百合の君(14)
しかしそれから三日経っても、古実鳴の軍は会敵しなかった。ずっと隣を歩いている喜平も喋る元気をなくしたのか、朝からずっと黙っている。歩き通しなのに、蟻螂ら兵卒にはにぎりめし一つ配られない。
狼の頭が重い。いっそのこと投げ捨ててしまおうかとも思うが、これがないととてもではないが眠れない。
山の夜は寒い。霜柱が立ち、根だけ生きている枯れた草が土中の水分を茎の上に集めて、氷の花を咲かせる。喜平の話していた公家連中なら扇子にごちゃごちゃと書き物でもするのかもしれないが、蟻螂にはそれが地の底の黄泉の国から伸びた死者の手のように見えた。
冷たい地面に横になると毛皮越しに背中から凍えが脊髄の中、四つの心房心室のそれぞれの中に至るまで、蚯蚓に群がる蟻のごとく蝟集してくる。当然のことながら凍死者も出た。また、死にはせずとも凍傷で鼻や手指を失う者も多くあった。その真っ黒になった指を見ると、たとえ重くとも毛皮をぎゅっと握りしめてしまう。敵にやられるならまだしも、ああいう風にはなりたくない。
「俺達がとったやつなのによ」
俯いたままの喜平の声はかすれていた。それがその言葉に一層恨めしそうな印象を与える。
「山の物は俺達が、畑の物は百姓がみんな作ったものなのに、食べていいのは偉い侍だけ。その侍も強いってわけじゃねえ、お前よりは弱いんだからな。それに気づかねえ奴がいっぱいいるってのが、不思議なもんだよ」
見上げた喜平の顔色が変わった。その視線を追うと、峠道の下に集落がある。小さな川から少し離れて、家が数軒並んでいる。煙が出ているのは食事の支度をしているのだろう。山の斜面に見える段々畑が彼らの生業に違いない。
「おっ、助かったぞ」
蟻螂には何のことだか分からないが、すでに隊列は乱れ味方の兵が雪崩のようにその家々に流れていく。
「遅れるな、俺達も行くぞ」
喜平に従い斜面を駆け下りる。迫って来た粗末な小屋を喜平の足が蹴り飛ばした。中にいたのは、若い夫婦だ。
「お足とメシだ、全部出しな」
喜平はすでに腰の刀を抜いている。成程、と蟻螂は思った。あの山小屋でされたのと同じ事が、目の前で行われているのだ。しかし、全く嫌悪を感じなかった。
こちらには刀があって米がない。向こうには米があって刀がない。何が起こるかは言わずと知れたことだ。彼は自然にそう理解し、こう思った。人間であれば、いや生き物であれば誰でも同じことをするだろう。狐がうさぎを見逃すのは、腹がいっぱいの時だけだ。
夫婦は怯えて部屋の隅に身を寄せ合い、ただ震えているだけで戦おうという気概さえない。
こいつらは、弱い。雑煮の餅が溶けるように、蟻螂の腹の底で得体のしれない憎しみがねばつきながら沸騰していた。蟷螂が螇蚸を捕らえるように、俺はこいつらから奪ってやらなくちゃならない。蟻螂もいつの間にか刀を抜いていた。喜平が小さな甕を漁って食べ物を口に運ぶ。蟻螂にも投げてよこす。夫婦は喜平を後ろから襲う様子もない。ただ見ているだけで、蟻螂と目が合うとまるで自分達が悪い事をしているかのように、床板に視線を落とす。食い物がなくなれば飢えて死ぬしかないのに、斬り殺されるよりはましだと思っているのだろうか。立ち向かえば、ほんのわずかでも命を守れる可能性があるのに。
俺は弱さゆえ穂乃を守り切れず侍にも殺されかかった。なのにもっと弱いこいつらはただ鼠みたいに隅っこで震えているだけだ。無抵抗を貫けば、俺が慈悲をかけるとでも思っているのか。自然の厳しさは誰も差別しない。
蟻螂は夫婦の男の方を斬り殺した。喜平は驚いて振り返ったが、何も言わず震えている女を見ると、股引を脱ぎ始めた。
百合の君(14)