詠み人知らずの歌に寄す 序章・第一章

  序
 ぼくほどに出不精な人間もそうはいないけれども、Y県の或る温泉街を日帰りの小旅行というかたちで訪れたのは、ひとえに其処に敬愛する詩人の記念館があるからなのだった。
 その記念館の展示物はぼくを幾度も涙ぐませたのだった、かの詩人の直筆原稿から、かれの息遣い、いたみ、悲痛なる努力の跡が血交じって香るように想起させられ、かのような生き方をしたかの天才詩人が、嘗てはたしかに在ったのだという当然の事実は、現在を生活しているぼくをおもわず堰き止めるようにして呆然とさせたのだった。然り。かれはたしかに天才詩人であった、その自恃をもって詩人として生活し、仲間内でその豊かな才能を認められながらも、その生れついた劇しい火の如く変質的性質とかれ固有の詩人的信条を守護しようとするむりな生き様のために、ひととは衝突、亦衝突、その生は恰も、孤独を宿命とした詩人のそれであったといって遜色はないだろう。
 ところでぼくなんかも詩を書いていて、このように小説風の文章だって書いている身であるけれども、わが身は文学のサークルのようなものに一切所属しておらず、とくべつな愛着をもつ詩での業績だって、ちいさな賞で入選をいただいたくらい、投稿したことは数回あるけれども、雑誌に載ったことすらないのである。くわえて現在は、詩を投稿することをやめてもいるのだ。双方の立場の、どちらが孤独であったか。それを測ることなどできなるわけがない、その魂の孕む淋しさは屹度等価であったと信じる身がぼくだけれども、その刹那刹那に肉が感ずる孤独のいたみを比較することなぞ、一人間なんかにできやしないだろう。なぜといいぼく等は、自分以外になって他者のいたみを経験することはできないのだから。
 詩人としての己に閉じられた誇りすらあれ、世に出られうる才のないことを自覚するぼくという人間は、このまま詩を書き殴り”犬死”を俟つのみであろうというような感慨をまるで持ちあるいているかのような心情、そいつはつねづね胸締めつけるようにわが身を切なくもするし、時々くらいは、わが身をいじらしくおもうような自己憐憫にこころの琴線をふるわされることだってあるから、そのたびに自責の補いをするという惨めったらしさ──それが、わが現実の生活である。
 されどそのようなわが身への忖度の不在した現実というものの本性、或いはぼくの投影された世界観とも云えようか、それは恰も硝子盤のような乾ききった冷然硬質な想念にちがいないのであって、ぼくはその現実の冷たさに、かの詩人のこのむ云い方をするならば、不断に前途茫洋たる想いをしているのである。

  *

 帰り道、ぼくは道に迷ってしまった。
 その記念館から駅までは徒歩でニ十分もかからないのだけれども、如何せんぼくは宇宙級の方法音痴であって、なにかしらの脳機能の欠損を疑われるレベル。先ずもって周囲の風景をまったくもって覚えていない、見ようと意識してもすぐざまわが想念に閉じ籠り、独り言をぶつぶつ呟いてなにかにぶつかるのだから、どうしようもない。地図は殆ど読めない。然るに夢みるような気持で街を彷徨うのがぼくにとり最大の娯楽ともいえる。こういうところはかなりぼくが愛する放浪者、萩原朔太郎にちかいので、かれへの愛おしさを自己に投影して了うという自己愛もあるんだといわせうる自意識を、此処で披瀝しよう。
 したがって、そのような性質のぼくにとり、こう歩けば着くだろうという楽天的な判断でおもうままに進むほかはなく、気付いたら駅がどこなのか見当もつかなくなり、周囲の風景は勿論みたことのないそれ、しかもやがてぼくが迷いこんだのは、どこか鬱々とした雰囲気立ち込み濃い緑を揺らせる林のまえであった。ぼくは財布に安いホテル代と食事代くらいはあるのをいいことに、本日中に家に帰る予定を諦めて、こころの空白からうでのびるような好奇心のまま、林のなかに侵入していったのである。おもえば無謀きわまりない選択であったけれども、のちの石盤との邂逅によりこのような小説が書ける次第であるのだから、けっきょくのところ、それも亦人生において時々ある偶然の出会いの一つであったのかもしれない。
 夏の一季節であった、みしらぬ土地の七月らしい風景は、幾夜幾夜の無為な内面戦争によってねじくれた、鬱蒼にささくれたわが心を爽やかに洗いあげた。しろいTシャツは背にべったりと張りつき、頬へ汗が流れ、激しい陽射しはその場いったいを灼熱で澄ませるような印象すらあった。
 空仰げばまっさらな青空、これ以上ないくらいの陽のつよさであったけれども、ぼくの住む海辺の町に比してそれほど湿度は高くない気候のために、殆ど不快はない。海からの風が吹かないというのは、かなりの差をうむのであろう。濃い緑を天へ振りあげる木々はさやさやと夏らしいしずかな音楽を立てており、ぼくはそのなかでひとまずは切り株をみつけたので、其処に座ってかの詩人の夏の詩を読みなおした。
 名声高き、詩篇である。
 かれをとりわけ好きではなくても、聞いたことくらいはあるひとも多いだろう。かれがひろく読まれるようになったのは死後であるけれども、その詩はその価値にみあう対価を大衆から受けとったといって、一面的にいえばまちがいではないだろう。ぼくは知らない地域で迷子になったというある種解放の状態からくるむしろ爽やかな気持から、如何なる嫉妬もない澄んだ心でかれへの祝福を喜んだ。じりじりと照りつける太陽が葉群にやわらかく透かれていることでだって、たのしさを感じるくらいにぼくは明るい心情であった。
 もうすこし歩くと、滔々とながれる小川がみえてくる。暗い碧の水は陽を弾いてなびくようにきらきらと光りながら波打っていて、飲んでも問題はなさそうなほどに清んだ印象である。はや此処まで奥にすすめば、林を出ることすらぼくにはむずかしいに相違ない。しかし愉快な気分のままにぼくは掌でそっと水を掬って一口だけ飲み、そのおいしさに夢みるような心地。と云うのも青年期ぼくはドイツの近代文学にえがかれるような森の散歩の描写に憧れのようなものをもっていたから、まるでヘルマン・ヘッセの小説をわが足で実際に歩行しているような、そんなロマンチックな心情であったのである。
 ぼくはふだんから俯きがちの人間で──こいつ、比喩ではない──下ばかり眺めて夢想に耽り、電信柱等にぶつかるのが頻繁である。その時考えているのはたとえば「愛はひとをどううごかすのかしら」というような如何にも漫画などに出てくる詩人タイプのそれなのだから、わが身ながらすこしくらいは笑えてくる。であるからその時も夏という観念から喚び起されるイマージュを詩的言語に翻訳しようという已むにやまれぬ衝動に想念をふくまらませていたら、石の段につまずいて転びそうになった。ぼくは屡々意外におもわれるが運動神経が発達しているところがあるので、よろけても直ぐにもちなおしたのだが、ふっと安堵して上をみたら樹の枝先の隙間から綺麗な青空が割れたように燦爛、こつぜんとぼくの身は其処に漂うような気持、陶酔めいた心地で前を向きなおすと、なにかひとが作ったような整う空間が、林のなかにあった。よくみれば、石張りの空間に植物は刈られて植えられ、奥には幾つかの石板が立っている。
 ぼくのいた距離からはみえないけれど、石板にはなにか文字のようなものが刻まれている様子、ちかくに看板があったのでそれを見にいくと「戦火のなかで書かれた無名の言葉たち」というようなことが書いてあり、匿名性・無名性を志向するぼくはエミリ・ディキンソンの詩を抽斗からさがすような気持で、一つひとつ丁寧にそれ等を見ていった。
 書いた者の名は刻まれていない。看板の内容を信じるならば、敢えて書いていないのではなくどうもそれじたいを喪失しているようである。ぼくはそれに胸を締めつけるような甘美な気持になった。この世で生きて歌って絶たれた余りにあまりにたくさんの命の殆どは名前を喪失し、世界からその一生涯じたいを忘却させられる。けれどもかれ等ひとりひとりに精一杯の生活となんらかの誇りがあった筈であり、それは他の誰とも一致することのない、そのひと固有の心のうごき・葛藤・涙があったのである。その歌だけがこうして石板に刻まれるというかたちで無機物の硬質に残されるも、われわれはかれ等と逢い話をすることなどできっこない。はや砂のような存在としてこの世界に侍っている全体、それが死者という存在なのではないかと時々だけれどもぼくには想われてならない。死ぬ迄の生というのはその全体からある種浮きあがり疎外されて歌うのだから、そして光を失い全体に侍るのを待つのみなのだから、産れて生きて歌って死ぬという一生涯の辿る宿命は、切ないほどに淋しいものだ。
 単純素朴な平和への願い、児を失った母のかなしみ、おそらくインテリだったのだろう人間の体制への思想的慟哭を感じさせる怒りの言葉。正直に云わせてもらえばどれもどこかで読んだことがあるような内容であったけれども、その平凡と平易こそ、ぼくは価値あるものだと信じたい。ひとの心の奥底にはおなじましろのアネモネの花畑のような領域があり、其処の風景によってぼく等は林立しているのではないかしらという推測を、ぼくは愛そうとしているのだから。
 されど一つ、そう一つだけぼくを打つように暫し立ち止まらせた石板があったのである、それはまさに詩のような言葉で書かれていて、文体は古風ではあるが表現は平易そのもの、けだし「匿名の歌」というぼくの志向そのものがこれではないかしらという感慨が、ぼくの脳裏で恰もめざめるようであった。

 これよりぼくが綴るのは、その”詠み人知らずの歌”から夢想した架空の追懐である。かれの人生の一刹那をぼく流にゼロからつくり肉付けしていった、ひとりの一生涯である。
 いわば、小説のなかの小説がこれである。

  1
 山井吉之介という青年が生れたのは、192×年、夏の一季節である。
 家は元々裕福であったが、かれの祖父がつくりあげた事業は祖父の死後父の代で失敗してしまい、借金だけが残ってしまった。その時吉之介は九歳で、妹の華子が生れたばかりだった。
 しばしばある話ではあるけれども、父は酒に溺れて働きもしなくなり、軽い暴行のようなものをかれは受けていたのだった、吉之介はその暴力が妹に影響しないようにと、殊に母が女中として働きに出ている時間は父から離れて華子の世話をした。母はこころ優しいひとであったが、かれが十二、妹が三つのときについに倒れた。その後すぐに、まだ三十そこそこで若かった父親は徴兵された。吉之介はその状況に途方に暮れるおもいであったが、当時の社会では珍しくもない環境であったので、自己憐憫に浸る隙間もあまり与えられず、学校に行けなくなった分近所の農業を営んでいる知人のところで働かせてもらっていた。
 かれは一度だけ、そこで育てられているジャガイモを盗んだことがあった。
 妹が、病気になったのである。
 当時の配給は乏しく、母は気を遣って子供たちにおおく食べるように促してくれていたけれども、吉之介は自分がおおめの量を食べる状況を自己に許すことができなかったから、母が寝たきりなのをいいことに台所で三等分よりもすこし少ない量を自分の食べるものとし、母と妹を優先させていた。
 そのなかで熱を出した華子が気がかりで気がかりで、しかし病院代を払えるような経済環境ではない。配給のストックはなくなっていて、次のそれ迄は食べるものがないのである。激しい葛藤のすえ、せめて栄養だけでもとじゃがいもをドテラのポケットに入れて帰ろうとしたのだが、農家の主人に「その膨らみはなんだ、盗んだのか」といわれわなわなと震えて了い、両手でジャガイモをもって差しだし泣きながら土下座をして許しを乞うた。林という名の主人はなにもいわずにジャガイモをかれのポケットの中に入れ直し、「家族は達者か」と訊いた。
「母は相変わらずで、妹も熱を出しているんです」というと、切なさに攣られるような表情をする林、「待ってなさい」と云い家に入った。数分後袋に入った豆をかれに渡し、「よく煮るんだよ。病気の幼な児には、消化がよくないかもしれないから」と伝えた。
「もらえません、私は盗みをしたのに。おじさまの家だって配給の量はおなじようなものでしょう」と情けないほどに泣き腫らした眼でいうと、「俺たち夫婦には子供がないし、ふたりとも百姓育ちの頑強さがある。妹さんに食べさせてあげなさい。勿論、君もすこしは食べなさい。君は働き者すぎるんだ、栄養をとらないといけない。その余分の働きの分を渡すだけだよ、気にするな」と云った。
 かれは幾度も感謝の言葉を云いながら、ひとの心というのはきっと根はみな善いものなのだろうというある種甘ったれた感覚を深めていったのだった、その感覚はのちに時代や憲兵たちからの暴力によって、みるも無残に疵ついていくのであるけれども、かれはその甘えた想念を生涯磨いてゆき、ひとつの作物として天の光をきらきらと反映させたというのが、のちにかれが残した詩の素朴な美しさによって、ぼくの眸に明らかになるのである。
「お母さん、林さんからジャガイモと豆をいただいたんだ。華子が病気だからと」
「そうかい、それはよかったねえ。いいひとだねえ。ちゃんと恩返しするんだよ」
 盗みをしたことを母に懺悔したい気持であったが、これ以上心配をかけてはいけない。かれはしっかりと似た豆を華子に食べさせ、汁の残りをすすった。それがかれにとって当然の義務であると、吉之介は自然な気持でかんがえていたのである。

  *

 吉之介は文字が読めるようになったくらいから学校に行くことはできない状況下に置かれたが、本を読むことがなによりも好きで、その後もしばしば知り合いに借りたり、一時期は帝大の大学生の友人にさまざまな文学を教えてもらったりして、国語の能力を高めていったのである。
 戦争で持ち物が減って往くうち、現在家には一冊の詩集のみをしか残されなかったが、それを後生大事にするつもりで、毎日毎日空いた時間に読み耽っていた。
 それはハインリヒ・ハイネの、翻訳詩集であった。
 かれは自分が飢えて死ぬかこの詩集を売るかの選択を迫られたら、自分が飢えることを選ぶのだといううら若い信条を秘めていた。
 その甘美なる調べはかれに憩いをもたらし、苦しいとすら云えぬかれの擦り減ったこころを時々慰めた。
 妹が五歳になり、言葉を多く覚え始めた頃、吉之介はハイネの詩を読み聞かせ、言葉の知識をひろがらせようとした。華子はそれを嬉しがり、「お兄ちゃん、ハイネ読んで、読んで」とせがむまでになった。
「華子は詩が好きなのかい?」と悲痛なまでに清む眸をこつぜんと耀かせて訊くと、
「ちがうわ。お兄ちゃんの優しい声が好きなの。ずっとずっと、ずーっと聴いていたいの」と華子はいうのであった。
 華子には、同世代の友達がいない。母は寝たきりだし、私が働きに出ている時間は淋しかろう。だから私の声を聞きたいのだろうと思って、妹のいじらしさに、妹から見えないところに行って泣きじゃくった。
 其処は当時としては都会の部類であったが、戦争中であったし、学校もやっていないし、その地域集団一帯が人間不信の雰囲気もあって、なかなか友達ができない。吉之介だって学校時代の友人はみな都会を離れ疎開に行ってしまっていたから、いつも寂しい思いをしていたのである。
 林に、妹に友達をつくってやりたいんですと云うと、「織部さんのところに、丁度君とおなじくらいの女の子と、五歳くらいになる弟さんがいる、紹介してもらえないか訊いてみるよ」と云ってくれた。
 織部という家は、その時代でいう良家であった。

詠み人知らずの歌に寄す 序章・第一章

詠み人知らずの歌に寄す 序章・第一章

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted