百合の君(13)
「おい」
唐突に話しかけられて、蟻螂はそれを無視した。その理由は大きく三つあった。まず一つには話しかけて来た男に好感がもてないということ。男はちょっと見たところ異人のようで黄色い髪と青い目が珍しかったが、蟻螂は穂乃以外のどんな人間も嫌いだったので、彼のことも嫌いになった。
二つ目は初めての実戦で興奮していたこと。蟻螂は戦の噂を聞くや冬の山に入り、狼を仕留めてその皮を防寒着に、肉を携行食にした。頭から靴まで毛皮で包まれ、革の帯に國切丸と名付けた六尺を超える大刀をぶら下げている姿は、塗装の禿げた槍を杖代わりに歩く兵卒達の中で目立った。
三つ目に、そもそも蟻螂は他人に話しかけられた時にどうすればいいのか知らなかった。
しかし相手は無視されることに慣れているのか、平然と話をつづけた。
「おい、お前蟻螂だろ、武道大会で優勝した」
黄色い髭の真ん中から、白い息が上がっていた。蟻螂は返事をしない。峠道の落ち葉を踏む音とそれに合わせて武具がこすれ合う音だけが二人の間を埋めている。それは冬の乾燥した空気によく響いた。
「見てたぜ、強えなあ」
蟻螂はやはり黙っていた。男は諦めて離れる素振りを見せたが、思いついたようにまた向き直った。
「その目、親は日の本の人じゃないな。俺と同じだろ?」
蟻螂はさらにいらついた。もしまだ何か言うつもりなら、腕かあばらでも折ってやろう。
「山で育ったって聞いたぜ、どうせその目が原因で村を追い出されたんだろう? 俺と同じだ、俺も木こりなんだ」
しかし蟻螂の頭にある考えが閃く。
「穂乃を知っているのか!」
いきなり食って掛かる蟻螂に、男はうわっと驚いた。
「なんだ穂乃って?」
「俺の嫁だ」
「嫁が山でいなくなったのか?」
さらわれたんだ、白状するのはためらわれた。穂乃が拐かされたのは蟻螂が非力だったせいだ。見ず知らずの男に自分の恥をさらすような真似はしたくない。
蟻螂は再び口を閉ざした。
「獣に襲われたか人攫いに遭ったか知れねえが、気の毒な事だな。ひでえ世の中だ」男は辺りを見回す素振りをした。「兵隊のほとんどは武士じゃねえ、駆り出された百姓や俺みたいな木こりや狩人だ。このうちのどれだけが生きて帰れると思う? 殿様が生きようが死のうが、なんの関係もないド平民がさ」
それまで気が付かなかったが、みな支給された鎧が体に合っておらず、ぶかぶかに垂れ下がっていた。くっきりと鎖骨の浮いた首元が露わになっており、斬り合いになったら簡単に首を持っていかれそうだ。
「おっ、やっと話に乗って来たな。お前も山育ちなら木こりがどんな仕事をしてるか知ってるだろ?」
蟻螂は全然知らなかったが、そう言うとまた山猿と馬鹿にされそうなので沈黙を守った。
「そうだよ木を切るだけじゃねえ。山を越えてえって奴を案内することもある。でな、お前、どんな奴が山を越えると思う?」蟻螂は首を振った。「ああ、商人だけじゃねえ、芸人もいるし、巡礼の聖もいる。まあ、そいつらはいいんだよ、メシのためだったり修行のためだったり、ちゃんとした理由があるからな。ひでえのは公家だよ、貴族の連中さ。都でふんぞり返っていりゃあ、手前が行ったこともない領地からいくらでも金が入るのに、そんな奴らがなんのために旅なんかすると思う?」蟻螂は再び首を振る。会話のコツを掴んできたと思った。「分からねえのが当たり前だ、きちんと真面目に生きてる証拠だよ。あいつらは歌、短歌なんてものを作るためにわざわざお出かけなさるんだよ、くっだんねえ石とか見て何かを考える頭もねえくせに扇子を口元に当てて空を見て、気持ち悪い上ずった声を出しながら紙に書きつけてんだよ。何を売るわけでもなく、取るわけでもねえ、取るとすりゃあ腹の足しにもならねえ花くれえだよ、そんな奴等に官職をもらってるのは誰だと思う?」蟻螂はまた例の通りにした。「侍だ。そしてその侍に駆り出されてんのが俺達だよ、まあお前は下っ端の侍になってるらしいから、ちょっと違うかもしれねえな」
蟻螂はまだ黙っていたが、今度は無視しているのではない。人間社会の無駄な複雑さに呆れていたのだ。
猿は強い者が頭領になる。喧嘩で負けたらその座を奪われる。栄枯盛衰毀誉褒貶すべて自分の実力と行動次第だ。理由もなく虐げられる者は誰もいない。異人だろうが赤目だろうが強ければいいのだ。なんてすばらしい社会なのだろう。
「でも今は乱世だ、お前くらい強けりゃあ、この古実鳴で、いや日の本で一番偉い侍になれるかもしれねえな」
蟻螂は一緒に行軍している兵隊を見回した。喜林の殿より偉い侍になったら、これよりたくさんの人間を思い通りに使えるのだ。穂乃を見つけるなんて、あっという間じゃないか。
「俺は喜平ってんだ、よろしくな」
「ああ」
蟻螂は言葉を発して、それが随分久しぶりの事だと気が付いた。その気持ちは、悪くなかった。
百合の君(13)