TOPコレクション展、『見ることの重奏』
主に作品批評に関する3章について、大幅に加筆修正しました(2024年8月3日現在)。
一
映画監督の濱口竜介(敬称略。以下、「濱口」と記す)の著作である『他なる映画と』には撮影行為の本質である記録性についての恐れが明確に言及されている。
なぜなら指定された位置に立って、脚本に基づき予定された動きと台詞を話す役者の演技はもとより本物ではない。それをリアルに見せるための創意工夫は映画史の中で数多く生み出され、実践され、概ねの成功を収めてきたが、映画を構成するカットの全てが嘘=フィクションであることに変わりはない。舞台が丸見えの演劇と同じで、映画を鑑賞する観客が目の前の作品を「本当の話」と受け止めない限り、スクリーンに流れる話が本物となることはない。だから濱口は恐れる。その精緻な機能でカメラが記録するものがその通りの嘘として観客の目に映ることを。
そして彼は一人の映画監督として必死に考える。ワンカットに映らない部分を次のカットで補完する等の情報加工を通じて、因果関係に基づく物語を観客の頭の中に想像させるという映画の語り口=偽りの基本を踏襲しつつ、映画の記録性にも回収できない偶然という名の瞬間美をどう生むか、どう撮るかという事を。
『他なる映画と』は、だから、濱口が実践してきたことの集積なのだ。演技の嘘を超えるために講じるべき準備の大切さ、俳優のからだの奥に眠るリアル、それを掘り起こすために先人たちが行ってきた技法ないし手段の通有性といった彼なりの知見や考え方の全てが①見えるものしか映さない映画と、②見えないものを予感させる映画という両極の間を彷徨っては、足元にある答えを一つひとつ大切に拾い上げようとしている。
この見える/見えないの二項対立の図式で上手く回収できない事態が、映画と同じくカメラという記録装置を使用する写真においても生じるのは道理である。その最たるものとして東京都写真美術館で開催中のTOPコレクション展、『見ることの重奏』で鑑賞できるウジェーヌ・アジェ(敬称略)の写真作品を取り上げたい。
二
20世紀前後の時代の流れに乗り、古い街並みを破壊せんとばかりに近代化を果たそうとするパリの風景を30年間にわたって記録し続けた写真家、ウジェーヌ・アジェは自身を芸術家と名乗ったことは一度もなかった。人物を排して写し取られた建物の外観や内装、街に佇む彫刻などの様子は彼にとってはただの記録物。住んでいたアパートのドアに「芸術家のための資料」という看板も立てていたそうだから、ウジェーヌ・アジェにとって手元にある写真は絵画制作や歴史的資料といった他の目的に用いられるべき商品に他ならなかった。
彼が表現者として脚光を浴びるようになったのはシュルレアリストであるマン・レイ(敬称略)が機関誌で取り上げたり、その助手を務めていたベレニス・アボット(敬称略)が美術商を通じてアメリカでの紹介に尽力したからである。
ウジェーヌ・アジェが撮った写真の何がそんなに良かったのか?
写真を撮るのが下手なくせに、写真を見るのが好きな筆者が何も知らずに抱いたこの疑問については例えば上記したベレニス・アボットが彼と同じように移り行くニューヨークの都市風景を、彼以上に意識的に取り組んだ作品群が一応の答えを用意してくれる。
すなわち、ものに宿る幾何学的な美しさを人々が暮らす都市あるいは街並みから抽出し、その発展と衰退を風景として画角に収める。それによって記録される一枚は絵画のように美しく、滅びが約束された生き物のように蠢き、ひいては人々の心に宿る郷愁を語り出す。ただの静止画として見ても、現実に撮られた被写体として見ても、はたまたただの一資料として眺めても、その記録物は人間の関心を誘う。
ウジェーヌ・アジェの写真についてはヴァルター・ベンヤミン(敬称略)が記した評論も会場内に記されていたが、その「人影もなく、犯行現場のように撮影されたものがただ眺めることを見る側に許さない、不安に満ちた写真」という趣旨の元で綴る内容には、単純な風景写真に思えたものが単純じゃないことに気づいた際の戸惑いの感覚を率直に語る姿勢が見て取れる。
しかしながらベンヤミンが記すところの人影のない犯行現場のような構図は、撮影者であるウジェーヌ・アジェにおいて失われつつある古き良きパリの街並みを正確に残すために選択されたただの手段に過ぎない。彼は、彼が納得する生理感覚に従って粛々と仕事に臨んだ。撮りたい構図を撮りたいように撮れる位置にカメラを置いて、そこから「見える」ものを記録し続けた。
その成果物から本人には「見えなかった」ものを発見したのは鑑賞者だ。ウジェーヌ・アジェではない彼らは、ウジェーヌ・アジェが当たり前に感じ取るものを当たり前だとは思わない。だから興奮する、上映時間終了後の劇場を後にして直ぐフィクションである映画をフィクションじゃないものとして話し出す観客のように。表現者たるウジェーヌ・アジェは、彼らの語りで生まれたのだ。
ここに認められる話の奇妙さが写真表現の幅を広げたのは間違いない。
例えば写真教育者としての顔も持っていたマイナー・ホワイト(敬称略)は目の前にある一枚の「写真を見る」ことの大事さを説く。絵画的な美しさに加えて、風や光といった事象の痕跡もシャッターで捉えることにより記録行為ならではの抒情性を生み出す彼の作品表現においては鑑賞者に体感された感情がその成否の鍵を握る。初めから語られるものとしての写真を撮る彼は、ものとしての被写体ではなく、状況に宿るイメージにその狙いを合わせている。日常に潜む詩的な光景を発見し、何の作り込みをせずにそれを採取し続けたアンドレ・ケルテス(敬称略)の作品表現も浮かび上がる情景を写す意識に満ちている点で、記録行為の自由を求めて動いている。
これに対し、自作した模型の中にイメージどおりの光や風を取り込んだ瞬間を撮影し、自身の内に眠る記憶の所有を試みる寺田真由美(敬称略)の表現は記録したイメージ群を「本物」に見せることから始まる。勿論、画面を仔細に検討すればそれぞれの作品のフィクションを見破ることはできる。簡単にできる。けれどその失敗は失敗じゃない。寧ろ、そこを経てからじゃないと寺田真由美の作品表現の良さは発揮されない。
フィクションから「本物」を経て、もう一度フィクションへと舞い戻る迂回の果てに待っているのは曖昧になった虚実の感覚だ。判断留保された現実と想像が引き裂く視界と言い換えてもいい。それがなんであれ、私は今この目で見ているものを知っている。その時の感情を覚えている。いつ、どこで、何をしていた時なのか。その詳細を正確に語れる自信はないのに、それを知っているという直観だけが揺るがない。それがある意味で凄く映画的なのに、決定的に映画ではない手法に由来するのか。記録でもなければ虚構でもない、そうはっきりと口にすることだけはできる寺田真由美の写真表現は、ゆえに濱口竜介の実践に似ると筆者には思えた。ここに至って、写真に纏わる見える/見えないの対立は最大の推進力を得るのである(そんな中にあって、見える/見えないの枠組みを遥かに超えたところで作品表現が成立している山崎博(敬称略)が突出した存在だと筆者は評価したい。被写体をコンセプトに奉仕させるというスタンスで臨む山崎博の写真は、例えば水平線に対してカメラを水平に構えて撮影するという手法のシンプルさに反比例して驚異の領域に達する。一見してカラーフィールド・ペインティングみたいに写る水平線を写した三枚の写真は、近寄って見てもその印象を少しも変えない。見えているものが全てとなるその写真には、人間の網膜が捉えれない現実が現れている。それは決して想像などではない。カメラに「見える」光景なのだ。それをまた自前の網膜に写して見るという重複した事実には今まで感じたことのない奇妙さを感じた。似て非なる驚異の印象を杉浦邦恵(敬称略)の作品表現からも得たのだがその内容は後日、別の機会に記したい)。
三
最後に作品批評について思う所を記す。
誰かの作品を批評する時、その批評自体も一つの作品になるとよく言われる。表現としての良さや、社会的に持つ意義にスポットを当てる批評はその内容が優れていればいる程に常に参照されるべき存在となり、作品と共に次なる批評の対象となる。批評を生む批評は作品自体を未来へと運ぶ。その存在を見失わせない歴史となる。ゆえに批評は解説以上の価値を持つ。作品に準ずる作品として事実上の存在感を発揮する。
そんな批評の功罪の一つとして、著名な作家のそれが市場における作品表現の価値を左右するほどの影響力を持ち、それがまた批評家自体の横暴を招いたという過去がある。あるいはその内容が修辞的な遊びに終始してしまい、一部業界にしか見向きされない閉鎖性を獲得してしまったという側面も指摘できるだろう。
その反省を活かし、では!とばかりに真反対の方向に舵を切って批評の民主性を推し進めても、言論の分散による相対化が「批評を批評する」という肝心要の部分を機能不全に陥らせる。ことSNS時代にあってはこの傾向が顕著になるように思えて仕方ない。罵詈雑言の応酬になるのは論外だとして、批評の妥当性というワンテーマを一つ取ってもその判断基準の確立に苦労するだろう。政治的な配慮も欠かせないし、「状況」という常なる変化を辿る考慮要素を十分に取り扱える繊細なセンスが強く求められる。かかるセンスを身に付けた批評家の姿は、けれど時と場合によっては政治家と何ら変わらない錯覚を生みかねない。
あれ?批評ってこんな行為だったっけ?
そんな素朴な疑問が浮かんだ時点で、筆者を含めた現代を生きる人たちは恐らく批評という行為に少しの警戒感と、多大なる怪しさを感じ取る。付かず寄らずの距離感が自然な身振りとなって、より合理的な又はより経済的な語彙と語法をもって目の前の作品を語るべきと意思を促してしまう。それがまた現実的に機能すればする程に、私たちと批評との距離は遠くなる。事態はもう、非常にややこしい。
だったらいっその事、とんでもなく開き直って初歩の初歩からやり直したらいいのでは?批評ってこんなに楽しんだよ!みたいな楽観を振り回して、いま一度「批評」の楽しさを覚えたらいいのでは?
何を馬鹿なことを…と呆れられる声がそこかしこから聞こえてくるのに気付かないほど鈍くはない筆者ではあるが、けれど大学で学ぶ基礎研究の姿勢がそのまま他ジャンルの事柄を適切に評価できることがあるのと同じで、適切かつ面白い批評を体験できる機会があれば、その旨みを活かそうとする物好きは必ず出てくる。集合知に代表されるような数に関するSNS時代の強みは、こういう好奇心を刺激する機会の創出に注力することで上手く噛み合うのでないか。湯気を吹き上げる程に素人な頭を動かして筆者はそう夢想する、自分が参加してみたい!という欲望を剥き出しにして。
上述してきた東京都写真美術館のTOPコレクション展である『見ることの重奏』が正にそれである、と断言することは勿論しない。けれどその展示構成の核となる三竦みの構図、すなわち表現者、鑑賞者、批評家という3つの視点のどこにも帰属しないまま銘々の感想を思うままに言い合える機会は得難い遊びの感覚に満ちている。
そこに認められる軽やかさは筆者を確かに満足させた。批評ってこんなにも作品鑑賞を邪魔しないものなんだなぁ、と深く感じ入ったのだ。
批評活動の、そんな積極的側面を知れる。この点をもって今足を向けるべき展示会であると筆者は評価したい。興味がある方は是非、東京都写真美術館に足を運んで頂けたらと思う。
TOPコレクション展、『見ることの重奏』