百合の君(15)
「親分大変だ!」
浪親が振り向くと並作が駆けてくる。よせばいいのに大声で叫びながら走って来たので、止ってもすぐには喋れず小さな肩を上下させている。荒い呼吸に異音が混じり、その場で嘔吐するのではないかと思われた。
「あれまあ並作だいじょうぶかの?」
ばあさんが持ってきた柄杓から水を飲んだ並作は、それでもはあはあ言ったまま喋り出そうとしない。待っていれば勝手に喋り出すと思っていた浪親は待つのをやめ、短く「どうした」と聞いた。
「城の奴らが、攻めてきました!」
並作たちの村は、現在蟻螂たちが戦おうとしている八津代という国にある。部隊の一部が隠れ住んでいた盗賊村に近づいているだけなのだが、彼らには知る由もない。
とうとう来たか、浪親は天を仰いだ。欅は裸の枝を空に向かって懸命に伸ばしている。まるで太陽を貫こうとしているかのようだ。盗賊を始めて八年、考えてみれば遅いくらいだ。
「親分、どうしよう」
並作の呼吸はまだ落ち着かない。これは走ったせいではなく、怯えているからかもしれない。
「どうしようってやるしかねえだろ」
浪親は胸のお守りを強く握った。
「勝てるかなあ」
「相手が俺達より弱けりゃな、おい、みんなを呼んできてくれ」
欅の下に集まった老若男女の中に、穂乃はいなかった。あの冷たい視線を浴びながら話す事態を回避できたことに安堵しながらも、浪親は一抹の不安を感じた。
「みんな、もう聞いてると思うが、城の連中が兵を出したそうだ」
「それで、浪親殿はどうするつもりじゃ」
ばあさんが大きな顔を向けてくる。頭に巻いた手ぬぐいは汚れていたが、元々の模様が薄い青を端の方に留めていた。
「どうもしない」
波紋のように、驚きが広がる。
「出てきた連中はどうせ雑兵だ。蟻と同じで潰したところできりがない」
「じゃあ、どうするつもりじゃ」
「蟻を駆除するには、巣ごとやるしかねえだろ」
派手な言葉を使いながらも、浪親は侍の習性を知っていた。彼らは盗賊とは違う。彼らにとって大事なのは、今日の獲物をつかみ取ることではなく、明日帰る場所を残しておくことだ。彼らはそれを守るために戦っている。だから城に危機が迫れば、取って返してその救援にあたるはずだ。
「女子供は山に逃げる。兵隊共が城の危険を知って引き返せば、とりあえず安全だろう。男は奴らの軍勢を避けて城に向かう。そして軍が戻ってくる前に城主を人質にして、俺たちの身の安全を保障させる」
「女王蟻は巣にいるじゃろうか」
ばあさんはよほど蟻の例えが気に入ったようだ。元からしわくちゃの顔にしわを寄せて笑っている。
「盗賊相手に殿様が出てくることはない。あいつらにとって面子ってのは飯の種だからな」
「なんか上手くいきそうじゃの」
「うまく不意をつければな、半分以上運任せだ」
一方、行軍中の蟻螂は前の男の背中にぶつかって止まり、辺りを見回した。なんてことはない峠道の途中だが、兵隊はみな騒いでいる。同じ山の中でも、たくさんの人間と一緒にいるとこうも違うものなのだろうか。獣たちの気配は遠く離れ、俺達に怯えている。鳥たちの声も小さい。蟻螂は、なぜ自分はこんな時に昔の事を思い出すのだろうと思った。長時間の行進で疲れているのだろうか。後ろの喜平に肩を叩かれ、その指さす方向を見る。
谷の向こう側に、白い旗がちらちら見え隠れしている。敵だ! 蟻螂はさっそく刀を抜こうとして喜平に止められた。その青い目を追うと、大将の木怒山を見ている。彼の合図で飛び出せということらしい。
蟻螂はごくりと唾を飲み込んだ。國切丸の柄を握る。あの武道大会の時と同じ、いや、それ以上の緊張だ。蟻螂は、力を示す時が来た、と思った。木怒山は殿の弟だったが、今度は本物の敵が相手だ。木怒山は蟻螂の視線に気づいてか少しこちらを見て、すぐに敵のいる谷向こうをにらんだ。
その手が、動いた。
「突撃!」
周りの兵隊がオーと叫ぶ。蟻螂も知らず叫んでいた。叫ぶと、力がみなぎってくる。蟻螂は走り出した。敵陣から矢が雨のように降ってくる。蟻螂は自分に迫ってきた一本を難なくかわし、その行方を横目で追った。それは後ろにいた喜平に向かった。さっきまで蟻螂に迫っていたくせに、まるで糸にでも結ばれているように、それは喜平の立派な喉仏に突き刺さった。
喜平は驚いたような不思議そうな表情をして矢の飛んできた方向を追い、その視線が蟻螂と合った。目に白い膜がかかり、血とあぶくを吐いた。わずかに白い息が、喜平の体から漏れる。
蟻螂は喜平を抱きかかえようとしたがもう遅い。味方は走りだしている。止まったら味方に踏みつぶされる。現にもう喜平の踵は踏まれて、そのバランスは大きく崩れようとしていた。蟻螂は振り返った頭を前に戻すと、加速して飛び上がった。
百合の君(15)