泥棒にも五分の魂
あるところに天ノ宮周典(あまのみやしゅうてん)という男がいた。人生に行き詰まりを覚え、皮肉にも終点に着いたのだろうと周典は思った。そして彼は続ける、「我ながらうまいことをいったなァ、しかし人生はうまくいってやくれねぇ」
右にも左にも前にも後にも進めなくなった彼は悪事に手を染めた。努力とは上に行くためのものだが、周典の積み上げた努力は堕落して下に行くためのものだったのである。あるときは金を盗み、あるときは金目のものを盗む。
そんな風にして一年が過ぎた。
周典の性格は人に好まれるそれであった。
好き嫌いがなく、天の邪鬼もない。天真爛漫に天衣無縫をくっ付けて、人間の形に具現化すれば彼になろう。
そのおかげか、彼の周りには人が多い。なけなしの金を使って遊び、後先考えなかったための後悔で意気消沈し、慰めあって生き抜く友人達がいる。無論、窃盗に走っているのは天ノ宮周典ただ一人であるが。
それら友人達の眼をかいくぐって悪行を働くのは至難の技であり、はじめの頃は大変であった。しかし今では馴れたものだ。適当なホラを吹いて言いくるめることも楽にできる。なるほど、板についたものだった。
友人の一人、天ぷら屋のタケさんに一度だけ盗みがばれたことがある。
周典は彼の家とは知らずに侵入したのである。それを仕止めたタケさんは彼を警察につき出さず、悪さを止めようと促した。
「顔を洗って眼を冷ませ」とか「そんなものからは足を洗え」だの。
しかし、そう言ったところで周典の返す言葉は「断るはなァ。ま、俺が止めるまで首を洗って待ってろや」という、なんとも洒落たものらしい。
どうも憎めない回答だ。
そのような気転が利くのなら、人生に転機の一つや二つ転がり込んでもいい気がするが、やはり人生はうまくはいってくれないようだ。
*
「ひーふーみー……」
四畳半の隅っこで胡座をかいた周典は、今日の報酬を確認していた。
「へっへー。なかなか豊作だったじゃあねぇか」
ゴロンと畳の上に寝転がった。いまにも壊れそうな天井を眺める。
ここ最近の盗みは実に好調だ。心臓が跳ねるような事態を味わうことなく一仕事を終えることができている。この調子ならば、つぎはぎだらけの薄っぺらい着物ともオサラバ出来るかもしれない。
眼を瞑ってできた暗闇のなかには「欲」という文字がぽつねんと浮かんでいた。
……どうしようか。続けざまに収穫作業を行うのも良いかもしれない。調子の良いときは運までもが味方に付いている気もするが、あまり調子に乗るなと自分の中のちっぽけな良心がうったえている。
隣で仲良く寝ている小銭が目の縁に映った。
「ふぅ……」
人間の感情とは希薄なものである。いつもは重いはずの腰が軽々と持ち上がった。
今の周典からは恐怖などという語彙など抜け落ちていたのであろう。薄氷を踏むがごとき自分の姿など、頭の片隅にも置いていなかったと見られる。
耳の骨から足の指まで、全身でバキバキと音を奏でつつ、周典は家をでた。
*
妙に湿っぽい草履を履いて外に歩を向けると、相も変わらずお空に浮かぶ太陽がじりじりと肌を焼いてくれた。
「さて、どこいらに入ってやろうかね」
目的地を決めずに外に出た。すれ違う人々は、自分のことを盗人とは微塵も思ってないことだろう。人間関係などそんなものであり、何者とも知らぬ名無しのごんべえと共存していくしかないのである。そう考えるとゾッとする。いつの間にやら悪魔とお友達になる可能性だって零とは言い切れないのだ。
余計なことを頭のなかでつらつらと吟味しているうちに、結構な距離を歩いたようだった。右に視線を向けると橋のあちら側には壮大な夏木林が見てとれた。
ふむふむそういえば、と思い出す。
確かこの林を抜ければ天ぷら屋のタケさんの家があるはずだ。これも何かのご縁ではなかろうか? 奴には一度ひどい目に合わされた。もちろん非は周典にあるが、しかし、復讐をかますにはうってつけの機会であろう。……よし、土足で上がらせて頂こうではないか。
橋を渡り、木々の間を通り抜ける。黒く湿った土の感触が足裏に伝わり、いかんせん気持ちが悪い。場違い感の漂う白い小さな花は、風に揺られて周典を招き入れてくれた。
そうして急に開けたかと思えば目の前には見覚えのある壁。丁度、あやつの家の後方に着いたらしい。
周りを見渡すと茶けた壁に脚立が立て掛けられていた。
よっこいせで持ち上げて二階の窓の横にそれを落とす。心なし風が吹いているが、この程度ならば脚立を押し倒すはめになることはなさそうである。トントントンと軽やかに上へ登り、窓の取っ手に手を掛けようとしたとき、
「ひっひっひ」
と笑い声が聞こえた。
周典は一気に冷や汗をかいた。マズイ、誰かに見られている。確認すべき体は見事に石化し、手を引っ込めることさえも許さなかった。
「なぁーにしてぇーんの、ひっひっひ」
風になびいた木の葉たちがさわわさわわと音をたてる。そこで周典は気が付いた。
得たいのしれないこの声は、自分と同じ高さから聞こえている。
あまりの驚きに俊敏さを取り戻した彼は勢いよく振り向いた。
「ひっひっひっひっひ」
そいつは宙に浮かんでいた。あらんばかりに横に割けた口。三日月を逆さにしたような眼。恐ろしく尖った鼻。ペンキをかぶったかのように真っ白な顔面。それを避けて塗ったくったように真っ黒な全身。
悪魔、だ。
何かを振り払うように頭を左右させながら周典は前に顔を戻した。しかし、なにも追っ払うことなど出来なかったようだ。
叫び声すらあげられずに気を失った周典は後ろ向きに倒れていった。
脚立に押し倒されているも同然だった。
*
目を覚ますと今にも壊れそうな天井が見える。
「ひっひっひ」
びくっと体が跳ねた。夢じゃなかったのか……。いやに重たい腰を起こして布団の上に胡座をかく。真正面には押し入れに悠々と腰かける悪魔。
「ひっひ。俺がぁーこぉしてぇお前さんのぉー前にいるのはぁー、他でもねぇー」
「…………」
「お前さんのぉー、命の件についてだぁー」
なにも言えなかった。思い当たる節しかないからである。悪行にその身を焦がし、善良な行為とは程遠い生活を送ってきたのだ。五分ほどの魂しかないとは思われるが、それを喰われたところで文句のつけようなど全くない。
「ちょーっとついてこいぃー」
そう言って悪魔は押し入れの中にはいり、左側に寄せてある襖に隠れた。
周典はそれに従う。なぜ家で眠っていたのかという疑問も湧いたが、今となってはどうでもいい。押し入れの上段に手を掛けてよじ登った。左から光を感じる。
「えっ?」
行き止まりであるはずの左側の壁は真新しい部屋へと続いていた。少しずつ、少しずつ近づいていくと、大量の蝋燭が並んでいるのが見てとれた。
「ひっひっひっひっひ」
「ここは……なんだ……?」
「ひっひ。そんなぁー身構えんなぁー。この蝋燭はなぁー、人の命だぁー。ひっひっひ。」
人命とは蝋燭のようだとは良く喩えられたものだが、まさか本当だったとは。見渡す限り、小さな炎で溢れかえっている。そのど真ん中に二本の蝋燭があった。
ひとつは元気良く燃えており、まだまだ長い。
もう一方は今にも消え入りそうで、ほぼ蝋がなくなっている。
おどおどした態度で周典は聴いた。
「こ、この長い蝋燭は誰のだい?」
「そらぁー、タケさんのヤツだぁー」
「元気そうで何より。で、この消えちまいそうなのは……?」
「ひっひっひっひっひ。お前さんのだよぉー」
今まで以上に割けた唇から吐き出された言葉は、周典に余程の傷を与えたのであろう。彼は呆然と立ち尽くしていた。
その眼はいったい何を捉えているのか分からぬほど挙動不審な動きを繰り返している。半開きの口は広がるばかりで、一向に閉まる気配を見せなかった。たとえ予期していた事態といえども、起こってしまえば心臓に悪いものに違いないのだ。
「助かりたいかぁー、ひっひ。」
「……当たり前だ」
かろうじて残っている力を振り絞って応えた。
「じゃー、この蝋燭にぃー火をつけろぉー」
そう言って差し出されたのは、中指二本分程度の長さをした蝋燭だった。
「お前さんはぁーおもしれぇー。だからぁー、その蝋燭にぃ火ぃつけれたらぁーいかしてやる。ひっひっひっひっひっひ」
これまでで一番不気味な笑いを悪魔はしてくれた。
差し出された蝋燭を、獲物を見つけた虎のような速さで奪い取った周典は早速火を渡す作業に没頭した。
ゆらゆらと揺れる大量の蝋燭たちが、隙のない角度から周典を見詰めている。火を渡そうと四苦八苦している間にも、短い蝋燭は止まらず熔けていく。背中の方からは悪魔のニヤニヤ面が彼を注視していた。
「ほぉーれ、はやくしねぇーと死んじまうよぉー。ひっひっひ」
「わかってるから黙ってろ!」
「ひっひっひっひ」
明らかに殺気だった声が目の前の弱々しい火を揺らした。下品に大きく見開いた眼は、蝋燭と蝋燭の先ばかりを見詰めている。
と、火が渡った。
「み、見ろ! 見たか、これで俺は生きれるんだな!」
「ひっひっひ、そのとぉーり」
感激のあまり、周典は長い蝋燭を握ったまま膝をついた。安堵からか首を垂れる。
「よかったなぁー、ひっひ。これからはぁーお前のぉ第二のぉ人生だぁ。二度目の誕生日ぃ、祝ってやるよぉ」
「はは、ありがとう!」
そう言って彼は手元の蝋燭を吹き消した。
泥棒にも五分の魂