未完【花の日2024】

男性一人称視点

1 未完


 英日向(はなひゅうが)さんというのが商談の相手だった。金髪をさっぱりと流した色の白い痩身長駆。骨格にしろ肉付きにしろ声にしろ一目で男性と分かるが、醸し出す雰囲気にどこか嫋(たお)やかなところがあった。男性的な威圧感だけではなく、女性的な温和の中に潜む威厳も併せ持っている。これは本能であり、おそらくは無自覚的な宗教観でもあるのだろう。無性というものは神懸って見えるものだ。同時にそれは白痴的でもある。何か逆らいがたいのだ。俺はこの彼が苦手だった。けれども嫌いなわけではなかったし、明確な理由があるわけでもなく、彼自身は俺に対して慇懃なほどであった。
 会うのは二度目。碧い瞳が俺を値踏みしているようでいて、それは俺の被害妄想のような気もする。
 今日の英日向さんは鳶色とも臙脂色ともいえない赤みの強いスーツに、柄の入ったシャツを着ていた。嫌味のない絶妙なバランスだ。長い脚を持て余し、組んでしまうのが癖のようだ。組んでは戻し、組んでは戻す。
 まずは雑談という名の探り合いからはじまり、本題に入る。その頃になると酒が用意される。絵になる男だった。碧い瞳が俺の視線に気付いた。
「ホテルをとってある」
 ワイングラスを揺らす英日向さんに、俺は唖然とした。初対面時から思わないようにしていた偏見、逃げ切ろうとしていたある種の差別意識が明確な言語を伴って頭に浮かんだ。
 英日向さんは桜色の唇を舐めた。そこに打算的な所作を感じてしまう。飲んだ酒が嫌な汗に変わっていく。
「いや、すまないね。今のは僕が悪い。少し気が急いたようだ。落ち着いて聞いてほしい」
 白い肌がわずかに赤らみ、平生(へいぜい)は伏せがちな目が上を向いている。生きた人間らしい仕草に気を取られているだけの余裕が俺にはなかった。身に迫る危機だ。落ち着けるわけもない。
「ははは……水を飲むかな」
 英日向さんはワゴンにのったピッチャーに手をかける。
「い、いいえ……」
「いやはや、いやはや……これは君の台詞だね、波須(はす)くん」
 俺は碧い瞳が恐ろしくなった。露骨だと分かっていながら、目を合わせることができない。
「すまない、すまない。ホテルをとってあるのは本当のことだ。だが、僕の相手をしろというのではない」
 俺は一瞬、ホテルという単語を聞いて身動(みじろ)いでしまった。
「はあ……」
 英日向さんはシャツの胸元を探った。ネックレスを見せられる。銀色の指輪が通されていた。
「これでも結婚していてね」
「はあ……」
 結婚をしていてもおかしくはない年齢であるし、相手には困らない容姿と立場、資産であろう。だが言語化したくなかった偏見が、結婚というものに意外性を持たせる。可能性としてなくはない。けれども現代のこの国に於いてはまだ結婚という表現の仕方はしない。余程、先走った思想を持っていない限りは。
「妻を抱いてくれないか」
 俺はホテル発言をされたときと同様に言葉を失った。聞き間違いか? 聞き間違いであってほしい。だがその場合、英日向さんは何と言ったのだろう。
 反応に困った。英日向さんから見た俺はフリーズしていたに違いない。
「誰でもいいわけではなく、君に頼みたい。妻を抱いてくれないか」
 聞き間違いではなかったようだ。俺の頭の中からアルコールが消し飛んでいく。
「な、何を……おっしゃるかと思えば……」
「様々な男を見てきたが、年齢や容姿、物腰をみても、波須くんにしか頼めない。僕の妻を抱いてほしい」
 人間離れしたところのある英日向さんが、今はやけに人間臭く見えた。英日向さんも、人に手を合せて頼み込むということがあるらしい。その選択が彼の中にも存在しているらしいのだ。見てはいけないものを見た気分だった。
「何故、ですか」
 それがやっと絞り出せた言葉だった。何故俺なのか、何故そのようなことをしなければならないのか。
「僕では妻を満足させられていないような気がしてね」
 英日向さんは立ち上がった。優雅な身のこなしだった。どこへ行くのかと目で追った。彼は自分の座っていたソファーの奥にある扉をノックした。
「この奥だ。この奥に妻がいる」
「私はまだ、承諾していませんよ……」
「妻を見てから、決めてくれていい」
 ドアの奥からは何の反応もない。英日向さんは把手(はしゅ)を捻った。手招きされては行かないわけにもいかず、俺もソファーから腰を上げる。
「失礼します」
 俺は頭を下げて、英日向さんに続き部屋へと入る。明かりが点く。ダウンライトで、大まかな物は見て取れるが読み物には向かない程度の光量だった。映画館を思わせる。家具はひとつもなく、そこには衝立代わりの白い布とも垂れ幕とも言えないものがあるだけだった。こちらは衣桁(いこう)を思わせる。
「これが僕の妻のユリエだ」
 俺はまだよく現状を把握しきれていなかった。未だに疑問符を頭の上に浮かべたまま、"それ"を視界に入れた。
 女が縄に縛られている。高い位置で一纏めに縛られた腕が痛々しい。目隠しをされ、猿轡は濡れに濡れていた。首輪のような白い付け襟は昔行ったカジノで見覚えがある。バニーガールがつけていた。
 黒い絹のような髪が添えられた乳房は剥き出しで、トップに垂飾がちゃらちゃらとぶら下がっている。腰回りにはガーターベルト。彼女は真っ赤な薔薇の花束を内腿に挟み、腰で吊り上げているストッキングに覆われた膝が震えていた。その様を生まれたての子鹿というのだろう。足元を見て納得した。高いピンヒールを履いている。
「美しいだろう?」
 女の身体は細すぎず、太すぎず、むっちりとしていた。胸は大きく張りがあり、腰回りも広そうで頑丈に見えたが、ガーターベルトの黒いレースが華奢にも見せる。色は白い。小さな頃に食べたライチのようだ。
 俺はほぼ全裸に等しい女の素肌を舐めるように見回した。目隠しをされているが、顔の形や大きさ、通った鼻梁、唇の形状を見るに、美形であることが予測される。実際、英日向さんは目隠しを外して、俺に無理矢理、女の顔を見せた。羞恥と困惑に顰(ひそ)められた表情を見た途端、俺は雷に打たれてしまった。息ができなくなってしまったのだ。
「気を抜いたらいけないよ、ユリエ。花束が落ちたら、すべて見えてしまうよ」
 顎を掴んで力尽くで女の顔を俺に向かせた英日向さんは、とてもそのようなことをしたとは思えないほど柔らかな声を発した。
 女の股間で真っ赤な薔薇の花束が揺れる。彼女は何も穿いていなかった。
「抱くかどうかは君が決めてくれていい。けれど、今決めてくれ」
 英日向さんは女——ユリエさんと言うらしい——ユリエさんの頬を撫でながら、その顔は俺を向いていた。
「こんな綺麗な奥様を、どうして……」
「綺麗だからさ。綺麗だからこそ、自慢したくなる。君に対してではないよ。僕に対してなんだ。他人に抱かれている妻を見て、きっと僕はまた、ユリエの美しさに気付くのだろうね」
「すでにご経験が?」
 ユリエさんは恐怖に潤んだ目で俺を見ている。俺はもう英日向さんを見ていなかったのかもしれない。
「いいや、ないよ。けれど君なら、僕の読みが仮に間違っていたとしても、引き返せるような気がしてね。それに君のような美男子になら、妻の心の傷も深くはないだろうし」
「買い被りすぎです。ですが、珍しいですね、英日向さん。貴方ともあろう方が、……直感に全ベットして、今まで外さずにいた貴方が、引き返すことをお考えになるなんて」
「今回は、僕ひとり路頭に迷えばそれで済む話ではないからだよ」
「余計に分かりませんね。それほど愛しているのに……」
 俺はユリエさんにばかり気を取られていることに気付いた。けれども英日向さんも自分の妻に夢中で、俺のほうなど見もしない。
「断るかね。僕としては、理解は必要ないのだけれども、不合理なことは好まないのが君だろう?」
 ユリエさんは両膝を擦り合わせ、震わせ、赤い薔薇の花束を落とすまいと耐えている。眉間の皺が悩ましい。
「抱きましょう。抱かせてください。奥様を……」
「行為中はユリエ、と呼び捨てにしてほしい。そのほうが、妻を奪われた気になれるからね」
 俺はそのようなことを飄々と語れる英日向さんのことがやはり分からなかった。人間離れしている人間の言い分が、俺に分かるはずもない。
「ホテルまでのタクシーを手配しよう……いや、君。夫婦の寝室でしてくれないか」
「それは……ご自分の感覚に確信を持ってからのほうがいいのではありませんか。まだ確定的ではないのでしょう。それに、奥様の気持ちはどうなります」
 今更ユリエさんの気持ちをどうこう言えた義理ではないけれど。
「なるほど。君を頼ってよかった。そのとおりだ。では、タクシーを手配しよう」
 

未完【花の日2024】

未完【花の日2024】

【花の日2024】没。商談相手から妻を抱くように乞われる話。

  • 小説
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  • 成人向け
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2024-08-07

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