働くバニー

 夜、酔った男が本来帰るべき道をひとつ間違えたことに気づかずに、からだを揺らしてひたすら歩いていると、電灯も無いような暗い山道に迷い混んだ。
 男はそこまで来て、初めて自分が道に迷っていることに気がついたけれど、酔った人間がきっとみんなそうであるように、薄れてしまった危機感は足を止めることが出来ず、更に深い山の中に入っていった。
 そうして暗い道をブツブツとなにか文句を言いながら歩いていると、少し遠くになんだか場所にそぐわない怪しいネオンの光を見つけて、男は夜の蛾みたいにフラフラとつられると、その灯りを放つ店の前まで自然に吸い寄せられる。
 そうしてたどり着いた店の看板には、ただ“Bunny”とだけ光るネオンが浮いている。
 男はその単語から想像される情景に、酒で高揚した下心が働いて、躊躇いもなくドアを開けた。

 店の中は酒場特有の薄暗さで、アルコールの匂いと、なぜだか少し牧草の香りがしたようだった。
 男はカウンターに座ると、なんだか卑しい期待のこもった大きな声で店員を呼んだ。
 そんな男の声が響いて、厨房の方から気の抜けた返事がすると、文字通り一匹の白いウサギがマヌケに二本足でテトテトと歩きながら男の前に現れた。
「なにか注文ですか?」
 男はそんな小さなウサギを眺めながら少し黙って考えたようだけれど、複雑なことを考えるには男は少し酔いすぎていた。
「……女の子はいないの?」
「残念ですがうちは雄だけでやってるんですよ」
「いや、君の性別とかはどうでもよくてさ、バニーちゃんだよ。人間のさ、分かる?」
 男は虚ろな目で店の入り口の方を指差した。看板に書いてあるでしょなんて感じに。
「だからその看板通りですよ。バニーです。私たちがね。書いてある通りでそれ以上説明しようがありませんよ。簡潔でいいでしょう?」
「……確かにね」
 男は暫く頭を揺らして天井を見つめていた。ただいつまで経ってもなにも解決しない現状に、なんだか納得がいかないのか、ハイボールを頼むと、給仕をするウサギに身体を傾け、視線を移していくつか質問をした。
「君らはさ……なにをしてるの?」
 ウサギはクリクリとした瞳をまっすぐ男に向けて首を傾げた。
「なにって、お客さんにこうしてお酒を持ってきたんじゃないですか」
「いやさ、そういうことじゃなくて、なんでウサギがこんなバーみたいなことやってるのよってこと。こういうのは……なんだろ、人のやることじゃないかな」
 レイシストだ! と厨房の方から叫び声に近い怒号が聴こえた。
 男も給仕をする白いウサギも、チラリと厨房の方を見たけれど、特に気にせず会話を続けた。
「そりゃ生きていくためにお金を稼がないとですから。こういうお酒出す飲食って他より割りがいいんですよ。暗がりでやれるし、お客さんみたく看板で釣れる人もいるしね」
「ねえ、ちょっとまってよ。生きていくのにお金がいるの? ウサギなのに?」
「勿論。この店をやるのに税金だって払ってる。このお客さんに出すお酒もお通しも、全部街で現金で買ってきたものですよ」
 ウサギはお通しの小鉢を出した。中身はこれ以上ないほどわかりやすいニンジンのきんぴらだった。
 男は出されたお通しを食べながら、気になることを訊いた。
「こんなことしなくてもさ、君らが野生かなにか知らないけど、山で草葉でも食べて生きていけるじゃないの? なんでわざわざこんな汚い資本主義社会に飛び込んでくるんだろう?」
 また厨房の方から怒号が聞こえたようだったけれど、男はそれを無視して目の前に立つウサギをジッと見つめている。
 ウサギはきんぴらを食べる男の口元をまた同じように見つめながら、淡々と答えた。
「義務感がなければ生きていけないからでは?」
「義務感?」
 男の声には少し苛立ちがあるようだった。
「人が真に自由を手に入れると根腐れするみたいなもので、半ば強制的な目的を与えられた方が、活力も生きている意味も次第に生まれてくるからだと思います。草を食べるだとか、そういう自然の流れ的なものではなくて」
 男は眠たげな眼を擦って、小さく舌打ちをすると首を傾げた。
「……ねえ、人がどうとかさ、何度も言うけど君らはウサギなんだよ。そういう発達した大脳でないと考えられないようなさ、面倒な答えの無い意味なんてものは人間様が考えることだよ。君らは干し草とかニンジンでも食って幸せにさ、素敵に暮らしてりゃいいんだよ」
「そうした流れるまま、なんの生き甲斐もなく生きていくことが素敵で幸せなことだと思います?」
「ああ、思うね。それこそ僕がウサギだったら」
 給仕のウサギはなんだかニヤニヤと笑って訊いた。
「ウサギだったら?」
「働かずに草でも食って、いつまでも眠ってるよ。時間も気にせずにね」
 男はそう言うとなんだかばつが悪そうにおもむろに立ち上がって、フラフラとした足取りで店を出ようとした。
「ああ、お客さん。会計がまだですよ」
 男は半分閉じられた眼を給仕のウサギに向けて言った。
「だからさ、こうした通貨の取引なんてのもさ、人間の特権なんだよ。ウサギが銀行口座を開設できる? お札の肖像はみんな人間様だよ。わかるかな? 君らが税金を払ってるだとかそういう嘘をどれだけ並べようと構わないけど、君たちのバカなおままごとに付き合ってられないの」人間のバニーちゃんもいないしと男は呟いた。「警察を呼んだって良い。ただ刑法も民法も人間のものさ。ウサギを守る法律なんて無いんだから」
 そこまで男が言いきったとき、ドカドカと音を立てて厨房の方から一匹の黒いウサギが太い麺棒を持って現れた。
 黒いウサギはそのまま男の頭まで跳ねると、渾身の力で持ってその麺棒を男の頭目掛けて振り下ろした。
 鈍い衝撃が何度も頭を揺らしてしまって、薄れていく意識の中、男は給仕のウサギの声をハッキリと聞いた。
「あなたは素敵に生きられますか?」なんて。

 
 痛む頭を押さえて、男は目を覚ました。飲みすぎたせいか、どうやって家に帰ったのかも覚えていない。
 頭痛と共に酷い吐き気がして、我慢できずにその場に吐いた。オレンジ色の吐瀉物はすえた匂いを発している。
 暫くのたうつようにベッドに身体を擦り付けていた。そうしてほんの少しだけ気が楽になると重いからだを無理に起こして、洗面所に向かった。
 そうして半分しか開いていない眼で、洗面所の鏡を見つめると、頭から伸びる毛の生えたふたつの耳を男は大切に撫でた。
「今日も仕事か」
 縦に割れた上唇からそんな声を漏らしてみれば、ベッドの方で携帯のアラームがけたたましく鳴った。

働くバニー

働くバニー

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-25

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