透明ー存在なき存在としてー

「未知」なるものは周りから何かと障害を浴びせられる。
故に、存在をなくすように、自ら自らを演じる。平凡だと。

その心境の摩擦、ストレスは。。。

いつの間にか仮面が顔になってしまった

 僕は古ぼけたドアをノックした。簡素で何も標識もないそのドアは、思いのほか重低音に響かせる。ドアは深いブラウンがにじみ出ている。ドアからゆったりとした声が返ってきた。
 暖かいドアノブに手をかけ、開けるとタバコの匂いとともに、雑多な部屋が目に入ってきた。変わらず本が積もれた机を挟んで背もたれの椅子が霞んで見える。実に狭く息のつまる部屋だ。本と机でもうほとんど占領されてしまっている。その机も本にほとんど埋もれているが、何よりこの煙がそうさせる。椅子にもたれてタバコをたゆたう男は、深く刻んだ皺が影を濃く作っていた。煙の濃さ故に、この部屋は霧がかかったように、見通しが良いとは言えない。
 目だけどことなくこちらに向けた男は、にべもなく言った。
 「あぁ、きみか」
 僕は、それが合図として、来客用の、というより部屋の隅に追いやられた小さな椅子に腰を下ろした。煙の向うから、また煙が立ち上がった。
 「調子はどうかね」
 低い声が尋ねてきた。通常のあいさつのこの言葉が、僕には語ろうとするすべてを既に見透かされているような、そんな心地にさせた。だから座っているだけでいいとも思えたが、もしそれが当たっていたらというある種の恐怖から自分の言葉で言おうとした。
 「最近、ずっと誰かに見られてる気がするんです」
 その男は、タバコをじっくり灰皿に押し付けて、僕の言葉なんて聞こえてないように、手元の本に視線を落とした。僕は、いつものことで慣れてはいるものの、もう少し聴いている素振りを見せて欲しかった。
 「あんまり調子は」
 その心情を伝いたいゆえか、口をついてでていた。男は肘を机につけ、目下の前で両手を組して、こちらを見据えた。その手も皺の影同様に、歳月以上のものを感じさせた。しかし、そこから見据える目だけは鋭く、陰りが全くなかった。もやもやとタバコの煙が覆っていることが噓かのように、くっきりと光っている。男はしばしの間、何も語らず僕の方を見据えていた。
 「いいじゃないか、それで」
 男は前触れもなく言い放った。僕は、そんな眼力とタバコの煙にのまれていて、はっとした。僅かに、男の言った意味が分からなかった。何をいったのかはっきり聴きたくて、僕は前のめりになったが、もう男は目を本に伏せていた。けれど男は続けた。
 「無理に良くさせようと力むと、逆効果だ」
 僕はこの言葉で、少々肩の力が抜けた気がした。この男が言うから説得力がある。安心感がもてる。そうか、今は身を任せれば良いのか、などと思いを馳せようとし始めた。が男が続けた言葉にそれはかき消された。
 「それに君が望んでいた事じゃないか。なにを戸惑う」
 僕は一気に混乱に陥った。僕が、望んだ? ずっと見られるという事を? 反論しようと口を開けたが、上手く言葉がでてこなかった。それを読んだかのように男は目を伏せたまま言った。
 「そうだ。いつも君は誰かに見られる事を望んでいた。それが叶いだしたというだけのことだろう」
 男は悪びれもせず、本をめくっていった。何がなんだか僕には分からなかった。いつもの様子と違う。一瞬この男が、別人になったんではないかという思考がよぎったが、あまりにも馬鹿げていて、それは自然と消えていった。だから勘違いを正す為に、僕ははっきりと言葉にした。
 「そんなことはありません。あるはずがない。僕は凡人なんですよ。どこぞの有名人ではありませんし、そんな目立ちたがり屋でもありません。けれど敢えて言うなら、それは身近な人には想いを察して欲しい。とはいっても僕も子供ではありませんから、お互いに常識とかマナー程度にです。それは人として当たり前のことでしょう」
 内にある想いをそのまま言えたように感じた。だから男も勘違いに気づいて、以前のような応えがあると思ってまっていた。しかし男はこれには直接こたえなかった。ただゆっくりと僕を一瞥しただけだった。だがその眼は先ほど感じたような、鋭く光りをまとっておらず、なにか哀れみを感じさせるものだった。この男からこんな目で見られるとは思ってもいなかった。だから本当に別人になったんではないかと、馬鹿げた思考が再浮上した。
 「何かした方がいいでしょうか?」
 僕はつい口にした。これに男はすぐさま答えた。
 「そう、構えてしない方が賢明だよ。何も気にしないでいい。歩いて食べて寝る。それで大丈夫だ」
 この男はこうやって、自分のことはあくまで自分ひとりでやってきたのだろうと思うと、何も言えなくなった。他人に一切を頼らず、しかし他人のことはこうやって無愛想であっても、払いのける事もせずに静かに話しを聞き、気にかけている。だから「ただ、わかりました」と言うしかなかった。だからこんなにも深く皺が刻まれ、影を落としているのかと納得してしまった。
 神妙になっていると急に出入り口のドアが開いて、そしてしっかりとカチャッと音がするまで閉じていった。誰も入ってこず、誰かが間違えて開けた訳でもなさそうだった。なにせ、いかにも誰かが通ったような、そんな雰囲気だったから。
 僕は硬直してしまっていた。気味が悪い。そのドアから視線を引き離して、男に移しても、男も何事もない素振りで、タバコに火をつけていた。この不自然さがないことが、背筋に寒気を覚えさせた。僕は身動きがとれずにいた。そこに男が割り入って話しかけてきた。
 「すまないが、もう今日はこれぐらいでいいだろう。借り主人も帰った事なのだから」
 何を言っているのか分からなかった。借り主人? 男は続ける。
 「それに誰かに見られていると、自然に感じるようになってきているんだろう。もう君も、しっかり見えるような存在になってきているという証だ」
 男は悪ふざけでもなく、いたってまじめな表情で、まっすぐ僕を見つめながら言った。今までにないほどまっすぐに。見えるような存在? 当たり前な言葉なはずなのに、分かっているはずなのに、訳も分からないまま、僕の中の何かがぐらぐらと音を立てて揺らいでいるのを、しっかりと感じた。目の前も揺らいで見える。
 「もう君は、存在なき存在で隠れていなくてもいいのだよ」
 揺れに耐えきれず、がらがらと激しく崩れて始めていっていた。粉塵をあげながら僕の中で。僕はただ、それをどうすることもなく、それを見つめるしかなかった。それを見届けている男は、微笑を浮かべていた。深く刻まれた皺でできていたはずの濃い影も消えていた。
 「さて、私はこのあたりで役目はすんだろう」
 そういってタバコの煙を滑らかに吐き出した。その新しく現れた一線の煙が周りと溶け込む頃には、その男の姿は消えていた。高く積もった本に埋もれた机の向うでは、椅子が静かに揺れていた。

透明ー存在なき存在としてー

これはあくまで物語である。物語として描いた。
けれど、それは自身にも当てはまり、叙事文といっても言い過ぎではないように、なった。
仮面と本心。思いを露にしたい、その葛藤。慣れ親しんだ「仮面」が上手く機能してしまっている。

透明ー存在なき存在としてー

カウンセリングのように悩みを打ち明ける部屋に赴く僕。深い皺が刻まれた老人が応えてくれる。 けれど、それがいつもとは何かが異なる。 ぼくは僕を話しているはずなのに、老人の彼は僕ではない何かと話しているかのように、噛み合ない。かみ合っていると思う僕と訝る僕。 若く、そして平凡だと、それを長年願っていた僕は面倒から避け、波風を立てないように引きこもっていた、溶け込もうとしているだけであったこと。 深い皺が刻まれた老人は、その「僕」の仮面の下にいる、自分自身を露にするために尽力尽くしていた僕自身の一部であった。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-21

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