孤星の望遠鏡
サンはひとりぼっちだった。父に用意された狭い部屋で、本を読んで、詩を詠んで、キツネやヘビのぬいぐるみと遊ぶ毎日。やがて一人遊びに飽きてしまったある日、サンは父のいる居間へ入った。父は備え付けの双眼鏡で、大きな窓の向こうの、一面に星々が散りばめられた青黒い空間を見つめていた。
父の方は飽きることなく、遠くにあるであろう何かに焦点を定めてずうっと見ている。この家の周りを小さな惑星がいくつか通り過ぎても、双眼鏡を動かすことはなかった。サンが少し離れた居間の入り口からこっそり見ていても、居間に入ってソファーに腰掛けても、こちらを見ることもしない。見かねたサンは、手に持っていたヘビのおもちゃを握りしめて、きゅうっと音を出した。やっと、父は自分の方を振り向いてくれた。嬉しそうにヘビを何度も鳴かせるサンに、難しそうな顔をしていた父はそっと微笑んだ。
「ねぇ、何を見ていたの」
サンは自分の向かいに座った父に問いかけた。赤い色のコーヒーで一服した父は、ちょっとした観測だよ、と答える。そしてカップをテーブルに置くと、再び立ち上がって双眼鏡の方へ行った。それから角度を調節して、高さも最小に変える。その行為を不思議そうに見つめていたサンを、父はやがて手招きした。
「君も、見てみるかい」
サンの顔がぱっと明るく輝いた。ヘビをソファーに置きっぱなしにして、父の元へ駆け寄る。高さを最小にしても届かない双眼鏡だったが、父は丸椅子を台座の代わりに持ってきてくれた。それによじ登って、やっとふたつの目をレンズに合わせる。瞳は筒型の黒い空間を通って、丸い世界を見た。小さく丸く切り取られた空間が、無数の星の瞬きをもって目に飛び込んでくる。けれども特に目立つのは、その中心に据えられた大きな星。それは瞬きをしなかったが、黄金色の美しい肌を持っていた。しばらく見とれていたサンは、やがて父の方に顔をむけた。感嘆の笑顔に固まった顔。だが父は立ったままノートに書き物をしていて、またしてもこちらを見てくれない。それが少しつまらなくなったサンは、父に気づかれない程度に、双眼鏡の方向を少しずつ、少しずつ変えた。レンズに目を当てながら、難しそうなダイヤルを回すと、ぼやけた視界がクリアになる。すっかり様相を変えた丸い世界に、ふと一つの星が入り込んだ。
その星は、サンの目も心もまるで奪っていった。星には所々薄いベールがかかり、そこから黄色や緑色のでこぼこした服が見え隠れしている。そして、何といっても一際目を惹くのは、星の表面のほとんどを占める深い青色の肌。その青は、サンもまだ目にしたことがなかった、唯一ともいえる美しい色をしていた。この星と同じように自分達のまわりを惑う星々も、はっきりとした青色は持っていなかったのである。
自分と父がいるところの周りをゆっくり回りながらも、青い星たち自身がそれより速いスピードで回転していることに、サンはやがて気がついた。青い星が身につけているベールや服装がわずかに変わっていくのだ。こうやって青い星を見続けて、どれほどの時間がたったのだろう。サンは疲れてきた目を双眼鏡につけたままぐっと閉じると、何もない黒い空間を見て一呼吸置こうとした。そうして遠くを見たサンは、その先に小さな一粒があるのを発見した。それは青い星の延長線上にあって、青い星やその他の惑う星のように自ら輝きもしない、虫のように小さい存在だった。けれどもサンには、その小さなものがどうしても気になった。自分の力で見とめた青い星と同じように、自分で見て正体を確かめたい。はやる気持ちに応えるように、手すりを力強く握っていたサンの手に、ボタンのようなものが入り込んできた。サンは双眼鏡のレンズに目を、顔を貼り付けたまま、ボタンを目視することなくそれを押した。
その時、双眼鏡は微かな機械音をあげ、サンの視界は眩しさに覆われた。黒い空間を浮かんでいた星たちが、流星群のような光線となってサンの瞳を焼き尽くしていく。それでもサンは、眉を顰めはしたが、瞼を閉じることはなかった。速度を上げて移りゆく視界では、あの小さな存在を見逃してしまうと考えたのだ。だが、それは杞憂に終わった。難しく唸る双眼鏡は、サンが見たがった対象を間近に写すと、その音を止めた。騒がしかった視界も、音とともにしぃんと静まり返った。サンはまたダイヤルを弄って、丁寧にピントを合わせる。その物体の正体に、サンは思わず言葉を失った。
それは、ひとりの人間だった。いや、ふつうの人間ではないかもしれない。その人物は、宇宙服も身につけることなく、黒い宇宙空間を漂うように浮いているのだ。透き通るぐらい白い肌に赤い唇を見ると、もしかしたらもうその命は尽きているのかもしれない。けれども、冷たい空間に放り出されて凍りつくことなく、また星々にぶつかって燃え尽きることもなく、その姿を保っていることは不自然にも感じられた。
人物を見つめ続けていると、それはやがて、ゆっくりと両の目を開いた。驚くことに、生きている。サンが思わずあっ、と声をあげると、父がじっとサンの方を向いたのにサンは気がつかなかった。それほどまでにサンは見とれていた。浮かぶ人物の瞳は、片目ずつ異なる色を持っていたのだ。右目は血のような赤、左目はガラスのような青。色違いの二つの目だが、両方とも何故だか冷たい。やがて、光のない瞳と、自分の目が見合ったような気がして、サンはどきっとした。そのまま、人物はサンがすぐ近くにいると感じているかのように、細い腕をサンの方にゆっくりと伸ばした。助けを求めているようにも見えるその姿は、どんどんサンがいるところから遠ざかっていく。思わず、サンも自分の手を前に突き出した――。
何かから強い力で押されて、サンは台座から崩れ落ちた。途端に、現実に引き戻される。サンを転ばせた父は、その勢いのままに双眼鏡を叩いた。双眼鏡は半回転して、反対側の大きなレンズがサンの目前に迫った。彼の目は見開かれ、鼓動は止まってくれない。しばらく息を荒げていた父だったが、尻餅をつきながら呆然としているサンの方を向くと、慌てて固く抱き締めた。
「ごめんね。怖かったね。ぼくが、動かしてはダメって言わなかったから」
その声も、体もわずかに震えているのを感じ、サンも腕を父の背中に回した。けれども、先程に目にした人物のことを、どうしても聞かずにはいられなかった。
「さっきね、ひとが浮かんでいるのが見えたんだ。あのひと、大丈夫なのかな」
「きっと幻だよ。宇宙は、ときどきおかしいものを見せてくる。変な夢を見ないように、忘れた方がいい」
「ほんとうに?だって、双眼鏡が最初に見つけて、僕に見せてくれたんだよ」
わずかにはにかみながら――それでもほぼ無表情で、サンの頭を優しく撫でていた父だったが、それでも真っ直ぐ見つめてくる子どもの不思議な言い分についに観念して立ち上がった。そのまま双眼鏡の角度をリセットすると、ボタンを押して電源を切る。そして、サンからは視線をわざとらしく逸らして、諭すように言葉を発した。
「あれは……悪いことをしたんだ。宇宙に投げ出されているのは、その罰さ」
「悪いこと?あのひとは何をしてしまったの?」
「ぼくの大切なものを奪ったんだ」
「それはいけないことだね。どんな――」
サンは父が言う「大切なもの」のことをもっと知りたかったのだが、それ以上は聞かないでほしい、と最後に言われて、口を開くのを我慢した。
再び、部屋の中に静寂が満ちる。父はサンの向かい側に腰掛け、記録を取りながらコーヒーを啜った。ふと視線を感じて顔をあげると、サンが澄んだ瞳で真っ直ぐに見つめていた。父は思わず不思議そうな表情を浮かべてしまうと、サンは何かを欲するように訴えてきた。
「……ねぇ、ぼく、あのひととお話ししてみたいな」
突拍子もないサンの言葉に、父はコーヒーを吹き出しそうになる。自分の子どもが"あれ"と――罪人と話したがっている。だが、それは何としても止めなければならない。あれと話すことが、せっかく仕立て上げた"いい子"にどんな悪影響を及ぼすか計り知れないのだ。けれども、いい子は――サンは完全に自分の世界に入り込んでしまっていた。これはサンの生まれつきの悪い癖だ。そんなうっとりとしたような調子で、サンは言葉を続ける。
「あのひと、どんなひとなのかな。とても綺麗な目をしていたよ。右と左で色が違うんだ」
「だから言っているでしょう。あれはいけないことをしたんだ。どんなに綺麗な目を持っていても、悪いやつには変わりはない」
"あれ"の左右非対称の瞳が、サンの気に入ったらしい。だが、父はそんなことはまるで気にしてもいないようだった。今度は父の方が言葉を続けようとしたが、当のサンはというと、いつの間にか巨大な窓に全身をはりつけていた。そして、"あれ"をーー"あのひと"を見つけた方向の空間を、食い入るように見つめている。あのひとと同じ延長線上にある青い星は、自分たちがいる部屋に随分と近づいていた。その青を背景にして、サンは父の方にゆっくり振り向いた。
「世界にはぼくの知らないひとがたくさんいるんだね。ああ、ぼく、ぼくが見つけたあのひとのこと、もっと知りたい。あのひとと友だちに――」
サンは言いかけて、口をつぐんでしまった。突然、父が大きな音を立ててカップを置いたのだ。カップの中で勢いよく揺れたコーヒーは、記録用紙にしみをつけた。自分の世界から急激に引き戻されたサンは、父を怒らせてしまったのだと咄嗟に理解した。いつもより荒い足音を立てて、自分の方に向かいくる父の姿を見ることができず、サンは両の目を固く閉じた。だが、足音が止まってしばらくしても、父は何もせず、何も言わない。恐る恐る目を開けて父を見ると、父はサンの後方、大きくなった青い星に視線を向けていた。その瞳は、悲しそうな、虚なような色を浮かべている。今度は父の方が、自分の世界に入ってしまったようだ。ゆっくりつま先を立てて、背伸びをしながら父の顔を覗き込むと、父ははっとして、サンの方を見た。その瞼が下に降りる目線のまま、父はやっと重い口を開いた。
「サン。僕は怖かったんだ。"あれ"みたいな悪いものとお話しすると、君まで悪い子になってしまうのではないかと思って」
ぼそぼそとした父の言葉にも、苦しそうな声色が灯っているようだった。それでもサンは、なぜだか"あのひと"のことを諦めたくなかった。
「でも、じゃあ……ぼくがお友だちになって、何がいいことで、何が悪いことなのか教えてあげるんだ」
珍しく強情を張るサンに、父は少し怯んだようだった。そして今度は、ソファーに置き去りにされた二匹のぬいぐるみを取り上げて、サンの目の前で遊んでみせた。
「ほら、君にはもう、友だちがいるじゃないか。キツネとヘビの友だち。それとも、もうこのふたりには飽きてしまったのかい」
「そんなことない!でも……キツネさんとヘビさんは、いけないこと、悪いことはしないでしょう」
父はついに、何も言い返さなかった。ただ一人で何かを呟きながら、額を手で押さえている。サンはまた、窓の方に振り返って、青い星の、さらに向こうの彼方を見た。双眼鏡なしでは、"あのひと"の姿を捉えることはできない。けれども、今もこちらに手を伸ばし続けているのかと思うと、胸がきゅっと痛くなった。今すぐにでも迎えに行きたい。目と目を見合わせて、その声を聞いてみたい。なにせ、ぼくが、ぼく自身が見つけた君なのだ――。
突如、まったく何の前触れもなく、警報音が鳴り出した。父は驚いて辺りを見回す。部屋の主である父でさえ、聞いたことがない音だったのだ。けたたましいサイレンの音は、徐々にプロペラやエンジンの轟音へと変化していった。はっとしてサンの方を見ると、なんとサンが立っている窓の向こうに、白い翼と骨を持った飛行機が出現した。機体は部屋を覆う厚い窓のガラスをことごとく割ってしまうと、大きな影を部屋の中に落とした。暗くなったサンの顔は、水色の瞳を爛々と輝かせて父を見下ろしている。
「サン!」
父は出したこともないような大きな声で、子の名前を叫んだ。だが、サンはまるで聞いていない。警報音と機械音の中で、半ば夢でも見ているかのようにぼうっとして、揺れている機体を掴んで乗り込もうとした。その既のところで、父は素早く駆けていくと、サンの身体にしがみついて引き寄せた。そして耳元に口を近づけると、宥めるように囁いた。
「わかった。わかったよ、サン。明日の朝には、彼をここへ連れてこよう。それまで、いい子にして今日はお休みなさい」
サンは一瞬だけ、意識を取り戻したかのような反応を見せると、自分を抱き寄せている父を真似てまた目を閉じた。室内を騒がせた飛行機は、幾つもの窓ガラスの破片を残したまま、いつのまにか消滅していた。泡のように、はたまた塵のように。
孤星の望遠鏡
✳︎本作品は、以前投稿していた『二重連星掌編集』のエピソード(チャプター)を加筆修正し、投稿したものです。