風中の共時
その人を介して陰影を作っている「光」や、その人に季節の移り変わりを気づかせる「時」が愛しい。
これは昔に見たい夢だった。誰も許してはくれなかった。私の周りにはなかった。 (たいてい欲しいものと欲しい時は合致しない。 でも時が違っていたというだけで、存在はしていた。)
人間が生きてる理由に興味ないが、人間が生きてる根拠を探そうとしてしまう。根拠を探そうとするほどおかしくなるというか硬化してしまう。癖かもしれない。ただ生きている、ということを信頼することができていない。感動することはできる。
実際生きているつもりだけど生きていないのかもしれない。記憶は喪失しているが、時が記憶を所持しているので理由も分からずに泣くのだ。果たせなかったことや捨てなきゃならなかったものや諦めなきゃならなかったものと反応し合って?それか泣いているのは私なのか何なのかもよく分からないという場合もある。
思い出したものをおもうとき、私はこれ程までのことを忘れていたのか、と思う。忘れてしまうのだもんな。
それぞれに素直に部分の欠けた不揃いの足音。
姿をあらわす前、形になる前、しかと分化されない、没入した粒子が見回している風景。形になってしまうと萎える、空気中にさらされるから満足して酸化してしまう。その中にいる、というエモーショナル。
なんで人間にはそのものの風体とか質感のみを取り出すことができてしまうんだろうと思うが、それはもともとでありそれ以外があとから付け足した便宜なんだと思うと納得できる。
その人の空間からその人を抜いたものがその人なんだねと思った。こごってなければ。こごってしまうと外郭が硬化してしまうから単に実体がその人だけど。
我々は日に何度も転生をしてしまうからタイミング、というものが多分あるのだと思う。どんなに好きでもその位置を探し出せないということは起こってしまう。
悲しみに浸っている場合じゃない、みたいなことはない。悲しむときに悲しめないと、こごってしまうし、その時を食い止めてもあとからまたやってくる。(たぶん別の形で。)今ある悲しみに悲しめるのは幸運なことだ。泣きたいときに泣けるのは本当にしあわせなことだよ。
肉体が幽体化(実際はどうなっているのかわからないが、体感で。)してくると自分がどんどん人の目に映らなくなってくるのがよくわかる。ドアを開けて、行ったら帰ってこれなくなるんじゃないかとよく思っていた。帰路で気化して消えかかる。今思うとred(グラウンディング)が足りなかった。
誰かの表現ていうのは自分のパラレルワールドだったりすることあるよね。一瞬反応はするけど、その時それ以上追わないものって無数にあると思うけど、それをずっと追っている人っていうのがいるのだよね。
普遍的じゃなくても、つぶやきくらいのものであっても、きゅっととらわれるというものがある。
あなたが通り過ぎたものと私が通り過ぎたものとが、死角で交感してることがあるんです。伝わってほしい。
今というのはとてもタイトだから同時にすべて持っているということはできないが。
人が人を理解することはできないが、各々が各々のパラレルなんだろうな。
もう昨日と今日が陸続きということはない、という日々で自分は昔のことを手放すことができていると感じているが(体感では身がかってに手放してくれている)、自分の好きな人が昔を手放していくのは(その人の今の中に昔の面影を一つも残してないと)さみしい。
我々にはもう見えない。
ただあなたがわらうために今までがあった。そんな世界がやってきたよ。
風中の共時