春に逝く 最終話 なにもかも
この熱で境目も無くどろどろに溶けてしまって、このままひとつになってしまいたい。
熱を共有しあって、しあって、ようやく終わった後、主は汗でしめった体ですうすうと寝息を立てていた。俺はその体をタオルで優しく拭く。吐き出したあとはいつもこうだ。主の方が先に眠ってしまって、後のお世話をする。この時間を、俺は愛している。
彼女の体は食べても食べても細くて、骨が浮いている。抱きしめたら折れてしまいそうだけれど、抱き心地が良いとは言えないけれど、俺はこの体以外を知らないし、知らなくて良い。知りたくもない。胸元を拭くと、鎖骨のあたりに俺が残した痕が見つかって、俺はつい微笑んでしまう。人間の体は唇で吸うだけで簡単に痕がつく。甘く歯を立てれば輪の形の痕がつく。それが可愛らしくて仕方がない。可愛い、可愛い。主は、可愛い。俺にしがみついて、そっと爪を立てて、甘い声をあげる。本当は一日中まぐわっていたいけれど、そんなことはなかなかできないから、夜だけのお楽しみ。可愛い主を見られるのは、俺だけ。
額の汗を拭うと、主はんん、とむにゃむにゃ寝言を呟いた。最近の主は、夢を見る。その度に俺に伝えてくる。なんでも、見たことのあるようなないような家で、女の子と遊ぶ夢だそうだ。俺はそれが誰だか、知っている。主と血の繋がった姉妹。もう姉妹としては会えない、主が審神者に選ばれた時点でお別れした存在。主が受けてきた投薬や実験で忘れてしまった存在。そんな存在が、今さら夢の中に出てきて、主を、主を惑わせる。記憶がないのに、主は彼女を懐かしいと言う。俺としては、忘れたままでいてほしかった。その方が、きっと楽だから。会えない存在に想いを馳せるのは、辛いことだから。
けれど、もしも、もしも主が、彼女に会いたいと願うならば、その家に帰りたいと願うならば、俺は───
「……かしゅ」
「あ、起こしちゃった? ごめん」
「んん」
ふにゃふにゃとまぶたと口を動かし、主が俺を見た。その瞳は、涙で潤んでいた。
「……どうしたの、母さま」
俺は彼女の髪を撫で、ふたりきりの時の呼び名で呼ぶ。母さま、俺の母さま。俺をその子宮から顕現させた母さま。主……母さまは、俺に撫でられるとつうと涙をこぼした。それもやんわりと拭うと、母さまは口を開いた。
「加州、わたし……帰る」
「え……」
「帰る、の。姉さまと……母さまのところに」
「なに、それ。母さまって」
「会ったの」
俺の頭の中が、胸の内がぐらぐらと揺れる。ああ、ついに会ってしまったのか、母さまの母さまに。この世に母さまは母さまだけなのに。俺だけの母さまが、母さまではなくなってしまう。それだけは、それだけは嫌だ。けれど、母さまの目はまっすぐ俺を見つめていて、その瞳はいつものぼんやりした雰囲気を纏ってはいなくて、ああ、本気なんだ。
母さまの家に行っても、母さまの母さまも姉さまも、いるわけがないと思う。だっていたならば、母さまは審神者になんてなっていないから。俺と出会っていないから。もしいたら、今頃その母さまの元で、こんな真夜中、すやすやと眠っていたはずなのだから。俺の母さまじゃない母さまなんて、想像したくない。母さまは遠くに行ってしまうのだろうか、その家はどこにあるのだろうか。俺は、ひとりになってしまうのだろうか。
「母さま……」
「加州?」
「母さま、母さま、ねえ、母さま」
ただひたすらに呼ぶ。それしかできなくなっていた。ねえ、の次が出てこない。彼女の願い事は叶えたい。それが俺の幸せだから。幸せ? 幸せって何だろう。違う、願い事を叶えることだけが俺の幸せじゃない。俺はただ、このひとといられるだけでいいんだ。俺は母さまを愛してる。
「ひとりにしないで、母さま」
そう、ひとりにしないで。俺を産んでおいて、遠くになんて行かないで。
俺たちはどう足掻いてもひとつにはなれない。薄い皮膚という膜が邪魔で、俺という個と彼女という個を形成するそれが邪魔で邪魔で、溶け合うことはできない。炎の中に飛び込んでしまえば、鋼の俺は溶けることができるかもしれないけれど、母さまは燃えて消えてしまう。どうすることもできない。けれど、俺がいて、母さまがいて、ようやく俺たちは繋がることができる。なんて酷なのだろう。こんなことなら、人のような体なんていらなかった。……それは嘘だ。母さまと話せて、抱き合えるこの体がなければ、俺は俺でいられない。
俺は母さまをぎゅうと抱きしめる。汗を拭った体はしっとりとしていて、心地よかった。小さな体、今にも消えてしまいそうな体。消えないで、行かないで。
「……加州、あのね」
俺に抱きしめられた母さまが、俺の耳元で囁く。くすぐったい空気が震える小さな音。その音を一音も聞き漏らさないように、俺は黙り込んだ。
「すず」
「……す、ず?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の内にずしりと重い何かが響いた。けして不快なものではない、でも、でも、これはまるで、宝物の入った小さな箱を無理やり開けさせられたような。開けてはいけないものを見させられたような。そんな気持ちにさせられる、すず、すず、という言の葉。
「わたしの……名前。おもいだしたの、すず、すず。わたしは、すず」
「……あ……」
「すずってよんで、加州」
「……すず」
「うん……うん」
「綺麗な、名前だね」
俺の目からぽろりと雫がこぼれるのを、俺は感じた。それを見た母さまは、俺の目尻に口付ける。母さまの名前、母さまの宝物。きっと俺だけがたった今知ったもの。涙が止まらない。俺はやっぱり、このひとの特別なんだ。このひとは、俺の特別なんだ。
「ねえ、加州」
「なに、すず」
唇で俺の涙を拭い続けてくれた母さまが、唇を離して俺に語りかける。ぎゅっと抱きしめたのはそのまま。母さまも俺の背に腕を回してくれた。
「いっしょに、来てほしいの。おうち、探すの」
「……」
「わかって、る。加州はたたかうの。でもわたし、加州と一緒にいたい。加州と一緒じゃないと、いきられない」
「……おうちは、ここでしょ」
「……違うよ、違うの、加州」
ふるふると首を横に振る母さま。ああ、俺だけがこの姿を見ている。
「おうちに、帰るの。……でも、加州も一緒じゃないと、いや」
「わがままだね、すずは」
「……来てくれない?」
「そんなこと、」
抱きしめる力をさらに増す。壊さないように、けれど離れないように。今まで母さまは、自分の願いを言ってこなかった。いつもどこか遠くを見つめて、何も求めなかった。それが、今強く求めるものがある。望郷の念。俺と一緒にいること。この二つ、この二つしかない。二つしかないなら、俺は。やっぱり、叶えるしかないのだ。
「あるはずないでしょ。俺とすずは、いつも一緒」
「加州……」
「愛してるよ、すす。俺は他に何もいらない」
「……にげるの。にげるために悪いこと、するの」
「いいよ、そんなこと。しちゃおう」
「加州」
「ん?」
「きっと……わたしの半分って、加州、なんだね」
「なあに」
「ひとって、みんな半分こなの。だから、もう片方をさがすの」
「そう、なんだ」
ああ、合点がいった。俺たちは不完全だったんだ。ふたり一緒でようやくひとつの命になれるから。だから、どこまでも一緒だ。主、母さま、すず。全てが愛しい。
掛け布団をかけて、俺たちは肌をすり合わせる。この膜さえも愛しい。母さまは俺にすりすりと甘え、俺も母さまの髪を、頬を、耳たぶを撫でる。
「どこにあるか、わかるの? おうち」
「わからない」
「なんだ」
「……雪が降ってて、真っ白で、近くに海があるの。でも、木がいっぱいで、その中にあるの」
「なら、北国かな。大丈夫、見つかるよ。見つかるまで、一緒に色んなところ見てみよう」
「……うん。……加州」
「なに、すず」
「わたし、加州しか……のこさないよ」
「……そっか」
「ここには、誰も、のこさない」
「そう」
「……悪いこと、いっぱいするね。わたしのこと、ほんとに……あいしてる?」
「何言ってんの」
彼女の頬に頬を寄せる。そこはひんやりと冷えていた。あたためるようにすり合わせる。
「言ったでしょ。他に何もいらない。あんたを、愛してる。あんたの髪も、肌も、目も、手足も、心も、みんな丸ごと、俺は愛してるよ」
「加州」
「あんたがいい人でも悪い人でも関係ない。母さまは俺のたったひとりなの」
「……加州、ちゅう……して」
「ん」
母さまが口を開けて、舌を出す。俺はそれに吸い付くように貪りつく。舌を絡ませ、吸って、上顎を舐めて、歯の列をなぞって。唾液と唾液が混ざり合う。母さまの小さな舌が俺の舌に触れる度に、やわやわとぬるま湯に浸されているような感覚がする。やわらかい。そこを道のようにして、唾液を送り込むと、こくんこくんと母さまの喉が動いた。俺も飲みたいと乞うように舌を這わせれば、甘い蜜が俺に届く。ああ、やっぱり人の体を持っていてよかった、そうでないと、これができない。母さまは息をするのを忘れていたようで、ぽんぽんと俺の頬を撫でるものだから、俺は仕方なく母さまを解放する。ぷは、と離れた唇同士には銀色の糸が名残惜しげに繋がっていた。雪が降る時の空の色だと、思った。
「はあ、ぁ。加州、わたし……加州、だいすき」
「俺もだよ。大好き」
「雪がふりそうなとき、一緒にいくの。春までに、みつけるの。わたしの場所を」
「うん、うん、そうだね」
わたしの場所。それは、俺がいいな。なんて言わなかった。きっと、最後には母さまは俺を選ぶと思うから。俺の場所は決まっている。このひとだ。隣でも前でもない。このひとそのものが、俺の場所。
うつらうつらとし始める母さまを離さない。ほんの少しだけあたたかくなった痩せた体に、俺の温度を移すように背中を撫でれば、再びすうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。俺はこのひとを絶対に離さないだろう。このひとも、俺を離さないだろう。それは、なんて幸せなことだろうか。
ああ、春に逝くんだ。俺たちは。
春に逝く 最終話 なにもかも