百合の君(16)
うまく侵入した城内は、しんとしていた。廊下にも室内にも、人の気配がない。女たちの笑い声が遠く聞こえるのが、かえって男達の不在を告げているようだった。
「親分、どうしよう」
城主の部屋の炭は消えていた。机の上の文鎮が浪親の目に留まった。取手となる楠を中心に、大きな根が左右に伸びている。根の上には鹿や熊が寝そべり、鳥がその背にはとまっている。人の世から遠く離れた仙境で静かに憩う生き物たちは、その精緻を極めた細工で、主の財力を物語っていた。
それはもちろん並作の目にも留まった。彼はそれを懐に入れて、あまりの冷たさに引っ込めた。これだけ城に人がいないとなると、たかが盗賊団一つ潰すためにしては、ずいぶん大掛かりな軍を組織したものといえる。
「やはり……」実は、屋敷でみなに語ったように、城主を人質にして身の安全を保障させようなどとは思っていなかった。そんな盗賊との約束など、武士が守るはずがない。
浪親は、国盗りを考えていた。軍を出して城が手薄なこの機会に乗っ取るつもりだ。浪親はもう盗賊稼業に限界を感じていた。先日のような失敗が続いたり、現実に領主が掃討戦を行ったりしたら、たちまち全滅してしまう。村のみんなを幸せにするには、国を奪って政を行うしかない。
「親分、城主がいない」
でも留守居はいるはずだ。そいつらを斬れば、第一段階は成功する。
「探せ」
しかし油断した浪親達は、曲がり角で敵とぶつかった。さすがは侍だ。すぐに刀を抜き構える。
「曲者だ!」
出合え出合え、とあっという間に囲まれてしまった。こうなってしまったからには仕方がない。浪親も刀を抜き、目の前の男を斬りつけた。
物心ついた時から刀を振るっていたが、本当に人を斬ったのは初めてだった。その重い感触に、腕が固まってしまったように動かない。それでも敵が斬りかかって来ると、勝手に体が応戦している。まるで首から下を誰かが操っているようだ。並作も文鎮で応戦している。
三人斬ったところで、敵がたじろいできた。初めてがこういう形でよかった、と思うまでに浪親は冷静になっていた。百姓から奪うために殺すのではなく、自分の身を守るためでよかった。浪親はあの一揆の支度をしていた村を思い出した。あの時もし刀を抜いていたら、斬り合いになって多くの百姓を殺していただろう。子分も何人か失ったはずだ。
「その腕、ただの盗人とは思えぬ。名を聞こう」
修羅場とは思えない、落ち着いた低い声だった。進み出たのは、ひときわ身なりのいい三十歳くらいの侍だ。大きな二重瞼の瞳に整った鼻筋、鍔の細工に身分の高さがうかがわれる。
「出海浪親と申す」
身分の高い侍を前にして、賊として名乗るのは気が引けた。しかし偽名を使うのも情けない。浪親は、自分のしていることを恥じていないつもりだ。
「お父上は、なんとおっしゃる」
剣先から殺気が抜けて、敵の表情が変わった。やはり、知った顔だと思ったのは気のせいではなかった。
「我こそは出海真砂秀が嫡男、出海浪親である」
浪親が言い終わるや否や、敵がひれ伏した。
百合の君(16)