珍しくも基地で休んでいたんだ。
「あのモービーディックはどうしたんだい? もう10日になるよ」
「お前がモリで私を刺し損ねた後のことか? 何も大したことではないさ」
「なぜロープを切ったんだい?」
「なぜ私が切ったと分かる?」
「断面の形からリリーが断定した。牙で咬み千切った跡だって」
 コバルトは僕をじろりと見た。
「まあな。潜水服も着ていないお前を巻き込んでも、いいことは何もない。リリーと一緒に船へ帰らせるしかなかった」
「それで?」
「モービーディックが潜水するものだから、私も引きずられるしかなかったのだよ」
「息の準備は間に合った?」
「それなりに予期していたからな。だがあの爆雷には助けられたよ。誰の発案だ?」
「リリーだよ」
「だろうな。お前の発案とは思えなかった。墓守なのだから、モービーディックが墓地から離れるはずはなかったのさ。私を背に乗せたまま戻っていった。あの時点で、奴と私は本当にゼブラの真下にいたのだよ」
「そこへ真上から爆雷の音が聞こえたんだね」
「いいタイミングだったよ。野生の鯨は爆雷になんぞ慣れていないからな。背中にいても、まるで全身に電気が流れたようにビクリとするのがわかった」
「それで?」
「一応は効果があったと言えるのだろうな。それまでは怒りで我を忘れていたのが、爆音で感情が吹き飛ばされ、我に返ったらしい」
「どんな顔してた?」
「『あらら、俺は何をしてたんだろう?』というところかな。こうなると気になるのは、尾びれの痛みだ」
「ははあ」
「奴が落ち着いたところを見計らって背中をポンポンと叩き、尾びれにまわって、モリを引き抜いてやったよ。針とタコ糸で縫って、治療もしてやった。今日から私のことをドクターと呼んでもいいぞ。リュウゼン香を見つけたのもこの時だ」
「真っ暗な深海で、よく裁縫ができたもんだね」
 僕がこう言うと、コバルトは表情を変えた。いかにもおかしそうにクスリと笑ったんだ。
「私は鯨だからな。暗闇でも超音波でものを見ることができる。超音波で見るお前は、本当に面白い顔をしているのだぞ」

41


「だけど、どうしてすぐに基地へ帰ってこなかったんだい? 1週間もたってたじゃないか」
「モービーディックの治療に手間取ってな。終わった時にはすっかり日が暮れていた。恩知らずのゼブラはとっくに姿を消していた」
「追いかけて来ればよかったのに」
「ゼブラの行き先を知らなかったのさ。だからストロベリー基地に戻るしかなかったが、そうなると海流が邪魔になる。知っているか?」
 ここでコバルトは大洋の海流の話をしてくれたが、複雑すぎて、僕には正直理解できなかった。
 ただ、海に住むサイレンがいかに海のことを深く理解しているか、しみじみ感じるだけに終わった。本当の話、海に関するサイレンの知識は、人間なんか及びもつかない。
 この日のパトロールは平和だった。水上艦にしろ潜水艦にしろ、日本のものには一隻も行きあたらなかったんだ。
「まあ、こんな日もあるさ」
 要するにコバルトによると、海流が邪魔をして直線距離で基地に戻るのは面倒だったこと。最近は仕事ばかりで疲れていたこととで、数日間の休暇を勝手に取ったということだった。
 その間、僕は待ちぼうけで、ずっとコバルトの身を心配していたというのに。
「休暇は楽しゅうございましたかな?」
 と僕が下僕のような声を作って言うと、
「ああ、いい気分転換になった。今度連れて行ってやるさ」
「本当に?」
 胸がドキドキしなかったと言えばウソになる。サイレンたちが海中でどんな暮らしをしているか、地上の人間で知っている者は一人もいないのだから。
 しばらくの間僕は、サイレンの暮らす深海世界の様子を思い描き、想像にふけった。
 もしかしたら深海には、コバルトよりも美人で、性格の優しい付き合いやすいサイレンだっているかもしれない。
 僕はいい気分だったが、この時コバルトが声を上げた。
「これは何だ?」

42


 パトロールを終えて、僕とコバルトは帰還の途にあった。
 太陽はとっくに沈み、昼間でも薄暗い海中は、まるでインク瓶の中身のように暗く、僕は自分の両手を見ることだってできなかった。
 でも僕も、それには慣れていた。
 サイレンなんぞと付き合っていると、いろんな意味で普通の人間じゃなくなることがある。暗闇が平気になるのもその一つ。
 そこへ不意にコバルトの言葉だ。
「これは何だ?」
「何って何さ?」
「これだ。お前は感じないのか? 手を伸ばしてみろ」
 たしかに奇妙ではある。目の前に壁のようなものが存在するのだ。
 だが潜水服の不器用な手袋ごしでは、ザラザラした表面が感じられるばかりで、正体は分からない。
 だが石のようではなく、押せばへこむ、やわらかさもあるんだ。
「漁網だ」
 とコバルトが叫んだ。
 その通り、僕とコバルトは、知らぬ間に漁網にとらえられていたんだ。
「大きな漁網? どのくらいのサイズ?」
「でかいぞ。トロール船だろう」
「トロール船って、もっと深い海底近くで魚を捕るものだよ」
「それを漁師が引き上げにかかっているのさ。そこへお前と私が引っ掛かった」
「出られる?」
「今やっているが…」コバルトは言葉を切った。苦しそうな息づかい。「…だめだ。私の力でも破れない」
「呼吸は続くかい?」
「あと数分というところだ。お前は網を破れないか?」
「やってるけど無理だよ。あんたに破れない物が僕に破れるわけがない」
「潜水服を脱げば、少し動けるようになるだろう。私のランドセルからナイフを取り出せ。お前は呼吸ができなくなってしまうが」
「緊急用ボンベがあるから、口にくわえるよ。3分間しか持たないけど」
「そうだったな。だがやってみてくれ。このままサシミにされるのは御免だ」
 水圧に堪えるため、ライダーの潜水服は分厚く重い。脱ぐのにもコツが必要だが、両腕を左右に押し広げ、コバルトがスペースを作ってくれたおかげで、僕は解放レバーに手を触れることができた。
 潜水服から抜け出しても、水中にいることに変わりはない。背中に手を回してボンベをつかみ、僕は口にくわえることができた。

43


 ナイフと言ってもサイレンが使う物だから、包丁の倍ぐらいある。僕は手探りで、それをコバルトの手に握らせることができた。
 あとはもう一刀両断。どんな漁網も敵ではなかった。
 漁網を引いていたのは、意外に思えるほど小さな船だった。
 ポンポンと音を立てながら煙突から煙を吐き、船尾にある2台のウインチで漁網を巻き取っていた。
「こんなに重い網は珍しいぜ。こりゃあ大漁だな」と笑っていたかもしれない。
 そりゃあ重いよ。サイレンがかかってるんだから。
 小さな漁船だから、乗っている漁師は3人しかいなかった。だがこの夜には、世界で最も不幸な3人組だったかもしれない。
 ナイフの刃と牙をきらめかせ、船尾に両手をかけて、大きく水上に伸びあがったコバルト。
 その肩に座ったまま僕が見下ろしたのは、驚きというよりも恐怖に駆られているこの3人だった。
「コバルト!」
 コバルトの考えが理解できたので、僕は叫んだ。
 なぜって、漁網から逃れるだけでいいのなら、ただ泳ぎ去ればいいじゃないか。わざわざ水上に顔を出して、漁師たちに挨拶をする必要はない。
「この姿を見られた以上、生かして帰すわけにはいかぬのだ」
 というコバルトの言葉の恐ろしさを、僕は一生忘れないかもしれない。
「コバルトだめだ!」
「ゴチャゴチャぬかすな」
 僕も気が付いていたが、コバルトにはえらく気の短いところがある。
「人殺しなんかダメだよ」
「私は鯨だからな。ものの道理など分かりはしないのさ」
「だって…」
「邪魔はさせぬ」
 ギラギラと漁師たちをにらみつけていた目を、コバルトは僕に向けた。それは、付き合いが長く慣れているはずの僕ですら恐ろしかった。
 腕をつかみ、コバルトは僕をヒョイと持ち上げた。それから、甲板にあった木製の救命浮き輪を手に取り、僕に押し付けた。
「これを持って、そこらでおとなしく浮かんでいろ」
 ここで僕は、ほとんどの人が一生経験することのない目にあった。船べりを越えて、まるで石ころのように放り投げられたのだ。
「自分はいま、放物線を描いて飛んでいるんだろうか」
 などと脳みその裏側でチラリと考えながら、僕は飛んでいった。

44


「よう元気か?」
 コバルトが僕のところへ戻ってきたのは、5分後のことだった。
 その間僕は、プカプカと木切れのように浮いていることしかできなかったが、コバルトは何やら、せいせいした様子じゃないか。
 漁船は、まだ向こうに見えている。エンジンもかかったままで、明かりが消されてもいない。ゆっくりと遠ざかっていく。
 受け取ったナイフをランドセルの中にしまった後も、僕はコバルトと顔を合わせるのが恐ろしかった。でも、いつまでも顔をそむけてはいられない。
「3人とも殺しちゃったのかい?」
 にっこりとほほ笑み、コバルトは答えた。その微笑が誰に似ていたかと言えば、古代中国の有名な悪女、傾城のダッキぐらいしか思いつかないよ。
 ところが、
「お前は気が付かなかったのだな。あの漁船、甲板の上は何の匂いがしていた?」
「さあ?」
「ウイスキーだよ。3人ともとんでもない飲兵衛で、顔はペンキを塗ったように赤いわ、足元に空きビンは転がるわ、操業中なのにグデングデンだった。実に模範的な漁師たちだな」
「どうして?」
「あの状態の漁師たちが何を目撃したと証言しても、誰も信じはしないだろうということさ。だから逃がしてやった」
 ホッとして、僕は体中の力が抜けてしまうような気がした。
「やれやれ…」
 その言葉に何を感じたのか、コバルトは何も答えず、前を向いて泳ぎ始めた。
 ランドセルにクサリで結びつけてあるから、僕が抜け出しても、潜水服が沈んでしまうことはない。
 今もチャプチャプ言いながら、コバルトが起こす波に揺られながら着いてくる。僕はもう一度あの中へ戻らなくてはならない。
 僕はノロノロと体を動かし始めた。今日はいろいろなことを見聞きしすぎて、全身が石のように重い。
「僕はもう疲れたよ」
 僕はコバルトの表情なんか探りもしなかったし、コバルトも僕を振り返らなかったと思う。珍しくも優しい声で、こう口を開いた。
「潜水服の中で眠るがいい。基地の手前で起こしてやるよ…」
「えっ?」
 でもコバルトは本当にそうした。僕は思いがけず深く眠ったようで、基地のゲートを入る寸前まで、一度も目を覚まさなかったんだ。
 眠っていた間、なんだか楽しい夢をたくさん見たような気がする。
 ゲートを通り抜けながら耳を澄ませると、いかにも機嫌よさそうに、コバルトが小さく何かを口ずさんでいるのが聞こえてきた。
 聞いたことのないメロディだ。
「サイレンの国の音楽だろうか」
 僕はそんなことを思った。それがサイレンの子守歌だということを、この時の僕はまだ知らなかったんだ。
 日本軍内部におけるジークの正式名称が『ゼロ戦』だと分かったのは、このもう少し後のこと。

(終)

僕と人魚の奇妙な関係性

僕と人魚の奇妙な関係性

「私は鯨だからな。ものの道理など分かりはしないのさ」 (長編)

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 冒険
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-08-15

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  16. 25(第2部)
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