水晶の花
明治の平穏のため殺め救い浄化するを運命とする吸血姫の物語
時は明治初期、処は帝都東京。何ともツクリモノめいた明治の世の平穏も、裏を返せば錦に煌めく造花の産物か。水面に月の美しきたるは、川底にて汚濁を浄化す犠牲ある故とな。
平穏の世は川の如くに……。
継続するべく産み出される代償は、川底にて蠢く。清らかな水の面を表とするならば、川底に沈むは裏にて犠牲となりし屍の念。清[せい]を保つには、濁[だく]を呑み込む生け贄が必要なのだ。
その生け贄となったのが、明治政府に囚われ捕虜となった吸血貴族である。そしてその矢面に立ったのが、吸血貴族の月城 [つきしろ] 家の姫君であった。
名は月城紅雪 [つきしろべにゆき]。
紅雪は暗殺任務を己れで請け負い、他の吸血貴族は政府の諜報員として働かせて欲しいと頼んだ。ある対価を支払う事を約束して……。政府の役人たちは歓喜し、無事条約は結ばれた。
亡き者を無き者とする吸血貴族の呪術。そして、ナキモノの怨霊を清浄して天へと昇華する紅雪の甚大なる浄化術。それらを巧みに利用し、政[まつりごと]の邪魔となる者を地を汚す事なく排除せんと、明治政府の役人たちは謀り企てたのである。
政府の謀のために飼い殺されようとも、紅雪は己れの心の芯に強く誓ったのだ。『殺め、救う』を天命とする事を。怨念に囚われしナキモノの霊を、そして平穏の世の奈落で虐げられしモノたちを……。
時代が変わり世が平穏になろうとも、人間の心に邪悪な蟲が巣くい、邪気に侵され毒に蝕まれれば、必ず犠牲が生まれ、悲劇は起きる。
蒼[そう]一郎は日常的に両親から、折檻され虐待を受けていた。ろくに食事も与えられず、身体中には痛々しい痣ができていた。
もともと蒼一郎は捨て子であった。だから余計思うのかもしれない。
何故自分は産まれてきたのか、これは産まれたが故の罰なのか。もしかして、自分は人間ではないのではないか。本当は人間の害となる怪物なのかもしれない。自分は禁忌の子、罪の子なのだ。だから、こうやって罰を受けているのだ。そう考えれば幾分か心が楽になるのだった。
蒼一郎の歪な思考は膨れ上がり、やがて強迫観念という怪物を飼うようになる。皮肉にもそのおかげで、この地獄を耐え抜く事ができたのだった。
ある意味、怪物となった蒼一郎は、いつものように両親から折檻を受けている時に、人外の叫びのような笑い声を哭きながら轟かせた。その笑い声は他人の声のように聞こえてきた。混乱した思考が霧に覆われ、蒼一郎はやがて意識を失った。
蒼一郎が朝陽に目を醒ますと、そこには何とも凄惨な光景が……。何と両親ともども、血の海地獄に堕ちたような姿で、白目を剥き仰向けに倒れていたのだ。蒼一郎は声にならぬ悲鳴をあげて、そのまままた意識を失ってしまった。
次に蒼一郎が目を醒ましたのは、月影眩しき夜の事だった。蒼一郎はまたも己れの目を疑った。何故なら朝にはあった両親の亡骸が、血の海もろとも綺麗さっぱり消滅していたからだった。蒼一郎は胸を撫で下ろした。己れの深層心理が見せたただの夢だったのか。安堵すると同時に、蒼一郎をいつもの絶望が襲った。でも……。
思考がぐるぐる廻る。蒼一郎には夢だと言いきれない事象が 、嗅覚と味覚に顕れていた。酸化鉄のようなニオイ、そして口に未だ残るあの味。これは、これは間違いなくあの……。
その時である。月影射し込む鉄格子の窓枠から、一匹の青い蝶がひらり迷い込んできた。蒼一郎がその舞う姿を呆然と眺めていると、やがてその青い蝶は鱗粉を霧のベールのように纏わせた。鱗粉の霧はやがてヒトガタとなり、何と女人へと変化したのだった。女人の姿が明瞭になって、蒼一郎は思わず息を呑んだ。
濡れ羽根の艶の如き長い黒髪、雪の如く真白き肌、吸い込まれそうな切れ長の涼しげな瞳。真白き着物に紅色の帯。そして、血に染めたかの如き真紅の唇。妖艶かつ幽鬼的な雰囲気を纏った美しい女性であった。
「すまない。怖がらせてしまった。私の名は紅雪」
怯えている蒼一郎に目線を合わすべく、紅雪は膝を折って座る。
「私は吸血鬼。そなたの両親を殺めたのは、この私だ」
蒼一郎は戦慄し、驚愕のあまり目を見開いた。脳裏に今朝見た凄惨な光景が蘇る。
「だから、そなたは何も悪くない」
蒼一郎は目を剥いて、紅雪を見つめた。蒼一郎の瞳は、静寂の錯乱のなかで揺れていた。
「そなたに」
蒼一郎の呪いを解かんと、紅雪は浄化の言霊を唱えるように告げる。
「罪は、ない」
一番欲しかった言葉が、蒼一郎の中から怪物となったモノを浄化していく。蒼一郎の瞳から、止めどなく涙が流れ落ちた。拭っても拭っても、涙も鼻水も止まらなかった。
紅雪はそんな蒼一郎を我が子のように慈愛の瞳で見つめ、蒼一郎の頭を優しく撫でて、その胸に抱きしめた。
蒼一郎は産まれて初めて、母の温もりに包まれたような気がした。
「そなたは生まれ変わるのだ」
急に睡魔が襲い、蒼一郎はうつらうつらとし始める。
「今は安心して眠るがよい」
滲む視界のなかで蒼一郎は紅雪に微笑み、やがて静かに寝息をたて始めた。
蒼一郎が再び目を覚ましたのは、田舎にある孤児院のベッドの上だった。蒼一郎の身体中の痣は、何故か綺麗になくなっていた。そして、蒼一郎の体重も栄養失調だとは思えないほど、平均体重まで戻っていた。
自分は本当に違う人間に生まれ変わったのだろうか。蒼一郎は半信半疑のまま、神の御加護かとばかりに紅雪に感謝し、新しい現実に自分を順応させて行った。孤児院での暮らしに慣れてきた頃、蒼一郎のもとを訪ねてきた者がいた。月城家の執事である緋月子爵である。やがてこの緋月子爵の養子となった蒼一郎は、救う者たちの温情ある計らいにより、新たなる人生へと前進したのだった。
贖罪とは何ぞや。
殺め、浄化したモノから生まれし副産物を見つめながら、自問自答する紅雪。
天から地に咲きし水晶の花。
それをもって贖罪と成し、また新たなる罪の誕生とす。矛盾を潜めた水晶の花は、穢れをまだ知らぬまま純真に輝き、罪を深めていく。残酷なる価値と意義のもとに生まれ咲く世にも美しく穢れなき水晶の花。この水晶の花こそ、条約交渉の条件。紅雪はこの希少価値の高い水晶の花を全て渡す事を条件に、吸血貴族を護ったのだ。
ここにもまたギセイモノがひとつ。
矛盾の修羅を生きるは水晶の花も同じかと、紅雪は己れの罪をまた連鎖させるのであった。すべてを己れの罪として背負う紅雪。やがて紅雪の精神は蝕まれ、心は狂乱の渦に呑まれていく。
これは何故の罰ぞや。
政府から任を受けて二十余年。
紅雪が耐え苦しむは、地獄の拷問にも勝る精神地獄。正常を剥離され、異を異とも感じぬ程に浸蝕された紅雪の脳。奇怪なる幻聴幻覚。己れの分身たちが浴びせる罵詈雑言。強迫、そして錯乱。妄想と現実の狭間で、月城紅雪という『現実』が血の花びらの如く散って散って、散り落ちてゆく。
ぐるうり、ぐるぐる
ぐるうり、ぐるぐる
妄想万華鏡や無限地獄
ぐるうり、ぐるぐる
ぐるうり、ぐるぐる
まわされ、おかされ
果てては錯乱
ぐるうり、ぐるぐる
ぐるうり、ぐるぐる
ぐるうり、ぐる、ぐる……
絶叫。
紅雪は呻き声をあげ、頭を掻きむしる。美しい黒髪が無惨に散る。見目麗しい美女の容姿など、今は見る影もなくなっていた。
天命とは何ぞや。
もし、紅雪がただの吸血鬼であったなら……。
月城家の執事である緋月は、紅雪の苦悶の声を聞きながら、ある意味呪縛となった血の源流を思った。
紅雪は、治癒術を持つ吸血姫の母親と蘭方医であった人間の父親との間に生まれた間[あい]の子である。最も『救う』を使命としていた両親から産まれた紅雪。しかもそのうえ『救う』を天命とする浄化術を神より与えられたとなれば……尚更の事であろう。
人間でありたいとする人格と、吸血鬼であらねばとする人格との精神分裂。
その果ては、末路は……。
あぁ、何という皮肉で残酷な天命であろうか。
緋月は息子の蒼一郎からの手紙を握りしめ、唇を噛み締めながら、天上を仰いだ。
救い、護るとは何ぞや。
天命のもとに己れを犠牲にして、任務を成し遂げてきた紅雪。その紅雪がツカイモノにならぬと判ると、呆れるほど薄情に任を解き、襤褸ぎれ同然に扱った。そして襤褸には襤褸なりにまだ役目は在ると、今度は政府管轄の脳病院へと隔離されたのである。
その脳病院の中では秘密裏に、ある研究が進められていた。それは精神を病んだ吸血貴族の脳に様々な実験を施し、治験薬の試験を行ったりする研究である。謂わば人体実験のようなものだ。精神異常者となり、正常に任務を遂行できなくなった者たちが、最期はここに送られ、生涯モルモットとして生きるのだ。不死の吸血鬼は、壊れきって動かない人形になるまで、襤褸ぎれが塵屑となるまで生かされ続けるのだ。
平穏の世とは、何ぞや。
救うた者たちが護られぬ世とは一体……。
無数の罪の屍を地として、纏いて咲き乱れるは水晶の花。罪の穢れを浄化しては、罪の罪を隠蔽し、その贖罪の証として水晶の花を咲かせゆく。
平穏の世とは川の如くに。
水晶の花は暗渠の如くに。
浄化されし罪の屍は、平穏の世の川底にて眠る。
浄化とは何ぞや。
浄化もまた罪、なりか。
ならば、罪とは、罪とは何ぞや。
℘
──残虐な怪物と半分生まれた時、人間としての感情は救いか、それとも苦しみか。複雑な感情を与えられた怪物は、単純に残虐性を生きるを許されず、一生己れの罪に苛まれる。感情があるから苦しむ。しかし、感情があるから救いとなる場合も確かにあるのだ。私は美しい怪物の優しい嘘に救われた。人を救うための嘘もまたひとつの感情であろう。彼女は誰が何と言おうと私の恩人だ。彼女がいなければ、今の私はうまれなかった。そもそもこの世に存在しなかったはずである。彼女は私に天命を与えてくれた。その点においても、彼女には感謝してもしきれない恩がある。
──私は罪悪感に苦しむ怪物たちを救うため、その者たち専門の精神科医となった。罪とは何か、という神をも解けぬであろう問いを、一生涯己れに課すと決めた。
──半分人間と生まれたは、絶望ばかりではない。罪地獄の向こう側に、必ずや己れを許すという希望の灯火を見出だせる。罪を浄化するという事は、己れの罪を許すという事だ。優しき怪物の悩める罪を、必ずや浄化し救えるように、私はこれからも精神科医として粉骨砕身、天地天命に努めて行こうと思っている。
【罪と浄化】 精神科医 緋月蒼一郎
℘
崖の上から銀狼が満月に吠える。
緋色の瞳と蒼色の瞳から、それぞれの涙が流れる。
形見とばかりに宿された水晶の牙を剥き出しにして、天に咆哮する。
銀狼の胸もとに光るは、水晶の花。
天に地に、地に天に……。
─ 完 ─
水晶の花