お紅
あたくしは、女郎に飼われている金魚であります。女郎の名は、秋月と申します。
あたくしは、女郎に飼われている金魚であります。女郎の名は、秋月と申します。秋月の部屋の、畳の上に置かれた金魚鉢が、あたくしの住処でございました。障子越しに柔らかい光の差す場所で、金魚にはいっとう住み心地のいい場所であります。そういうことからも分かるように、あたくしは秋月の寵愛を一身に受ける、金魚でございました。
秋月はよく、金魚鉢を覗き込みながら
「お紅や」
と言っておりましたので、あたくしの名は、お紅、と申すのでしょう。その名の通り、あたくしの尾鰭背鰭は、ゆらゆらと血のように真っ赤でございます。黒の出目など、目ではございません。秋月も赤い着物がよく似合う、大層美しい女郎でございました。時期に花魁になるだろう、という噂は、金魚のあたくしの耳にも入っておりました。本当に自慢の、姉女郎でございます。
ですから、あたくしが金魚の身分でありながら、秋月を想う気持ちは、想像に難くないと思われました。あたくしは人間になどなりとうありませんでした。人間の棒っきれのような腕ではなく、この冷たく戦ぐ鰭で、秋月を抱きしめてやりとうございました。
とはいえ、秋月は女郎です。好きでもない男に、毎夜毎夜抱かれるのが定め。あたくしは金魚鉢の中から、秋月と男の房事を、いつも見つめておりました。好いた女が見知らぬ男と、何百、何千という夜を過ごすところを、この狭い金魚鉢の中から見つめているのであります。あたくしの胸は、いつも張り裂けそうでありました。
あゝあゝ、旦那さんそこだよ、もっと突いておくんなんし。
金魚に瞼があれば――といくら思ったことでしょう。そしてあたくしの嫉妬心は、客の男だけではございませんでした。
夜明け前、秋月が帰っていく客を店から見送ったあと。秋月は私の金魚鉢へそっと近寄ると、微笑みかけながら砕いた麩を水面へ落としてくれます。
「お紅や、お紅や。お食べ」
あたくしはさっと水面へ近寄り、餌の麩を突きます。そのときあたくしは、絢爛豪華な花魁衣装のように、赤い鰭を広げて見せているつもりです。あたくしの美しさに、秋月が気づいてくれますようにと、懸命に鰭を揺らします。
「お紅や。さっきの客は滑稽だったねえ。私はちっとも気を遣ってなどいないのに」
秋月が白い顔のまま、ふふふと笑います。そのときです。廊下を、忍ぶようにして歩いてくる足音がします。その途端、今までくたびれ果てていた秋月の顔が、わずかに生気を取り戻すようでした。
「……日暮」
滑るようにして、部屋の障子が開きます。そこには、日暮花魁が立っておりました。
「ああ、秋月」
日暮花魁は部屋に体を滑り込ませると、さっと秋月に近寄りました。その手を取り、ああ、と繰り返します。
二人は言葉もなくしばし見つめあったあと、静かに接吻をしました。あたくしの目に――本当に瞼があったならどれほどいいことでしょう! 客が秋月にする不躾な接吻を見ても、このような気持ちにはなりません。それほど二人の接吻には、見るものの心を動かす何かがありました。ああ、秋月、とあたくしが呟いても、それは泡となり水面へ登っていくだけであります。
やがて日暮花魁が、秋月を畳にゆっくりと組み敷きます。客としていた時とは嘘のように、二人は声一つ漏らしません。静かな吐息の喘ぎ声が、清水のように溢れ出すばかりです。
見廻りの者がやってくるまでの、本当に僅かな間の情事でございました。
就寝の鐘が鳴ります。二人は抱き合っていた体を離しました。秋月も日暮花魁も、元々一つだった体を二つに引き裂かれたような、そんな痛苦に満ちた顔をしておりました。
日暮花魁が、再び人目を気にしながら部屋を出て行きます。日暮花魁が出て行っても、秋月はいつまでもいつまでも、その場に佇み続けておりました。
日暮花魁の身請けが決まったのは、秋の月が美しい頃でありました。身請けを申し出たのは、とあるお金持ちの大名だと、この金魚の耳にも届いておりました。しばらく、日暮花魁の身請けを祝う大宴会が、店で続いておりました。けれど、秋月の悲嘆ぶりに、あたくしは目を鰭で覆いたくなるばかりの日々でございました。
宴会の途中、秋月が部屋で泣き崩れているときのことです。抜け出してきた日暮花魁が、障子を僅かに開け、部屋に入ってきました。
「日暮」
日暮花魁は、涙で濡れた秋月の頬を両手で挟みました。そして自らも涙を流しながら、秋月に囁きました。
「私が想うのは、お前だけ」
「日暮、日暮」
「私の心は、永遠に、お前のもんだ……」
「私の心も、あんたのもんだよ。私を、どこに行っても忘れないで」
「忘れるもんか。忘れる、もんか……」
二人は刻みつけるように、接吻を繰り返しました。日暮花魁の手が、秋月の襟元を弄ります。
「ああ、秋月」
「日暮……ああっ」
やがて、秋月の体がぴんと硬直しました。乳房を触られただけで、秋月は、気を遣ったのでした。
日暮花魁が、秋月に接吻をします。
「愛しい、愛しい女……」
「私が気を遣るのは、生涯、あんただけだよ」
「私もさ。私も、さ……」
どこかからか、日暮花魁を呼ぶ声が聞こえます。日暮花魁は名残惜しそうに秋月を腕から離しました。
「愛した女は、お前だけ」
日暮花魁はそう言い残すと、踵を返し、部屋を出てゆきました。秋月はその場に突っ伏し、声を上げて泣き始めました。慟哭と表すにふさわしい、泣き方でありました。
「日暮、日暮……」
あたくしは鰭を精一杯振り乱しました。ここから飛び出すことができたら、秋月を抱きしめて慰めてやれるのに。これほどまでに、金魚の身であったことを恨んだことがありましょうか。
「日暮、日暮、愛しているの……」
あたくしはなおも鰭を揺らしました。あたくしに気付いた秋月が、顔を上げます。
秋月の顔は、痛々しいほど泣き濡れておりました。
「お紅……」
あたくしはその顔を見て、悲嘆にくれました。ああ、秋月、秋月。愛しい人間の女。人間という苦界に産まれた女。あたくしは秋月が東北の出身であることを知っておりました。秋月がときどきあたくしに歌って聞かせる子守唄の訛りが、東北のものだったからです。
どうしたら、冷たい雪国に産まれたお前の心を、慰められるだろう――。
大宴会は唐突に終わり、日暮花魁が身請けされる朝は、静かにやって参りました。金魚のあたくしは、その場にいることはできません。それでも、秋月の心の内は、痛いほど想像することができました。
秋月が部屋に戻ってきます。こんな日でも、昼見世はありました。普段ならすぐに眠りにつく秋月です。けれど、秋月は金魚鉢の側によると、亡霊のような顔をして、あたくしを見つめました。
実は、あたくしは元はと言えば――日暮花魁に飼われていた金魚でありました。日暮花魁が、まだ秋月と恋仲になる前、あたくしを和歌とともに秋月に贈ったのです。
あたくしは、秋月のために何ができるでしょう。秋月は死人の瞳をしておりました。あたくしは、必死に鰭を揺らしました。
そんなあたくしが気に入らなかったのでしょうか――。秋月の顔が、きっと鬼のようになりました。
「気に食わない金魚め」
あっと思った時には、金魚鉢はぐらりと揺れ、畳に倒されていました。水が溢れ、あたくしも畳の上に転がり出ます。ぴちぴち、と跳ねながら、あたくしは懸命に鰓を開閉させました。
「ああ、日暮、日暮、どうして……死にたい、」
呼吸ができません。畳の上で、あたくしは何度も体を跳ねさせました。それでも、あたくしの意識は遠のいていきます。
最後に見たのはやはり、秋月の涙に濡れた顔でした。
お紅