渡世侠客伝
やってみれァ、わかる。これだけは、口ではわからねえ。とにかく、斬られねえようにするより、斬る、ってことだ。一にも先、二にも先、三にも先をとる。
『燃えよ剣』(上)より
Ryōtarō Shiba
(August 7, 1923 – February 12, 1996)
渡世侠客伝
或る初夏の昼下がりの事である。
「大川原の狂犬」と畏れられる若き侠客・島田潮五郎は、舎弟分の田荘三之助、東屋小吉と共に、碁敵であり、世間様で言う所の「ご同業」にあたる遠藤八兵衛が、先月末、五分と五分の盃を交わしたばかりの八幡孝太郎と共同経営をしている銭湯『島の湯』から徒歩でざっと十五分の距離にある自宅兼事務所へと戻る途中、『島の湯』と自宅兼事務所の丁度中間地点にある茶屋『日向堂』に於いて湯上がりの一服をプカプカと嗜んでいた。
親父。
今日は何月の何日じゃったかな。
自身が侠客になる切っ掛けを与え、且つ其の名を知らぬ者は居ないと言う程の組織力を誇り、且つ武闘派集団として名を馳せた『上総一家』の大親分こと草野六郎太の形見の品である象牙の煙管を、嘗て渡世の義理を言い訳に、尊敬する兄貴分であった笹山寛太郎を真っ正面から長ドスで思い切りぶった斬った右手に持った潮五郎が、今月で御年六十七歳を迎えた鯰髭が大変に特徴的な『日向堂』の主人である所の山坂籐右衛門へ向かって質問をすると、籐右衛門は自身の坊主頭にポツリと浮かんだ汗を、愛媛県は今治で生産されている紺青色の手拭いを用いて丁寧に拭き取り乍ら、はあ、今日は確か、七月の十日だった筈ですがのう、と答えた。
ほうか、七月の十日か。
そんなら後で、花屋とお寺さんに寄らんといかんのう。
聞いてもええか解らんですが、今日は誰ぞの御命日でしたかのう。
あゝ。
生きとったら今年の秋で二十歳を迎える桃山七郎太の命日じゃ。
桃山七郎太。
あゝ、あの器量良しの若衆か。
裏庭の樹々に居着いている蝉の鳴き聲がわんわん鳴り響き、雲一つ無い空から眼を射る様な光量の陽光が簾越しに射し込む中、『日向堂』の看板娘である永原峰が握ったばかりの握り飯を、遠い眼をした潮五郎の方へと差し出し乍ら籐右衛門は、在りし日の桃山七郎太の小粋な立ち姿を頭の中で思い出した。
確かあん人は、此処の裏手の田圃道で、相撲取り上がりの舞川長二郎と相討ちになって亡くなったンでしたなぁ。
田圃の泥に顔を突っ込んどって、人間の一生なんぞ、随分と呆気ないモンじゃ、と思うたモンですわ。
あれからもう二年の月日が経つンか。
彼奴と組んで賭場と言う賭場を荒らし回った日々が懐かしいわい。
腹を空かせた野良犬の様に、口を大きく開けて握りたての握り飯を頬張った潮五郎は、麦茶で其れを勢いよく胃袋に流し込み、住み込みで働く料理人で、元は女衒をやっていたと言う経歴を持つ澤島平助が、丹精込めて砥いだ包丁でしっかりと刻んだ向日葵の様に真っ黄色の沢庵を、二ヶ月前、腕の良い歯医者に頼んで義歯にして貰ったばかりの奥歯でバリボリと噛んだ。
命日と言えば、来週じゃったな。
春子さんの四回忌は。
春子とは四年前の夏、隣町からの掛取からの帰り道、運悪く肺炎を拗らせた挙げ句、家族親類に加え、芝居見物仲間でもあった潮五郎に見守られ乍ら、まるで此れから昼寝でもする様な実に穏やかな表情で静かに息を引き取った籐右衛門の末娘の事で、生きていれば今頃、何処ぞの大店の立派な女将さんにでもなっていただろうと言える程の美人であった。
ありゃあ、母親の方の血を受け継いで、ほんに頭のええ子でしたわ。
それじゃけぇ、本当は学校の先生にでもなった方が幸せじゃろうと儂等夫婦は話とったンですが、其れも叶わぬ夢と消えてしまいましたわ、童謡の紗峰〈しゃぼん〉玉よろしく。
相手に聴かせると言うよりは、独り言に近い様な聲の調子で籐右衛門が零す言葉達に耳を傾けていた潮五郎は、ふと気が付けば最後の一口になった沢庵を頬張り乍ら、お互い長生きせんといかんのう、残されたモンの義務っちゅう事で、と言って、空から飛来した鷲が獲物を狩るが如く二つの目の握り飯をギュッと掴み取るや否や、先程同様、大きな口を開けてむしゃむしゃと握り飯を食べ始めた。
そして其れを食べ終わるや否や、見るからに値段の高そうな皮財布を羽織っている白百合色の浴衣の懐から実にこなれた手付きでスッと取り出すと、来週は大阪で開かれる親分衆の集まりに出らんといかんから、此れを香典じゃ思うて受け取ってくれや、と言う言葉を添えて、籐右衛門が思わず其の眼を見張る程の額を手渡した。
ほんに有難う御座います。
此れだけ良うしてもろうたら、娘も草葉の陰で微笑んでくれると思いますわ。
お父ちゃん、そりゃ、貰い過ぎじゃあと。
潮五郎から受け取った金銭を、すかさず側に控えていた小間使いの青山鉄平に手渡した籐右衛門は、其の場で深々と御辞儀をした。
ほいじゃ、世話になったの。
では又今度。
ええ又今度。
『日向堂』を出た潮五郎は、三之助そして小吉共に其の足で花屋へと向かい、菊の花を購入するや否や、七郎太の墓がある永興寺へと足を運んで墓参を無事に済ませ、其れから住職と立ち話をした後、蝉時雨を聴き乍ら、蒸し暑い風に煽られ砂埃が舞う家路をとぼとぼと歩いていた。
家へと戻ったら、着替えを済ませてしまわねばなるまい。
でなければ夏風邪を拗らせてしまう。
其れ位、潮五郎はぐっしょりと汗をかいていた。
軈て自宅兼事務所の近くにあるお稲荷様の前へと差し掛かった。
町の人間が飾ったのであろう色とりどりの風車がびゅう、と音を立てて回る中、もうそろそろ夏祭りの時期か、と思い乍ら、だだっ広い十字路へ三人が差し掛かった途端、宛ら鎌鼬〈かまいたち〉の如く、潮五郎の眼前に真新しい菅笠を深々と被った二つの影が勢いよく現れたかと思うと、潮五郎が驚嘆の聲をあげる間も無く、三之助と小吉を斬殺し、そして風の如く其の場から消え去った。
ほほう、随分とええ腕をしとるのう。
履いていた草履を脱ぎ捨て、懐からドスを取り出した潮五郎が誰に言うとも無くそう呟いてみせると、まるで舞台袖から役者が現れる様に其の場へ姿を現した三つ目の影は、無言の儘腰の刀を素早く抜き、五条大橋の牛若丸よろしくひらり飛び上がって潮五郎の刃を避けたのち、大上段に構えた刀で思い切り潮五郎の頭頂部へ一撃を喰らわせた。
ギャッと言う潮五郎の悲鳴と共に真っ赤な血飛沫が渇いた地面へと飛び散る中、刀を鞘に収めた三つ目の影は先程の二人同様、急ぎ足で其の場から姿を消し、後に残されたのは突然の天気雨で文字通り冷たくなった三人の骸だけであった。
おい、此の後如何する。
そうだな、お嬢を誘って活動写真見物にでも出掛けるとするか。
所変わって此処は『壬生組』の所有する屋敷の離れ。
天気雨ですっかり濡れた庭先に設置された鹿威しが響き渡る程、静寂に包まれた此の空間に於いて実に真剣な眼差しで生け花に勤しむ此の男達は、『壬生組』配下の一員である所の永倉蘇鉄と土方黒曜で、二人はつい数時間前、三之助と小吉を斬殺し、風呂場で身を身を清めて来たばかりであった。
こらこら、其処の御二方。
御ふざけは程々にして、眼の前の作業に集中なさいませ。
初時雨
猿も小蓑を
ほしげなり
芭蕉
と綴られた、名のある絵師が手掛けし掛け軸を背にし、そんな風に蘇鉄と黒曜の不作法を窘めたのは、大川原最大の湯屋『油屋』で奉公をしている千利子であった。
そうは言っても師匠、此れは仕事の話なんですぜ、其れも大変に重要な。
況してや作業にしたって、もう終わったも同然だと申しますのに。
態とらしげな口調で蘇鉄が反論をすると、呆れたと言わんばかりに利子は、はいはい、とだけ返事をし、二人への当てつけと言わんばかりに黒曜が用意をした羊羹を放り込む様にして口に入れ、程良い湯加減の粗茶で喉の渇きを潤した。
そうこうしているうちに、阿蘭陀製の時計が午后三時を告げた。
其の瞬間、何時もの癖で軽い咳払いをした利子は、もう相手をしていられますかと言わんばかりの聲色で、今日は此れ迄、では御機嫌良う、と澄まし顔で蘇鉄が敷いた白蘭の香り漂う座布団からスクっと立ち上がった。
其れに対し二人は、先程の態度から直ぐ様仕事をこなす際の神妙な顔付きへと戻り、本日も有難う御座いました、と深々と利子に対して各々の頭を垂れ、まるで忠実な狛犬の様に利子へと寄り添い、長い廊下を歩いて表玄関へとやって来た。
さあ、先生の御帰りだぜ。
蘇鉄が聲を掛けると、控えの間に待機をしていた通称「御小姓組」と呼ばれるだんだらも模様の着物に其の身を固め、脇差を佩刀した下っ端且つ若手の者達…大平慶一、福田正次郎、三木仲三郎、田中角衞門、中曾根保久…是等五名が見送りの為にわらわらと姿を現した。
本来なら此の様な大仰な真似をしない組織なのだが、利子は彼等の三味線、三線、琴、琵琶、篠笛の師匠であると同時に、彼等が「出向」と称して派遣され『油屋』で働く際の直属の上司であり、利子の父親である千財閥のトップに君臨をする千光悦は『壬生組』の出資者である為、そう無碍に扱う訳にはいかないと言う「大人の事情」が其処にはあった。
浅葱色した『壬生組』の暖簾を潜ると、其処には『壬生組』御用達の二頭立ての馬車が控えており、馬車の側には護衛と称し、柳生新陰流免許皆伝の腕前を持ち、且つ拳銃も扱える長谷川吉十郎、片岡弥左エ門の二名が黒子の様に控えていた。
じゃあ、何時も通り頼んだぞ。
利子が馬車に乗り込むのを確認した蘇鉄が御者兼護衛である師岡重吉に聲を掛けると、合点承知の助、と重吉は威勢の良い返事をしてのけ、其の儘馬車を一路、通称『油屋』へと走らせた。
ふう、此れでひと段落、と。
さ、皆んな戻った、戻った。
『御小姓組』の解散を命じた蘇鉄は、黒曜と一緒に離れへ戻り、年季の入った女中奉公の者達を相手に、何処其処に新しい服飾店が出来ただの、今度芝居小屋へとやって来る役者の経歴と演目は斯うだの、停車場で出会った異国人の紳士と英語で会話をし、停車場近くの饂飩屋『たのきゅう』で饂飩と握り飯を奢ってやったただの、と言った実に他愛無い世間話一緒に離れの片付けを済ませると、彼女達に「小遣い」と称し、彼女達が貰うひと月分の給金の半分程の額を渡して、庭先でおはぎを食しつゝ、二人して埃及〈エジプト〉産の紫煙を吸い始めた。
なあ、今日の仕返し、来るだろうか。
最初に口を開いたのは、態と着物を肌蹴させつゝ、首から大英帝國は倫敦〈ロンドン〉からの舶来品である懐中時計をぶら下げた蘇鉄だった。
さあな。
だがもう二人か三人はぶった斬るなり撃ち殺すなりする必要は迫られるかもしれねぇぜ。
先程利子を見送った際、見慣れない顔が居た事を黒曜は思い出し乍ら、六角形の形をきた海の向こうは台湾産の灰皿に紫煙の灰を落とした。
打つか、先手を。
なあに、此方から出向かなくったってよ、向こうから自然と「詣でて」来らァな。
待てば海路の日和あり、か。
右手に吸いかけの紫煙を挟んだ蘇鉄は左手で掴んだおはぎを口に入れると、口一杯に甘い香りが漂うのを感じ乍ら、此の後外出をする際には、拳銃を持っていかねば、と思った。
所でお嬢との仲は如何なんだ、此の頃の。
口をモグモグさせ乍ら、蘇鉄が実に私的な質問をすると、お茶を啜り終えたばかりの黒曜はすかさず、見ての通りよ、とだけ答えた。
お嬢とは先程の殺しに於いて潮五郎を仕留めた近藤木蓮の事で、『壬生組』組長・近藤昌宣〈まさよし〉の末娘であると同時に、当代きっての女優・夏目雅代の愛弟子で夏目千景としての舞台に立つ顔も持つ生粋の箱入りなのだが、黒曜とは単に上司と部下の関係だけで無く、許嫁の間柄としての関係を結んでいるのだった。
流石は「大義」の為に此処の暖簾を潜った男だ、まだ手は出してねェと見える。
相手の気持ちッてェのがあらァな、何事も。
俺一人がっついた所で仕方なかろうに。
傷付けたくはねェってか。
あたりきしゃりきの車引きよ。
へへ、上手い事逃げを打ちやがる。
大人なんざァ、皆んなこんなモンだろ。
もう此の話は此処迄だと言わんばかりに、気が付けば最後の一口になったおはぎを口に突っ込んだ時の黒曜の顔は、まるで戀ごゝろを覚えたばかりの童の様だったので、蘇鉄はゲラゲラと意地の悪い笑い聲を響かせ乍ら、灰皿の上で紫煙を揉み消し、使い終わった爪楊枝をポキリと折って其の場で大きく背伸びをした。
陽が沈むのが遅い夏の時期、御天道様の位置はまだまだ高く、塀越しに物売りの聲だの道行く人々の話聲が蝉時雨と重なり合う中、廊下の方から音がしたかと思うと、そろそろお嬢がお帰りの時刻ですぜ、と下男で情報収集を生業とし乍ら生計を立てている橘花松太郎が二人に聲を掛けて来た。
気怠げな表情のまゝ黒曜が自身の後ろを振り返り、部屋の時計に眼をやると、時刻は午后四時一寸前。
月に一度は通っている馴染みの髪結いから木蓮が屋敷へと帰宅をする時刻であった。
夕飯か、其れとも散歩か。
立ち上がった蘇鉄が今一度大きな背伸びをすると、其の傍らに於いて片付けを始めた松太郎は、まるで独り言の様に、さあ、其奴ばかりは御尊顔を拝さねェと分かりませんや、と
答え、そいじゃお先に、と言わんばかりにあれやこれやを手に持って二人の前から姿を消した。
さあて、ボヤボヤしてらんねェ。
お出迎えと行こうぜ。
あゝ、そうだな。
蘇鉄と黒曜が表玄関迄足を運ぶと、「御小姓組」は勿論の事、総勢十五名は居る勘定になる本日勤番の者達がズラッと其の場に居並んでおり、蘇鉄と黒曜は一人一人にキチッと視線を向けた状態で聲を掛け、何時も通りにやろうぜ、何時も通りによ、と二人なりの発破を掛けたのち、今一度暖簾を潜った。
暫くするうちに、大川原でも一二を争う程の売れっ子として今日日評判を呼んでいる車引きの高島弦三朗が力強い足取りで引く木蓮の乗った人力車が、夕暮れ時の人混みを上手い事掻き分け掻き分け、二人の前へと其の姿を現した。
お帰りなさいまし。
二人が揃って聲を掛け、最敬礼で人力車を迎えると、人力車から降りて来たのは、日除けのカンカン帽ら紫紺色の着物に袴姿、そして亜米利加製のブーツと言う、まるで女學校に通うモダン・ガールな雰囲気を纏った木蓮であった。
二人の姿を見遣るなり、木蓮はひと言、淡々とした口調で、大儀、とだけ言って、実に颯爽とした足取りで暖簾を潜り、大勢の若衆が今か今かと控えている屋敷の中へと入って行った。
何はともあれ、機嫌は良さそう、と。
懐に手をやり、財布を取り出した黒曜は、蘇鉄の言葉にあゝ、と返事をし、此れで美味いモンでも喰っておくンなせぇ、と弦三朗に所謂「お捻り」の分も含めた車代を素早く支払った。
へい、毎度有難う御座います。
仕事用の長財布に受け取った車代を、丁寧に折り畳んだ上で弦三朗が収めていると、此処迄の道中、誰かに追っかけられはしなかったか、と蘇鉄が質問をした。
すると弦三朗はほんの少しだけ眼の色を変えながら、あゝ、そういや、えらく目付きのよろしくねぇ、護摩の蠅が二、三匹でしたけんど、「何か」を狙って動き回ったり嗅ぎ回ったりしている様でしたわ、と二人に「報告」をし、腰にぶら下げた瓢箪に入った水で喉を潤してから、被っている笠の顎紐を今一度結び直した。
では、此れで。
弦三朗が姿を消したのち、懐手をした状態で蘇鉄は、さしずめ姿を現した奴等は、斥候だろうな、と財布を懐へ元に戻したばかりの黒曜に話しかけると、普通は巻き込まねェ方がいいンだろうがなァ、本当だったら、と言う様な独特のボヤきを呟き乍ら暖簾を潜った。
其れから二人は各々に労いの言葉を掛けてから、「御機嫌伺い」と称して、木蓮の部屋の方へと足を向けた。
入っても宜しゅうござンすか。
黒曜が聲を掛けると、あゝ、構わん、と言う実にぶっきらぼうな木蓮の聲が二人の耳に響いて来た。
失礼いたします。
三日前に障子を張り替えたばかりの障子戸を黒曜がスッと開けると、女中奉公をしている人間たちの中でも一際其の歴が長く、且つ木蓮の乳母も務めた飯田慶子が、木蓮が二十歳を迎えた際、両親から贈られた上等な品質の立ち鏡の前に於いて木蓮用の法被を着せている最中であった。
改めまして、お帰りなさいませ。
障子同様、張り替えたばかりの畳の上等な香りが、広さにしてざっと十二畳の部屋に漂う中、部屋の中へと進み出た黒曜と蘇鉄が木蓮へ向かって静かに頭を垂れると、真昼の一件に関して、話したい事がある、茶漬けでも掻き込み乍ら、三人で話そう、と木蓮が言ったので、畏まりました、と黒曜は返事をし、其の場で大きく手を叩いた。
すると、廊下の方で足音がし、飯田慶子の妹で女中頭を務める飯田雪乃が部屋に姿を現したので、すいませんがお茶漬けを一人前、後出来る事なら料理と和菓子も御用意をしていただければ、と蘇鉄が雪乃に伝言すると、お嬢様、御飲み物は如何いたしましょう、と雪乃が質問をした。
食事が済み次第、出掛けるから麦茶で結構。
雪乃の方へは一切視線を向けず、立ち鏡の方をじっと見据えた木蓮は、自身が愛用している紫色の座布団に腰を据えるなり、慶子が事前に用意をしていた煎餅を齧り始めた。
腹が減っては勝負も出来ぬし、良い知恵も浮かばぬ。
此れは木蓮が物心ついた頃からの持論で、勉学に励む際も、踊り又は芝居に打ち込む際にも、意地でも貫き通して来たのを飯田姉妹は勿論の事、黒曜と蘇鉄は良く知っている。
故に「食に関して」は一度も木蓮に逆らった事が無いのであった。
畏まりました。
直ぐに御用意させていただきます。
雪乃は直ぐ様其の場を離れると、所謂料理の腕自慢を買われ、料亭だ小料理屋だとは桁違いの給金で雇われている腕利きの女性料理人達が働く調理場へと、文字通り駆け込む様に足を向けた。
では私も此れで。
慶子も自身の用事が済んだ事を確認するや否や、雛人形よろしく、実に澄ました表情で、部屋を出て行き、六畳程の広さの自身の部屋へと戻って行った。
因みに女中奉公をしている者達の中で自身の部屋を与えられているのは、飯田姉妹だけであり、其れだけ彼女達が此の家そして此の組織に於いて信頼されているかの証左とも言えた。
今日は如何でした?。
骨牌〈かるた〉遊びの方は。
懐から取り出した扇子でパタパタと木蓮の事を扇ぎ乍ら、蘇鉄が会話の切っ掛けを作ってのけると、だだっ広い自室に煎餅を齧る音を響かせ乍ら木蓮は、二回負けた、其の後三回勝った、と答えた。
尚其の扇子には
さまざまの
夢見て夏の
一夜哉
子規
と綴ってあった。
ではトントンと言った所ですな。
木蓮の口元を自身の髪色同様、赤々とした色彩が眩しい手拭いで木蓮の口元を黒曜が綺麗に拭き取り終えると、そんな所だ、と素気ない聲色で木蓮は答え、又煎餅へと手を伸ばした。
強いのは小梅どんですか、其れとも竹奴姐さんですか?。
蘇鉄が言った。
小梅どんとは今売り出し中の若い髪結い・山河小梅、竹奴姐さんとは端唄・小唄・長唄・詩吟・都々逸・義太夫・浪花節・浄瑠璃と言った事を黒曜と蘇鉄に教える謂わば「御師匠様」と呼ばねばならぬ存在の女性で、本名は宗方竹子と言って、男勝りで其の上背中に弁天様の刺青迄彫っていると言う典型的な女傑であった。
近頃滅法付いているのは竹奴姐さん、手堅く勝つのは小梅どん、しぶとさでは松千代さんだな。
松千代さんの場合、骨牌も強いが、花札も強い。
先月ひと勝負いたしましたが、てんで駄目でした。
先月、女流作家の坂口松千代を相手に、新装開店したばかりの料理屋『鎌倉』の人気メニューである大盛りの天丼と天麩羅蕎麦を賭けてひと勝負したものの、文字通りこてんぱんに負けた事を緑茶を淹れたばかりの黒曜が語ると、木蓮はニヤリと笑みを浮かべ、何時も言っているだろう、気持ちが顔に出る様では何時迄も半人前だ、と、黒曜が手渡した茶碗を受け取り、其れを静かに啜った。
同感ですな。
何ともバツの悪そうな表情になった黒曜へ視線を向け乍ら蘇鉄がそう述べるや否や、御歓談中、失礼いたします、と飯田姉妹が朱色のお盆に載せた茶漬けと料理、そして麦茶の入った氷入りの透明な瓶を持って現れた。
拵えたばかりの茶漬けと料理の香りが三人の鼻腔を擽る中、お片付けの際は手を叩いていただければ、と言って飯田姉妹は再び部屋を離れて行った。
用意された料理は焼き鮭、卵焼き、豚汁、金平牛蒡、冷や奴、納豆、茄子の天麩羅と言った実に小ざっぱりとした料理ばかりで、和菓子のほう方はと言えば、きっと出店迄走って購入をして来たのであろう出来立てほかほかの暖か饅頭が、まるで小さな山の様に三つ皿に載っており、是等の品々を見た瞬間、木蓮の腹は自然と鳴った。
根っからのじゃじゃ馬も、いざ食の事となるとまるで赤子同然じゃ。
実に単純極まりない、木蓮の食に対する思考回路に対し、思わず噴き出してしまいそうになるのを何とか堪えた黒曜は、「お遊び」の話は此処迄にして、昼間の一件に就いて話を進めても構いませんでしょうか、と伺いを立てるも、いただきますの言葉も程々に、茶漬けを掻き込む様に頬張った木蓮は、あゝ、構わんと答えた。
単刀直入に意見を述べさせていただきますれば、もう今夜中に片を付けてしまうのが宜しいかと存じます。
既にお気付きかと思われますが、屋敷周辺には弔い合戦を企む輩が彷徨いており、正直な話、鬱陶しい事限り無しでしょうから。
扇子を扇いでいた手を一旦止め、蘇鉄がそんな風な提案をすると、良かろう、遅かれ早かれぶつかるんだ、ならばさっさと済ませてしまうに限る、と実にあっけらかんとした表情で木蓮は其の提案に乗るや否や、一旦止めた食事の手を再び動かし、黒曜がコップに注いだ麦茶を勢いよく飲み干し、おかわりの催促と言わんばかりに、ん、とコップを黒曜に突き出した。
で、決行時刻は?。
午后九時。
場所は蓮光寺跡。
彼処なら刀も振り回し放題だし、直ぐ裏が竹藪だから人も滅多に寄り付くまい。
動くのは良いとして誰に託けましょうか。
潮五郎と仲の良かった情報屋は誰だ?。
材木問屋『美濃屋』の小倅で、根っからの博打好きの太田喜一郎です。
左手を顎にやり乍ら、蘇鉄が即答すると、なら其奴を中心に情報をばら撒け、相手は鼻が利くらしいから、直ぐに応じるだろう、と木蓮は骨ごと焼き鮭を頬張った。
其の言葉を耳にした黒曜は部屋を足早に飛び出すや否や、松太郎に聲を掛け、かくかくしかじか此の様な事に相成ったから、太田喜一郎を中心に情報をばら撒いて欲しい、と其れなりの額の活動費を握らせ、行動を開始させた。
部屋に戻ると木蓮は既に粗方の食事を済ませており、箪笥から運び出した経帷子を身に纏う準備に蘇鉄が取り掛かろうとしていた。
刀は何れを?。
黒曜が言った。
菊正宗だろうな、大勢を斬るなら。
お前の方は?。
四郎大関を。
そんな風な会話が交わされたのち、三人は松太郎を案内者且つ勝負の立会人人として蓮光寺跡へと向かった。
近くの方で竹藪が夜風に揺れる音が、遠くの方で祭囃子の音色が鳴り響く中、がっしりとした石垣の前で四人が身構えていると、人数にして凡そ七名の提灯行列が、夜の闇の中をぞろぞろ此方へ向かって来る姿が四人の眼に映った。
いっとう前に居るのはもう一人の立会人である喜一郎で、後ろに控えているのが弔い合戦の為に集まった者達らしく、長脇差を帯刀した六人が六人、皆山犬の様にギラギラと殺気立っている事は誰の眼にも明白であった。
『壬生組』の御三方、果し状の方はほれ此の通り、しっかりと受け取ったぜ。
そう聲を掛けて来たのは、此の集団の大将格で博徒の大森双十郎で、潮五郎とは駆け出しの頃から博打に興じた間柄だった。
お固い挨拶は抜きだ。
いざ、尋常に勝負と行こうぜ。
素早く腰の刀をギラリと抜くや否や、まだ陣形も満足に整っていない敵の懐へと一気に飛び込んだ黒曜は、勢いよく四郎大関で敵の一人を斬殺すると、悲鳴が響き渡り、血飛沫が飛び散る新月の月明かりの下、混乱に乗じて突っ込んだ蘇鉄は斬りかかって来たもう一人の胴を勢いよく払いのけた。
もう斯うなると戦略も減ってくれも無い。
木蓮はうずうずしていた「人斬り」としての感情を爆発させるが如く、抜いた刀を振り回し、敢えてとどめを刺す様に二度斬りを行った上で、双十郎を含めた残りの四人を全員斬り倒した。
此の光景に対しては、普段から修羅場を潜り抜けてナンボの世界に足を突っ込んでいる喜一郎も思わず下を俯いてしまい、すっかり黙りこくってしまうしか無かった。
数分の沈黙の後、色とりどりの花火が空に上がって、急に空が明るくなった。
我を失っていた喜一郎がハッと花火の音に意識を取り戻すと、もう其処には四人の姿は無く、其々一撃で斬殺された者達の死体だけが転がっているばかりで、急に身体と心臓が縮み上がる様な思いをした喜一郎は、振り向きもせず、無我夢中で其の場を離れた。
はあ。
極楽、極楽。
湯屋『油屋』の個室に於いて、そんな事を述べ乍ら肩迄湯に浸かっていたのは、「為すべき事」を終え、黒曜に開けさせたラムネ瓶片手に、ほっとひと息吐き始めたばかりの木蓮だった。
今宵も見事な迄の「お働き振り」で。
其の様な言葉と共に湯船の淵に腰掛け、ラムネ瓶に口を付けた黒曜は、頭に乗せた手拭いで顔を拭うと、もう一杯とばかりにラムネを喉へ流し込んだ。
所で如何して先陣を我々に?。
偶には花を持たせようと思ってな。
怖えな、何だか裏がありそうで。
親のこゝろ、子知らずめ。
悪うござんしたね、意図が読み切れなくて。
修行が足らんのだ、修行が。
河豚の様に木蓮が顔を膨らませると、其れはごもっとも、と黒曜は返し、木蓮との距離をグッと詰めた。
修行が足らないと言えば、此の前、御使いにやって来た『笹原』の店員と随分良い雰囲気だったじゃないか。
『笹原』とは『壬生組』が贔屓にしている化粧品店の事で、其処に勤めている人間は店主の笹原美世子含め、全員女性と言う事で専らの評判の化粧品店だった。
因みに黒曜と会話を交わしたのは今年入ったばかりの上原恭子と言う新人で、先々月の五月、二十歳を迎えたばかりの何ともうぶな雰囲気漂う地方出身者であった。
御冗談を。
ただ世間話をしていただわいな。
何処其処の八百屋の野菜が美味いとか、田舎から仕送りがあって助かっただとか言った類いの。
まあ良い。
だがあんまりベタベタしていると、皆んなの前でもっと冷たくしてやるからな。
お前ェの方こそ俺以外の男に色眼を使ってみやがれッてんだ、可愛がってやらないぞ。
威勢の良いこって。
心配なんだよ、お前ェが可愛いから。
黒曜は木蓮の耳元で優しく囁くと、洗髪したばかりの頭をそっと撫でた。
擽ったいんだが。
厭か?。
触れられるのは。
厭じゃない。
でも心の臓の動悸が激しくなる。
へへへ、命短し戀せよ乙女ッたぁ、良く言ったモンさね。
黒曜によだてずっと俺の腕の中に居ろと言わんばかりに強く抱き締められた木蓮は、己が愚かさを赦すが如く、其の身を静かに委ねる事にし、身を焦がす程愛される事の意味と言うのを知った様な気がしたのだった。〈終〉
渡世侠客伝