青い小瓶の独白

青い小瓶の独白

 青い小瓶の内側に閉じ込められた私にとって、外の世界に住まう人々の、頭を埋め尽くす悩みなど、ちっぽけなものだった。
「お前さん、人間なのかい、人間なのに、小さな小瓶に入る事ができるのかい」
 といった、野暮ったい質問は、今は止してもらいたい。
 君達は、その肉体の内側に、魂を入れる事ができるのかい、なんて問いを返されても、困るだろう。そういうものだからそうだ、と漠然に受け入れてはいないか。ならば、私に対して意味の無い質問をしないで頂きたい。
 御経を読んだ事がある、或いは読経を聴いた事がある者達に、訊こう。
 経典は様々な形の物に記されている。記された媒体を、ここでは仮に器と呼ぼう。その器に、書という方法で記録されている訳だが、君達は、その器に経典の教え、その心が、石で岩肌を削る様に、記録されたと思うのかい。いいや、人間の意図を以て、先人達の記録を写しているだけだと思うのかい。いやいや、経典には偉大な力が宿っていて、生半可な考え方、認識方法の人間には、理解が難しい方法で、物質界に存在し続けている、と思うのかい。
 君達には、明確な答えが無い事だろう。なればこそ、私に対して「人間が小さな小瓶に入る事ができるのか」なんて、軽々と訊いてはならない。

 私の話したい事は、君達人間が体験している、所謂「苦痛」についてだ。
 青くて透明な硝子の向こうに見える物は、私にとって全てが苦しみに見える。
 ただ見えているのでは無い。「一体何を定義にしたら、全てが苦しみに見えるのだ」と怒る者もいるだろう、まあ、聞きたまえ。うん、君達は生きる事は嬉しい、楽しい、つらい、苦しい、好き、嫌い、有り難い、いらない、だとか、無数の言葉で形容しているが、その心境としては、自分が自由意志を用いる事で、自らの人生に対して自在に評価や感想を述べている心積もりだろう。いいか、それは大きな間違いである。
 苦しいと思ったら、人生は苦しいものだ。
 嬉しいと思ったら、人生は嬉しいものだ。
 楽しいと思ったら、人生は楽しいものだ。
 つらいと思ったら、人生はつらいものだ。
 もっと、具体的に言うべきであろうか。君達は反射的に、生きる事への感想を述べているに過ぎない。これを、自由意志と呼ぶことはできても、真の自由とは呼び難い事は、火を見るよりも明らかである。
 大宇宙の中の、小さな青い星の、小さな国の、小さな町の、小さな家の、小さな部屋の中の、小さな肉体の、その内側に閉じ込められた魂の在り方で、語っている状態なのだ。
「この青い小瓶め、でたらめばかり言いやがる、中には空っぽの脳みそがあるに違いない」
 良いだろう。その様に悪態をつく事も、君達の勝手な、反射に基づく感想だ。どうだ、君達は、お前達は、既に気付いた者もいるのではないか。一歩も出られていないのだよ。外側に、自分の認識と感情と打算及び不安定かつ直視していない理性の限界に対して、どうあがいても、一歩先へ出る事が不可能と思われる現状に、ぶつかっているではないか。

 喜怒哀楽、と人間は感情を区分けするけれど、本当は、生きている間に感じるものの一切が、苦しみ、辛苦、艱難辛苦、千辛万苦といった、詰まる所、つらい事だ。それについて真剣に考える時間を設ける事も無く、ただ惰性と欲望の足し算ばかりで、心に余計な癖ばかりがついてしまう。
「私は好きな様に考えています、癖などありません」
 君達の言いたい理屈は解る。だが、好きな様に考えているのではなくて、幼少の頃から、生まれた環境から得た教育や情報、自らの考えの繰り返し、直視と逃避の連続によって、それは癖となって心の形になっている。故に、君達が思う所の「好きな様に考える」事は、物質界に於いて極めて困難な事である。
 直視する事が怖くて、お前達は生きる喜び、生きがい、楽しみといった、形は無いが脊髄をくすぐられる言葉につられて、喜び、楽しみ、生きがい、その数字を増やそうと必死になった。
 既に語った通り、自らの殻の外側に、一歩も出る事が叶わぬままである。叶わないままであるにも関わらず、自分は善人だ、努力家だ、自由だ、賢い者だ、信心深いのだ、と自らを飾る事ばかりしているではないか。これを、自分の心から滲む真実と重ねると、あまりに、重ねた部分の余白が大きすぎて、自分を善く見せようという、自分を幸せに見せようという意地汚い魂胆が、如何に肥大化していたかが、解る筈だ。

 産婦人科で妻が子を産み、夫が泣いて喜び……。
 いや、それは喜びなのだろうか。真に、喜びなのだろうか。
 子供を作れるほどの大人に成るまで、生きたならば、やはり解る筈だ。
 生まれてから、感じる事ができる様になった。
 生まれたから、生きる喜びだとか、生きる苦しみだとか、ゴチャゴチャと考える様になった。

 では、頭の頂点からつま先に至るまで、全てを救われた例も無いのに何故、人は赤ん坊が生まれる事を「おめでとう」なんて、軽々しく賛美できるのだろう。
「いいや、本気だ、本気で賛美している、祝福している」
 と、声を荒げて異を唱える者達よ、よく聴け。
 お前達も、祝福だとか賛美だとかを身に受けて、その一身で数えきれない悩みや苦しみ、そして過ちを手に取ってきたではないか。自発的な言い表し方は間違いだと思うか、いいや、受動的な姿勢で生きていれば、全ての災厄が自己の管轄から外され、責任を逃れ、遠ざける事ができると考えてはいないだろうか。
 ……そのどれもが取るに足らない、くだらない心の在り方なのだが、生きている間は、どうも、自らの為に唯物の自己があると思い込み、他者の存在が恰も外国であったり、自分とは縁の無い飛び地である様に認識して、それこそ唯物的豊かさや物資を輸入するためのパイプ程度の認識で、終わっているのではないか。
 君達は、本気で苦しんでいるのか。
 お前達は、真剣に苦しんでいるのか。
 苦しい苦しいと喘ぎながら、行っている事は、他者を蹴落とし、他者を低くして、他者から奪い、他者に与えず、他者を認めず、他者から聞かず、他者を黙らせる、一方的な関係を欲している事を、正々堂々と「苦しみ」だと呼称してみたらどうだ。
 ここに、私の親友から届いた一通の手紙がある。読み上げるから、心して聴け。


 人が溺れている姿を見て、ぼくは思わず、助けようと飛び込んだ。
 真っ黒な海に流されて、魔物に足を掴まれて、友人達は苦しそうだ。
 けれど、ぼくは気づいてしまった。
 溺れている皆は、実はその姿で幸せなのだ。
 苦しみに、痛みに、悩みに依存した状態が、
 皆にとっての、幸せであった。
「君も一緒にどうだい」と、誘惑されても、
「ぼくには修行仲間がいるよ、ぼくは菩提心を持っているよ」
 その様に返事をすると、
 彼らは溺れていた筈なのに、魔界の住民としての、
 活き活きとした語り方、動き方で、ぼくを脅そうとやって来る。
 意地悪をされても、南無阿弥陀仏。


 彼がどれほどに心を砕いたか、私には汲み取れない部分もある事は確かだ。始めにも述べた通り、私は小瓶の内側に閉じ込められているのだから。
 彼の良心は酷く傷を負った事だろう。だからといって、私はその親友に対して、同情をするつもりは無い。それは、彼に対する侮辱になるだけでなく、その哀しみでさえも、彼自身が選んだ事なのだから。
 自ら責任を負い、その末に得た痛みも悲しみも敵意も、受け止めた事実こそが賛美的な過程と結果ではないだろうか。
「赤ちゃんが生まれた、うれしい」
「無事に生まれて良かったね、おめでとう」
 数が増えたから喜び。無事だから嬉しい。
 私も鬼ではない、だが、その考え方、賛美の仕方には、あまりにも唯物的な観点が領域を占めすぎている。
 では、流産したら、死産したら、どうなる。
 親の判断で、中絶をした場合、どうなる。
 死んだから哀しみ、命が無いから悲劇。
 人命とは、その様な足し算や引き算の様な、感情の副産物に過ぎないのか。いや、感情を生産するための、足し引きをする為の、イチタスイチが連続しているだけ、イチヒクイチが連続しているだけではないのか。
 喜び、とはなんだ、嬉しい、とはなんだ。楽しい、とはなんだ。
 それは紙一枚の様に薄い、反射的な感情からくる想念の返事で終わっているのだ。

 青い小瓶を通して見える世界は、何もかもが、青二才だ。
 しかし、私は時折怯えている。もしも、この小瓶に一度でもひびが入り、いつの日か砕けてしまったならば、私も世界の一部に成る。今まで散々厳しい目で眺めていた、死んだ様な人間達の仲間になってしまう。
「嫌だ……」と一語で表すには少し違う。嫌悪の心でもなければ、拒絶でもない。
 私は、人間の仲間入りをする事が嫌なのではなく、人間に成った物質世界の在り方に甘んじて、上記の親友からの手紙の様に、
『溺れている皆は、実はその姿で幸せなのだ』
 といった、退廃的な生き方を続ける事、その生き方に依存する事が大嫌いなのだ。
 生きながら、朽ちていくような、惨めな思いはしたくなかった。生きながら、溺れる苦しみを快楽とは呼びたくなかった。胸を張って生きている事を、胸を張りながら言って見せたいのだ。

 私は、生まれなくてはならない。いつまでも、青い小瓶の内側から、外野として好き放題に文句を言っていても、一人で義憤を抱えていても、まったく意味を成さない。
 それは、青い小瓶という護りの中で、青い小瓶という枠から一歩も出られない、思案に過ぎない。
 母の胎内にいる赤ん坊が、夜空の星座の名前を語りだしたり、宇宙から眺めると地球が青い事を教えたり、野に咲く花の謙虚な生き方を有難がっても、空っぽの言葉でしかないからだ。
「君は、退廃的な生き方に依存する事が大嫌いだと語ったが、では、そういう君自身は、一体どの様な生き方を、望んでいるのか。どの様な生き方が、好きなのか。どの様な生き方が、正しいと云うのか」
 ああ、あっはっはっは、やっと聴こえた、やっと聴こえたぞ、私の上にいる者達の声音が。嗚呼、答えてやろう、応じてやろう。
 私は、成長を目標にしながら、尚且つ成長という結果のみならず、成長の過程にある事、成長の過程そのもの、一切を包括した修行に生きてゆきたい。
 成長が意味するものについて、それは深く考えるも良し、浅く考えるも良しだ。何故なら、生まれたからには物質の肉体に縛られてしまい、魂は一度、必ず不自由という洞窟を通るではないか。その状況下で、目の前の足場について考えず、出口だけについて考えても意味が無い。また同様に、出口から外に出るという本来の目標を考えず、足元ばかりに気を取られ、歩きやすい道を選んでも、それは成長に於ける迷いである。
 私が志したい成長とは、出口だとか、目の前の足元だとか、ひとつの事に対して盲目になる数字の膨張を、技能の鍛錬を、意味を知らない苦行を指すのではなく、私という魂が、正しい道を歩けるように努めながら、その先に至るまでの一切を含むものである。

 さあ、やっと声が聞こえたのだから、もうこの小瓶に依存しなくて良い。さあ、自らの力を以て、内側から叩き割り、青い世界の外側──いや、青い世界の内側にこそ飛び込むぞ、飛び込んでやるぞ。アッハッハッハッハ。
 自由を学べないこの部屋には、さようなら。身勝手しか存在しないこの部屋には、さようなら。けれども、多くの予習をさせてくれたこの部屋は、有り難い存在であった。感謝を忘れぬ様に心掛けよう。
 親友が斯様に自らと闘い、孤忠の中で人々の為に尽くそうと、努力に努力を重ねて傷を負った様に、手紙を私に送った様に、私までもが同じ道を辿る事はないだろう。私は一匹の蟻として野山を彷徨い、巣に帰り、単調な暮らしを繰り返すかも知れぬ。恐れるな、恐れる事は無いのだ。物質界に心の器である肉体の船を授かり、一人の人間として、或いは一匹、一羽、様々な姿形を成した凡夫として、生きていこうじゃないか。
 如何に傷つこうとも、歪もうとも、沈もうとも、それは私の結果には成り得ないのだから。
 充分に語った事だ。机上の空論はここまでにしておくよ。
 もしも人の子として生まれた時は、ラの音で泣いて、皆を喜ばせよう。
「あっ」
 思わず、微笑んでしまった。なんだ、生まれる事は嬉しいんだ。

青い小瓶の独白

青い小瓶の独白

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-07-15

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