夏の音
青ヶ瀬駅のホームに着き、冷房の冷気で満たされた車内からホームに出ると、一気に体温が上がるのを感じる。
ホームから改札に向かう途中の人だかりもどこか気だるそうな雰囲気で歩いている。
改札を抜け駅から出ると、アスファルトの照り返し、日光、それからそれによって暖められた空気の合わせ技により、私の体力を無遠慮にかっさらう。
「なんで昨日、天気予報の最高気温が37℃って出ていたのに出掛けたんだろう・・・・・・ばかだなぁ、私」
そう言うが、後の祭り。それに今日無理してまで外に出る予定でもないので、別日でも良かったのだけど、引き伸ばす気分ではなかった。いや、ちょっとはそれでもいいかなという気持ちはあった。
駅から歩き始めて十分。小川が流れる遊歩道を歩いていた。道は未舗装だけどアスファルトを歩くより幾らか気楽だった。なにより遊歩道は木々が生い茂り、木陰になって風が吹くので、すっ、と気分が涼む。
「良いところだなぁ。家の近くにあったら、毎日散歩したくなる道だなここは。若干木の根が出っ張って歩きづらいのと、アップダウンがあるから大変だけど、平坦な道を歩くより楽しいから良し」
歩き続けていると、遊歩道に入る時に渡った一つ目の橋から数えて二つ目の橋が見えてきた。
「『かがみいしばし』か。ずいぶんと立派な橋名だな」
橋名を眺めながら橋を渡り、真ん中くらいで止まって流れる小川を見下ろす。
水深は浅く、時々小魚が泳いでいるのが見えた。流れる小川の水音は、夏の熱気に一滴の凉を垂らす様だった。
「ってなんだそれ、詩人か私は。まぁでも涼しい。水浴びもしたいなぁ。んー、さて先を急ぐとしましょ」
背伸びをしてから遊歩道を再度歩き始める。時々地元の人とすれ違う。
(こんな暑いのに歩いていて、お疲れ様です)と、心の中であいさつをする。さっきも言っていたけど、この遊歩道は歩きやすいどころかちょっとした登山道と同じ路面なので、歩くのに苦労する。けれど、ここに長年住んでいてここをずっと歩いている人達にとっては苦でもないのだろう。実際、私もそこまで大変とは思わない。
頭上では蝉が鳴いていて、遠くから飛行機のエンジンが低く空気を響かせている。木々の隙間からはコントラストの高い夏空と白い雲が見え隠れしていた。時々風が吹くと、ざぁ、と深緑色の葉同士が擦れる。その音は夏特有の音で、やっぱり涼しげに感じる。吹く風も湿り気がありつつ、火照った体を駆け抜けて行く。
「夏だなぁ。あんまり好きな季節じゃないけど、一番鮮やかな季節なのは夏なんだよね。秋とか春は鮮やかというより、なんだろう・・・・・・華奢? うん。それだ。儚くて、脆いイメージ。だけど夏はやっぱり鮮やかっていう言葉がしっくりくるなぁ。でも暑いのは嫌いだからやっぱり夏以外がいい」
小川に沿うフェンスをガシャ、ガシャ、と撫でながら歩く。子供っぽいけれど、私はまだまだ子供なのでこんな事もしたくなる。
フェンスから手を放して、リュック右脇のポケットに入れてあるボトルを抜き出し、キャップを開け口を付けて飲む。魔法瓶のおかげで冷たいままのルイボスはさっぱりしてて美味しい。
「さて、このままここを歩いててもいいんだけど、どこか喫茶店でも入りたいがこの辺にあるかな」
ジャケットの左ポケットからスマホを出してマップアプリを立ち上げ、現在地を確認する。青ヶ瀬駅からは大分離れ、次の駅である古賀爪駅に大分近くなっていた。つまりこの暑さの中で一駅分も歩いたことになるけど、体力が薄っぺらい私のどこにそんな体力があったのかと考えたけど、ずっと木陰を歩いたから持ったのだと思う。
古賀爪駅周辺に商店街があり、そこの通りに一軒喫茶店を見つけた。その喫茶店についてネットで検索してみたけど、口コミや来店記事が見当たらなかったので、地元の人かそこを知っている人だけが知っている喫茶店なのだろう。
「よし、ここに行ってみよう。えぇと、三十分程度か。近い、近い。さて、楽しみだ」
私は意気揚々と向かう。
そして歩き始めて五分。私はフラフラになっていた。
木陰から出た途端、私の体力、気力は一瞬にして持っていかれた。容赦なく悪気も無く、根こそぎ。まるでこちらが悪いと言われている様だった。
「私達が悪いのは事実ですが、もうちょっと手加減はしてくれても良いと思うよ? これじゃ、着く前に干からびる」
タオルで汗を拭うが、とめどなく吹き出てくる。ルイボスが冷えていてくれるのが唯一の救いだが、焼け石に水状態だった。さっきの小川と遊歩道は古賀爪駅方面を上に伸びて行って、商店街は小川からそれなりに離れている。だからどうしても住宅街を歩く結果になるのだけど、正午近くの太陽は私の真上に鎮座している。するとどうなるか、言わなくても分かるけど、今の私になる。
「あと十五分か・・・・・・長いなぁ。これでお店休みだったら・・・・・・いや、考えるのは止めよう。今は着くことだけを考えるんだ、私。歩け、ひたすら歩け私」
呪いに近い言葉を自分に掛け、脚を進める。ちなみに風が全く吹かないわけではなく時折風が吹いてくれる。まぁ熱風だけど、汗が冷やされて気持ちは少しマシになる。
そうして歩くこと十五分かもうちょっと経った辺りで、目の前に通りが見えてきた。少し視線を上げるとアーチ型の天井が見えたので、商店街に着いたと分かった。
「着いた・・・・・・商店街。長かった。ん? なんか賑やか? あぁ」
商店街通りに入ってすぐ目に入ってきたのは、天井から吊るされた飾り。笹飾りであることから七夕まつりだった。通りにはそれが前後ずらりと飾られている。そのどれもが綺麗で色彩豊かだった。出店やステージがあり、音、匂いが商店街通りを満たしていた。人の数も数十人いて、思い思いに楽しんでいる。
私はスマホを再度取り出し、喫茶店の場所を確認する。目的地は前方にあるらしいので、再び歩き出す。
「今日七夕まつりだったんだ。いやぁ賑やか。笹飾りも凝っているなぁ。それにお腹が空く匂いがそこら中から・・・・・・はっ、いかんいかん。と、着いた。ここかぁ」
出店の匂いに釣られかかっている最中、目的の喫茶店を見つけた。外観は格子状の窓が二面あり、そこから店内が見えた。右端には開き戸があり今は開いていて、入り口左横には丸いテーブル上に手書きと思うメニュー表が開いて置いてあり、そこからちょっと上の壁に黒板が引っかかっていて『開店中です』と書かれていた。お店自体はオリーブ色が少し濃くなった色をしていた。
私は開いている入り口に向かい、店内に入る。入り口正面にカウンターで、左奥にテーブル席が四つある。入り口真横は窓で、少しだけ物置きのスペースがあり、鉢植えが三つ置いてあった。花の名前は分からない。
「いらっしゃい。お一人ね。カウンター、テーブルどちらでもどうぞ」
柔和な四十から五十歳くらいの女性のマスターがそう案内してくれた。私はカウンターの奥に座ると、マスターがお水とメニュー表を持って来てくれた。私はお水を一気に煽る。持って来てくれてすぐに飲み干すのはどうかと言われそうだけど、あの地獄を歩いて辿り着いた一杯なので勘弁してほしい。するとマスターがすぐにコップにおかわりを注いでくれた。
「今日も外、暑いわよね。その中歩いてきて大変だったでしょう? この辺の人かしら?」
「すいません。私は川戸から電車で青ヶ瀬まで来てそこから歩いて、ここに来ました。よくやるんですよね。降りたことのない駅で降りて、喫茶店を探すのを。青ヶ瀬や古賀爪は普段素通りなので、完全に見落としていました」
「そうなの。楽しそうね。じゃあゆっくりしていって下さい。決まったらまた来ますので」
「ありがとうございます」
マスターは作業にカウンターに戻り、作業を再開した。
ビニールがかかったメニュー表をぱらぱらとめくってみる。手書きかと思われる丸い字体と写真が三から四ページあり、最初のページにモーニングとランチの日替わりが大きめで書かれていて、次にコーヒーと紅茶の飲み物、そしてデザートと軽食のページと続く。軽食と言うがかなりお腹が膨らむ物もある。
「思ったより充実しているなぁ。お腹も空いてるからがっつり食べようかなぁ。んむぅ、悩む」
「決まりましたか?」
私がメニューと睨み合いをしていた中、マスターがそっと声をかけてきた。私は急に声をかけられてわたわたしてしまう。
「ごめんなさい。まだでしたか」
「あ、えと、じゃ、じゃあ、白玉ぜんざいとホットドックとブレンドで。あの、このブレンドってのは?」
私は目に留まった物を頼んでそう質問をした。
「はい。月替わりと仕入れ状況、後は私の気分で変わるコーヒーです。つまりは気まぐれコーヒーですね。ブレンドって書いてありますけど、決まった豆では無いのでメニューには『ブレンド』のみの表記となっています。ですのでご来店の度に違う味をお楽しみ頂けます。常連の方々には『いつも味が違う』と人気なんですよ」
「なるほど。それで今月は?」
「今月は『マンデリン』と『モカ・マタリ』という銘柄の豆を半々でご提供しています」
「ありがとうございます。ではお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください。それとこちらをどうぞ」
マスターはそう言い、蒼色の小皿をカウンターに置いてくれた。小皿の上には四角形の小さいチョコがちょこんと二個乗っていた。
「お通しです。甘めに作っているので、コーヒーとご一緒にどうぞ」
「ありがとうございます」
机に置かれている小皿のチョコを一つ摘み、口に放る。チョコはすぐに溶けて甘みと優しい苦みが混ざり、口内に広がる。それが疲れた体をほぐしてくれる気がした。
店内を見渡すといつの間にかテーブル席に一人、中年から初老辺りの男性が新聞を広げながらカップを片手にしていた。(器用な人)と思いながら視線を窓、そして外に移す。開けぱなっしの入り口からは祭りの音と夏の熱気、そして祭りを楽しむ人たちのざわめきが届く。
「お待たせしました」
ぼぅ、としているとマスターがコーヒーと料理を運んできてくれた。
「ありがとうございますって、結構大きいですね・・・・・・ホットドック」
メニューの写真の画角にもよるから何とも言えないけど、予想より大きいホットドックに少したじろぐ。
「ゆっくり過ごしてもらいたくて少し大きめ、多めで作らせて頂いています。ごめんなさい、注文時に説明が欠いたのと、一言聞くべきでした」
「いえいえ。気にしないで下さい。お腹は空いているので問題なしです」
マスターは気まずそうな、申し訳なさそうな顔をしていたけど私がそう言うと、少しだけ表情が解けた様に見えた。
「では、ゆっくりどうぞ。コーヒーのお替りは自由ですので」
私はうなずいて返答する。そしてホットドックに向け、目いっぱい口を開いて頬張る。パリッと焼かれたフランスパンとソーセージ、それらに細かく刻んだピクルスとトマトソースの酸味がバランス良く合わさり美味しい。
「美味しい。これならあっという間に食べちゃうな。コーヒーも重厚だけど、飲みにくくなくて香りも良い。そしてこの店内も落ち着く。いやぁ、いいお店をみつけたなぁ」
そう言っている間もホットドックを食べ続け、そしてあっという間に皿の上から無くなった。
その後、白玉ぜんざいとコーヒーを行ったり来たりしながら持ってきた本を読む。その間に店内はお客さんが増え、賑やかになった。常連さんとマスターが他愛もない会話をしたり、お祭りの休憩で立ち寄った家族やカップル、友人と見られる人たちが思い思いにここで過ごしていた。
私はそんな夏の音に耳を傾け、微笑んだ。冷たいぜんざいを頬張り、苦くて美味しいコーヒーを口づけながら。
「ごちそうさまでした」
それから一時間半過ごし、時間も一日の半分が経った辺りでお店を出る事にした。
「いえいえ。ゆっくり出来ましたか?」
「はい。また来ようと思います。今度来た時のブレンドの味を楽しみにしながら」
「それは良かったです。いつでもお越しください」
「はい」
お会計を済ませ、お店を後にする。外はまだ暑く、遠くからセミの鳴き声が聞こえる。お祭りはまだまだ終わりそうに無い。そんな中を私はやっぱり「暑いぃ」とへろへろになりながら、でも夏にほだされていたのか、足取りが軽い気がしつつ家路に着くことにした。
夏の音