百合の君(10)

百合の君(10)

 煤又原(すすまたはら)城の広間には足の踏み場もないくらいに皿が並べられ、蟻螂(ぎろう)は言葉を失った。立ち籠めるにおいに操られるように、昼間戦っていた者達が歌い、踊り狂っている。蟻螂は宴という言葉を聞くことさえ初めてだった。
「蟻螂殿」
 唖然とする蟻螂は手招きする男を見つけて、その隣に腰を下ろした。
「いやあ、それにしてもよく木怒山(きぬやま)殿に勝ちましたな」
 その小柄で侍にも見えぬ男は、自分が戦い抜いたかのように誇らしげに喋った。
「試合が八百長だという事には、気付かれたでしょう」
 蟻螂は男の視線を追った。はるか遠くの喜林臥人(きばやしねすと)の座の近くに、盃を傾ける木怒山の姿が見える。灯りに赤い顔が映えて、さもうまそうに飲んでいる。蟻螂は、やはり頭を潰せばよかったと思った。
「木怒山どのは殿のご舎弟でしてな。まあ実際木怒山殿に勝つほど腕の立つ者もありませんでしたが、その、本当に勝ったのは蟻螂殿が初めてですよ」
 見るからに屈強な木怒山は、臥人とは似ても似つかなかった。蟻螂は殿様が偉いというのは知っていたが、その弟まで偉いとは知らなかった。弟が偉いということは、子も偉いのだろうか。猿の子はほとんどが殿様の子なので、血縁だけでは優劣のつけようがない。
 蟻螂は目の前の男に視線を戻した。男は曖昧に頷くと、椀に白く濁った液体を注いできた。ずっとまとわりついているにおいの正体はこれだったのか。頭が痛いような気が遠くなるような変な気持ちがする。明らかに人が口にする物ではないので、侍が宴をする時の儀礼的なものだろう。蟻螂はまた馬鹿にされないよう、相手の椀に白濁した液を注ぎ返した。
 しかし次の瞬間に起こったことは、蟻螂の予測を超えていた。男はそれを目の高さまで上げて微笑むと、一気に口元で傾けた。充血した男の視線が、椀からこちらへ滑ろうとしている。蟻螂は飲み干した男と目が合わないように、視線を逸らした。木怒山がすぐそばに立ち、見下ろしている。
「殿のお呼びだ」
 木怒山の顔は影になってよく分からなかったが、声はまるで闇から()って出たように響いた。嫌な恐ろしさを感じた。殿は弟の骨を砕かれたことを、怒っているのかもしれない。視線を這わせる。主君は何かを咀嚼(そしゃく)しながら、こちらを見てにやついている。臥人だけではない。その周りのじいさん達も、白濁液を飲み干した男も、蟻螂を見てにやついている。床には来た時と同じように所狭しと皿が並べられ、逃げ道はない。蟻螂はやむなく立ち上がり、木怒山に付いて歩き出した。途中、誰かがこぼした魚の肉片を踏んだ。蟻螂は臥人の前に立たされると、その視線から逃れるようにひざまづき、頭を下げた。
「そちは確か、馬と走った男だったな」
 しかしその声は怒っているどころか、上機嫌のようだった。
「ははっ」
「強いのう、由友(よしとも)が負けたところを初めてみた」
 蟻螂は盃を持たされ、また濁った水を注がれた。
「殿直々のご酒じゃ、ありがたく飲め」
 じいさん共が顔を赤くして(はや)している。蟻螂は湧き上がる殺意を抑えた。先ほどの男が飲んでいたところを見ると、毒ではないのだろう。
 液体の表面に自分の顔が映っている。武道大会の勝者とは思えない消え入りそうな顔だ。森をさまよっていた頃、水を飲むたびに見た餓鬼の顔だ。俺は穂乃(ほの)以外の人間とは一緒にいられない。
 蟻螂は再びじいさん共を見回した。じいさん共はもはや笑っておらず、睨んでいる。臥人を見る。逃げ場はない。
 蟻螂は思い切って、一気に飲み干した。
「そち、いける口じゃのう、もっと飲め」
 蟻螂は訳も分からず、盃を差し出した。またじいさん共が覗き込むように見つめてくる。蟻螂は再び一息に飲んだ。どっと笑いが起こって、気が遠くなった。

百合の君(10)

百合の君(10)

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-07-06

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