或る海岸、青嵐に蒼る

 私は死んだ。



 私は真っ青な孤島で、強い日差しを浴びながら、不確定な身体を縦横無尽に使役している。さざ波立つ海は地平線の先まで広がり、数隻のタンカー船か客船かが世界の淵を行き交っているのが、米粒みたいな影ながら見える。凍てつく砂浜を歩くと、細やかでふわりとした砂塵が舞った。まっさらな緩急を描く浜辺はハマヒルガオを生かし、他のいかなる生物も海の中で殺したかのように、窪みの一つなかった。

 私はこの島に流れ着いたのだ。流木等しく、将来の砂粒として、海様に振り分けられた。私にはこれが相応の判断だと納得したし、幾分も退屈な日々が送れると思うと、随分愉快な心持ちがした。――遠く遠く、果てにある島を想うと、しかし、心臓を鷲掴みにされたような刺激が走った。

 今一度、砂浜を歩いてみる。私は死にきれているか不安になった。ただ、砂塵はたしかに舞ったし、足の遺した影らしいものも存さなかった。



 私は死んだ。流れ着くべくして流れ着いた、とも言える、謂わば神の啓示だろうか。いまでも、自発的なものではなかったため、多少の傷みが奥底に残っている。私は一切清々しくて仕様がないのだが、見方によれば、あれは不幸な事故である。事故とは実に、人の過失によるものではなかった。神の施しなのである。私の死とはまったくの事故であり、神のせいだ。神のお陰だ。

 口を大にして叫ぼう。神の啓示で私は解放されたのだ! 俗世を去るのに恋しさなどあろうものか? この上ない幸福である。この身を砥して神に貢献できるのだ。

 私は大空を大いに仰いでみた。斜めより射す旭日がただ単のものにしか見えなかった。振り返ってみれば、海も、島も、森も、実にただそこに当然として在る、形あるものであった。

 すっかり、先程の興奮は竹藪のようになってしまった。馬鹿みたいだ。神なんて居ないのに、死に意味など求めて。私は死んだ。ただそれだけである。世界は神聖さなど魅せない。私がここで砂粒――そんな高尚なものではない、塵と化すのは、どうやらそのとおりだろう。――砂浜と、中央に小さな森が植生する、江戸時代の台場程度の規模の無人島である。いずれはこの島ごと海に沈んでも、当然のことと思える。

 砂浜に風船のような身体を横たえた。それから仰向けになり、腕枕をして碧空を眺めるでもなく、視線の置所にした。

 私の死を不幸な事故とした。それを真としたいのは、心の重鎮である。夢のように曖昧な、脳の片隅の肖像が浮かんだりしている。

また、浮上した。



 追慕、終末より。

 涼しい夕方だった。心地良いわけでもないのに海岸線を歩きながら、フラッシュバックに任せて音痴な鼻歌を奏でていた。私は海が眼下に在ることをのみ見ていた。

 海面には独りの人間の影が揺れている。それは私に並行して、私が彼を見れば、彼も目線を刺した。幼少期のだるまさんが転んだ。そんな遊戯もあったな、とかいう偉そうな追懐をする。顔のないにらめっこ。記憶の中では、木陰の下で彼が笑っている。

 辺りは夕闇が下りていた。空はしつこいほど暮れ泥んでいる。今日は昼の天井影を避けるように部屋に籠もっていた。だが存外、変わらなかった。人が去った程度である。むしろ箱庭から、届きもしない碧空に手を伸ばすような感覚に陥った。惨めだ。

 埠頭が近づく。電灯が爛々と照らしている。夜明けとともに釣人が点々と来るのであろうが、その気配は夜の帳の内では、なかった。森林の最奥の秘境のようにただ静寂に佇んでいる。あの埠頭の先から海面を覗くには、それなりの覚悟が必要とされた――謂わば雰囲気というテレパシーである。または、後ずさりかけた私の心情である。だが押し切って、一心不乱、いや転じて狂乱に包まれて、何が何でもという思いに駆られて、埠頭への侵入を遮るフェンスを越えた。

 埠頭の周りは海しかないので、風は容赦なくちっぽけな人間に吹き付けた。身が左右に使役されるのを感じながらも、先端に足を運んだ。

 陸と海の境界に腰掛けた。足をぶらつかせる。月光を波間で眺めながら、脳裏にリピートされたのは、数年前に失踪したボカロPの青臭いエレキギターとピアノで奏でられた夏うたであった。どこかへ逃げたい、そういう妄想が現れたのは、某曲に浸っていた夏の頃であった。――ふと、昼下がりにすればよかったと思った。みるみる内に、夜と夕で混ざった空が、青天に補完されていく。私も青臭いままで居たかった。世界の隅人だと自覚するほどに惨めな人間になってしまった。青臭いままでよかったんだ。周りなんて見ずに、突っ走っていれば、人生なんて勝手に終わっていた。

 凍てつくコンクリートに両足で立った。確かに、地に足をつけた。そこにとりわけ強い風が吹き込んだ。

 だから――。

 私の身体は揺れる空に、際限のない光の反芻に落ちていった。か細い肉体が疾風を耐えられなかったからだ。風のせい。



 追慕、休息より。

 心の陰りはぼんやりと在った。いつだって他人を陥れることを考えていた。言葉の包丁を研いで、いつしか社会にめちゃくちゃにされ、それでいて私が何をしても正当化されるような状態を夢見ていた。

 その八月も、スマホの画面ばかり見ていた。プレイリストで勝手に流れてくるボカロに耳を傾けていると、時間だけが音も立てず過ぎていく。結局、聴くともなく聴いていたということだ。リビングは空調がよくきいて涼しい、だったらわざわざ活動する必要なんてあるものか、と半ば反抗的な態度で居た。

 ――一ヶ月の間、外は過剰なほどに乾くという、世間では異常と唱えられるほどの雨不足だったそうだ。

 気怠さが顕著になった月の中頃、私は右も左もわからなくなっていた。家から片足でも外へ出してしまったなら、自重で消えてしまいそうで、けれどこのままで居るのも心外であった。仕方なく友人を頼ろうと、村上泰秀にLINEメッセージを送る。

『潰れそう。今会える?』

 数十分後。既読。

『こちらも暇だよ。どこがいい?』

『ため池公園で。石のアーチのあたりで待ってる』

『了解』

 道の先にことごとく陽炎が湧いている。自動車が不確かな青天から現れる。民家沿いの木の下闇を伝って公園に向かった。口しょっぱいほどに汗が吹き出す。青暗い歩道に水滴が爆ぜた。

 石のアーチに凭れる男が、憚るように手を振ってきた。こちらが待っていると言ったものの、結局足取りが悪いがために遅れてしまったのだ。彼はなんとも思ってないだろうが、その温厚さを利用するのは私にとって存外である。そろそろ自立しないと、依存するのを辞めようと自戒をするが、何度頭の中で言葉を重ねても「しよう」なのである。

「泰秀、待たせてごめん」

「ま、別に、大して待ってないから。ここじゃ話しにくいから、ベンチに行こう」

 石のアーチから公園内の道を少し歩けば、ため池に向かうようにベンチが三つ並んでいる。どれも木陰になっていて、ベンチの辺りは宝石が投影されている。今では青々と茂る並木は、春には一面をピンクに染めていた。その痕跡はどこにもない。

「夏って、さみしいな、虚しい季節だな」

 私はベンチの傍でぶっきらぼうに立ち、頭上のグリーン屋根を見上げた。泰秀は私を真似して木を一瞥すると、さらりとベンチに腰掛けた。

「映画や小説の夏は眩い光を放っているだろう。でも、フィクションなんて目くらましだ。――夏は得るものより失うもののほうが多い。気づいたときには夏は去っている、思い出の色写真のほとんどを無くしてね。当たり前だ、夏が虚しいなんて」

 泰秀は吐き捨てるようだった。ため池で輪を描く水鳥を観察しながら。

「後には何も残らない、か。――そうだな」

 私も彼の横に腰掛けた。ベンチは一瞬ためらうほどに冷えている。それからして、私は彼の真似をして水鳥を観察した。音も立てずに水面を逡巡する。夏空の反転鏡に白が映えていた。ちっぽけな斑点を入道雲が注意深く見守っている。

「あの入道雲」

 泰秀が一つ、微かに呟いた。

「僕がもし、あの入道雲になったら、颯は青天を突っ切って会いに来てくれるか?」

「なんだよそれ、突拍子すぎ」

「おとぎ話みたいなもんだよ。ふと、さ、僕が入道雲になったら、地上を俯瞰することはできても、大切な一粒を見出すことはできないのかもなって。それで、もしもそのせいで僕が孤独を嘆くようになったら、颯はどうしてくれるのかなって、訊いてみたくなった。どう?」

「どうって、言われても…」

 まあ、ありえない話だけれど。ファンタジー作品に置き換えるなら。

「よだかみたいに、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました、てね。会いに行くんじゃないかな。久しぶり、なんて言って」

「よだかの星か。僕は銀河鉄道の夜みたいに偉いことはできないけれど、よだかにならなれるかな」

「そこまではよくわかんない。宮沢賢治だっけ」

「うん。賢治さんの作品はどれも、好きだよ。ぜひ読んでほしいな」

「まあ、気が向いたら。今は銀河鉄道で喩えられてもわかんねえ」

 私は他愛なく笑った。

「ああ、読みたくなってから、読んだら良いと思うよ」

 彼は前かがみになり、太ももの上で両手を組んだ。

「僕のことはいいんだよ。これくらいにしよう。颯はなにか相談でもある? あるから会いたいなんて送ってきたんだろうけど」

「ん、いや、ただ、外に出たかっただけかな。室内は息苦しいから」

 彼は間をおいて、私を見た。

「そう、たしかに清々しそうな顔しているな」

「駄弁るために泰秀を呼んだんだよ」

「いつもそうだな。別に構わないし、いつでも声かけてくれたら良いからね」

「当にそうしてる」

 泰秀が口角をあげて、俯いた。笑みをたたえた顔を必死に隠すようだった。らしくなく、甘えるように身体を左右に揺らした。髪が木漏れ日に包まれて金髪のように見えた。らしくなかった。お互い、なんでもないことを思索していた。そんな気がする。泰秀は道のタイルに視線を落とし、私は水面を眺めていた、というだけである。

 私達の意識が再び統合されたのは、幼児らの小鳥のようなはしゃぐ声からである。

「いいな、若いな」

「老人じゃあるまいし、私達も若いでしょ」

「颯は、そう思う? 僕たちはほんとに若いのかな」

 彼はベンチの背に凭れて、桜の木を仰いだ。

「花は綺麗だし、空は青いし、夏は緑がよく映える。この時点で月並みだ。身体が若くても、頭蓋骨はしわがれている。僕たちが――月並みの僕たちが、これからの人生で何を得るというんだろうか。ずるずると命を抱えて這うなんて、近ごろの老人でもやらないんじゃないかな」

 ――ずるずると命を抱えて這う、か。私のことだろうか。彼にそのつもりはなかろうが。泰秀は私と違って、思考回路がシンプルである。それでいて処理能力が高い。比喩的だが、つまり頭脳明晰である。開放的な未来は目に見えている、これから彼は羽ばたいていくのだろう。私は彼にいつまでも依存できない。私は思考回路が煩雑である。同じ道を逡巡して、結局疲れて何もできなくなる、だからなにをとっても彼より能力が劣って他人に見える。私はそれを否定してきた。誰に言われても反論してきた。だが、彼の言葉、ああ僕は月並みだ。生きてはいけるが、活きていくビジョンは立たない。――らしくないな。

「僕たちは自分が思うより、老いているんだよ」

 天寿を全うすれば長過ぎる余生。吐き気がする。

 泰秀は一息ついて、また前かがみになった。俯いた。

「僕たち、と言ったが、実際のところ僕だけかな。颯は、希望だよ。自分は若いと、そう答えてくれた。僕はさ、まさに余生に突入していると思うんだ。そう自覚している。周りは僕に期待しているみたいだけど、これ以上何も得るものなんてないよ。夏は終わった。失うもののほうが多い。泰秀は、大丈夫だよ」

「意味がわかんない」

「わかんないままでいてくれ。理系なんだ」

 わかんない。だが沈黙は耐えられない。

「そ、そういえばさ!」

 記憶に一切残らない、雑談をした。一生の後悔だ。恥だ。ほんとうに、らしくない。

 まだ灼熱の陽が射す中で、帰り際、泰秀が言った。

「話は戻るけど、僕が入道雲になっても、会いに来るなよ」

 わからない、けれどファンタジーの話ならそもそも有り得ないんだから、どうだっていい。



 追慕、入道雲の見下ろす地上より。

 村上泰秀は山頂で自殺した。それだけが告げられた。

 ちょうど晩夏である。天気の急変が多く、私の気も滅入っていた。

 葬式には行かなかった。ただ、最期の入道雲を瞳に映し、遣らずの雨を受けた。それが、せめてもの罪滅ぼしだと思ったのだ。

 それから、ずるずると命を抱えて這った。



 追想、砂浜から空へ。

 長ったらしい余生を水に流してやろうと思っていた。一切を水の循環に任せて、入道雲までのぼってやろうと。

 孤島から360度を見渡すが、雲といえば掠れるようなものばかりだ。

 このまま私は塵になる。余生の先をここで過ごす。

 ふと思った。塵になってしまえば、私は人でなくなる。そうしたら、所謂輪廻転生ができるのではないか。そうしたら、今念じておこう。そうだ、来世はよだかになろう。そうして、生涯を入道雲まで飛び抜けるために注ぐのだ。余生なんて発生しない。私の行動全てに意味が与えられる。

 いつか会いに行く。楽しいライフのために。

 そのときは、君も、久しぶりって、言ってくれよ。

 私の生きた証になる。

或る海岸、青嵐に蒼る

或る海岸、青嵐に蒼る

「私は死んだ」 主人公――颯は、どうやら死んだらしいと気付いた。そこは、果てしない海洋の上にポツリと浮かぶ孤島であった。 なんで死んだのかわからない。だが、自殺ではなかったはずだ。 そう思案するうち、いくつかの夏の記憶が脳裏によぎった。 ――ほんとうは、なにも忘れてなんかいない。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-25

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