真緒とワラワ
Ⅰ
「きゅぴ」
「おお」
それを。前にして。
「丸いな」
「ええ」
うなずく。事実、その通りなので。
「ですが」
ためらいをにじませ。
「よろしいのかと」
「む?」
こちらを見上げ。
「何がだ」
「いえ」
言葉を探す。ということに加え。
「どうした」
「えっ」
「緊張しているのか」
「そ、それは」
普通なら。
十も年下の相手にこんなことはない。
はずで。
(むむむ)
知らない相手ではない。
だが、ほとんど話をしたことがないのも事実だ。
「あっ」
そこで。大事なことを思い出す。
「お嬢様がいつもお世話に」
軽く。首を。
「お嬢様?」
きょとんとして。
が、すぐ。
「ああ、アリスのことか」
「はい!」
力が。
「何を言う」
「えっ」
深々。頭を。
「世話になっているのはこちらのほうだ」
「あ、いや」
「とてもがんばってくれているぞ、アリスは」
にっこり。
「お嬢様が」
こちらも。笑みを。
「本当に」
よかった。
ずっと行方が知れなかった。
いや、ある意味では〝わかって〟いた。
卵土(ランド)。
そう呼ばれる『世界』にいると。
「団長だからな」
笑顔のまま。
「は、はあ」
向こうでの事情も大まかながら聞いていた。
(しかし)
団長とは。
輝閃(ひかり)の騎士団。
過酷な世界で力なき人々を守るため、志を同じくする者たちと結成した集団。そのリーダーにまさか自分の知る〝お嬢様〟が。
「がんばっている」
こちらの思いを察したのだろう。くり返して。
「なあ、微兎(ビット)」
「チュイッ」
小型のモーター。あるいはドリルが回転するような短い駆動音。
どうやら、肯定の返事らしい。
(し、しかし)
その〝同行者〟は。
(丸い)
こちらに。負けず劣らず。
ただ、素材感はまったく違う。
金属製。明らかにそう思わせる光沢を放っている。
「アリスをつれてこられなくてすまなかったな」
「あ、いや」
正直。
その消息を伝え聞いたとき、すぐさま飛び出したい衝動に駆られた。後を追う方法を求めて世界中を回りさえしたのだ。
その途上で。
「ワラワは」
表情が。硬く。
「危険です」
はっきり。
「むぅ」
への字に。
「しかし」
言う。
「必要なのだ」
「……はい」
聞いている。
「海印(カイン)は」
その国は。
「いま、とても大変なことになっている。何があってもおかしくない」
「………………」
やはり。
十歳も年下と思えない重みを。
「ヒメサマ」
そこに。
「……ダメ」
「微兎」
浮遊する球体をなで。
「ここまで来て、何を言っている」
「チュイ……」
それでも、という気配が伝わってくる。
そして感じる。
大切な〝姫〟を案じるその思いが。
「必要なのだ」
くり返す。
「水騎士(すいきし)たち、それに海印の多くの者が王の帰りを待っている」
(王……)
こちらの〝球体〟に視線を落とす。
「きゅぴ?」
見上げられる。
(これが)
王と呼ばれる存在であることを。
自分は。
知っている。
その力の一端も垣間見ている。
海。
向こうの世界におけるそれそのものと言っていい存在。
己の力を増すため、より豊かな海が存在するこちら側へとやってきた。
そして、いまはこのような姿になってしまっている。
(無力)
のはずだ。
なつかれてしまったような形で自分と共にいるが、事実、かつての強大な力のひと欠片さえも今日まで見ることはなかった。
だが、それならそれで。
「本当に」
疑問はある。
「役に立つのか」
「む?」
「ワラワが」
水滴のような。いまの姿となったこの。
「向こうで力になれるとは」
きょとんと。
が、すぐ。
「そうか」
うなずき。
「心配なのだな」
「えっ」
これを? いや、そういう感情からでは。
「仲良しなのだな」
「ええっ!」
そういうことでは。
「よし」
笑みを。
「あっ」
奪い去られる。
「ちょ、待っ」
そんな無造作に。
「ワラワ」
話しかける。
「私とも仲良くしてくれ」
(ち、ちょっ)
あせりが。止まらなく。
「きゅぴ?」
首をかしげるような仕草。
「ふふっ」
頭(?)を。なでる。
「かわいいな」
(か……)
そんなことを言っていられるような存在では。いや、見た目にそうであることは間違いないのだが。
「鬼堂院真緒(きどういん・まきお)だ」
目を。合わせ。
「よろしくな、ワラワ」
屈託のない。
「きゅぴっ」
跳ねた。ぽよんとボディがゆれる。
(こいつ)
どういうつもりなのだ。
(そもそも)
知っているはずだ。
お互い。
どういう存在であるか。
(なのに)
あまりにも無邪気。どちらもそう見えて。
「よく跳ねるな、ワラワは」
ポンッ、ポンッ。
「わーっ!」
毬のようにつき出したのを見てさすがに。
「ほら、微兎も」
「チュイーッ❤」
ポンッ、ポンッ、ポンッ。
「や……あ……」
両方の手でそれぞれを。
楽しそうにたわむれる姿に、何をどう言えばいいのかもうまったくわからなかった。
Ⅱ
放っておくことも。
できず。
「いいのか?」
逆に。
「いそがしいのではないか?」
「あ、いや」
むろん、皮肉などではない。
心からこちらを。
「ワラワは」
自分にとって。
「………………」
何だ?
敵だったものが、いつの間にかその責任者のような立場に。
「アリスお嬢様が」
言葉に詰まり、そして。
「必要とされていると」
「うむ」
うなずく。
「アリスはがんばっているのだ」
我がことのように。胸を張り。
「がんばって、海印を守ろうとしている」
はっと。
「ワラワの国は」
笑顔が消える。
「やはり、大変で」
「うむ」
うなずく。
「なら!」
身を乗り出す。
「わたしが!」
「うむ……」
すこし。難しそうに。
「絆だ」
「っ……」
絆。
「それで導かれることが多いと聞く」
「………………」
「まだ〝門〟は確かなものではない」
こちらを。気遣う様子を見せつつ。
「大丈夫だ」
微笑む。
「シャーリィのことは、ちゃんとアリスに伝えておくぞ」
「………………」
なぐさめに。それでも。
「ええ」
うなずく。笑みも。
年上として。
せめて、情けない姿は見せられなかった。
「強いな」
「っ」
「さすがは騎士だ」
(く……)
どうしようもなく。心がゆれる。
下手なつくろいが、むしろ自分をより情けなくしている。
「ほら」
かかげる。
「絆だ」
「えっ」
「ワラワとの」
それは。しかし。
「そんな」
素直には受け入れがたい。
「ほらっ」
跳ねる。
「きゅぴっ」
「わ……」
再び。こちらの腕の中に。
「仲良しだ」
「う……」
「私と微兎と一緒だな」
「チュイッ」
当然と。言いたげな音を。
「………………」
何も言えず。
「……おい」
思わず。
「おまえは」
手もとに。
「わたしと」
その次が。うまく言葉にならない。
「と、とにかく!」
無理やり。
「お嬢様はおまえの国のために戦っている! わかっているのか!」
「きゅぴ?」
「だから!」
押し戻す。小さな手の中へ。
「お嬢様の」
感情が。
様々に混じり合ったそれが止めようもなく。
「力……に」
あふれる。こぼれたそれが、二人の手の間に落ちる。
大きな滴に。小さな滴が重なる。
「………………」
あぜんと。していたものの。
「すまない」
頭を。
「私の力が足りないばかりに」
「っっ……」
何ということを。言わせてしまっている。
「こちら……こそ」
詰まりつつ。それでも必死に無様な姿を見せまいと。
「情けない……」
「何を言う!」
言われる。滴をはさみ。
「私こそ!」
涙。こちらも。
「だめだな」
気丈にぬぐって。
「笑うのだ」
「っ」
「できることをしよう」
笑顔で。
「私はみんなを助けたい」
「!」
胸を。
「みんなが笑顔でいられる世界を見たい」
「それ……は」
同じだ。自分も。
あの〝大戦〟を経たいまでは、よりいっそう。
「笑うのだ」
力強く。
「必ずできる」
「っ……」
なんて。
「わかり合える」
手を。
小さな。けれど。
「いまここを生きる者として」
真剣な。
「わかり合わなくてはだめなのだ」
「………………」
ふるえが。
それは手もとにも伝わり、滴を波立たせる。
「まだ〝門〟が開くまで間がある」
優しく。
「私はシャーリィとも語り合いたいぞ」
「ハッ!」
反射的に。膝をつこうとしたした自分に気づき、あぜんと。
(これが)
姫。
そう呼ばれる人なのか。
「ん?」
あどけなく。首を。
そんな仕草にも、静かながら確かな威厳を感じる。
「鬼堂院真緒」
わずかに。ためらいつつも、そのまま名前を口にして。
「ワラワは」
共に。抱えていたのを。
「やはり、わたしが管理する」
引き寄せる。
かすかに目を丸くしたが。
「わかった」
何も聞かず。こちらの意志を尊重するというように笑みを見せる。
またも。
膝をつきたくなる自分を意識しながら。
「まかせてほしい」
口にした。
Ⅲ
現世騎士団(ナイツ・オブ・ザ・ワールド)オセアニア区館。
与えられた自室で。
「ワラワ」
寝台に。あおむけに寝ころび。
「おまえは」
両手でかかげているところへ。
「きゅぴ?」
「く……」
わからない。
力を失い、このような姿になり。
いま。何を思っているのか。
「何か言え」
「きゅぴきゅぴ」
「おい」
確かに「何か」とは言ったが。
「どうなんだ」
一方的に。
「向こうに戻りたいのか、おまえは」
普通ならそうだ。
加えて。
「おまえの国のためにお嬢様が戦っているのだぞ」
語気が。
「どう思っているのだ!」
ぎゅうっ!
「き……きゅぴ……」
「あっ」
我に返るも。
(なぜ)
こいつのために。自分が。
「ふぅ」
身体を起こし、軽く頭をふる。
(どうかしている)
目を伏せる。
「きゅぴぃ?」
心配するように。
「おい」
あらためて。
「おまえは」
見つめる。その真意をすこしでもつかもうと。
「きゅぴぃ~」
「う……」
つぶらな。
「や、やめろ」
そらしてしまう。
「と、とにかく、お嬢様の力になるんだぞ! いいな!」
「いいわよ」
「!」
驚いて。
「きゅぴぃ?」
「……っ」
何も変わらない。ように。
「ワラワ、おまえ」
「きゅぴきゅぴ」
「………………」
どう。判断すれば。
(空耳……)
しかし、確かに聞いたと。
「おい」
再び。
「おまえ、本当は」
「きゅぴ?」
「おい!」
しかし。
「くっ」
無駄。そう感じ。
「いいか」
それでも。
「わたしをだますようなことがあったら、決して許さないからな」
「きゅぴぃ~」
「聞いているのか!」
それさえ、本当のところはわからないのだ。
(管理するなどと)
とても言えたような立場ではない。
(だが)
宣言を。違えるようなことはできない。
騎士として。
Ⅳ
「きゅい~っ」
青空の下。波しぶきと共に流線形のシルエットが跳ねる。
「おおー!」
目を。輝かせ。
「すごい、すごい!」
大はしゃぎの。
「すごいな、微兎!」
「チュイッ」
はずむ機械音。何よりまず、隣でよろこぶその笑顔がうれしいという。
「あっ、あまり身を乗り出しては」
あわてて。
「何を言う」
笑顔のまま。
「近づかなくてはさわれないではないか」
「しかし」
ここはプールではない。海に向かってせり出した岩場の上だ。
「きゅいー」
「きゅいきゅい」
次々。鼻先をつき出してくる。
「あははっ」
笑って。小さな手を伸ばす。
「あ……」
本当に止めようとしたところで。
「きゅぴっ」
「えっ?」
肩の上で。
「どうした」
「きゅぴぃ?」
逆に。
「い、いや」
そちらが先に。
「うわぁ」
「!」
はっと。見たときにはすでに。
「ああっ!」
小さな身体が。海に向かって。
「チュイッ!」
飛び出す。
さらに小さな球体。
それでも、海に落ちるところを必死に押し戻そうと。
「わっ」
かろうじて。
一瞬遅れ、後ろに倒れかけたところを抱きとめる。
「微兎!」
反動で。逆に自分が海へと。
「きゅいーーっ」
ポーン!
跳ね上げられた。
「え……」
海中から。
「きゅいーっ」
「きゅぅいーっ」
ポーン、ポーン!
「おお」
落ちそうになったことも忘れ。
「いいぞーっ、微兎! みんなーっ!」
くり広げられるあざやかなやり取りに。惜しみない歓声が送られる。
「い、いや」
これは。どういう状況なのだと。
それでも。
「ち、ちょっと」
注意だけは。本当に危ないところだったのだから。
「っ」
危ないと。言うのなら。
(すでに)
そういう状況に。
まだ年端もいかない身で。
(なのに)
泣き言一つなく。
胸を張って。
「くっ」
これは。本当につかの間の『休息』と言ってもいい時間なのだ。
「申しわけない」
「む?」
こちらのつぶやきを聞きとめたのか。
「なぜ、あやまる」
「いや」
「こちらが悪かったのだ」
屈託なく。
「シャーリィはちゃんと注意をした。何も悪くないぞ」
「………………」
「微兎もありがとう」
「チュイィ~」
さんざん跳ね上げられて。目を回したかのようにふらふらと。
「ほら、こっちだぞ、こっち」
キャッチを。
「みんなも遊んでくれてありがとう!」
「きゅいー」
「きゅいきゅい」
どういたしまして。鳴き声が。
「行こうか、シャーリィ」
「あ……ああ」
まだ気持ちが乱れたまま。うなずく。
「あっ」
しまったと。
「私ばかり楽しんでいてはだめだな」
「えっ」
「ワラワと仲良くしなくては」
言って。
「ワラワ」
こちらに。手を。
「きゅぴっ」
飛び乗る。
「あっ、おい」
あまりの気安さに。
「今日は何をして遊ぼうか、ワラワ」
「きゅぴきゅぴ」
「そうか」
仲良さそうに会話(?)しながら歩いていく。
(あっ)
そのとき。
(あいつ)
あのタイミング。
不意にこちらに呼びかけた。その直後、事故が起こりそうになった。
(まさか)
わざと。こちらの注意をそらしたのか。
(馬鹿な)
そんなことをして何の意味が。故国を救うためにと来た相手に。
(その気が)
ない。最初から。
(しかし)
見ている限りでは、決して非友好的には。
(いや)
これも芝居? 何かたくらみが。
「どうしたのだ」
「っ」
不思議そうに。こちらを見ている。
その腕の中で。
「!」
笑ったように。
見えた。
Ⅴ
「許可できない」
即座に。
「そうなのか」
しょんぼり。
「あ、いや」
優しい言葉をかけそうになり。
(いやいやっ!)
ここは厳しくしなければ。
「だめだ!」
あらためて。声を強め。
「危険すぎる!」
「む?」
不思議そうに。
「危険なのか」
問いかける。
「きゅぴきゅぴ」
(おい)
肯定したのかと。
「ワラワはかわいいな」
「きゅぴぃ~」
(どっちなんだ!)
やはり、わからない。
「とにかく」
軽く。せき払い。
「遊び半分の気持ちでは」
「遊びではない」
息をのむほど。まっすぐ。
「真剣だ」
「あ……し、しかし」
「真剣に」
ゆるがない。
「ワラワと仲良くしたいのだ」
「………………」
反対する言葉が。
「そ、それでも」
なんとか。
「そのことは」
「わかった」
あっさり。
「手放したくないのだな」
「えっ」
「ワラワのことを」
にこっ。
「かわいいものな」
「………………」
何と言えば。
「わかるぞ」
わかられても。
「わかった」
今度は何を。
「一緒がいいな」
「だから」
それは。
「みんな一緒だ」
「えっ」
思いも。
「シャーリィも一緒に寝よう!」
(どうして)
こんなことに。
「こら」
怒られる。
「なぜ、そのようなところにいる」
「は?」
「こちらに来るのだ」
「え、いや」
休む前に話すことでも。
「一緒と言っただろう」
「はあ」
言われた。
「一緒だ」
言われる。
(だから)
こうして一緒の部屋に簡易のベッドを用意してもらって。
「こら」
聞きわけがない。言いたそうに。
「何を照れている」
「照れては」
いる。正直。
戸惑っているというほうが近いが。
「ほら」
ぽんぽん。寝台の脇を叩く。
「来い」
「………………」
これは。
「え……あ……」
一緒に。それは文字通り。
(いやいやいや)
いい歳をして、そんな!
が、考えてみれば、相手はそれがおかしくない年齢で。
「嫌なのか」
「っ」
こんな顔を。前に。
「ご……」
自分は。
「ご一緒させていただく」
言っていた。
「あったかいな」
「………………」
あったかい。
(こんなことに)
なるとは。
「申しわけない」
?」
「わたしのせいでベッドがせまく」
「そうか」
あっさり。
「うわっ」
驚きの。
「こうすればせまくないぞ」
「あ、い、いや」
「だめか」
「う……」
言えない。
「ふふっ」
うれしそうに。
「あたたかいな」
「………………」
「大きいな」
「えっ」
あたふたと。
「いや、わたしなどたいしたものでは」
「?」
「錦のほうがずっと」
友の名を。
少年のようなその見た目に反し。
女性的な部位は。
「確かに、錦は大きいな」
「う……」
はっきり言われるのも。
「私も錦のように大きくなってみたいぞ」
「ええっ!」
そんな望みが。こんな幼いときから。
「気持ちいいだろうな」
「き……!」
なんてことを。
「高いところから見る眺めは」
「た……」
高い?
「あ」
気がつく。
「背が」
「む?」
「い、いや!」
言えない。
「おかしなシャーリィだな」
「う……」
弁解しようもない。
「いい子、いい子」
「!」
なんと。
「な、何を!」
「嫌だったか」
すまなそうに。
「よろこんでくれると思ったのだが」
(何を)
だから、こちらのほうがずっと年上で。
「ユイフォンはこうするととてもよろこぶのだ」
「えっ」
思い浮かべる。これまたあまり交流はなかったが。
「娘だからな」
「………………」
年上。だったはずだ。
「わたしは」
さすがによろこぶというようなことは。
「その」
言えない。
まま。
「………………」
思い出す。
(お嬢様)
ずっと昔。
一緒に寝てほしい。忍んできたことがあった。
(同じ)
とは微妙に言えないが。
愛おしさを。
あのときのように。
「おやすみなさい」
優しく。
「うむ」
うなずく。そのまま。
寄り添い共に眠りに落ちていった。
「チュイィィィーーーッ!!!」
「うわっ」
悲鳴。のような機械音に。
「お、おいっ」
まだ頭が半分眠っている状態で。それでも、部屋の中を猛スピードで飛び回っている球体を視認する。
「どうした一体」
「チュイッ! チュイチュイーッ!」
わからない。
「落ちつけ」
「チュイチュイッ!」
「落ちつけと」
見た。
「………………」
言葉が。
「い……や……」
目を。閉じたりこすったり。
「………………」
変わらない。
「チュイッ! チュイィッ!」
こちらも。一緒に驚きたい思いで。
「な……」
なぜ。
「二人いるんだーーーーっ!」
絶叫していた。
Ⅵ
(このようなことになるのではと)
思っていた。はずもなく。
思えるはずもなく。
「すまない」
あやまられる。
「い、いや」
あやまられても。
「っ」
いや。堂々としながらもこのように素直な態度を取れるのがやはり。
「おい!」
もう一方に。
「う……」
不安げに。瞳が。
(こ、これは)
確信が。
(落ち着け)
早急に決めつけられることではない。
「コホン」
せき払い。完全にただとりつくろいの。
「………………」
あらためて。
(わ……)
わからない。二つの意味で。
(どちらが)
本物か。
そして、なぜこんなことになってしまったのか。
「あー」
まずは。とにもかくにも。
「どちらが」
本者だ。聞きかけて。
「う……」
こんな間抜けな質問もない。
と、向こうでも察したのか。
「すまない」
あらためて。頭を下げ。
「私が」
言いかけて。
「……むぅ」
隣を。
(どうした?)
本物なら、本物と。
(あ……)
気を。
自分が本物だと言えば、当然もう一方は偽者ということになる。
(そんなことを)
優しいのだ。
近くで接した時間は短いものの、それは十分に感じていた。
「おい」
なら、ここは自分が。
(く……)
つぶらな瞳が。
(偽者なんだ、偽者!)
言い聞かせるも。
(……本当に)
偽者なのか。
(そんなこと)
決まっている。一方が本物であるなら。
そのはずなのだ。
「く……」
決めつけきれない。万が一という思いが消えない。
「だ、大体!」
苦しまぎれに。
「なぜ、偽者が現れる!? 誰がそんなことを」
言って。
「あ……」
気がつく。
「ワラワ!」
部屋を見回す。
「おい! 隠れていないでさっさと」
姿が。
気配が。まったく。
「まさか」
おそるおそる。
「おい」
どちらに。焦点が迷う。
「ワラワなのか」
決められないまま。
「どうなんだ!」
びくっ。共に小さな肩がふるえる。
(あ……)
しまった。本物までおびえさせるつもりは。
「チュイーッ」
カーーーン!
「痛っ」
何を。言う前に。
「チュイチュイ! チュイッ!」
「う……」
怒るのも当然か。
「すまない」
謝罪し。
「そうだ!」
気がつく。
「微兎!」
「チュイ?」
「といったな」
「チュイ」
「おまえなら」
見る。二人の。
「わかるのではないか」
「チュイッ!」
はっと。
「チュイィ~……」
見つめる。センサーを向けるといったところか。
「どうだ?」
機械の〝目〟を通してみれば。
「おい、どうだと」
「チュイッ!」
不意の。
「チュイィィィ~~!」
パニック状態。部屋をぐるぐると。
「……おい」
わからないというのか。人以上の感覚をもってしても。
「チュィィ……」
すまなそうにうなだれる。
「微兎」
そこへ。優しく。
「よいのだ」
「チュイ?」
本当に? 言いたそうに。
「微兎がいつもがんばっていることを、私はよく知っているぞ」
だからいいのだと。結果にこだわるのでなく。
(しかし)
このままというわけにはいかない。
「わたしが」
前に出る。
(く……)
何とかする。言いたい。この中で、まがりなりにも一番〝敵〟のことを知っているのは自分なのだ。
(それでも)
何が。どうなっているのか。
それが把握できないままに無責任なことは。
「無理をするな」
「っ」
言われてしまう。なおさら。
「仲良くすればいいのだ」
「えっ」
何を。
「最初からそのつもりだった」
手を。取って。
「仲良くしよう」
微笑む。
自分と瓜二つの相手に。
「………………」
おずおずと。それでも。
「あっ」
相手も。
その手を握り返した。
Ⅶ
(どういうことだ)
ますますの。
二人の〝姫〟。
(こちらをだまそうと)
しかし、その『意味』がわからない。
明らかに。
違う。
「なあ」
一方が。一方に。
「不思議だな」
こくり。何も言わず。
(これだ)
不自然だ。
何も。
いまのところしゃべろうとしない。
おどおどと。
不安そうに瞳を泳がせるばかり。
(これでは)
違う。
姿を真似た相手にだけでなく、自分が知っているはずのその正体とも。
(ワラワ……)
なのだろうか。本当に。
尽きることなく疑問は湧いてくる。
「おい」
詰め寄る。
「ワラワなんだろう」
目を。見て。
(う……)
だめだ。
本物とまったく変わらないつぶらな眼差しは、はかなさをたたえてよりいっそうの愛おしさを。
(だから、だめだと!)
無理やり。そらして。
「どうした」
心配そうに。
「い、いや」
言えるはずもない。
「すまない」
またも。素直な。
「私が迷惑をかけて」
「いや……」
どう応じろと。
「く……」
こちらの。目も。
「と、とにかく」
やはり、直視できず。
「このままというわけには」
「そうなのか」
おい! ツッコみそうに。
「このままでも」
にっこり。
「私は仲良くできるぞ」
(う……)
仲良くしてもらっても。何を考えているかわからないというのに。
「はっきりさせておく」
ここは。年上として。
「そのような相手ではない」
言う。
「ワラワは」
あらためて。これまでのことを思い出し。
「力を求めてこちらの世界に来た」
「それは私も同じだ」
「えっ」
「だろう」
「や……」
同意を求められても。
確かに、その通りと言えないことはないのだが。
「なあ」
再び。優しく。
「私と仲良くするのは嫌か」
戸惑い。瞳が泳ぐ。
(あっ)
ふるふると。
「そうか」
うれしそうに。
「では、行こう」
「えっ」
どこへ。
「行きたいところはあるか」
答えは。なく。
「では、私にまかせるのだ」
気を悪くした風もなく。
「あっ、ちょっ」
手をつなぎ。潮風の吹きぬける石畳の上を。
「そ、それより先に」
止めようとする声も流され。
風の中。二つの影は。
「おい!」
踊った。
Ⅷ
「きゅいきゅい」
「きゅい~」
今日も。楽しそうな鳴き声が響く中。
「困ったわねぇ」
本当に。困っているのかと。
言いたくなるくらいに向けられているその視線はなごやかで。
「レイナ館長」
反対に。こちらの声は厳しく。
「そんな生易しい状況ではないと」
「生易しくはない」
肯定される。
「姫だもの」
付け加えられる。
「そ……」
そう言われてしまうと。
「その通りです」
うなずくしか。
「かわいいわね」
やはりの。なごみ目で。
「それが二倍だもの」
イルカたちとたわむれる二人を。
「だから」
そういうことを言っている場合ではないのだと。
「このまま行かせるの?」
「えっ」
聞かれるか。
「そんなわけには」
「どうして?」
「どうしてと」
言われても。
「………………」
そこでの。
(いいのか)
いやいやいや。
「いいわけが」
ない。
「どう思います?」
向こうで戦っている者たちは。そこには自分の〝お嬢様〟もいる。
「混乱するでしょう」
自分たちのように。
「そうねぇ」
それでも。
「いいのかもしれない」
「ええっ!」
「そういうものなのよ」
どこか。遠い目で。
「姫というものは」
「え……あの」
どういうことだ。
何か。知っているのか。
自分もよく把握はしていない。
〝姫〟と呼ばれる存在を。
「あっ」
問いかける間もなく。
「か、館長」
行ってしまう。
「………………」
ぼう然と。
「シャーリィ」
「わっ」
飛び上がる。
「話は終わったか」
「あ、いや」
一方的に終わらされてしまった感は。
「さびしがっているのだ」
「えっ」
それは。
「みんなが」
届く。
「きゅい~」
「きゅいきゅい~」
「あ……」
つまり。
「人気者だな」
「い、いや」
どう答えれば。
「ほら」
手を。
「あっ」
引かれるまま。
「きゅい~」
「きゅきゅい~」
ばしゃばしゃ。水面に顔を出したり引っこめたりと大はしゃぎだ。
「人気者だ」
あらためて。言われてしまう。
「う……」
どうしろと。
「きゅーい」
「きゅいきゅい」
「呼んでいるぞ」
「えっ」
呼ばれても。
「行かないのか」
行く!?
「この格好で」
「む?」
「い、いや」
無理だ。
「よし」
うなずくなり。ためらいなく。
「わ……!」
手で目を覆いそうになり。
逆に。
(こ、子どもだぞ、相手は!)
どういう目で見ているのだと。かといって堂々と見るのも。
「たーっ」
勇ましいかけ声が。
「あっ」
我に返ったときには。
「危な……」
ポーーン! 飛びこんでいた。
「きゅいーっ」
「きゅきゅいーっ」
大はしゃぎ。拍車がかかる。
「あははっ」
大丈夫かと。岸近くとはいえ、ここは子どもでは足のつかないような。
「すごい! すごいぞ!」
「きゅい~」
(あ……)
さすが。と言うべきか。
小さな身体をその背に乗せ、まったく危なげがない。
見事な〝騎士のイルカ〟ぶりだった。
「ほら!」
こちらに。
「来るのだ!」
「え……」
脱げと。
(いやいやいや)
しかし、衣服をつけたままでは。
(水着を)
あるいは、オセアニア区館の標準装備のようなボディスーツを。
「っ」
小さな影が。
「あっ」
跳んだ。
「お、おい」
まさかの。
「おい!」
手を。伸ばすも。
「っ」
パーーン! 水しぶきがあがる。
「きゅいっ」
すかさず。
「きゅーい」
「きゅいーっ」
すくい上げられる。
「ふぅ」
安堵の。
(いや)
あれが。あれであるならば。
水の中は、むしろ自分そのものとも言える場所で。
「くっ」
わからないのだ。
「おい!」
せめてもの。岸から。
「大丈夫か!」
答えない。
「おい!」
それでも。
「だめではないか」
そこへ。
「服を着たまま飛びこんだりしては」
すーっと。背に乗ったまま。
(いやいや)
それでも、一糸まとわぬというのはいかがなものか。
「おーい」
こちらに。
「シャーリィはわかっているなー」
(ええっ!)
こちらに振られるとは。
「わ……」
わかっている。とは。
「おーい」
呼ばれている。
「来ないのか」
さびしそうな。
「きゅいー」
「きゅぅいー」
重なる。
「わ……」
追いつめられた。思いで。
「わかった!」
ヤケで。
「わーーーーーーっ!」
跳んでいた。
Ⅸ
「だめだぞ、シャーリーまで」
叱られた。
「びしょぬれではないか」
言われるまでも。なく。
「服が乾くまでひなたぼっこだな」
(えっ!)
この状態で!? しゃがんでタオルを身体に巻きつけただけという。
「そ、それは」
誰か来られたりしたら。
「最初から脱いでいれば、服を濡らすこともなかったのだ」
「それは」
その通りなのだが。
いまでは立場が逆になり、向こうはとっくに服を着てしまっている。
「大丈夫だ」
「えっ」
何が。
「あたたかいだろう」
「………………」
正直。海につかっていた身体はまだひんやりしているというか。
それでも、その奥に熱のようなものは確かに感じる。
(なぜ)
このような。一枚のタオルを二人で共有するようなことになっているのか。しかも、大きさが十分でないため、小さな身体をこちらが抱えこむような体勢だ。
(なぜ……)
羞恥で頭がうまく回らない。
(これは)
腕の中のひんやりとしたぬくもり。
(ワラワなのか)
ゆらぐ。
(まったく)
変わらない。人体と。
触れてみてあらためて。
(しかし)
知らない。
かつても人のような姿をとったときはあったが、その感触までは。
(な、なにが『感触』だ)
ますます羞恥が募る。
「はぁ」
落ちるため息。
「ん?」
身じろぐ。腕の中で。
「ど、どうした」
あわてる。あまり動かれてはタオルが。
「う……」
こちらを向く。
至近距離で見つめ合う状態に。
「な、何を」
ぺたぺた。
「えっ」
触れてくる。
「おい……」
どういうことだ。
「優しいな」
脇から。
「なぐさめたいのだ」
「えっ」
「ため息などつくからだぞ」
またも。叱るように。
「それは」
そう言われてしまうと。
(情けない)
ますますの。
「う……」
ぺたぺた。触れられる。
「こら」
叱られる。
(ううう……)
もうどんな顔をすればいいのか。
わからないまま、うずくまることしかできなかった。
Ⅹ
「わかった」
不意の。
(え……?)
どこからともなくの。その声に応えたように見えた。
「明日だ」
唐突な。
「何が」
問い返すも、すぐに気づく。
「向こうへ」
「そうだ」
うなずいて。
「白楽(はくらく)が教えてくれたのだ」
「はあ」
いまのやりとりのことだろう。
(魔法だな)
いまさらながらの。
と。そんなことより。
「どうする」
「む?」
「この」
視線を。
「ああ」
隣の。寄り添い眠りについているその髪をなでる。
「かわいいな」
「い、いや」
「かわいくないのか?」
「いや」
そういう問題ではなく。
「おかしいな」
「えっ」
「自分を見て、自分をほめるようなものだ」
「………………」
そう。もはや言えるのか。
確かに。
いまも外見は双子のようにそっくりだ。
双子のよう。
それは、そっくりであっても同一ではない。
明らかに。
違うのだ。
「ふふふ」
妹をかわいがる姉のように。
(……いや)
そこに若干の複雑さを感じ取る。
それも当然だとは。
(いまだに)
わからないのだ。目論見が。
(明日)
向こうの世界に戻る。
おそらくは、自分そっくりのこの存在もつれて。
(わたしが)
ついて行けない。
なら、もはや為すべきことを為すための時間は。
「シャーリィ?」
前に出た。こちらをけげんそうに見る。
「はっきりさせなくては」
「むぅ?」
首を。
「わたしに」
まかせろ。胸を張って言えなくとも。
「わたしと」
精いっぱいの。
「二人きりにさせてほしい」
わかった。
あっさりと。
「………………」
こうして。二人になり。
(わ……)
弱音が。
(わからない)
目の前の。その目的も正体すらも。
「おい」
それでも。
「わかっているな」
きょとんと。
「わたしが何を知りたいか」
首を。かしげる。
「く……」
ごまかすつもりか。
いや。
(芝居には)
やはり。どうしても見えない。
もちろん、自分は尋問のプロでも何でもないのだが。
(わたしは)
手を。
「騎士だ」
槍に。
「忘れていないだろうな」
突きつける。
「これで」
ぴくっ。ふるえる。
「何をされたか」
脅迫。とても小さな子ども相手にすることではない。
(しかし)
違うのだ。
「おまえは」
ひるみそうになる己に。喝を入れ。
「そうだろう!」
声を。
「っ……」
びくびくっ。
(やはり)
それとも。ただおびえているだけなのか。
(それは)
考えれば当然だ。
自分より長身の者に、しかも武器を向けられているのだから。
(し、しかし)
自分には。他には。
「この〝針舞(しんぶ)の槍〟で」
言葉を。
「おまえを」
詰め寄る。
「もう一度」
ゆらぐ。
「!」
それは。
「あ……う……」
水面。
「やはり!」
確信を。その高ぶりのまま。
「貴様!」
手を。前に。
「っ!?」
のみこまれる。
「しまっ……」
とっさに引き抜こうと。
「!」
あっさり。
「うわっ」
不様に。尻もちを。
「く……」
痛みより情けなさに顔をしかめる。
「あっ」
そんなことより。
「!?」
そこに。
「なっ……」
いない。
「………………」
いた。
「お」
おそるおそる。
「おい」
手を。
「っ」
ふれた。
同じように手を伸ばしてきた向こうの手と。
(鏡……)
感じた。
(い、いや)
なぜ、こんなところに。
(っ)
と。
(ワラワが)
鏡。
空の月を映し出す水面のごとく。
海の。
水の王として。
(それで)
そっくりの姿に。
そして、今度はこの自分に。
「な……」
なめるな。言おうとして。
「う!」
つかまれた。
「やらせはしない」
怒りの。眼差しで。
言われた。
「ワラワ」
Ⅺ
「……え」
何と。
「わ」
ワラワ? こちらに向かって。
「ば……」
馬鹿な。違うだろう。
「おまえが」
「何を言う」
目を。剥き。
「よくもいままで」
(え? え?)
何をしたと。
「ち……」
違う。
押されるまま。そう言いかけている自分に気づき。
(……な)
何を。
「わたしは!」
逆に声を。張られ。
「わたしだ!」
「………………」
答えようが。
「わ」
わたしだって。言いたい。
(あ……)
あり得ない。
二人の自分。その時点で。
(どちらかが)
はっと。
(そうでは)
どちらも何もない。
自分だ!
自分こそが。
(自分)
その自分とは。
(ど……)
どの自分を。
(これが)
手を。
(自分)
と。言い切れるのか。
(わたしは)
シャーリィ・モイ。騎士。
〝現世騎士団(ナイツ・オブ・ザ・ワールド)〟の〝大騎士(アークナイト)〟。
(いや)
肩書きではない。
(本当の)
これまで。自分は。
(わたしは)
生まれた。
英国名門貴族の、その使用人の家系に。
(お嬢様)
出会った。
愛らしいレディ。
姉のようになつかれ、こちらもまた慈しんだ。
そんな少女の憧れ。
騎士に。
自分は。
(その程度の)
がく然と。
(わたしは)
想いで。これまで。
(なんて)
情けない。
痛切に。身を裂かれるように。
「シャーリィ」
「!」
そこに。
「あ……」
崩れ落ち。そうに。
「お嬢……」
「いいの」
微笑まれる。
「シャーリィは」
とてとてと。記憶とかわらないあどけなさで。
抱きつく。
「シャーリィだから」
「ああ……」
胸が。
「お嬢様」
張り裂けそうな。想いで。
抱きしめる。
(ああ!)
ここに。ある。
感じる。
確かに。
(どこにも)
行かない。行かせない。
このまま。
レディの騎士として。
(生きる)
ためらいのない。
(ここに)
あったのだ。
「シャーリィ」
はっと。
「あ……」
腕の中に。
「お、お嬢様?」
「私は」
顔を上げ。
「おまえのお嬢様ではないぞ」
「あ……!」
そうだ。
「わ、わた、わたしは」
困惑の。極み。
(な……)
何ということを。
(お嬢様と)
間違えるなどと。
いくら年格好が同じだからと言って、何より大切な。
(……え?)
同じ。
(い、いや)
違う。違う、違う。
(お嬢様は)
いまの。それは。
(わたしの)
慈しんだ。愛おしんだ。
守るべきレディ。
では。
「ああ……」
後ろに。
(では……では……)
何のために。
(わたしは)
何なのだ。
「仕方のない」
やれやれと。
「私が」
こちらに。
「あ……」
思わず。逃げそうに。
「情けない」
「……!」
それは。ずっと。
「違うだろう」
「えっ」
たまらず。
「そ……」
すがるように。
「そうだろうか」
「そうだ」
頼もしく。
「ああ……」
うれしい。
(そうか)
ここに。
ある。
(わたしは)
いられる。
ここに。
Ⅻ
「仕方ないな」
ため息を。
それは半ば自分にも向けられたものだった。
「チュイ?」
どういうこと。聞きたそうに。
「私なのだ」
「チュ?」
「私が」
遠くを。
「望んでいたのだ」
「チューイ?」
何を。
「私はな」
微笑む。
「がんばっているのだ」
「チュイ」
うなずく。本人の言葉ながら間違いなくその通りだ。
「それはな」
目を。
「あまり、よくないことなのかもしれない」
「チュイッ」
驚きの。
「だから」
心配するな。笑みを見せつつ。
「私なのだ」
「チュ……」
またそこに戻った。言いたげに。
「難しかったか」
「チュイチュイ」
こくこく。
「ふふっ」
なでる。頭――というか全体を。
「責任だ」
「チュイ?」
「私には」
凛々しく。ゆるがない。
「私に期待を寄せてくれるおまえたちに対して責任がある」
「チュ……」
重々しく。
こちらの機械音もかすかに緊張する。
「わかっているのだ」
はかなく。瞳が。
「知らないふりをしていたのだな」
「チューイ?」
「姫と呼ばれても」
落ち着きを。
「そうでない私もいるのだ」
「チ、チュ……!」
あわあわ。
「ヒメサマ、『ヒメサマ』イヤ?」
「そうではない」
笑う。
「私は私なのだ」
「チュ?」
「姫の私がいて、そうでない私もいる」
「ソウデナイ?」
「そうだ」
なでる。
「微兎は私が好きか」
「チュイッ」
「けど、好きでない私もいるだろう」
「チュイイッ」
そんなのない! 激しく左右に首というか全身をふる。
「いいのだ」
言葉通り。構わないという笑み。
「それも私なのだ」
「チュゥゥ……」
納得いかないという。
「いいのだ」
くり返し。おだやかに。
ただ〝弟〟のことをなで続けた。
ⅩⅢ
「ハッ!」
起こす。身体を。
「あ……あ……」
手を。
見つめる。
「………………」
これは。自分の手か。
ここにいるのは、本当の自分か。
別の何かではなく。
「気分はどう?」
「!」
ベッドの。脇に。
「レイナ館長……」
「おはよう」
笑みで。
「………………」
どう。返すべきか。
「行ったわよ」
「っ」
それは。
「わ、わたしも!」
ベッドを飛び出しかけ。
「っ……」
止まる。
(行って)
どうなると。
「よろしくって言ってたわ」
諭すように。
「………………」
悔しさだけが。じくじくと胸の内を苛む。
「わたしは」
こらえきれず。
「何も」
「そうね」
あっさり。
「未熟」
重ねて。さらに。
「………………」
言葉もない。
「けど」
声に。優しさが。
「わたしだって、どれだけ熟してるっていうのかしら」
「熟……」
言い方が。
「歳のことじゃないわよ」
「は、はあ」
そんなことは。
「実際、未熟よ」
胸に手を当て。
「どうして館長なんてやれてるのか、ぜんぜんわからない」
「それは」
同意できない。
〝騎士団〟における七人の〝智騎士(ケルブ)〟、すなわち各区館のトップである館長の中でも、その信頼感とカリスマにおいて一頭地を抜く人なだけに。
「姫と同じね」
「えっ」
思わぬ。
「言われたことがあるの」
何を。
「『おばあちゃんだけど姫だったのよ』って」
「………………」
理解が。
「あー」
それもそうかと。舌を。
「アンナマリア様よ」
「えっ」
知らないはずもない。〝騎士団〟に四人しかいない最高位〝熾騎士(セラフ)〟の一人で、最高齢の騎士でもある。
「〝騎士姫〟」
「え……」
耳慣れない。
「そう呼ばれてたんですって」
「それって」
「ええ」
うなずく。
「姫……」
同じだ。
「違うわよ」
「えっ」
あっさり。こちらの思ったことなど見抜かれ。
「特別な意味合いはない」
「はあ」
「んじゃないかな」
どっちだ。
「そう呼ばれてもおかしくない方だってことはわかるけど」
それはその通りなのだろう。
はるか雲上の存在ではあるが〝騎士の学園〟と呼ばれるサン・ジェラールの学園長を務めていたこともあり、間近に接したことがないでもない。
とにかく、誰にでも優しく気さくな人だ。
位階を誇るようなところはまったくなく、まさに〝聖母〟と呼ばれるにふさわしい慈愛をたたえている。
(姫……)
思い浮かぶ。
いまと変わらない心持ちのまま、若く可憐であったころ。それは確かに、姫と称えられてもおかしくなかったであろうと。
(しかし)
タイプは違う。かもしれない。
けど、どちらも姫と。
そうためらいなく呼べるものは確かに。
(……あ)
そうか。
違う。
なのに、同じ。
(どちらも)
心からの。敬服。
人として。
それは、言葉になるより前のもっと根源的なところでの。
(わたしは)
何を。
上っ面の言葉にとらわれていたのだろう。
(この)
奥に。
胸に拳を当て。
(あるもの)
ごまかしの効かない。
それが。
(わたしだ)
何の決めつけもいらない。自分がどうこう思う自分など。
(いらない)
心に。確かな。
「それで」
顔を。
「どうするの」
「………………」
答える。
「わたしは」
何の気負いもなく。
「騎士です」
言えた。
「そう」
それで。
「じゃあ」
肩に。手を。
「はい」
うなずく。
(もう)
ためらいは。
(このままを)
生きる。だけ。
(お嬢様)
心で。
(いや)
それは。
(アリス)
お互いの。道は。
(それぞれ)
歩いていく。
そうなのだ。
「館長」
頭を。
「未熟の身であることを承知で」
「いいわよ」
あっさり。
「うちの子たちもよろこぶから」
応じるように。
「きゅいー」
「きゅいきゅいー」
外から。
潮騒と共に鳴き声が届いた。
真緒とワラワ