翼 第1章
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恋人たちは、さながらに暗みへ希いをなげつけるような一種呪わしい気持で、約束ばかりを契っていたのだった、一つひとつ糸を引くような注意でささやかな約束だけを抽きだし、大切に丁寧に守りつづけ、されどとおくとおくに投げ放たれ星さながらに光る約束が果されるなんて、かれ等にだって信じられていなかったのだった。
ささやかな約束というのは、たとえば日付こそ決めずとも「これを一緒にしようね」というようなものであったり、「今日の夜は電話をしようね」というしごくふつうの恋人らしいそればかりであったのだけれども、恋人たちは、それを硬質な水晶で縛るような強固で絶対的なものとして誓い合ったのだった。
その水晶は、たしかに青い火を炎やすように月影をときおり照らした。恋人たちはそれを、わたしたちの翼の反映であるとみまがっていた。
かれ等はおそれていたのだった、いつや何らかの約束が破れる時を。それはおそらくやこの関係性の完全な破棄を示すであろう。
秋江は十九で、弓はまだ十七だった。
したがって、殊勝なことにも秋江は弓への優しいキスをすらわが身に禁じていたのだった、弓は「生涯処女でいたい」という少女的な倫理を示し、その冷たい倫理は秋江をさながらに荘厳な気分にした。かれにはその冷然硬質な硝子製さながらの倫理を、なによりもいとおしいものとして愛したのだった、なぜといい、それはかれの弓への欲望を如何にも撥ねかえす、夢に浮ぶが如く硬い想念だったからであり、しかもその風景は、かれ固有の冷たく孤独な世界観と、恰も重なったのである。
「キスくらいならいいんだよ」
と弓は云うけれども、
「弓はそれをしたいとおもうの?」
と訊けば、
「まだ、わからないの」と、後ろめたげに告白をする。
かれは了解した、その「わからない」という心的状態をわからないままに、そのままを是認した、なぜって秋江は弓が好きだったから。かれにはそれが当然のことだったのだ。
ところで、作者はひとが「他者を愛している」という状態への厳密な考察を終えることが生涯自分にはないと断じているから、この小説において、この言葉を差しだすことを最後まで拒絶する。
弓にはなぜかしら、死の想念を連想させるような雰囲気があったのだった。
というのも蒼褪めたような白い肌はあたかも珠のような素気ないマットな沈鬱さを湛えていたし、それはかれの視線をいつも辷らせ撥ねるのみの硬質な印象であった。微睡む猫のそれのようなかたちの目は、翳りを帯びる月のような眸を、ときどきだけしか光らせない。それが重たくウェーブのかかったくろぐろと照る前髪に隠れているのは、かれには霞に身を隠す恥ずかしがりやの月のように愛らしく、とくべつに映った。
その憂鬱な森めいたうねり髪をゆびではらうときの夢想的な気持ほどに幸福なそれはないのだった、先ずもってかれには弓に触れることをそれ以上に赦されてすらいなかったから、それはけだし陶酔の気持をかれに齎した。こんなにも大好きな恋人がぼくの欲望を是認してはいないのだというようなかれの抱く観念は、秋江の自意識でかれの躰を剥ぐように美しくした。かれはそれを水槽でも眺めるような視点で、そんなみずからの混濁した美意識ににくしみのまま搔きまわすような嫌悪をもっていたのだった。
*
抑々その恋には、陽が昇る以前から破滅が兆していたのだった、それは重たく蔽いかぶさる天空の風景によって、詩的視力にすぐれたふたりにはけだし明らかであった。
かれ等は、H精神病院の、開放入院病棟で知り合った。
翼 第1章