夏の河
If you wish to be loved, love.
愛されたいなら、愛しなさい。
Lucius Annaeus Seneca the Younger
(4 BC – AD 65)
顔馴染みの下足番から下ろし立ての下駄を受け取って黒曜が芝居小屋を出ると、外はもうすっかり夜の闇に包み込まれており、真向かいの蕎麦屋には夕涼みがてら蕎麦を食べに来た姐御連中達で席がすっかり埋まっていた。
此の儘部屋に戻って酒を嗜むか。
其れとも色街へ繰り出し、ひと遊びするか。
そんな事を考え乍ら、トボトボと表通りを歩いているうちに、気がつくと黒曜は色街への入り口である大門の前迄やって来ていた。
縁日の屋台ならいざ知らず、色街に於いてただ店先をぶらついての冷やかしは御法度も御法度。
何の考えも無しに足を運んではみたは良いものの、此の先如何したもんかいな、と門の前で道行く人々を眺め乍ら、あーでもない、こーでもない、と考え事をしていると、よう彦星、何処にも行くアテがねぇンなら、ウチに寄っていかねぇかい、と、黒曜が普段「お婆婆」と呼んでいる「赤椿」にて下働きをしているお苑に聲を掛けられた。
おうおうおう。
幾ら今月今夜が七夕の晩だからって、こんな天下の往来で彦星呼ばわりたぁ、小っ恥ずかしくてやりきれんぜ。
黒曜が紫煙を口に咥えると、お苑は燐寸で紫煙に火を点けてやり乍ら、けっ、面ァ突き合わせた途端に文句を垂れるたぁ、随分と偉くなりなすったモンだねぇ、つい此の前迄よちよち歩きの雛ッ子だった癖にさ、と言った様な「軽口」を黒曜に向かって叩いた。
ったく、アンタにゃ敵わんよ。
黒曜は苦笑と共にそう言ってのけるなり、カツカツと言う下駄の音を響かせ乍ら大門を潜ると、ゆったりとした足取りで「赤椿」へと向かい始めた。
そして咥え紫煙の儘、で、如何なんだ、此処ン所は、と世間話をお苑に振った。
景気の方はぼちぼちってェ所だね。
でもって変わった事と言やぁ、踊り子をやっているうちに流れ流れて此の土地へやって来たって言う、野良猫同然の新顔が入って来た位なモンで、大した事は起きちゃいないさ。
売りモンになりそうなタマかい、其の新顔。
大飯喰らいで何かってェと気まぐれ気味な所を除けば、まぁ何とか。
相手はお猫様。
色々苦労するのも無理もねェ話だわな。
黒曜がケラケラと笑い聲を響かせると、すかさずお苑は、背負〈しょ〉ってみるかい、其の苦労、と売り込みに掛かった。
ま、見ての通りどうせ暇な身体。
御相手仕るとするか。
へへへ、そうこなくっちゃ。
おう、お一人様御案内だよ。
『赤椿』と言う店の名に相応しく、朱色の暖簾を潜ると、此の店の下男でお苑の倅である甘十郎が、若旦那、御待ちしてましたよ、さあさ、先ずは御御足を洗いなすって、と、直ぐ側の川から掬って来たらしい冷たい水の入った真新しい盥〈たらい〉を持って現れたので、黒曜は懐の財布から小銭を取り出すや否や、些少だが、受け取ってくんな、と甘十郎に其れを手渡したのち、じゃばじゃばと足を洗い乍ら、此処迄の道すがらお苑から聞いた話だが、新顔が入ったらしいな、と甘十郎に聲を掛けた。
えぇ、中々の器量好しのね。
若旦那、今宵は其の子を御所望で?。
左手に持った錦鯉の描かれた団扇で黒曜の身体をパタパタと扇ぎ乍ら、甘十郎がそう述べると、御所望とはまぁ、何と大袈裟な、と言う顔を浮かべつゝ、まぁそんな所だ、と言って甘十郎から手拭いを受け取り、役者が鏡台の前で化粧を落とした後よろしく、足に纏わりついた水滴を綺麗に拭き取ると、ありがとよ、とひと言礼を述べ、使い終えた手拭いを甘十郎に手渡し、咥えていた紫煙を甘十郎が用意をした灰皿の上で勢いよく揉み消した。
さてと、穢れも落とした事だし、案内して貰おうか、新顔さんの所へと。
黒曜が言った。
ほいじゃ、一緒に参りますかね。
甘十郎の案内で長い廊下を新顔の待つ部屋へ向けスタスタと歩みを進めていると、猫の額程の広さの中庭に、幾百もの短冊をぶら下げた笹が挿してあるのが丸眼鏡を掛けた黒曜の視線に入った。
若旦那もぶら下げてくんなせェよ、折角ですから。
甘十郎がそう言うと、黒曜はすかさず、そうさな、どうせだから新顔と一緒に綴るとするかね、と呟いた。
じゃあ後で短冊を持って来まさァ。
そんな風なやり取りを二人して交わしているうちに、「新顔」の待っている部屋へとやって来た。
入りますぜ、と言う聲と共に甘十郎が貼り替えたばかりの襖を開けると、件の「新顔」は
月を眺め乍ら餡のぎっしり詰まった饅頭をむしゃむしゃと頬張りつゝ、淹れ立ての茶を啜っていて、態度だけは「古顔」と呼ぶに相応しい大変堂々とした雰囲気を漂わせていた。
お酒の方は如何します?。
押し入れの中から白蘭の香りを炊き込んだ座布団を出し、其れに座る様黒曜に促した甘十郎が質問をすると、あゝ、出来れば二人分の御膳もな、と黒曜は言って座布団にどっしりと腰掛けた。
へい。
其れじゃあ木蓮さん、若旦那の御相手、頼みましたからね。
甘十郎はそう言ったのち、邪魔者は退散と言わんばかりに部屋の外へと出て行った。
若旦那ねぇ。
若旦那と言うより、若親分と言う様な風態にしか見えないのだが、私の眼には。
甘十郎が其の場を去るなり、先程迄只々黙って饅頭を頬張っていただけの木蓮が口を開くと、急に会話が始まった事に対し黒曜は、反射的に驚きの表情を思わず浮かべた。
なんだ、其の間抜け面は。
人の事を啞か何かだと思っていたのか、失敬な。
いやはや面目無い。
何せ、さて、寛ごうかと思っていた矢先に聲を掛けられたからな。
ついつい下手を打ってしまった。
黒曜は素直に頭を下げると、お詫びを兼ねて木蓮の茶碗に茶を注いだ。
広さにして僅か四畳半の部屋の中に茶の香りが、チラチラと燃える蝋燭の匂いに混じってほんのりと漂う中、黒曜が注いだばかりの茶を啜った木蓮は、まぁ、悪くないと言う表情を浮かべ乍ら、所でお前、今幾ら懐にあるんだ、と黒曜に質問をすると、黒曜は間髪入れず、二晩は遊び惚けるだけのおぜぜは、と答えた。
ほう、流石は此の店の御常連。
見かけによらず良い御身分な様で。
世間様曰く、古来より男には七人の敵あり。
其れを言うなら七人の妾ありだろ、お前の場合。
七人も相手に出来っかよ、徳川時代の豪商でもあるまいに。
そう言って黒曜はひょいと腕を伸ばして紫煙盆を自分の方に引き寄せると、懐から紫煙と燐寸箱を取り出し、紫煙を口に咥え乍ら、併し随分とぶっきらぼうな口の利き方だな、まぁ、其のお陰で変なのがくっ付かないで済むやもしれんが、良い旦那に巡り合う機会も自然と遠退きそうだ、と呟く様に言って勢いよく燐寸を擦り、紫煙に火を点けた。
ま、芝居でも小舅よろしく、人の人生に口を出す様な奴ってのは、大概碌でもねェ奴と決まってっから、此れ以上首を突っ込むのは止すがね、料理が不味くなるのも癪な話だろうしね。
黒曜がそう言い終わると同時に、失礼いたします、と言う下女達の聲が聴こえて来て襖が開き、二人の間に御膳が手際良く並べられ始めた。
お櫃の方は如何いたしましょう。
下女の一人が黒曜に質問をすると、黒曜は何処となく物欲しげな木蓮の顔をチラリと見遣ったのち、あゝ、頼む、と下女に告げた。
そして下女達が用事を済ませた瞬間を見計らう様に吸っていた紫煙を紫煙盆の上で素早く揉み消した黒曜は、些少だが、此れで何か美味しいモノでも食べとくれ、と言い乍ら、二人に「心付け」を両手で手渡した。
些少と言いつゝ、自分達の半月分の稼ぎに匹敵をする額の「心付け」を受け取った下女達は、黒曜に向かって深々と頭を下げると、足取り軽く其の場を去って行った。
さてと。
腹を満たす前に、先ずは一献と参るかね。
手際良く木蓮のお猪口に酒を注ぎ乍ら黒曜が言った。
連中の顔つき、お前の事をまるで恵比寿大黒でも見る様だったが、何時もあんな風な事をするのか?。
付き合いが長いンでね、此処の店とは。
ま、持ちつ持たれつってヤツよ。
其の持ちつ持たれつと言う言い回しが適当か不適当かは兎も角、乾杯。
あゝ、乾杯。
二人は勢いよくお猪口の酒を呑み干すと、御膳の料理を一方はぱくぱくと、もう一方はむしゃむしゃと食べ始めた。
先程の下女達とは別の「新顔」の下女によってお櫃が運ばれて来たのは其の直後の事であり、黒曜は其の下女にも「心付け」を手渡したのだが、木蓮は其の様子を見つめ乍ら、此奴、本当は偸賊の頭か人を騙くらかして日々の生業を営んでいる悪党なのではないだろうか、と言う一種の邪推が頭を擡〈もた〉げたものの、其れなら其れで、悪党相手にふんだくれるだけふんだくってしまうのも悪くはない話である筈だ、と素早く思考を切り替える事にした。
所でお前、普段は役者稼業で飯を喰っているそうじゃないか。
至極丁寧な箸使いで焼き魚を頬張り乍ら、木蓮が言った。
稼業と言える程、人様に誇れる様な商賣でも無いがね。
先祖代々そうやって生きて来た。
だから役者の道を選んだ。
ただ其れだけの話だ。
蛙の子は蛙、と。
そんな所さ。
血筋がそうさせる。
私の祖母も同じ様な事を言っていたな、今にして思えばの話だが。
踊りの道へは自分から?。
そうだな、気がつくと身体が動いていた。
天賦の才だな、其処迄行くと。
まるで僧侶の様な事を述べた黒曜は、朱色の器に注がれたまだ湯気のゆらゆらと揺れる味噌汁へ、百物語で話を終えた人物が蝋燭の燈を吹き消す時よろしく、フッと軽い息を吹きかけると、ま、天賦の才があるだけじゃ、生きていけぬが此の世の中の誠に辛い所な訳だが、と言う言葉を添え、味噌汁の具を口に含み、静かに汁を啜った。
其の点お前は上手そうだな、世渡りが。
動物園の河馬よろしく、口を大きく開けた状態で放り込んだ南瓜の天麩羅の、サクサクとした食感を楽しみ乍ら木蓮が言った。
さあ其れは如何だか。
自慢じゃ無いが、生まれて此の方、器用と褒められた試しはいっぺんたりとも無いモンでね。
買い被りも良い所だと言わんばかりの表情を黒曜が浮かべると、まぁまぁそう卑屈になりなさんな、今日は七夕、後ろ向きな事は言いっこ無しだ、お互いにな、と木蓮は言ってのけたのち、宛ら雪玉の様に茶碗へと大盛りに盛り付けられた白米をお苑曰く、自家製だと言う漬け物と一緒にガツガツと食し始めた。
そうだな、人間の悩み事なんぞ、星の歴史に比べれば石ころ同然だ。
そうそう、其の調子、其の調子。
其れから二人は誠に他愛無い話を繰り広げ乍ら、お櫃の中の白米も含め、御膳の料理を凡て平らげると、腹ごなしがてら、川沿いの夜道をくっ付く訳でも無く、かと言って離れる訳でもない距離感を二人して保ち乍らゆったりと歩き始めた。
時刻は既に午后十時前であったが、色街は別名「不夜城」と呼ばれる様な場所である。
表通りには人々の慾望と思惑が渦巻き、快楽と悦楽の香りが其処彼処から漂っていたのであるが、二人は其れを避ける様に避ける様に歩みを進め、気が付けば花火大会の際、必ずと言って良い程見物客で溢れ返る護国神社前の長い石段の前迄やって来ていた。
人混みを避けた所為だろうか、随分と歩いた気がするな。
夜風が樹木の葉を揺らす音がひと気のすっかり失せた二人だけの空間に響く中、参拝客は勿論の事、道行く人々が暫しの休憩を行う為に腰掛けている屋根付きの椅子へ木蓮が腰掛けようとすると、今宵の主役である織姫彦星も、出会った直後にこんな事をして戯れていたに違いねェや、と言い乍ら、「お清め」とでも言わんばかりに、懐から取り出した紺色のハンカチーフで椅子の周りを黒曜は手際良く払い、さあ、どうぞ、と木蓮に其の場へ腰掛ける様、スッと手で促した。
優しいんだな。
腰掛けた木蓮が言った。
我が儘に付き合って貰っている身体だ、此れ位の事も出来ないと罰が当たる。
黒曜はそう言って木蓮の側に腰掛けると、今度は紫煙と燐寸箱を取り出し、紫煙を口に咥えた。
其れを見た木蓮はスッと手を出し、黒曜の左手に握り締められた燐寸箱を黙って自分の掌に包み込むと、勢いよく擦った燐寸の火で咥えられたばかりの紫煙に火を点け、此れで貸し借りは無しだ、と呟き、側に置かれた屑籠の中へ燐寸の燃え滓を投げ棄てた。
如何いたしまして、織姫様。
紫煙の香りが二人の間を包み込むのを感じ乍ら黒曜が礼を述べると、如何にも皮肉っぽい口調で、はいはい、彦星様と木蓮は返事をして、懐から取り出した扇子でパタパタと自分の顔を扇ぐと言う、実に態とらしい行為へと及んだ。
良い趣味だな。
黒曜が視線をチラリと向けた先には、身分の高そうな女性が舞を踊る姿と、其の傍らで鼓を叩く男性の姿が扇子に描かれていた。
故郷を離れる晩、母親の手によって財布と一緒に懐へと捩じ込まれたのが此の扇子でな。
普段人には滅多に見せないのだが、無意識のうちについ持って来てしまったらしい。
芝居顔負けの良い話じゃねェか。
チョイと話に色を付けりゃア、色街の連中なんぞ眼じゃねェくれェの富が其の懐に転がり込むぜ。
夢のある話だな。
だが親心を金儲けの道具にして左団扇と言うのは流石に気が引けるから、夢は夢のまゝと言う事にしておいてくれ。
其れもそうだな。
でも・・・。
でも?。
こうやって星空の下で出逢った事、そして言葉を交わした事迄は、夢にしないでおきてェモンだな。
星明かりが照らし出した木蓮の横顔を覗き込み乍ら、黒曜がそう言うと、今此の瞬間は歴とした現実だと言わんばかりに黒曜の弁慶の泣き所を木蓮は容赦なく蹴飛ばした。
痛えッ。
下駄で蹴飛ばされなかっただけ有り難いと思え。
木蓮が立ち上がろうとすると黒曜は、こりゃ随分と手厳しい、と苦笑を浮かべつゝ、咥え紫煙で手を差し伸べ、さ、そろそろ戻るとしようぜ、と言った。
芝居仕込みか?。
何れも此れも。
手品師がベラベラ種明かししちまったら、夢も減ったくれもあるめェよ。
自惚れるな、此の二枚目半。
お前は手品師じゃない、ペテン師だ。
へへへ、如何とでも言いやがれってンだ。
差し伸べた手を引っ込めるなり、黒曜はニカっと笑うと、咥えていた紫煙の火を下駄で揉み消し、拾った吸い殻をヒョイと屑籠に棄てて、歩き始めた。
莫迦。
誰が手を放して良いと言った。
木蓮が抗議をすると、其のおぼこいお顔、他のオトコ連中には見せねェと約束してくれンなら、考えを改めますが如何かしらん、と黒曜は挑発的な態度を取った為、木蓮は今一度弁慶の泣き所を蹴り飛ばそうとしたが、おっとっとっと、其の手は桑名の焼き蛤、と言い乍ら黒曜は木蓮の蹴りをサラリと避けた。
冗談はさておき、いっぺん握ったら最後、絶対に離しはしねェが、其れでもようがすか?。
やれるモノならやってみろ。
お互いに差し出した手が強く絡まった其の瞬間、二人の物語が生まれた事を祝福する様に空の星がキラリと瞬いた。〈終〉
夏の河