華崎楓の手記
第一話 華崎楓の手記
雨宮詩郎という男は、僕の大学時代の一番親友だった。
趣味などの共通点は無いにしろ、お互い喋らずとも共に過ごす程の仲であった。
雨宮は神経質で頭の硬い、しかし他人には酷く優しい男、という印象だった。
その神経質さが祟ったのか大学三回生の冬から、突如大学に来なくなり家に引き籠る様になった。
僕は彼が大学を休み始めて二週間もした頃、彼の下宿先へ足を運んだ。
三回扉をノックすると、生気のない顔をした雨宮がぬっと現れて青白い顔で「何も無いけど、どうぞ」と僕を招き入れた。
冬場の夕方だというのにストーブも付けず、部屋の電球も付けず、机に置いた小さなライトが淋しく点灯していた。
適当に座ってと促された僕はその場の畳の上に腰を掛け、雨宮は台所でやかんを火にかけた。
「気を使わなくていいぞ」
僕はそう言ったが、客人に茶も出さないのは頂けないというので、茶が出来るまでお互い沈黙のままその時を待った。
五分くらい沈黙が続いた後、雨宮は茶を持って僕の前に差し出した。
「いただきます」
僕は一口啜った後、早速彼に問うた。
「どうして最近大学へ来ていないんだ」
正面に座った彼は、僕に目線も向けず、太宰の人間失格を読んでいた。
雨宮はそのまま話続けた。
「最近何だかおかしいんだ。何もしていなくても、自分の悪口が汎ゆる所から聞こえる。そうして変な夢まで見る。あまり寝ていないんだ。一日二時間も眠れない」
「それは、精神科へは行ったのかい。言っちゃ悪いが、君は前々から神経質だから」
「自分でも分かっているんだけれど、どうすることも出来ないんだ」
僕は明日、一緒に精神科行こうと提案したが、彼はあまり乗り気ではなかっった。
まだ断定はしていないが、自分が精神疾患である事を認めたくないのかもしれない。
「とにかく、明日の朝また来る。君が心配だ」
寝ていないとは言っていたが、食事もまともに摂っていないのだろう、頬が痩けてきている。
元々痩せ型である彼がこれ以上痩せると、低体重や拒食症になってしまう可能性がある。
やはり早急に病院に連れていくべきだと僕は思った。
今日は日曜で医者は休みの為、明日の朝を提案したのだ。
「じゃあ明日また来る。茶をありがとう」
僕はぐいと残りの茶を飲み干すと、鞄を持って立ち上がった。
雨宮は玄関まで送ると言い、前を歩く姿は危ない程ふらふらしていた。
「態々俺のた為に来てもらって申し訳ない」
こんな有り様でも、彼は申し訳ないという気持ちになってしまうのか。
「いいんだ。それじゃあ明日」
僕はそう言って、玄関の戸を開けて振り返ると、雨宮は弱々しく小さく手を振っていた。
次の日の朝は、しとしとと雨が降っていて、なんとも嫌な天気だった事を覚えている。
雨宮の下宿先の扉の前を何度かノックをしたが一向に出ない為、下宿先の大家に鍵を開けてもらうと、雨宮は既に呼吸をしていなかった。
彼の周りには大量の向精神薬や睡眠薬が散乱していた為、状況を鑑みるに服毒自殺ではないかと考えた。
すぐに医者を呼んでもらったが、虚しくも雨宮はその日、そのまま息を引き取った。
亡くなる前日、僕は雨宮に精神科の受診を勧めていたが、葬式で会った雨宮の母親から聞いた話なのだが、彼は僕が知るもっと前から精神科に通院していた様だった。
しかし大学ではただの神経質な男として精神疾患が有ると言うことをひた隠しにして、振る舞っていた様だった。
僕も彼が神経質で考えしいな事くらいしか、特に気にも留めていなかった。
彼は精神疾患を抱えながら一人で上京し、大学では平静を装い、実際の所家ではどうなっていたのか、僕は検討もつかない。
ただ彼は一人で苦しみを抱えて、親友であった僕にも相談せず、じっと我慢していたが、僕が精神科の受診を勧めたのが良くなかったのか、彼は自分の素性がバレたと勘違いしたのか、雨宮が居なくなった今となっては、もう彼に聞く術はない。
もしかしたら、僕が彼を殺してしまったのかもしれない。
僕は暫く罪悪感に包まれていた。
彼は何故精神疾患を隠したのか、僕は彼が精神疾患であったとしても親友であったと思う。
それくらい彼は良い人柄だったからだ。
しかし人は何かしら誰にも言えないことを抱えていて、それを簡単に人には話さず、自分の中だけで留め、いつかは自滅する。
今現在そんな世の中になってしまったのか、と言えばそうではない。
かの芥川や太宰の様な自殺を図った天才的な文豪も、きっとそうだったのだろう。
彼は知らぬ間に、本に取り込まれたのかもしれない。
雨宮は本が好きだったのだ。
華崎楓の手記