身体/からだ(TOPコレクション展 2)

章立てを①三章とする構成→四章とする構成に変更し、かつ②三章及び四章の内容を大幅に加筆修正しました(2024年8月10日現在)。



 植物学者であるアンナ・アトキンス(敬称略)は雑誌や論文に載せる植物の形態を挿絵ではなく、青写真印刷(サイアノタイプ)で作成した図版を用いて紹介した。徹頭徹尾、学術目的の為に行われたその制作は、けれど、とんでもない表現ぶりを達成しているから驚く。
 フォトグラムの一つである青写真印刷の制作過程は以下の通りである。すなわち植物を乗せた状態で印画紙を太陽光に晒し、一定の時間が過ぎた後で水洗すると①紫外線が当たっていた部分は青色に変色し、②植物に遮られていた部分が白地のまま残り、その形状を正確に現す。
 この手法において表現に寄与する要素があるとしたら、それは青色と白色のコントラストが生み出す絶妙な色彩美となるのだろうが、東京都写真美術館で開催中のTOPコレクション展にて鑑賞できる作品で際立っていたのは植物の形そのもの、日焼けをしなかった部分に宿る「もの」の美しさだった。
 かかる美しさを人はどこで知り又は覚えるのか、という難問に直面した時にかの偉大な哲学者でなくても幼い頃から見て触れて、体験してきた自然の有り様ないしはその移り変わりに言及したくなるのは、それこそ自然な話だと思う。単純な図形を組み合わせて脳内で認識できる幾何学的な美しさは、手足といった身体的な接触を通じて得られる皮膚感覚によって衝撃の感情体験となり、情報としてよりエモーショナルに加工され、記憶され、忘れられなくなる。その単純な感覚を思い出すたびに「美しい」と口にしたくなるのは、実感として余りにも当然である。
 展示会場にたった一枚だけ飾られたアンナ・アトキンスの《ギンシダ》はかかる実感を強く呼び起こす。ポイントはその仕上がり具合だ。アンナ・アトキンスの知性と感性の双方から行われた検証に適ったそれには、学術目的に徹して図録を制作しようとした彼女の無意識的な「悦び」が満ちている。
 勿論、それは単に一人でも多くの読者を獲得し、学会で自分の名前を売り込む為の営業手段が成功したことへの「喜び」であったかもしれない。しかしながら、そうであったと仮定しても見失われない植物学者としての感性、限りない人生を捧げるに値する存在に向けた眼差しがそこにはある。情報として伝わるのはこの水準にあるものだ。それはただの形じゃないし、色じゃない。アンナ・アトキンスという作り手を介して膨れ上がった経験としかいいようがない「もの」なのだ。



 同じような感想を杉浦邦恵(敬称略)の《Stacks Tulips A2》、《Stacks Tulips A4》、そして《Stacks Tulips A5》の三作にも抱く。
 TOPコレクション展で鑑賞できるこれらの作品はアンナ・アトキンスの《ギンシダ》と同じく、フォトグラムの手法で撮られたものである。感光紙の上に大量のチューリップを置き、それらを全体的に露光して紙面に黒く残されたシルエットの印象が彷彿とさせるイメージの感触を取っ掛かりにして絵画/写真を横断する意欲的な表現を杉浦邦恵が試みている。
 解説にも記載されていた内容、すなわち作者として行ったであろうチューリップの選別や配置の検討、露光の仕方の工夫といった手間暇の痕跡は自ら手にする絵筆を動かし、イメージを直接に描く作業に等しい触感を制作者本人に残していたことは画面を見ていれば容易に想像できる。部分、部分にフォーカスして鑑賞しようとする度に視覚の外から流れ込んでくる気配は生温かく、材料として用いられるチューリップから発せられるものでは決してない。カメラという機械のゴツゴツとした感触をぐちゃっと溶かし込み、それをベタっと塗って広げる愉しさのような興奮が人が覚え得る快感に近しいものとして伝わる。伝わってしまう。
 前回の記事で筆者は見える/見えないの二項対立を軸に写真表現の面白さを言葉にしたが、杉浦邦恵の上記作品表現は、手法の面で主観的に極まり過ぎていてかかる枠組みを横溢する。そのチューリップは確かにあったもので見えるものという以上に、杉浦邦恵という表現者が抱く固有のイメージであり続けている。
 ならば、それを私たち他人が本当に見て取れているといえるのか?私たち他人は、彼女が独占して経験した制作=快楽を想像的に体験するに止まるのでは?つまり鑑賞者は、彼女の作品を通して自分自身の快楽を識ってしまった。上記した筆者の感想もそういう真相の告白に過ぎなのではないか?



 制作者が感じ取る気持ち良さについては同じく前回の記事でも参照した『他なる映画と』において著者である濱口竜介(敬称略)がジャン=リュック・ゴダール(敬称略。以下、「ゴダール」と記す)の映像作品、『映画史』に触れながら言及している。
 撮影終了後に行う編集作業において、作品を完成に至らしめる限定要因として濱口竜介は監督の生理感覚を挙げる。どうとでもなるぐらいの選択肢が目の前に広がる度、編集者たる監督は自分自身が感じるカッコいいとか、気持ちいいといった生理に基づいて編集する。そうとしかいいようがないぐらいの実感を一人の映画監督としてはっきりと言葉にするのは、自身の経験則を裏付ける名作の存在を知っているから。それがゴダールの『映画史』。あのクオリティの作品表現はそうでないと到底成し遂げれるものではない。
 そう考える理由として、濱口竜介はダンサーの時間感覚を例に挙げる。
 ダンサーは振付けを音に嵌め込むために優れた時間感覚を持つ。その襞は128分音符にまで細分化し得る程に鍛え上げられている。ここぞ!という瞬間に適切な動きを合わせられる世界にダンサーは生きている。そんなダンサーと同じ「からだ」の知性をゴダールが体得している。それを映画に応用している。
 そう推測する濱口竜介が辿り着くゴールには映像を構成する要素を目で追い、フィルムを切り貼りして手を動かす気持ち良さに溺れる映像作家の姿があった。その悦びを、ただの身体的快感として説明するのは余りにも不十分。フィジカルとイメージを行ったり来たりするその頭で行われる営みは、物性を超えて認識される「からだ」という言葉で括られるべき事態なのだ。前述したアンナ・アトキンスの《ギンシダ》のように、あるいは杉浦邦恵の《Stacks Tulips》シリーズのようにゴダールの『映画史』を構成する全ての映像=情報が有機的に動き出す。語り出す。
 その繋がり、連なりがセルフイメージに潜んでいた奇妙なツボを刺激する。それを暴かれる悦びがこの世にはある。そう妄想するのを筆者はどうしても止められない。




 作品批評における「身体」は主観的な感想を人間一般に起きうる事象にまで高め、論理的な客観性を衣服のように着せてしまう胡散臭さがある。この問題点を自覚するとフィジカルな言葉を簡単には用いられなくなる。
 しかしながらその一方で、遺伝子レベルで異なる私たち人間の身体で生じる個人的な体験を否定することは誰にもできない。言葉もそこから生まれる。その実感が個々人の世界を支える。イメージを育む。そうであるなら、筆者はこの身体/からだを媒介にして表現行為ないしは作品の実態を識りたい。多分、もっと自由に面白くやれる。そんな予感がするのだ。
 私という肉体の内側で育まれる情報。それを表現する身体/からだが行うメタモルフォーゼ。そういう変容を求めて、足繁く展示会場にこれからも足を運びたいと思う。

身体/からだ(TOPコレクション展 2)

身体/からだ(TOPコレクション展 2)

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-08-08

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